ノア博士の救世論

白木錘角

第1話

 百年ぶりに雨が降った。

いくらかの誇張もなく、本当に百年ぶりに、である。さらに言えば、特定の地域で百年ぶりに、ではなく国単位で百年ぶりに雨が降った。



 事の始まりは二百年前に遡る。二百年前、若き天才研究家のノア博士が発表した論文は以下のような口上から始まった。


「有史以来、人類はあらゆる事象を理解し、コントロールしてきた。未だ人類が支配できていないのは、人の心という深淵と我々の住む地球、そしていくつかの自然現象だけである。しかし、私はそのうちの一つを掌握する事に成功した――」


 蒸発した水ははるか上空で雲となり、雨となって再び地上に戻ってくる。ならば、水蒸気が雲になる前にそれを回収し、地上に戻せばどうなるのだろうか? ノア博士の発表はそんな突拍子もないものだった。

 空に昇る水蒸気を回収……より正確に言えば、雲にならない程度に上空の水蒸気量を管理し、回収したものは地上付近で冷却して再び水に戻し、自然のサイクルを壊さないよう適切に分配する。農耕地帯など雨が必要なところには余分に水を供給すれば作物の生育で困る事もない。

 規模や費用、管理の難しさを考えれば子供でもすぐに不可能と断じられるような夢物語。だがノア博士はそれを実現させ得るだけの綿密なプランを用意していた。そのプランと彼の実績、そして人々を悩ませる雨との永遠の決別という魅力的な響きから、数多の企業がすぐさまノア博士に出資する事を表明した。

 論文の発表からシステムの構築までに数十年、それから局地的な試験運用などでさらに十年。ノア博士の考案した管理システム“アポロン”が母国全土に配備される頃には、彼はすっかり老人になっていた。アポロンが全ての国に行き届くには、さらに数百年近い時間がかかるだろう。彼がそれを見届ける事は不可能だ。

 しかし、ノア博士にとってその事は未練でも何でもなかった。というより、どうでもよかった。自分のいる国から雨という概念を消し去る事、それこそが博士の目的だったからだ。

 アポロンの開発が始まったのとほぼ同時期、博士はそれと並行してある計画を進めていた。1つの街ほどの広大な土地を購入し、その土地のはるか上空に巨大な球体を作り始めたのだ。球体の壁面には光学迷彩が施され、目視はもちろんレーダーでも探知できないようにしてある。中は空洞になっており、アポロンが完成した暁には回収された水蒸気の一部が球体の中に送られるように設定されていた。

 ある日、もう自分では起き上がる事さえできないほど老いたノア博士は、自分の一人息子をベッドに呼んだ。


「私は若い頃からこの国の将来を憂いていた。国の未来を考えるはずの政治家は自分の利益だけを追求し民衆の事など考えもしていない。教育者は保身のために子供の健やかな成長を支えるという役割を放棄し、メディアは数字のために不確かな情報で下品な扇動をするのが当たり前になっている。誰もかれもが利己的に目を血走らせ、他人から奪い取る事しか考えていない。私は自分が生まれたこの国を愛しているからこそ、この現状を変えたいのだ」


 ノア博士は震える手で小さな端末を取り出した。その端末には少し顔をしかめた博士の顔と、その横に61という数字が表示されている。


「これには私の思考を模倣したAIが搭載されている。この国に関連するニュースを受け取り、それを評価して数字が上下する仕組みだ。この数字が100になった時、上空の球体が操作できるようになる。……そうだ。球体の中には膨大な量の水が入っている。球体が移動しながらそれを解放する事で、この国は綺麗さっぱり押し流されるだろう。雨という概念が消えたこの国に、抗う術などないはずだ。心配しなくてもいい。洪水に巻き込まれない様、外界とこの場所を隔絶する壁も作っている。装置の起動と同時に壁がせりあがるようプログラムしているから、ここにいれば洪水に飲みこまれることはない……ごほっごほっ」


 咳き込んだ博士は、自分に残された時間を探るように体をさする。


「この数字がいつ100になるかは分からない。お前にはその前に、残すべき人間を選定して欲しい。この国が一度リセットされた後、そこから立ち上がって真っ当な国に生まれ変われるよう。お前にしか任せられないのだ……」


