とある青年の話

 駅の片隅に座ってから何時間が経過しただろうか。

 フードを頭からすっぽり被り、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。この最悪な状況をいち早く打破しなければならないのに、厳しい現実に打ちのめされてしまい、立ち上がることすら出来なかった。

 新卒から勤めていた大手アパレル会社がコロナの影響で倒産した。こんなことになるなら、親の反対を押し切ってまでアパレル会社に就職せず、もっと安定したお固い企業に就職しておけば良かった。

 今さら実家に帰ったところで、「私たちの言うことを聞かなかったから」と親に罵られるのが容易に想像出来たから、アルバイトをして何とか食いつなごうとしていたが、そうこうしているうちに住居を奪われ、ついには貯金も尽きてしまった。

 恥もプライドもかなぐり捨てて家に帰る決意をしたものの、途中で財布ごと荷物を盗まれてしまい、今に至る。

「あの」

 ついに駅員に声をかけられてしまったか。

 これからどこに行こう。マクド、ジャンカラ、ネカフェ。駄目だ、金がない。

 いっそ川にでも身を投げようか。

「あの」

 もう一度同じ声がした。肩を軽く叩かれ、恐る恐る顔を上げると、若い男がこちらをじっと見ていた。

「大丈夫ですか?」

「あ、大丈夫です」

 反射的に「大丈夫です」と答えたが、飲まず食わずの状態が二日間続き、おまけに今は真冬だ。空腹と寒さでもはや限界だった。

 善良そうな彼に向かって「大丈夫な訳があるか」と叫んで、彼の持っているカバンをひったくって逃走する妄想までしてしまった。

「あの、僕と一緒に食事しませんか?」

「は?」

「今日バイト代出たので奢りますよ」

 彼の提案を断ろうとしたが、男は俺の腕を掴むと、駅に隣接された和食のお店へと入っていった。


◆◇◆◇◆◇◆


「朝からずっと同じ場所に座っていましたよね。すみません、声かけられなくて」

 大きな海老の天ぷらが添えられたうどんが視界に入った時、これはもしや自分が生み出した最期の幻なのかもしれないと思った。目の前に置かれた温かいうどんがポカポカと湯気をたてていて、だしの香りとともに湯気が顔にふわっと当たっただけで涙が出そうになった。

「どうぞ冷めないうちに食べてください」

 男は机の横に置かれたカトラリーから割り箸を取ると、はいと自分に渡してくれた。割り箸を二つに割るところまでは順調だったが、寒さで手が悴んでいて、うどんが何度も箸からすり抜けた。

「もし良かったら、僕が食べさせてあげましょうか?」

 青年がスマホを机の上に置き、自分に手を伸ばしてきた。恥もプライドも住んでいた家を出る時に捨てたつもりだったが、三十路の男が年下男子にうどんを食べさせてもらっている図を想像し、流石に駄目だろと、彼の好意を断った。

「そういえばバイトって言ってたけど、君はいま大学生?」

「はい。いま五年生です」

「五年生?」

 彼は、「医学部に通っているので」と言った。高身長かつ整った顔立ち。そして、医学生ときた。世の中不公平だ。

「あなたは?」

「俺?俺は・・・・・・」

 俺は一体何者なんだろう。この間までアパレル店員という肩書があったはずなのに、今となってはただの無職野郎だ。コロナ失業者という言葉が頭をよぎるが、その状況に立たされている自分が情けなくて言葉に出来なかった。

「ティッシュ、どうぞ」

 気づけば、目からぼろぼろと涙が零れていた。彼からティッシュを受け取り、鼻をかんだ。

「軽率な質問をしてしまい、すみません。僕の名前は優しい人と書いて、優人ゆうとと言います。あなたのお名前は?」

宮野みやの宮野みやのトオル」

 みっともなく泣いているところを彼に見られたのが恥ずかしくて、ついぶっきらぼうに返事をしてしまった。

宮野みやのさん。せっかくなので、冷めないうちに食べてください」

「・・・・・・ありがとう」

 微笑む彼の顔を見て、さぞかしモテるだろうなと思った。

 冷えた手が温まり、うどんを箸で摘めるようになると、夢中で口に運んだ。やがて彼が注文した山菜うどんがテーブルに運ばれてきたが、店員が去った後、「良かったら」と、優人ゆうとはどんぶりを俺の近くに置いた。

