宵の灰、明けの黒

F.ニコラス

宵の灰、明けの黒

 俺は誰かに手を引かれて歩いていた。


 灰色の空の下、灰色の地面の上、灰色の建物の間。

 あまり気は進まなかったが、前を行く誰かがぐいぐいと俺の手を引っ張るので、致し方なく歩を進めていた。


「――――」


 誰かが少しだけこちらを向いて、何かを言う。

 よく聞こえなかったが、俺は「ああ」と生返事をした。


 ここは大通りのようであったが、車はおろか歩行者すらいない。

 辺りには、ただぬるい空気だけが沈殿している。


 俺は視線を横にずらした。


 建物はどれも似た形だ。

 定規で線を引いたように四角く、通せんぼをしているように高く、皆一様に肩を並べて佇んでいる。


 道のわきの電柱もまた、等間隔で植えられ電線で繋がれていた。

 ずっと同じ姿勢で立っていなければならないなんて、コンクリートの棒切れも大変なものだ。


 感心して、俺はまた前に目を向ける。

 誰かは相変わらず、俺の手を掴んで黙々と歩いていた。


 俺はその姿をよく見ようと目を凝らすが、どうも焦点が合わない。


 周囲の景色と、誰かを交互に見る。

 焦点を合わせられないのは誰かだけで、他のものはちゃんと鮮明に映った。


 不便だな、と俺は思う。

 俺は、目の前の誰かを知ってはいたが、知っている人間のうち誰だったかが思い出せないでいた。


 顔を見ればわかるかもしれないが、焦点が合わないのでは仕様がない。


「烏だ」


 俺は言う。

 次いで空を見上げると、そこには烏がいた。


 烏はばたばたと忙しなく翼を動かし、どこかへ飛んで行くところらしい。

 なんとなく目で追っていると、突然、空に大きな手が現れ、あっという間に烏を握りつぶしてしまった。


 手は握りこぶしを作った状態のまま、ふっと消える。

 前の誰かに視線を戻すと、その手が烏の首を引っ掴んでいた。


「お前か」


 短く問う。


「――――」


 誰かはまた少しだけ振り返って何かを言い、烏をその場に捨てた。


 やはり誰かの言葉は聞き取れなかったが、今回のは意味だけわかった。

 「見るな」と言ったのだ。


 俺は妙に納得し、地面に放られた烏を見るのはやめにした。


 灰色だった空が、徐々に黒くなっていく。

 空が黒くなるので、地面と建物も黒くなる。


 それに呼応するかのように、電柱に付いたライトがちかちかと瞬きながら目を開ける。


 沈殿した空気がじわりと蠢いた気がした。


 俺はなんだか落ち着かず、依然として手を引き続ける誰かに問いかける。


「次はだれを殺したらいい?」


「違うよ」


 初めて、誰かの声がはっきりと聞こえた。


 そうか。

 そうだったな。

 確かに、お前は違う。


 口を閉じ、俺は静寂に耳を傾ける。


 2人で歩いているのに、足音はちっとも聞こえない。

 これではまるで幽霊だ。


 俺は誰かと一緒に、どんどん先へと進んで行く。

 代り映えのしない景色が、前から後ろへと流れて行く。


 途中で何度か、空から動く何かが降りてくるのが視界に入ったが、誰かに見るなと言われたことを思い出し、いずれもすぐに目を逸らした。


 どれくらい歩いたろうか。

 俺たちはとうとう、一番端に辿り着いた。


 前の誰かが立ち止まったので、俺もつられて足を止める。


 焦点が合わない誰かをちらりと見てから、目の前に広がる光景をまじまじと眺めた。


 一番、端。

 終わりの場所。


 今まで続いていた道は途切れ、数歩先は崖になっている。

 崖から先の空間には真っ黒い闇がなみなみと注がれており、踏み入ったら戻って来られないであろうことは想像に難くない。


 空は黒、地面も黒、建物も黒、崖の先も黒。

 隣に立つ電柱のライトだけが白い光を落とし、かろうじてここに反射するものが、地面があるということを示している。


「帰ろう」


 俺は誰かに向かって言う。


 たぶん、今は夜だ。

 夜なのであれば、家に帰らなければならない。


 だって夜は怖いものだ。

 無防備に出歩いていたら、どんな目に遭うかわからない。


 先ほどまでずっと引かれていた手を、今度は俺の方が引く。


 早く、早く帰ろう。


 踵を返そうとしたところで、しかし誰かはまた俺の手を引き始めた。

 この先へ進もうというのだろうか。


 俺は踏ん張り、そちらへは行くまいと抵抗する。


「まだやることがある」


「いや、無い。ここにはもう何も無い」


 説得しようとする俺の言葉を一蹴して、誰かはぐいぐいと俺の手を引っ張りながら崖に近付いて行く。


 誰かは俺よりも背が低いはずだったが、なぜか力は俺よりも強かった。


「なんでそっちに行くんだ」


「なんでも」


「行きたくない」


「駄目」


「行きたくない! 俺はここで」


 言い終える前に、頬に衝撃が走る。


 ぶれる視界。

 じん、という痛み。


 遅れて、俺は誰かに殴られたのだと気付いた。


「もう朝だ」


 誰かは言う。


 瞬間、今まで合わなかった焦点が合い、誰かの姿が鮮明に目に映った。

 嫌というほどに、見知った姿だった。


「なんだ、お前か」


 俺は安堵し、笑う。


 誰かは無表情だったが、それでも少し笑ったようであった。


 それならばもう、拒むことは無い。

 手を引かれるままに、俺は前へと進む。


 改めて、眼前の闇を見てみた。

 なるほどそれは、闇は闇でも、夜明け前の闇であった。


 俺たちは仲良く同時に、崖の先へと足を踏み出す。

 つま先にひやりとした感覚があり、次第にそれは体全体を包み込んだ。


 視界が黒一色になり、途端に眠気が襲ってくる。

 自分がほどけてバラバラの糸になり、黒の中に溶けていく。


 それでも隣にいる誰かの手の感触だけは、最後まで残っていた。



* * *



 泡が水面に浮かんではじけるように、俺は目を覚ました。


 何の変哲もないアパートの一室。

 丸机がひとつあるだけの、殺風景な部屋。


 そこに俺は佇んでいた。


「おはよう」


 はていつからこうしていただろうかと首を傾げていると、横から声が飛んでくる。

 見ると少年が1人、腕組みをして立っていた。


 その顔は、いつも通りの無表情だ。


「ああ、おはよう」


 俺はそちらへ体を向け、応える。


「俺は寝てたのか?」


「寝てたんじゃない? いま起きたんだから」


 それもそうだ。

 起きる前は眠っていたに決まっている。


「何にせよ、殴っても起きないほどじゃなくてよかったよ」


「殴ったのか」


「さあ?」


 その言い方は絶対に殴っただろう、と思い、俺は体に痛む場所がないかを探る。

 が、予想に反して痛むところはおろか、違和感のあるところすら無かった。


「殴ってないのか」


「さあ?」


 同じ調子で、同じ言葉を返してくる。

 どうあっても答える気がないらしい。


 俺が訝しげな目線を送っていると、これ以上の追及はお断りとばかりに彼は口を開いた。


「いいから早くおいで。今日は買い出しに行く予定でしょ」


「げ、忘れてた」


「……まったく、世話の焼ける」


 少年は軽く息を吐き、さっさと部屋を出て行く。


 置いて行かれてはかなわない。

 俺は慌てて、彼の後を追うのであった。

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