 それから数か月後、ノア博士は静かに息を引き取った。端末の数字は86になっていた。

 さて、訃報を受けノア博士の息子はさっそく残すべき人間の選定に移った……わけではなく、彼が真っ先に向かったのはある大臣のところだった。

 この大臣は真っ当とは程遠い人物であり、人望ではなく金と力で今の地位までのし上がった事で知られている。不祥事や汚職は両手の指におさまらないが、なぜかそれが世に出る事はない。他国で絶大な権力を持つ貴族の血筋であるとも、犯罪組織とつながっているとも噂される、おそらくノア博士が最も忌み嫌うタイプの男だった。

 執務室に通され大臣と相対した博士の息子は、ノア博士の計画を全て打ち明けた後、こう持ち掛けた。


「この計画が遂行された暁には、あなたにこの国の指導者になってもらいたいのです。もちろん国政に口を出すつもりはありません。私は生涯何不自由ない暮らしを送れればそれで満足ですから」


 国全てを雨で押し流すというこの計画にさすがの大臣も初めはたじろいでいたものの、自分のライバルが一人もいなくなるという事実に気づくとたるんだ頬を揺らして醜悪な笑みを浮かべる。邪魔者がいなくなるのはもちろん、数々の不正の証拠が文字通り水に流れるのだ。これに乗らない手は無い。

 

「それでは、後の事はお任せします。くれぐれも私が命の恩人であることをお忘れなきよう……」


 そう、この息子、血を分けているにも関わらずノア博士とは似ても似つかぬ姑息で利己的な男だったのだ。父親に対する尊敬は欠片もなく、日頃から研究データを盗み取り他人に横流しする事で金儲けをしていたような男だ。

 ところが博士が老いで研究の第一線から退いたせいでここしばらくは小遣い稼ぎもできなかった。まぁ博士が死ねば莫大な遺産が手元に残る。それを使って適当に生きていけばいいかと思っていた矢先、博士自身から新たな儲けのネタを渡されたのだ。


「しかしこの俺にあんなことを任せるなんて、とんだ馬鹿親父だよな。まぁたった一人の子供のために残してくれたこのチャンス、しっかり使わせてもらうぜ」


 腐っても大臣と言うべきか、彼が丸投げしていた残すべき人物の選定と移住が終わるのに一か月もかからなかった。もっとも、選定者が選定者なだけあって選ばれた人間も同類ばかりだったが。見た目からして堅気ではないと分かる人間から、表では誠実で優しい人格者と言われている政治家まで、集まった人間は一様に大臣と同じ醜悪な笑みを浮かべていた。

 そしてそこからさらに二か月。ついに端末の数字が100になる瞬間がやってきた。その瞬間画面が切り替わり、はるか上空の球体とその操作パネルがホログラムで浮かび上がってくる。


「いよいよかね」


「はい! この国が生まれ変わり、あなたが新しい王になる記念すべき瞬間、どうせなら特等席で見ましょうか」


 二人は、一際高い研究所の屋上に向かう。


「では始めたまえ」


 操作パネルには選択肢が一つだけ。博士の息子はそれを一切の躊躇なく押した。

 その直後、上空では球体がプログラムに従って動作を開始する。下部に偽装用の黒雲を発生させ、中に充填された膨大な量の水を少しずつ放出。一方地上では土地の外縁に穴が開いたかと思えば、そこから外と中を隔てるための壁がせりあがり始める。

 全てが博士のプログラムした通りに動いていた。球体が大臣や息子たちのいる場所の上空に留まり続けているのはプログラムエラーでも故障でもない。

 

 雨は、ますます強さを増していく。球体の中にため込まれた水が無くなるまで、残り3日。





 誰もが予想だにしなかった突然の豪雨。「たまたま」防壁の誤作動が起きたおかげで溜まった水が外に漏れださず被害は最小限で済んだが、アポロンシステムの開発者であるノア博士の所有していた地域はすっかり水に沈んでしまった。

 博士の研究データや論文、大切にしていた品物などは直前に交流のあった人間によって持ち出されているのだが、これは世間一般には発表されていない。そのため、この災害に対する人々の認識は「偉大なる研究者の痕跡を消失させた災厄」という事になっている。



               <了>






 

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