Case.2 傀儡劇場 役者が感情を失くした場合

人工無知能

圧倒的な才能

 圧倒的な才能はいつも隣にいた。僕は彼を憎み、妬み、羨み、そして憧れた。どうすればあんなふうに振る舞えるか考えた。いや、いまも考え続けている。やがて僕は、答えに辿り着いた。


 ◇◇◇


 携帯の目覚ましが鳴った。朝六時だった。冬は日差しが明るくなるけれど、朝の寒さがたまらない。

 ベッドから身体を引きずり出し、一杯の水を飲んで、それから粉末のプロテインをシェイカーに入れた。ココア色が飛び散った容器に、蛇口をひねって水を注ぐ。

昨日の稽古は久しぶりで、活気に満ちていて、激しかった。毎年年末になると稽古をするから、大掃除のように、次の年への準備だと感じるようになった。こわばっている節々へと行き渡るように、シェイクしたプロテインを飲み込む。

 テレビをつけて、音楽を流した。敷いてあるヨガマットの上で、決まっているポーズをゆっくりと取る。手を伸ばし、足を伸ばして、口から息を吐く。日課は欠かかさないから日課だ。芝居は基礎体力がものを言うのだと、日に日に実感している。

 身体を伸ばし切ると、いくばくか楽になった。今度はスクワットをする。

 僕は華奢なほうで、代謝がいいせいか太ったことがない。だからむしろ、こうやって毎日動かしておかないと、勝手に食が細くなって痩せていってしまう。ずっと続けているから、やらないと落ち着かない。精神安定剤の作用もある。

 ケーブルに繋がれた携帯がふるえた。画面には一馬の名前があった。

「成二さん、すみません、今日って集合何時でしょうか」

 上下に身体を動かしながら、携帯を手に取って、テキストメッセージに返信する。

「おはよう。打ち合わせで最後に確認したときは、十時って言ってたよ」

「おはようございます。そうでした。ありがとうございます。メモを取るようにします」

「はいよ、今日もよろしくね」

「よろしくお願いします」

 スタンプが送られてきて、やっぱり弟は兄とは違う、と思った。一馬は僕の劇団の後輩で、戦友だった恭弥の弟だ。恭弥なら愛嬌よくスタンプなんか送ってきたりしないし、こっちの都合を考えたりもしない。挨拶もほとんどしない。身勝手なやつだ。けれど自信家で、滅多なことでは動じない。

 一馬は誠実で礼儀正しいけれど、すぐに不安になる。人に頼る。不器用すぎるところがある。後輩としてはそれが魅力的だけれど、たぶん、恭弥の方が役者には向いているのだろう。

 恭弥は妬ましいほどに才能がある。僕と同じ時期に子役としてデビューして以来、テレビで見かけなかった日はない。僕は一度、役者を辞めようか悩むほど、生活が成り立たなくなったことがあったけれど、恭弥にそんな時期があったとは思えない。人を食ったような態度を取る。でも抜群に演技が巧い。むしろ人柄のわるい面が、ギャップを引き立てているようにすら思う。

 戦友になったのは、同じドラマでデビューしたからだ。恭弥も僕も、まだ四歳だったころ、子役のオファーが来た。それも名指しだった。当時の担当者の背がほかの大人に比べてすこぶる高かった、そんなことを未だに覚えている。

 僕達の両親はオファーを快諾したから、児童劇団から子役としてデビューした。端役ではあったものの、二人とも泣き叫ぶ台本が用意されていた。それは多くの人の印象に残った。観ていた人も、同じ役者たちにも、監督にも。

 喜ばしいことだったけれど、僕たちはあまりに有名になりすぎて、小学校の中で浮くようになった。

 そうやって僕は学校が好きになれなくなった。社会のあらゆる組織も同じイメージを持つようになった。ひねくれてしまったと言ってもいい。彼らは芝居の道へと引き込んだくせして、最後まで面倒を見てくれるわけじゃなかった。


