6.「嘉良華リャカを振り向かせよう作戦」

 その日の嘉良華リャカの行動は、完全に私を回避することに徹していた。教室の席こそ隣同士だが、休み時間になるとあっという間に教室から出て行ってしまい、次の授業ギリギリまで姿を現すことはなかった。そんなに私に会いたくないなら、欠席すればいいのに、と思う程に。

 かくして私の「嘉良華リャカを振り向かせよう作戦」はスタートした。まずは二時間目の授業中、先生が板書している間に、手紙を書いて嘉良華リャカの机の上に投げた。だが嘉良華リャカは何事もなかったかのようにノートを書き続けた。ニ、三個投げたが、変化は無い。授業が終わると、嘉良華リャカは手紙ごとノートを閉じて机にしまい、風のようにどこかへ行ってしまった。

 もちろんその程度の失敗でめげる私ではない。三時間目の英語の授業が始まると、私は手を挙げた。

「先生、教科書を忘れたので、嘉良華さんに見せてもらってもいいですか?」

「えぇ、どうぞ。そんなこと大声で言わなくてもいいのに」

 クラスメイトたちの笑い声が漏れるが、そんなことを気にしてはいられない。私は遠慮なく、離れていた机をピッタリくっつけた。これでちょっかいを出し放題だ。

 そう思ったのも束の間、今度は嘉良華リャカが手を挙げた。

「先生。体調が悪いので、保健委員の田中さんと一緒に保健室へ行ってきます」

 どことなく「保健委員の田中さんと一緒に」の部分を強調するような言い方だった。私も負けてはいられない。

「先生。私も体調が悪いので、二人と一緒に保健室へ行ってきます」

 先生は怪訝な目つきをしていたが、渋々三人の保健室行きを了承した。

 ひとまず体調不良を装いながら、二人の後について保健室へ向かった。養護教諭の千葉千草先生は、流れ作業で私と嘉良華リャカにそれぞれベッドをあてがった。あまり適当すぎるのもどうかとは思うが、今日ばかりは感謝すべきだろう。

 ベッドに横になると、徐々に頭が冷静になってきた。嘉良華リャカはどうして私を避けているのだろうか。思い当たることは二つ。嘉良華リャカが小説を書いていることを伊織瑞希が私に明かしたこと。それと、結城和泉が瑠璃音ルリノであることを伊織瑞希に教えたことだ。だが、どちらの場合でも、謝ってくれればそれで済む話だ。知られてしまったことは、もう隠しようがないのだから。それでも嘉良華リャカが私を避けるということは、まだ何か隠していることがあるのかもしれない。

 漠然と考えていても埒が明かない。私は意を決して、カーテンを隔てた向こう側へこっそりと声をかけた。

「私は気にしないからさ、何があったのか教えてよ。ね、リャカ?」

 そっとカーテンを開けると、隣のベッドは既にもぬけの殻だった。ご丁寧なことに、掛け布団の下には丸めたカーディガンが入っていて、人が寝ているように見せかけられていた。しかも枕元からはジャージの上着が覗いているという念の入れようである。

 その時、不意に目の前のカーテンが開いた。その主は嘉良華リャカではなく、マズイことに千葉先生だった。

「大人しく寝ていなさい!」

 そんな言葉で怒られるかと思って身構えたが、千葉先生は予想外の言葉を発した。

「あなたは良い小説を書くのね、瑠璃音ルリノ」

 うっとりとした目つきで、千葉先生は私を見下ろしている。何がどうなっているのか分からないが、私は本能的に逃げるべきだと判断した。

「わ、私、もう大丈夫なんで教室戻ります」

 さながらネコから逃げるネズミのようにベッドから跳ね起きて、一目散に保健室を抜け出した。幸い千葉先生が追ってくる様子はなかった。

 だが安心してもいられない。現状で私が最優先にすべきことを、私は実行に移した。すなわち瑠璃音ルリノの正体について私が唯一明かした人物に事情を聞くのである。

 ひとまず私は駆け足で階段を上り、教室へ向かった。無論、教室に帰っているという確証はない。

 ちょうど階段を上り終えたところで、チャイムが鳴った。授業が終わったのだろう。急にどの教室も騒がしくなった。私は急いで自分の教室へ向かい、後ろのドアから中を恐る恐る覗き込んだ。もう誰かに姿を見られることにさえ、若干の恐怖が芽生えていた。

 どうやらこちらも授業が終わったようだった。すぐに対象は見つかった。嘉良華リャカは、何事もなかったように授業を受けていたようだ。さて、また逃げられても困るし、どうやって話しかけようか。

 隠れて覗いているうちに、少し肌寒いことに気付いた。さっきまで布団を被っていたせいだろう。いつの間にかカーディガンを手に掴んでいたので、肩にかけることにした。でもなぜだろう。手の震えは収まらない。

 そこでふと、嘉良華リャカの行動に意識が向いた。教科書とノートを机にしまった嘉良華リャカは、おもむろに通学鞄から分厚い紙束を取り出したのだ。厚い文庫本ほどのそれをどうするのかと思えば、両手で抱えて、ある男子生徒に渡した。伊織瑞希だ。私は気付かれないようにしながら耳をそばだてて、教室の喧騒の中から二人の会話をなんとか拾った。

