4.重い沈黙

 その兄の言葉を思い出したのは、翌日の放課後、文芸部室に三人で集まって今後の計画を練っていた時だった。

「小説は生き物だ。だから我々は、小説に餌を与えなきゃならない。では餌とは何か? それは我々の愛だよ。読む人、書く人がいなきゃ、小説は死んでしまう」

 文芸部員・伊織瑞希は熱弁を振るっていた。

「だから部員を増やした方がいいと?」

「その通り」

「ふーん。だったら小説は、太らないように運動しないとね」

 悪戯っぽく笑いながら、嘉良華リャカは頷いていた。

 我々の当面の課題は、部員を増やすかどうかである。嘉良華リャカが入部したことで、文芸部員は現在三人。部の存続要件をギリギリで満たしている状態である。それが嘉良華リャカを文芸部に誘った理由の一つでもあった。

 しかし我々は全員三年生。このままでは来年度の部員はいなくなり、廃部になってしまう。将来のことを考えれば、もうじき入ってくる新入生の勧誘は欠かせない。それ故、伊織瑞希は熱く語っていた。

 一方、私は違う意見だった。

「私としては、もう伊織君には言ったけれど、勧誘はしなくてもいいかなって考えてる。入部したい後輩がいれば拒まないけど、あまり盛大に宣伝はしたくない。理由は二つ。一つは、ウチの顧問が来年退職になること。三月に新しい副顧問のお願いをして回ったけど、国語科の先生たちは既に他の部活の顧問だからダメって断られてる。そんな状況で、さらに新しい顧問の先生を探すのは難しいよ。ただでさえ部員数少ないのに。

 二つ目は、他にSF研とミステリ研があること。正直、向こうの方が雰囲気明るいし、部員も多い。だから少なくとも文芸部が無くなったところで、小説は死んだりしない」

「つまり、どうにかして存続させるだけの価値が文芸部には無いってこと?」

「さすがに価値が無いとまでは言わないよ。でも良い引き際かなとは思う」

 私の言葉を、嘉良華リャカは腕組みしながら聞いていた。多数決の原理に則れば、嘉良華リャカがどちらの意見に賛成するかによって、新入生を勧誘するか、それともしないのかが決まることになる。

「うん、なるほど。私の意見は大体決まったけれど、もう他に意見は無い?」

 嘉良華リャカの視線が、まず私に、続いて伊織瑞希に向けられた。

「……じゃあ、嘉良華さん。もう一つだけ言わせてもらってもいいかな」

 さっきまでの威勢の良さはどこへ行ったのか、躊躇いがちに伊織瑞希が手を挙げた。

「実は俺、文芸部を辞めようと思ってる」

「え?」

「だからもう一人入れないと、部員数が足りなくなっちゃうんだよね」

「エエーーっ!?」

 私は思わず立ち上がった。あれだけ「小説が死ぬ」だのと偉そうに語ってたのは、どこのどいつだよ。実はずっと文芸部が嫌で、嘉良華リャカが入ったから良い機会だと思ったとか? それとも彼女ができた? いや、この男に限ってそういうことはないか。爆発的に脳内に広がった動揺を何とか抑えて、私は尋ねた。

「どうして辞めるの?」

 伊織瑞希は、慎重に言葉を選びながら、滔々と語り出した。

「まだ言ってなかったんだけど、実は春休みに祖母が亡くなったんだ。祖母は読書が好きでね。俺が書いた小説も楽しみにしてくれていた。祖母は特に恋愛モノには目がなかった。ここ数年寝たきりになってからは、俺も見よう見まねで恋愛小説を書いてたんだ。それまであまり興味のないジャンルだったから上手く書けたとは思えない。でも見舞いに行く度に、祖母は嬉しそうに感想を言ってくれた。

 でも、もう祖母はいない。俺の小説を読んで欲しい人は、もう読んでくれない。そしたら小説を書きたいという衝動が、全然湧いてこないんだ。書いてみようと机に向かったこともあるけど、結局何も書けなかった。祖母が愛読していた源氏物語も読んでみたけれど、血沸き肉踊る感覚が無い。嘉良華さんは言ってたよね。『人間は自分には無いものを無意識に求める生き物』だって。だとしたら、今の俺は良い恋愛小説を書けるのかもしれないよ」