 五十回目のスクワットを終えると、長袖のジャージを着て、コートを羽織って、水筒を入れた軽いリュックで玄関を出た。


 ◇◇◇


 スタジオに着くと、主演はほとんど揃っていた。入り口の靴箱とロッカーが埋まっていたので、うすうす気づいてはいた。だだっ広い場所、壁いっぱいの姿見が置いてあるだけの空間に、ラフな格好の主役たちが並ぶ。まだ味気はないけれど、この場所さえあれば、稽古はつけられる。観客がいる想像がつくようになって、活気のある舞台に見えてくる。なにもなくとも、そう感じるようになる。毎年の年末、この時期に作ってきた。ここは社会から隔絶されている。

 一馬も時間を間違えずに来たようだった。僕が着いたのは少し早かったかと思ったが、予定よりも早く稽古が始まりそうだった。

 昨日と同じようにプロデューサーが挨拶をし、それから演出監督が挨拶をした。無精髭を生やした毛むくじゃらの演出監督の熊田さんは、いまはおとなしいが、稽古に熱が入ってくると容赦がない。畏怖と尊敬、いたずら心を込めて、熊さんと呼ばれている。

「えー、打ち合わせで説明したとは思いますが、今年はシラノ・ド・ベルジュラックをやります。初めて戯曲をやる場合には、オリジナル脚本とは違って見本があるので、ゼロから演技を作らなくていい。ぶっちゃけ楽です」

 くすくすと笑いが起きる。一馬だけが、自信なさげに口を開けた。

「最初のオーディションでこの中からシラノ役を選びますが、様子を見ながら、稽古の半ばには変えると思っていてください。今年もよろしくお願いします」

 会釈をした熊田さんに、役者たちが表情を引き締める。今日は一日中オーディションをする日になりそうだった。

すでに配られていたシラノ役の台本を持ち、主役候補たちが、次々に姿見の真ん中で演じる。全員の注目を浴びながら。

「ベルジュラックだ、このぼけなすが!」

「もっと腹から声を出せ。抑揚が足りない」

「ベルジュラックだ、」

「そこは張らなくていい。もっと言えば聞こえなくてもいい。明確に、自分の中で別の人間を作り上げてくれ。次」

すぐにスイッチの入った熊田さんが、オーディションを兼ねて、一人ずつに稽古をつけていく。やんわりとした空気がひりつく。ほかの役者たちは稽古場の端で椅子に座っているが、全員が主役候補なのだから、真剣にアドバイスを聞いている。

「成二さん。すみません、台本、すこし貸してもらえませんか」

隣にいる一馬が、耳打ちをしてきた。

「まさか一馬、忘れた? 貸すのはいいんだけど、順番が回ってきたときにないのは困る」

「はい……そうなんです。失くしたわけじゃないんですが、緊張しすぎて、今朝家に置いてきてしまって。すぐにコピーを取るので、いま少しだけ貸してもらえませんか」

 賭けだったが、僕は台本を手渡した。邪魔にならないようにしゃがみながら、一馬が抜けていく。僕たちにまだ順番は回ってこないが、飛ばないとも限らない。

「次、杉森、いけるか?」

 賭けには負けた。

「はい」

 だが、いいえと言うわけにもいかない。台本は覚えている。読み上げるのではなく、覚えた質感のままを、試すことにした。

「ベルジュラックだよ、このぼけなすが!」

「……自信がなさそうだな。細かい台詞はどうでもいいが。台本を忘れたからか? 杉森にしては珍しい」

「はい。控室に置いてきました。いま、取りに行ってもいいですか?」

「かまわないが、次にやるならトリだな。昼になるから、一旦休憩にしよう、解散」

 ぴりっとした空気が弾けて、姿勢良く椅子に座っていた役者たちが散り散りになった。ちょうど、雑踏に紛れて一馬が戻ってきた。

「ありがとうございました。コピーは取れました」

 一言、皮肉でも言ってやろうかと思ったが、それは道義に反する気がした。タイミングと運がわるかっただけで、一馬がすべてわるいといわけでもない。どうせ本番になれば台本を持てなくなる。自分の芝居がもの足りなかったのだ。

