5.パンケーキ
私たちは学校を出て南へ向かった。丸太町通りから鴨川を渡った所に最近できたカフェのパンケーキが美味しいと評判なのだ。嘉良華リャカとともに、自転車で川端通りを下る。意外と嘉良華リャカは、自転車を漕ぐのが早かった。私もついムキになって追い越したり、逆に追い越されたりした。我ながら幼稚だなとは思う。それでも時折、嘉良華リャカの茶目っ気たっぷりの表情がこちらへ向く度に、私は楽しくなってしまうのだった。
カフェに到着した私達は、それぞれパンケーキと紅茶をオーダーした。私はメイプルソースのかかったやつで、嘉良華リャカはチョコレートとバナナがトッピングされているやつだ。それから私たちはガールズトークに花を咲かせた。私の伊織瑞希に対する愚痴、もとい逸話から始まり、嘉良華リャカが転校する前の学校のことまで、色々なことを話した。転校した理由は、親の仕事の都合らしい。よくある話だが、子供にとっては迷惑な話だ。ここでの嘉良華リャカは、私の創作した登場人物などではなく、どこにでもいる平凡な一人の女子高生だった。少なくとも、私にはそう見えた。
「もうそろそろ帰ろっか」
私がそう提案した時には、辺りはもう暗くなり始めていた。二時間くらいは喋りっぱなしだっただろうか。まだ話し足りないけれど、また今度お茶しながら話せばいいことだ。時間は、たっぷりあるのだから。
会計を済ませて、自転車にまたがったところで、嘉良華リャカが私に近寄ってきた。近くに他の人がいる訳でもないのに、耳元でそっと囁く。
「ねぇ。もしこのあと時間があるなら、鴨川デルタに寄って行かない?」
俯き加減になりながら、嘉良華リャカは私の反応を伺っていた。
鴨川デルタは、私と嘉良華リャカが出会った場所である。もちろん小説の中での話だ。主人公が川を横切る飛び石を渡っていたところに、嘉良華リャカが鉢合わせて運命的な出会いを果たす。ベタだが、私のお気に入りのシーンである。嘉良華リャカの発言も、それを踏まえてのことだろう。
私自身、私たちが小説で出会った場所へ、一緒に行ってみたいと思った。現実の私たちはもう出会っているのだけれど、改めて出会いの場所を訪れてみたら、もっと距離が近くなれるような気がした。ここにあるのは親友と呼ぶべき絆であるか否か。心の秤の針が指している先を、この目で確かめてみたかった。
しかし天は無情である。ポツリ、ポツリ。その肌の感覚で反射的に空を見上げれば、太陽の沈んだ闇の中にうっすらと濃灰色の雲が浮かんでいた。通り雨で済みそうな感じではない。
「雨、やばそうだね。傘とかある?」
嘉良華リャカは残念そうに首を横に振った。お互いに苦笑いを交わす。
「じゃあ、鴨川デルタはまた明日ってことで」
「そうだね」
それから二人で小雨混じりの夕闇の中を自転車で帰った。途中の交差点で別れた私は、嘉良華リャカの背中が角に消えるまで見届けてから、ペダルに足をかけた。でも最後に嘉良華リャカが振り返ったような気がして、もう一度、嘉良華リャカが消えた角へ目を遣った。でももう嘉良華リャカは、そこにはいなかった。
翌朝の教室で、私は信じられない光景を目の当たりにした。伊織瑞希が、晴れ晴れとした笑顔を浮かべていたのである。
「文芸部、続けるよ」
「……えっ? 何かあったの? 大丈夫? 無理してない?」
「俺が文芸部続けるのがそんなに嫌か?」
「だって昨日の様子を見る限り、辞めるとしか思えなかったけれど」
「考え直したのさ。辞める必要は無い。むしろ俺は受験勉強なんかより、小説が書きたくなったよ」
自らの創作ノートを示しながら、伊織瑞希は読んで欲しくてたまらないという顔をした。もう昨日のうちに書いたとでも言うのだろうか。
「へー。ついこないだリャカにセンスが無いって言われたばかりなのに?」
「どうかな。今ならリャカは俺の小説を褒めてくれると思うよ」
自信ありげに笑みを浮かべる伊織瑞希は、いつもと雰囲気が違う。内なる情熱が溢れすぎて空回りしてしまう、いつもの不器用さがない。
「どこからそんな自信が湧いてくるんだか」
「理由が知りたいかい?」
そう問う伊織瑞希の瞳は、まるで嘉良華リャカのそれのように、好奇心に満ちて輝いているように見えた。
「何か良いことがあったとか?」
「確かにそれは当たっている。でも、それじゃあまりにも漠然としていてつまらないよ。仕方がないからヒントを教えよう。昨日の夜、リャカが俺の家を訪ねてきてね。ある物を貰ったんだ」
あの後、嘉良華リャカが伊織瑞希の家に行ったというのだろうか。そんな素振りはなかったように思ったのだけれど。
「ラブレターとか?」
「結城さんはリャカからラブレターを貰ったら嬉しいのかい?」
「何でそんな話になるのさ!」
伊織瑞希は、こんなに冗談が通じない人間だっただろうか。なんだか私の調子も狂ってしまう。
「真面目な話、一番有り得そうなのは、リャカのお薦めの本とかかな? リャカなら伊織君の好きそうな本を沢山知ってそうだし」
「確かにそれは魅力的だ。でもそんなものより、もっと価値があるものだよ」
「えー。もう分かんないよ。答えは何?」
待ってましたとばかりに伊織瑞希は言った。
「リャカの書いた小説だよ、ルリノ」
私は耳を疑った。
「は?……え、どういうこと!?」
「でもリャカはルリノに読ませちゃダメって言うんだ。あんな素晴らしい小説を教えてあげられないなんて、残念だなぁ」
私の頭の中は混乱していた。嘉良華リャカが実は小説を書くという真実と、私が瑠璃音ルリノであることを伊織瑞希が知っていた事実の、どちらから確かめるべきだろうか。藪蛇になっても困るから、下手に聞く訳にもいかない。
そうしているうちに、嘉良華リャカが教室に入ってきた。
「あっ。おはよう、リャカ。君の小説は最高だったよ!」
スターにサインを求めるかのように駆け寄る伊織瑞希に、嘉良華リャカは会釈しただけだった。氷のように冷たくて固い表情で、私には一瞥もしないまま、私の隣の席に座った。そして興奮気味に小説の感想を述べようとする伊織瑞希を制した。
「ほら、先生来たから席につきなよ」
伊織瑞希は担任が教室に入ってきたのを認めると、仕方ないといったふうに自分の席へと戻っていった。
その隙に、私はヒソヒソ声で嘉良華リャカに尋ねた。
「何かあったの?」
「ゴメン。何も聞かないで」
怒ったような言い方をされるのは初めてだった。結局、嘉良華リャカの顔は前を向いたままで、私の方を向くことはなかった。まるで昨日までのことが、すっかりリセットされてしまったかのようだった。
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