シラノ・ド・ベルジュラック

「なるほど、役者をされていると。そうですよね、杉森成二さんですよね、同姓同名かと思って驚きました。まさかご本人だったなんて」

 僕は、病院にある白いカウンセリング室で相談をしていた。有名である弊害は多いけれど、時に思わぬ方向で役に立つこともある。

「モノ化すると、人の感情が理解できなくなるんでしょうか?」

 カウンセラーは一度だけ部屋の隅に目をやったあと、答えてくれた。

「まあ、そういうことになりますね。でも、理解ができなくても、成二さんは感情があるように振る舞えますよ。社会生活は、かならず、今よりずっと良いものになります。もちろん、芝居だって」

 想像していた通りで、すこし安心する。カウンセリングは滞りない。けれど、あまりに円滑すぎる気もした。

 僕は頷いて、ほかにもなんでも聞いてくださいね、と言うのを聞いた。もう一つ、質問をすることにした。部屋には、なだらかな音楽が流れていた。

「少し前に、後輩が手術を受けたみたいなんです。それで、僕も受けようかと思って。役者にモノは多いですか?」

「あれ、後輩って、もしかして三木恭弥さんの弟ですか?」

「そうです。ご存じでしたか」

「ええ。恭弥さんの弟……三木一馬さんもグループ病院で受けてくださったと聞いています。我々の間では有名ですよ。もちろん、外には流しませんが。質問についてですが、一馬さん以前にも、役者をされていて、モノ化を望む方々は多いです。わたしもモノですし」

 ああ、と腑に落ちた。不自然な円滑さの正体はこれだった。情報を聞き出しながらも、感情を切り離さなければならないカウンセリングは、きっとモノの適性は高いのだろう。

「では、今日は処方だけですから、こちらを持って、薬局へ向かってください。一応、アレルギー反応を抑える薬も一緒に出しておきます。もし身体に異変が起きたら、すぐにご連絡ください」


 ◇◇◇


 一馬が主演となって、稽古場に記者が出入りするようになった。休憩中の時間を使って、短時間でもかまわないから取材したい、と申し出る人たちが増えたのだった。おかげで、いつにも増して賑わっていた。

「ですから、言葉を!」

「物凄く、愛しています」

「分かっておりますわ、それで?」

 一馬のおかげか分からないが、成二も気合が入ってきたな。そう熊田さんは言った。

「俺にはいま、贅沢すぎる悩みがある。本来ならとっくに成二をシラノ役にしている。だが一馬のフレッシュさが、現代のシラノに合っている。成二にはそれを支えて欲しいと思う。配役はこのままでいこう。上演まで時間は少ない。大詰めだ」

 記者がかたかたとキーボードに打ち込んだ。僕は熊田さんの判断に納得した。視野を広く持ち、全体を見通せば、この配役に間違いはない。一馬がシラノで、僕がクリスチャン。主役を奪い取りたい気持ちもあったが、それよりも観客を大切にしたい。

 すでに僕の服薬は始まっていた。以前なら、主役に選ばれないことに不満を感じたり、情けなく思ったかも知れなかった。

 休憩に入ったとき、携帯が鳴った。恭弥から電話がきていたのだった。

「この前はすまなかった。また今度改めて、二人で飲みに行こう」

「ああ、良いよ。本番が近いから、終わってから、来年になると思う」

「わかった、俺も観に行くよ……なんか、成二、変わったか? 怒られると思ったのに。それに、そんな喋り方だったか」

 言われて、そういえばモノ化の相談をしていなかったと気がついた。けれど、いまさら恭弥に打ち明ける理由はなかった。本番が終わったあとに、ゆっくり報告すればいい。直接、関係があるわけでもない。

「そうかな、変かな。本番が近いから気を張ってるのはあるね」

「変じゃないけど。なんというか、昔の成二に戻ったみたいな感じがする。まあいいや、休憩中にすまなかった。一馬にもよろしく」

 自分の用事が終われば、恭弥はすぐに電話を切った。群がる記者たちの合間を縫って、一馬に電話が来たことを伝えた。

「ありがとうございます。兄さん、たぶん僕に直接連絡するのは苦手だから。意外と不器用なんです」

「でも、弟を大事にしてる感じがするよ」

「違うんです。まさにそれを狙っているんです。弟想いのキャラクターを作り上げようとしているんです。兄さんは本当に計算高い人ですよ」

 一馬にぴしゃりと言われて、お互いに嫌いではないんだ、と僕は思った。弟の方がよっぽど不器用だ。

 休憩が終わって記者団が帰ると、午後の稽古が再開された。


 ◇◇◇


「では、オペ室に向かう前に、改めて、モノ化手術について説明しますね。外科手術と言ってはいますが、やっていることは遺伝子操作です」

「遺伝子操作って、たとえば、身体のどこかを切り開いたりはしないんですか」

 僕は聞き返した。彼は今までのセールスマンじみたカウンセラーとは違って、担当の外科医だから、内容について詳しく話せるだろうと思った。身体に一切の傷が残らないと聞いてはいたけれど、では一体どうやって手術するのだろうか。