「いいよ、休憩だってさ。控室にいこう」

「あれ、最後は誰だったんですか?」

「もう終わったことだ、気にしなくていいよ」

 答えてしまえば、一馬を責めることになってしまう。それはしたくなかった。理想の自分ではない気がした。


 ◇◇◇


 控室でサラダとチキンを食べながら、ニュースを流し読みしていた。

『新年度の統計によると、国内のモノ化率は10%を超えた。当初は多くの問題を抱えていた同技術だったが、その波は一般に限らず波及している。モノであることを公表しているミュージシャンに、インタビューを行なった』

 画面を覗き込もうとする気配を感じて、咄嗟に隠した。

「すみません、覗き込んじゃって」

 一馬だった。

「モノ化のニュースだよ。興味あるというか、一般常識として見ておきたいんだ。でも、芝居は人間の方がいいなと僕は思うよ。人間味が大事だと」

 よくわらかない、といった顔をしている一馬に、そう言った。

「成二さん。さっき、コピーを取らせてもらっている間に、順番来てたんですね。熊田さんに聞きました。僕の方から説明しておきました。ご迷惑をおかけしました」

「ああ」

 どうしてか自分の気遣いが無駄にされた気持ちになった。一馬にはそういうことをしてほしくなかった、言って欲しくなかった。

「気にしないで。またチャンスは来る。一馬はこれから稽古するんだから、準備しなくちゃね。あ、でももう台本忘れないでね」

「はい。成二さん、ありがとうございます」


 ◇◇◇


 魂を抜かれたようにテレビを見ていた。照明を落として、テレビだけが見えるようにして、自分が出演した回のオンエアを見ていた。稽古から帰ると、ときおりこうなる。自分という役者を、外から確認する必要があるときだ。生の舞台もいいが、ドラマなら映像で残っているから、より自分の姿を客観的に見られる。

 まだダメだ。振り向いた直後の表情が自分だ。もっと役に入り込まなければならない。自分を自分だと認めていられるうちは、向上の余地がある。理想には届いていない。

 ゔゔ、と携帯が鳴って画面が光った。ソファに投げ捨てていたから、隣が急に明るくなって驚いた。スクリーンには「恭弥」と書かれていた。

「久しぶり、いきなりどうしたの?  役者やめたかと思った」

「数年ぶりだな成二。そりゃないな、同志なのにさ。一馬がいつも世話になってる、ありがとう」

「一馬は恭弥とは違って、面倒を見る甲斐があるからね」

 いきなり連絡してきたと思えば、多少の礼儀ができるようになっている。恭弥も落ち着いてきていると感じて、皮肉の一つも言いたくなった。

「おいおい本当にひどい言いようだな今日は。まあいいや。最近のニュース見た? モノ化のニュース。技術で感情なくしてさ、効率化された人間だらけになってきてる」

「見たよ。僕も芝居は人間の方がいいから、ミュージシャンがモノになってどうすんだって思って」

「本当にそうだよなあ。まるで操り人形みたいだなって思った」

「ほんとね。僕らは観客のために芝居してるけど、人としても生きてるってこと忘れないで欲しいよ」

 そうそう、成二はやっぱ分かってるな、恭弥はそう続けた。テレビには、主役の表情が大きく切り抜かれていた。この役者は、子役上がりではないのに抜群にいい芝居をする。共演できてよかったとずっと考えていた。

「なあ。久しぶりに飲まないか? ずっと会ってなかったし、やっぱ話が合うのは成二だなって思ったからさ」

 僕は恭弥の誘いに、なにか裏があるのかと、一瞬だけ疑った。けれどなにも特別なことはない。今よりもずっと無名だったころ、こうやって誘われて、狭い路地にある飲み屋を梯子していたときもあった。ふっ、と懐かしい匂いがした。

「いいよ。今週だと土曜かな。稽古の終わりに時間を作るよ。店と時間は任せるから、そこまで行くよ」

「分かった。またあとで連絡する。語り合おう」


 ◇◇◇


 土曜はすぐにやってくる。僕は憤っていた。今まさに席を立とうかと考えていた。

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