 求めていたものを無くした彼は、虚空に向けて笑顔を浮かべた。悲しそうに笑う人を、私は初めて見た。

「それに今年は受験だろ? 早めにそっちに切り替えるのもありかなって。いや、本音を言えば、早いうちに受験に現実逃避しようかなって思ってる」

 こういう時、何て言ってあげたらいいのだろう。私って、思いやりも致命的に欠けているんだな。ぼんやりと宙を見ていた私は、不意に嘉良華リャカと視線が合った。嘉良華リャカが小さく頷く。

「言ってみなよ。ルリノの思いを、正直にさ」

 そんな嘉良華リャカの声が、聞こえた気がした。

 私は覚悟を決めた。一度ゆっくり深呼吸してから、口を開く。

「私としては、文芸部を続けて欲しい。でも伊織君の考えも尊重したい。少なくとも、伊織君は一緒に文芸部をやってきた仲間だし、それに大事な友達だから」

「ありがとう」

 申し訳無さそうな声が、印象的だった。

「でも、ひとまず結論は明日にしてもらっていいかな。俺としても、もう少し考えたいんだ。じゃあ、また明日」

 心ここに在らずというふうの伊織瑞希は、そのまま鞄を持って文芸部室を出て行った。

 文芸部室に、私と嘉良華リャカは取り残された。嘉良華リャカなら、みんなが幸せになる解決策をすぐに提案してくれるのではないか。内心そんなことを期待していたが、嘉良華リャカは口をつぐんだままだった。

 沈黙に耐え切れなかった私は、机に突っ伏して、私たち二人だけの部活を想像してみることにした。もし小説版・嘉良華リャカと一緒に部活ができたなら、きっと楽しいだろう。私が書いた小説の中でも、主人公と嘉良華リャカは文芸部に所属している。この設定は、私が文芸部に入部した一年生の時に書いたからだったと思う。大抵の場面も、この高校がモデルだ。放課後には川端通を下って街に繰り出したり、夏には電車で海に行ったりして、これでもかとばかりに二人は青春を謳歌する。羨ましい限りだ。

 でも今の私たちは友達になったばかり。小説の中のように、親友と言える間柄ではないだろう。もちろん、これから一緒に過ごしていく中で親友になりたいと思っている。でも確実に親友になれるという保証はない。どこかでボタンを掛け違えてしまうことが無いとは言えない。

 私みたいに引っ込み思案な性格でなければ、気軽に親友を作ってしまえるのだろう。だって友人を指差して「あの人は親友だ」と言えばいいのだから。でも私にはそれができない。その人は確実に私の親友だと心の中の秤がはっきり示さない限り、私は親友を作れない。いや、作りたくないのだ。

 だって私は、空っぽの器でしかない。自分というものが無いのだ。例えば今の私が嘉良華リャカを指差して「彼女は親友だ」と言ったとする。そうしたら、私は嘉良華リャカを親友だと認識するだろう。逆に「彼女はライバルだ」と言ったら、私は嘉良華リャカをライバルとして認識してしまう。いつも心の秤で慎重に計測した言葉しか発していないから、全ての発言が私の意志とイコールになってしまっているのだ。言葉に責任を持ち過ぎている、と言ってもいいかもしれない。

 じゃあどこまでが友人で、どこからが親友なのだろうか。心の秤は、まだそれを教えてくれない。

「ねぇ、ルリノ」

 嘉良華リャカの声で、私は顔を上げた。

「どうしたの?」

「こういう時はパンケーキ、だよね?」

 嘉良華リャカの綺麗な瞳が、その言葉の意味が届いているか確認するように私の顔を伺う。

「ナイス・アイディア!」

 そう、私たちにとってパンケーキは魔法の言葉だ。小説では、主人公は挫折した嘉良華リャカを励ますためにパンケーキをご馳走する。嘉良華リャカが立ち直るきっかけになる大事な場面である。ここは一つそれにあやかって、私たちもパンケーキを頂くことにしよう。そうすれば、文芸部の今後について良い解決策が浮かぶかもしれない。それに嘉良華リャカとお出かけする絶好の機会を逃す訳にはいかないのだ。徐々に距離を縮めていった暁には、親友と呼ぶべきかなんて悩まなくてもよくなるだろう。

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