 こんなにも夢中になって食べている姿を見て、無様だと思われたに違いないと、卑屈な思いがぶり返した。箸をどんぶりの上に置くと、優人ゆうとはスマホから顔を上げた。

「どうしましたか?」

優人ゆうとは、どうして見ず知らずの他人にここまでしてくれるんだ?」

「僕はただ、駅の片隅に座り込んでいたあなたを放っておけなかっただけです」

「いつもこんなことを?」

「ええ、まあ」

「・・・・・・そうか」

「他に何か注文しますか?」

「いや、大丈夫。ありがとう」

 路上に座り込んでいる人がいても、普通の人なら平気で無視して通り過ぎる。彼のその優しさがいつか仇になりませんようにと願った。

 再び箸を手に取り、うどんの上に行儀よく乗っている山菜を箸で摘もうとした時、隣の席の男が、はあと大きなため息をついた。

「それでさ、あの上司、俺のこと使えないって言うんだぜ。使えないのはどっちだよって話だよな」

「それな。あの上司も、自分が不出来だってこと自覚してるだろ」

「あぁ、もう。俺、転職しようかな」

 隣の席の男たちが仕事の愚痴を吐きながらうどんを食べている姿を横目で見る。

 働くことが出来ている内が華だと彼らに言ってやりたかったが、機能性重視のダサい服を着て、髭も整えていない、ぼさぼさ髪の自分が言ったところで説得力は皆無だと思われた。今の俺は、今まで自分が見下してきた不潔な男そのものだった。

「あの、あなたはこれからどうするつもりですか?」

 スマホを見ていた優人ゆうとが口を開いた。

「どうにもこうにも。もうどこにも行けないんだ」

「なぜ?ご家族は?」

「両親がいるけど、帰ろうにも財布を盗まれて電車賃がない」

「じゃあ、僕があなたの帰りの電車賃を全額支払います」

「いや、流石にそれは申し訳ないというか」

「申し訳ないと思っていただかなくて結構です。僕がそうしたいだけなので」

 十歳も年下の男に気遣われる自分が情けなくて、俺はただ、どんぶりに残った汁を見つめることしか出来なかった。そんな俺に愛想が尽きたのか、彼は伝票を持って椅子から立ち上がった。会計を終えて再び席に戻って来るかと思いきや、彼が店を出て行くのが見え、慌てて彼の後を追った。

優人ゆうと

「はい」

 向かいのパン屋から出てきた優人ゆうとの手には、小さな食パンが握られていた。

「え?」

「帰っている最中にお腹が空いたら困るでしょう。パンはお嫌いですか?」

「いや、好きだけど」

「良かった」

 彼は俺に食パンを押しつけると、駅に向かった。結構な額にも関わらず、現在地から俺の実家までの交通費をカードにチャージし、俺にぽんと渡した。

宮野みやのさん」

 改札を通り抜けた直後に、優人ゆうとが俺の名前を呼んだ。

「どうかお元気で」

「ゆう・・・・・・、あれ?」

 後ろを振り向くと、優人ゆうとの姿はすでになかった。


◆◇◆◇◆◇◆


 俺は電車に揺られながら、今日の出来事を思い返した。

 彼の優しさが、いつか彼の首を絞めることにならないだろうか。

「携帯番号、聞いておけばよかった」

 そうすれば、彼が困った時に助けになれたかもしれないのに。

 またどこかで彼に出会えたら、その時は今日の感謝を伝えたい。

 いつか自分も、困っている人に手を差し伸べられるような人間になりたいと、そう強く思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空蝉と蛍 深海 悠 @ikumi1124

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