3.メダカのいる水槽
お湯が沸くまでの間、私は壁際に置かれた水槽を眺めていた。メダカが十匹ほど、その中で泳いでいる。学生の人が持ってきて飼っているらしい。水槽の壁には、一匹ごとに写真とともに名前が貼られていた。ウルメ、ザコメ、ウキ、チョンコ、アカンダミなどなど。これらはどれもメダカの方言名なのだと、以前兄から聞いたことがある。
「和泉は、水槽眺めるのが好きだよな」
「だってメダカがすいすいーって泳いでるの見てると、時間が止まった世界でメダカの息遣いを聞いてるみたいで、なんか自分も生きてるって感じがするんだよね」
「そんなもんかねぇ。じゃあそんな和泉に問題だ。生きていることの定義って何だと思う?」
「いきなり定義って言われても……」
考え始めてから、どこかで同じような質問をされたことを思い出した。そうだ、嘉良華リャカとの初めての会話がそうだった。でも結局、嘉良華リャカから答えは聞けていない。またここで同じ答えを言う訳にもいかないだろう。今回は、落ち着いて真面目に考えてみることにした。
「空気を吸っていること、とか?」
「メダカは空気を吸っていないんじゃないか? 水中から酸素を取り込んでいるけれども」
「じゃあ酸素を吸っていること」
「確かに、その答えは間違ってはいない。でも十分でもない。世の中には嫌気呼吸といって、酸素を使わないで呼吸する生き物もいる」
私の浅はかさをよく知っている兄は、したり顔でそう言った。
「えー、何それ。じゃあ答えは何?」
「無いよ」
「……え?」
「だから、生きているということの定義は存在しない。生物学的にはね」
あっけらかんとした兄の言葉に、しばらくの間、私はぽかんとしてしまった。
「何その引っかけ」
「嘘だと思うならググッてみろよ。『生命 定義』とかで。科学的には、生命の定義は定まっていない。代謝をすること、自分のコピーを作れること、恒常性があること。色々な条件は言われている。だけど生物学者の間で『これだっ!』っていう共通認識は全くない」
カチッという音で、電気ポットがお湯が沸いたことを告げた。兄は、インスタントコーヒーのパックを乗せたマグカップにお湯を注いでいく。苦味のある匂いが、次第に部屋中へ広がっていく。
「一つ、例を挙げようか。和泉は、ウイルスは生命だと思うかい?」
「コンピューターウイルスじゃなくて?」
不信に満ちた私の視線を、兄は笑った。
「今度は引っかけじゃないよ。病気を引き起こすウイルスの方だ」
「うーん。まあ、生命なんじゃない?」
「理由は?」
「だってよくマスクのイラストとかに、目と口がついたウイルスが描いてあるし」
「そんな理由かよ」
「だって見えないんだもん。しょうがないじゃん」
「見えなくたって分かる世界はあるんだよ。案外、片目を瞑るくらいが、生きていくのに丁度いいのかもしれない」
兄はマグカップに乗っているインスタントコーヒーのパックをつまみ上げて、中にお湯が残っていないことを確認した。
「このパックだって、お湯を通す前と後で乾燥重量を計れば、中身が減っていることが分かるだろう? それを知るためには秤さえあればいい」
「でも秤を見る目は必要でしょ?」
「概念的な話だよ。ま、和泉の言うことも間違っちゃいないが」
兄はパックをゴミ箱に放って、黒い液体で満たされたマグカップを一つ、私の前に置いた。それとシュガースティックを三本。これだけは欠かせない。それから兄は、近くに置いてある二人がけのソファに腰掛けた。
「で、ウイルスが生きてるかって話だが、実はウイルスは生きているし、生きていない」
「どういうこと?」
私は、砂糖を遠慮無くマグカップの中へ投下しながら、兄が熱々のコーヒーを啜るのを待った。
「細胞でできていない、自分で代謝をしないという点では、ウイルスは生きていない。でもウイルスだって遺伝子を持っている。それにウイルスは自分のコピーを作る能力を宿主に依存しているが、自分自身だけで増殖できない生物はいる。だから一概にウイルスが生命でないとは言えない」
「ふーん。よく分かんないけどね」
スプーンでよくかき混ぜたコーヒーに、私は口をつけた。まだ熱いが、舌を火傷するほどではなかった。
水槽の中のメダカたちへ視線を移す。元気に泳いでいる彼らは、生きている。そう思える。もし人間の間で生命の定義が変わって、メダカは生命ではないと一方的に決めつけられても、メダカたちは何食わぬ顔をして泳ぎ続けるのだろう。生まれた時からそうであったように。
「でも、それっていいの? 生物学者っていっぱいいるんでしょ。その全員が、命が何者なのか分からないままで研究してるわけ?」
「そうさ。馬鹿げてるけど、それがまた面白みでもある。俺だって、生命の定義に関して考えていない訳ではない。最近は、生命には冗長性が必要かもしれないと考えている」
「冗長性?」
「つまりは余裕があるってことだ。生命は遺伝子を持っている。遺伝子は、例えるなら生命のレシピだ。体をどうやって作るかが書いてある。セントラルドグマっていう言葉は知らないか?」
私は首を横に振った。
「人間の遺伝子はDNAだ。このDNAがレシピの原本になる。細胞の中で、DNAはまずRNAに転写される。要するにレシピのコピーを取る訳だ。大事なレシピをキッチンに広げてたら汚れてしまうからね。次にRNAはタンパク質へ翻訳される。ここでレシピから料理、つまり体が作られる。ほら、タンパク質ってお肉のことだろ?
でもレシピが読めなくなったら、死んでしまうこともある。体が作れないからね。コンピューターも、プログラムが壊れたら動かなくなる点では生命に似ている。だが決定的な違いの一つは、遺伝子には予備があるってことだ。AがダメでもBで代用できる。それが遺伝子の冗長性だ」
「分かるような、分からないような」
「言うならば、このラボの飲み物事情みたいなものさ。急な来客があった時に紅茶が無くっても、代わりにコーヒーを出すことができる」
「なるほど。じゃあ逆に漫画の途中の巻が欠けていても、他の巻では代用できないってこと?」
私は意味深な視線を兄へ向けた。
「ハイハイ、発掘してきますよっと」
腰を上げた兄は、お茶部屋から出て行く間際にボソッと呟いた。
「小説も生き物も、大して変わらないと思うけどねぇ」
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