「ええ。開腹は行いません。注射のみです。キメラ細胞をタンパク質で包んだ液体を身体に注射して、その命令に従って、内側から体質が変化します。モノ化手術の初期は、ロボトミーを参考にした手術でしたから、眼窩から針を差し込んでいました。今では考えられません」

 具体的には、と医師は続けた。

「キメラ細胞の指示によって、ドーパミン、セロトニン、アドレナリンなどの脳内ホルモンの分泌量が、適切に制御されます。すべては体内で行われます。すでに服薬によってある程度の調整をしてはいますが、より強力に、安定して行われます」

 医師の言葉を何度も頭の中で繰り返す。けれど、何を言っているのかさっぱり分からない。業界での言葉が異業種の人に通じないように、医学の知識が足りない僕では、理解できなくて当然だった。

「質問は他にありませんね、では、こちらへ」

 淡々としてていて、彼もカウンセラーと同じくモノなのではないかと疑った。僕らは歩いて手術室に入った。運ばれているのではなく、歩いて向かっているのがなんとも滑稽だった。手術衣の下になにも着ていないから、肌寒い。

 手術室の中には二人しかいなかった。機械を眺めている医師と、看護師らしき人だけ。

「こちらに寝転がってください。それから、ずっと天井を見ていてください。三十分間は、様子を見て、緊急時に対応できるようにこの部屋で行いますが、ほとんどは注射だけで終わります」

 はい、と返して、手術台に仰向けで寝そべった。無影灯が煌々と点いている。眩しくて天井すら見ていられなかった。身体中に電極を貼り付けられると、規則的な電子音が聞こえるようになった。間髪を入れずに、看護師が言う。

「少しちくっとしますよ」

 たしかにちくっとした。左腕のどこかの筋肉に注射針を刺したのだろうと思った。体がすぐに痛みに反応して、体温が上がっていくように感じる。ぼうっとして、ほんの少し身体が軽くなったように思えた。

「筋注終了、三十分、様子を見ます」

 痛みが引いたとき、看護師が言った。電子音は変わらずに脈を打っている。軽かった身体が、今度はベッドの中に沈んでいくように重くなった。血液の流れを感じて、その生々しさに気分がわるくなる。

「心機能、血中酸素濃度、問題ありません」

「いいでしょう。杉森成二さん、三十分が経ちました、お疲れ様でした。立てますか?」

 医師に言われて、僕はベッドから降りた。すでに電極は外されていたから、立っているのに苦労はない。

「どうですか、モノになった感想は」

「すっきりしていますね。霧が晴れたみたいです。本番の舞台が近いんですが、緊張しなくなりました」

「何よりです。そうしたら、終了の手続きがありますので、再び受付にお願いします」

「ひとつ聞きたいんですが」

 なんでしょう、と医師は言った。

「あなたもモノなんですか?」

「いいえ。私は、この病院では唯一の人間です」


 ◇◇◇


「一馬、僕もモノになったよ」

 舞台袖で真剣な表情をしている一馬に、僕はようやく打ち明けた。もう数時間もしないうちに本番が始まる。呼吸すら忘れるほど張り詰めていて、稽古場とはまた違った空気が流れている。

「そうだったんですね。ちょっと変わったなとは思っていましたけど、てっきり、モノが苦手なのかと思っていました。だから、人間のままでいるのかと」

 配役は入れ替わった。僕がモノになったあと、熊田さんが僕をシラノにしたいと言い出したからだった。キャリアから考えれば当然だが、どうして、直前になって熊田さんが心変わりしたのだろうか。

 一馬と視線は合わない。合わせる必要もない。けれどそれは配役が理由ではなかった。

 僕たちが舞台に集中しているからだ。二人の役は完成している。舞台にあがれば、杉森成二はいなくなる。一馬だって消える。あるのは役そのもの。シラノとクリスチャンだけ。

 それが理想の役者のあり方だと、僕は改めて感じた。理想とした人間、目指した役者そのものだ。

「すぐに開演だ。初日で満員だそうだ」

 熊田さんが声をかけ、役者の全員で円陣を組んだ。僕には理由がわからなかったが、やる気が出る人がいるのなら、意味のある行いだと思った。今まで何度もしてきたのに、疑問に思ったことはなかった。