「これ、今日までに貰った入部届だから。顧問の先生に渡して」

「素晴らしい! 待ちに待った新入部員だ! これで文芸部は安泰だよ」

 いやいや、安泰どころじゃないだろう。仮に三百ページの文庫本と同じ厚さだとしたら、提出したのは全校生徒の三割近くになる。はっきり言って異常だ。まず顧問の先生が受け取らないだろう。だが千葉先生も常軌を逸していたことから考えると、その予想も怪しい。

 不意に、嘉良華リャカの視線が私を捉えた。咄嗟に私は身を翻し、ゾンビから逃げる映画の主人公みたいに、人で溢れる廊下を突っ走った。途中で肩にかけていたカーディガンが落ちてしまったけれど、そんなことを気にしてはいられない。もう誰も信じられなかった。今すぐに誰かの腕が伸びてきて、私を捕まえるんじゃないかとさえ思った。もしや変なウイルスか何かが全校生徒に感染しつつあるのではなかろうか。

 こんな時に頼れそうな人間を、私は一人しか知らない。



 北棟三階の文芸部室に、私は篭っていた。もちろん内側から鍵をかけてある。薄暗い部屋の中で、ポケットからケータイを取り出す。震える手でなんとか操作して、電話帳から兄に電話をかけた。普段はメールで連絡をとるから、電話なんて滅多にしない。忙しくて電話に出られない、なんてことがないといいのだけど。呼び出し音が途切れた。

「おう、和泉か」

「お兄ちゃん、あの、なんか私、変なことに巻き込まれてて」

「変なこと……か。ちょっと待て。メモを取るから」

 電話の向こうの兄の口調は、なんだかいつもより歯切れが悪かった。いつものように面と向かって話していないからだろうか。

 急いでペンを走らせる音がしてから、兄は言った。

「いいぞ。できるだけ簡単に頼む」

「簡単にって言われても、まだ気が動転してて」

「じゃあこっちから聞こう。いつの話だ?」

「えっと、多分今日の朝から。でももしかしたら昨日からかも」

 伊織瑞希が小説を書いていたことから考えると、そのくらいだろう。

「どこで起きた?」

「教室とか、保健室とか。直接見てないけど、学校の外でも起きてると思う」

 あれだけの入部届を出した生徒がいるのだ。そう言って差し支え無いだろう。

「誰に起きた?」

「私、転校生の嘉良華さん、文芸部員の伊織君、その他多数の生徒、それと保健の先生」

 我ながら支離滅裂だな、と思った。兄に笑われるんじゃないかと思ったが、冷静な声がケータイから聞こえてくる。

「何が起きた?」

「なんかみんなウイルスに感染したみたいな感じ」

「もっと客観的に、起きたことを話してくれ。時間がない」

 兄は淡々としている時が、実は一番怖い。そして一番頼りになるのだった。

「うーんと、まず伊織君が昨日は部を辞めると言っていたのに、今日会ったら雰囲気が変で、部活を続けるって言い出した。それから仲の良かった嘉良華さんの態度が急に冷たくなって、しかも大量の入部届を集めてきた。あと……」

 これを話すべきか、一瞬躊躇った。どうでもいいことのようにも思えたのだ。

「伊織君と保健の先生が、教えてないはずの私の秘密のペンネームを知ってた。でも嘉良華さんは元々知ってる。というか、教える前に知ってた」

「それらの不可思議な現象のうち、どれでもいい、犯人は分かるか?」

「いや、どれも分かんない」

「犯人の動機か、あるいはその方法について、心当たりはあるか?」

「全然」

「そうか」

 次いで兄が発した言葉に、私は息を呑んだ。

「関係者全員、昨日から今日の間に、和泉が秘密のペンネームで書いた小説を読んだ可能性はあるか?」

「いや、それは分からないけど……」

 そこで私は思い出した。

「でも伊織君は、嘉良華さんの小説を読んだって言ってた」

「それだ」

 兄は力強く断言した。

「転校生の小説が伝染したんだ」

 私自身、奇想天外な話をしている自覚はあるけれど、その兄の言葉には思わず笑ってしまった。

「ありえないでしょ、そんなこと」

「いいか。時間が、無いんだ。議論している余地はない」

 気付くと、兄の息が荒くなっていた。

「大丈夫なの? 何かあったの?」

 兄は息も絶え絶えになりながら、矢継ぎ早に話し出した。

「すまんが、俺も感染したらしい。さっき後輩に面白い小説だって渡されて、試しに読んだらこのザマだ。意識が侵食されていく感じだよ。俺の理性がいつまで持つかは分からん」

「そんな……今、私もそっちに行くから」

「来るな。それよりもお前に教えておくべきことがある。……この前、冗長性の話をしたよな?」

「うん、なんとなく覚えてる。生命には余裕がないといけないみたいな話だよね?」

「あくまでも俺の個人的な考え、だがな。生命は冗長性があるから、レシピが少し破れた程度では死なない。逆に言えば、冗長性が無い生命は、レシピが少し破れただけで死んでしまう。だから伝染する小説のレシピを破れ」

「どうやって?」

「それは、和泉が考えるんだ」

「せっかく教えてくれるなら、そこまで教えてよ」

「もう、話をするだけでも、辛いんだよ」

 兄は、途切れ途切れの今にも消えそうな声で言う。

「写メ、送るから見ろ。もう、そんなことしか、できなさそうだ」

「ちょっと待ってよ。何が何だか」

「頑張れよ」

 その言葉を最後に、電話は切れた。

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