モノになること
ホテル高層階のバーは、天井が高い。華やかで、余裕があるつくりだ。けれど今は、そんなことにさえ苛立つ。
僕は時間通りに店についてから、かれこれ三十分は待たされている。コースターに結露が滴り落ちて、濡れていた。電話での話し方から、恭弥の遅刻癖が治っていると期待した僕がわるかった。
ときおり、店員がこちらに目をくれる。憐れみか、心配か、どう見られているのかは知らなかった。次第に怒りとは別の感情が湧いてきた。もう帰ろう。電話にも出ない、これ以上待っても仕方ない。
そう思ったとき、肩を叩かれた。
「ごめん。遅くなった。電話くれてたのにな。今日は全部奢るから、許してくれ」
恭弥だった。その表情は申し訳なさそうではあったけれど、どこかたかを括っているようにも見えた。
「久しぶり。いい加減にしてくれよ、僕だって時間をつくってるんだから、こう扱われちゃたまらない」
「ほんとごめんって」
恭弥は長めの前髪を揺らしながら、目の前の席についた。テーブル席からウェイターに注文する。二つのワイングラスとロゼ。生ハムの盛り合わせ。
「今度出るドラマの打合せが長引いちゃってさ、急いで来たんたけど」
連絡がなかった言い訳にはなっていないが、仕事なら仕方がないと思った。
「そうか、打合せが伸びるのはよくあるね」
「そうなんだよ、来年のやつなんだけどさ」
「主演なの? 最近の恭弥はバラエティにも出てるよね」
「ああ。でもたぶん他の役者に埋もれる。他の番組に出るのは宣伝のためだよ、事務所がうるさくって」
そのうちにロゼとグラスが届いた。僕たちは懐かしさと一緒に乾杯する。へんな期待や、不安を抱いてはいたが、話してみれば楽しい。恭弥も向上心を捨てていないように思った。
「友達がモノの手術を受けたんだ」
一口、ロゼを飲み込んでから、恭弥は違った雰囲気になった。バーがずっと暗くなったように錯覚した。
「有名な人だよ。役者じゃなくても言えば分かる。公表もしてる。尊敬してたからさ。ショックだった」
「僕の周りにはいないな。役者でモノになるなんて、信じられない」
「その人は才能があるけど悩んでたから、後ろ向きな理由だ」
「成二は、感情が本当になくなると思うか?」
一杯目のロゼがなくなった。僕はわざと黙って、たっぷりの時間を使って、二人分のグラスに二杯目を注ぐ。
「わからない。でも、自分が期待しているようにはならないんじゃないのか。何も感じないなんて、人間として、役者として嘘だよ」
「その人はモノになってから、誰かの期待に応えることになにも感じなくなったと言った。やっぱり全部本当じゃないよな。人に感情があるかどうかなんて、確かめようがないし」
うん、と僕が頷くと、恭弥は嬉しそうな顔をした。やっぱり成二は違うな、よく分かってる、そう一人で言った。
「恭弥、久しぶり〜〜、ここでいいの?」
二杯目がなくなる頃に、僕らのテーブルに派手な格好をした女の子たちが近づいてきた。二人組だった。
「え、杉森成二、さん、本物?」
もう一人の女の子が、僕の顔を覗き込んだ。図々しく寄ってきて、今にも隣
の席に座りそうだ。
「マジ久しぶり。いいから座って座って。好きなもの頼んでいいよ」
恭弥が二人に満面の笑みで話しかけ、僕らのテーブルは四人になった。やけに広かった席が、とたんに窮屈になる。
「どういうこと?」
「どういうこともなにも、俺が呼んだんだよ。二人だけで芝居の話だけしてても、つまんないだろ。二人ともモデルなんだ」
シャンパンを開けた。盛り上がっていく場をよそに、僕の気持ちは冷めていった。恭弥は少しも変わっていなかった。僕は羽目を外したくて時間を合わせたのではない。時間に対しての意識も低い。低すぎる。温度差がある。もう我慢の限界だ。
僕は財布を取り出した。自分が飲んだ分のお代を置き、音もなく立ち上がる。
「お前にはうんざりだ。もっと芝居が好きなんだと信じた僕が馬鹿だった」
「嘘だろ、少しくらいいいじゃん。せっかく呼んだのに」
「僕は頼んでない。もういいよ」
席をあとにした。「成二は真面目すぎる。もっと売れたいのは俺も同じだからな!」後ろから声が聞こえて、抑えていた気持ちが湧き上がった。振り向いて恭弥を睨みつける。けれどすぐに冷静になって、言い返すのもばからしく思った。他の席が、来たときよりもずっとうるさく感じた。
◇◇◇
部屋に戻って、身体を洗ってからテレビを流した。バラエティに恭弥が出ていた。録画だけを見ることにして、電源を落とした。携帯に一馬から連絡が来ていた。
「来週の僕はちょっと変かもしれませんが、気にしないでください」
いまいち意図がわからなかった。
「どうしたの、いやなことでもあった?」
「いえ、そういうわけじゃないです。変わらないかもしれません。とにかく気にしないでください」
「そうか、なんかあったら言ってね。気にしないでおく」
◇◇◇
翌週に稽古は再開された。だが一馬の様子が変わっていた。