「今年もよく稽古してくれた。千秋楽まで、改めてよろしく」

 ば、と音がしそうなほど、揃って全員が肩を落とした。舞台袖から大きな声が聞こえるわけにはいかないから、静かに意思を確かめ合ったみたいだった。

 アナウンスがされたのちに、聞き慣れた開演の音が鳴り、幕が上がった。


 ◇◇◇


「愛しております。生きていてくださいまし!」

 ラストまではあっという間だった。上演には休憩を挟んだはずだったが、どう過ごしたかまるで覚えていなかった。これほどまでに集中できる場所は、この舞台以外にないだろうと思った。

 スポットライトがずっと眩しい。残された台詞は数える程しかない。最後の場面のため、包帯を巻いた自分の腕が痛んだ気がした。

「いけない、いけない。おとぎ話の中の話だ、『愛しています』の言葉を聞いて、自分の顔の王子の醜さが—輝く日の光だ! この言葉でたちまちに、消えてなくなる……だが、わたしは、一向に変わりはしない」

 僕はステージの上で、力の限り返した。最後にシラノは死ぬ。醜い鼻を持ったシラノ・ド・ベルジュラック。ロクサーヌを愛し、けれど同じくロクサーヌを好いた美男を助け、最後に救われるように、愛を告白されて生き絶える。

「それはな、わたしの……」

「心意気だ!」

 これがシラノの最後の言葉だった。いちど幕が降り、それからすぐにカーテンコールが始まる。僕は急いで包帯を外してもらい、また舞台に上がって、ロクサーヌと共に挨拶をした。関係者席の端に、恭弥が見えた。

 退場が始まる前に、僕らはホワイエへと先回りした。

「成二、すごかったよ、やっぱすげえなあと思った。主役にもなってさ」

 恭弥は真っ先に来てくれたらしかった。目が腫れている。期待に応えられた自信があった。

「観に来てくれてありがとう。一馬の演技も観た?」

 うん、一馬も良かった、本当に。恭弥はそう言って、僕の目を見た。刹那、怪しんだのが分かった。頭の中を見透かされているような気がした。焦りはしなかった。

 なにかに吸い込まれるように、恭弥から熱気が引いていく。

「お前……」

 腫れている目を思い切り開いた。なにか驚かせることをしただろうか。僕の演技はよかったはずだ、恭弥も感動してくれたはずだ。驚くようなことはなにもないはずだ。

 ただ疑問だった。衣装を着てメイクをした僕を、過去に見せたことだってある。

 それでも僕は目を逸らさなかった。なにを見ているのか知りたいと思った。

「モノになったのか」

 拍子抜けをした。いまさらそんなことを気にしていたのか。けれどこの場で、ちゃんと説明しておく必要があった。

「そうだよ。僕はモノになった。もう人間じゃない。だから理想的な演技ができる、だから登場人物になれる。僕だけじゃなく、先輩たちもみんなそうだ。巧い役者はモノが多い。だからそうしたんだ」

 恭弥はまだ目を離さない。眉をひそめ、唇を噛んでいる。

 退場のアナウンスが流れ、ホワイエに人が増えてきていた。僕もほかの観客や、関係者たちと話さなくはならない。

「あれだけモノにはならないって言ってたのに、俺だって人間として頑張ろうって思えたのにか。感動を返してくれよ」

「それは恭弥の勝手な期待だよ。僕だって、人間のままもっと芝居が巧くなる見込みがあったら、モノにはならなかった」

「嘘だ。ただ楽な方を選んだんだ。正しいって誰もが思う道を選んだ。従うようにしたんだ。そんなのは操り人形と一緒だと思わないのか?」

 僕は黙り込んだ。否定の言葉しか浮かばなかったからだった。もうそんな風には思えない。僕が感情を失くしたのは、勧められて選んだわけでも、強制されたわけでもない。自分で選んだからだ。

 それでも言い返せば、僕の冷静さとは反対に、恭弥は激昂するだろう。それこそ、感動を台無しにする行いに他ならない。理想の役者とは程遠い。

「ムカつくな。答えようともしないのか。そうやってどんどん取り込まれていって、悔しいとも思わないのか。思わないだろうな、何も感じないんじゃあな」

「……どうして僕がモノになったって分かったの?」

 ほかのなにも見ないまま、真っ直ぐに僕を見据えた恭弥は答えた。

「だって、成二さ、おかしいだろ? 主役として大役を務めて、満員で初日が終わったのに、まるで他人事みたいに。さっきまでの役者はどこに行ったんだよ。目も顔も口も、その顔は、どこも嬉しそうじゃない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Case.2 傀儡劇場 役者が感情を失くした場合 人工無知能 @NotAI

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