「ベルジュラックだ、このぼけなすが!」
違う。他の人からしたら、観客からすれば変わらないかもしれない。だが僕からみれば明らかだ。
「わるくない。シラノは一馬にしよう。オーディションはここで終わりにする。ほかのキャストは午後までに決めておくから、ひとまず午前は解散」
熊田さんも、同じ感覚を持っているようだった。どこがどう違うのか、具体的には説明できないが、今日の一馬の芝居は、今までと違って覇気がある。自信があり、勇気にあふれているように見える。
演出が欲しい演技をしている。脚本が欲しい役になりきっている。同業の僕からもそう思えるのだから、当事者にしてみれば、もっと強く感じていてもおかしくない。
「実は、僕はモノ化の投薬を受けている最中なんです」
昼休みに一馬とランチに出かけて、僕は呆然とした。どうしても一馬の演技が気に掛かって、その理由に心当たりがないか、聞いてみたのだった。昼時の焼肉屋は混んでいた。
「ええと。あれは手術じゃないのか? 投薬、って」
「そうです。最終的には外科施術なんですけど、アレルギーとか、感覚を確かめるために、まず投薬をするんです」
そうなんだ、と頷きながら、内心は混乱していた。肉を焼く音が、そこかしこから聞こえる。モノ化だなんて。ありえない。そんな状態で芝居をして、いいものができるはずもない。そう思っていた自分が、むしろ間違っているように思えてきた。
瞬間的に一馬が巧くなったと認めてしまったせいで、それはやめた方がいい、とも言えなかった。
一馬は「いまは病院で、処方された薬を飲むだけなんですけどね」と続けた。あの芝居が、感情のなさから生まれたものなのだと信じられなかった。
「それで、今、もう感情がなくなってるの?」
「たぶん、です。でもよくわかりません。不安が先に消えました。自分がどういう状態なのか、前より正確に把握できるようになった気がします」
不意に、一馬の肌をつまんだ。
「いて、何するんですか成二さん」
「ああいや、痛みはあるんだな、そりゃそうだよね。ごめん、一馬」
もう、と言う一馬。とても感情がなくなったようには見えない。初対面であれば区別なんて付かないだろう。反応も、今までの一馬となにも変わらない。もっと言うなら、より”一馬らしく”振る舞っているようにすら見える。これがモノ化しつつある人間なのか。
「週末に病院に行ったので、今日の稽古でも、効果が出るかなと思っていたんです」
「だから連絡くれたんだ。なにかいやなことあったのかと」
「違うんですって。でも、変だなと思われてなくてよかったです」
僕は散々肉を焼いた網を見ていた。焦げ付いていて、新しくする必要があるように思えた。
◇◇◇
録画を確かめていた。僕は習慣として、いつもいい芝居だと感じた役者をメモしている。それをもう一度見る。やはりいいなと思う。映画の隅にあるようなセリフでも、たしかに心を揺さぶられる。メモにある役者について調べた。
彼はベテランの役者だった。若い頃はお笑い芸人を目指したこともある、生粋の芸能人だ。高校を卒業してから、アルバイトと役者を並行しながら、下積み時代を過ごした。
転機になったのは、ある映画プロデューサーの目にとまったことだった。プロデューサーはモノだった。彼はデビューののち、恩人に勧められる通りにモノ化して、売れっ子への階段を登っていった。大作の海外映画に出演もした。この国を代表する役者と言ってもいい。いま観ているのは、転機となったその映画だ。
メモにある次の人物も調べた。スカウトされて女優になった役者。最近になって画家としても有名になった。依頼を受けて6メートルを超える大作のアートを描くほどに。彼女は休職していたときにモノ化手術を受けている。ほかのドラマも流し見しながら、没頭して経歴を漁り尽くした。
「これだけじゃない。みんなそうだ。みんなモノなんだ」
メモに残した全員の役者を調べ終えて、すべてがモノであることを知った。アイドルから役者になったあの人も、子役から活躍しているあの人も、ずっと売れなかったあの人も。みんながみんな、モノ化を経て、抜群のセンスを発揮していた。
反対に、見るからに冴えない芝居をする若手は、モノではなかった。芯のない脚本は、人間によって書かれていた。
すべての証拠が、僕の経験と感覚を否定していた。モノ化は、僕の理想の役者へと近づいていく第一歩かもしれないと考え始めていた。僕はただ、知らないだけだったのだ。今まで、自ら可能性を閉じ込めていた。
どうしてか恭弥の顔が浮かんだ。僕がモノ化したとして、恭弥は悲しむのだろうか。いや、怒るだろう。どうしてそんなことをしたと。なんで相談しなかったんだと。
だけど、そうだとしても、このまま子役から変わらない活動を続けるのと、どちらが良いのだろうか。
僕は携帯から、近くの病院を予約した。
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