2.変容

 会社までの道のりの混乱はいちいち挙げればきりがない。幻とわかっていても、世の中これだけ無茶苦茶になってしまうものかと呆れながら、なんとか私は職場のあるオフィスビルに着いた。


 階段で職場の階まで上ると、エレベーターホールの方から騒々しい声が聞こえた。見れば、イノシシみたいな大きさと体型をした見慣れない虫が、十数匹の群れになって、密集したまま同じところをぐるぐる走り回っている。

 すぐ近くに同僚が腰を抜かしていた。


「おい、大丈夫か」


 私は手を差し出して同僚を立たせた。


「すまん」


 同僚は尻をはたいてため息をつく。


「エレベーターを降りたら目の前にこいつがいたから驚いたよ。頭ではぶつからないとわかってても反射的によけちゃうな」


「気持ち悪い虫だな、これ」


「オオスジチャタテムシか何かの幼虫だろう」


 同僚は冷静な様子に戻って、聞いたこともない名前を言った。こんな日に出社しているだけあって変わった奴だ。私もだが。


 事務所の中は、幸いそれほどひどい状態ではなかった。

 自席について壁がない素通しのフロアを見回す。私と同僚と、後は二、三人の姿しかない。今更ながらに事件の影響の大きさを感じた。

 上司も来ないしメールも電話もない。開店休業状態なので、近くのモニターでニュースを映して、同僚の隣に座った。


『今日未明から始まった世界規模の異変は、現在でも原因不明のまま、拡大が続いています』


 アナウンサーの背景は味気ないブルーバックだ。スタジオは映せるような状況ではないのだろう。


『専門家によりますと、今現れている映像が、ナノマシンの暴走によるものなのは間違いない。しかし、何故ナノマシンが暴走したのか、その原因は全くわかっていないということです』


「ナノマシンの故障が直るのを待つしかないか」


 私は頭の後ろで腕を組んだ。


「ああ……」


 なにやら含みのありそうな返事をして、同僚は天井を見上げた。窓の外から入った太陽の光で、その横顔が白く浮かび上がる。


「何か知ってるのか?」


「ナノマシンの話でさ、しばらく前のニュースでやってたのを思い出したんだよ。ナノマシンの生産総量が、十年前の昆虫の総重量を上回ったって」


「へえ、知らなかった。見方を変えれば、昆虫とナノマシンがすっかり入れ替わったとも言えるな」


 そう考えると少し気味が悪くなった。外の大騒ぎは、昆虫に打ち勝ったことをナノマシンが盛大に祝っているようにも見える。


「そうなんだがな。俺が気になるのは、昆虫の絶滅があまりにも早かったことなんだよ。あれだけ繁栄していた種族が、ほんの十年足らずでいなくなってしまうとは――」


「ああ、そういえば聞いたことがある。絶滅というより、消え失せたという方が近かったとか。保護していたはずの養蜂家のミツバチが、一晩でいなくなったなんて話もあったな」


 もしかすると、我々人間の意図とは別に、ナノマシンが昆虫を滅ぼしたのではないか。

 生活の道具としか思っていなかったナノマシンが突然自我を持ったような気がして、さっきの薄気味悪さが増してきた。


「昆虫って地球全部で何匹くらいいたか知ってるか?」


 同僚が突然聞いた。


「えっ? ……うーん、まあ人間より全然多いから、人口の一万倍として百兆くらいかな?」


「残念、もっと多い。兆の上の京単位でいたらしい」


 私は唸った。そこまで多いと実感が湧かない。

 同僚は私をちらりと見た。


「人間の身体を構成する細胞の数は十兆単位だ。昆虫の数は人ひとりが持っている細胞より多いってことになるな」


「数字が大きすぎてよくわからないけど、それに何か意味があるのか?」


「これは俺の妄想だと思ってくれてもいいが――」


 そう断って同僚は続ける。


「人間の思考は個人ごとに完結してる。ところが昆虫ってものは、蜂や蟻を見ればわかるように、本質的に高度に社会化されてるだろ。思考というのはネットワークだ。もしかしたら、昆虫の思考単位は個体じゃなくて群れなんじゃないだろうか」


 同僚は息を継いだ。


「俺の今言った群れってのは、極端な話、昆虫全体にまで広がる。つまり、京単位の群れが単一の意識を持ってるのさ」


 ふうん、と私は考えこんだ。


「まるでスーパーコンピュータ――というか、ナノマシンみたいだ」


「そうだ。昆虫の意識は人間を超越していて、しかもナノマシンと近い。これがどういうことか、わかるか?」


 同僚は私を睨むように見つめた。


「どうって……。だからナノマシンが昆虫に取って代わることができた、って話じゃないのか」


「本当に取って代わったのか、だよ」


 私には相手の言葉がよく理解できなかった。


「何が言いたいんだ? 事実そうなってるじゃないか」


「確かに、表面上昆虫はいなくなった。だが、奴らはナノマシンに滅ぼされたんじゃなく、進んで居場所を明け渡したとも考えられる」


 私はますます混乱してきた。


「そんなバカな⁉︎ どうしてわざわざ自分たちが滅びる選択をする?」


「滅んだのは肉体だけだ。意識は残ってる」


「意識が?」


 そこではっと思い当たった。

 昆虫は群れで思考する。

 ならば、細胞が時間の経過とともに入れ替わっても私が別人になることはないのと同じように、全体では一つの意識を保ったまま、個々の昆虫を徐々にナノマシンに置き換えていくことも可能なのではないか。

 同僚はゆっくりうなずいた。


「わかったみたいだな。我々は昆虫を滅ぼしたつもりで、実は新しい肉体を与えていたのかもしれない。これまでよりはるかに強い力を持った肉体を」


「じゃあ、今の混乱は――」


「奴らが反乱を始めたんだよ。これは、自分が生き延びるために昆虫を犠牲にしようとした人間への復讐なのさ」


 部屋が暗くなった気がして、私たちは黙りこんだ。

 その時、つけっぱなしだったモニターからアナウンサーの声が流れた。


『先ほど政府発表がありました。今回の異変は、ナノマシン技術研究所から昆虫の生態データが流出したことが原因とのことです』


 私と同僚は顔を見合わせる。


『同研究所では、絶滅した昆虫の生態の記録を集約し、ナノマシンで再現する準備を行っていました。そのデータが何らかの理由で外部に漏洩し、アクセスしたナノマシンが生態の再現を始めてしまったようです』


 アナウンサーはそこで一段と声を張り上げた。


『政府は二十四時間以内にナノマシンのフォーマットを完了すると発表しました。皆さん、一日我慢してください。そうすれば全て元通りです』


「助かった!」


 思わず、私は天を仰いだ。


「どうやらナノマシンだけじゃなく、君の想像力も暴走してたらしいな。だけどもっともらしい話だった。こっちも七割くらい信じこまされたよ」


 だが、同僚は私の軽口に乗らなかった。


「はたしてフォーマットが間に合うかな」


「何を気にしてる? 一日で終わるって、政府が言ってるじゃないか」


 同僚は首を横に振った。


「単純なミスで情報が漏れただけならそうだろうさ。だが、これは意図的になされたことだ」


「おいおい、まだそんな――」


 私がそこまで言った時、突然どかんと衝撃音が響いて、少し離れたところにある分厚いスチールのドアがくの字に曲がって転がった。


「何だ⁉︎」


 ドアの方を見ると、視界に巨大な灰色の塊がいくつも飛び込んできた。さっきのチャタテなんとかだ。

 虫たちは倒れたドアに取りついて、スチールに噛みつき、食い破った。


「実体化してる……?」


「流出したデータは外観だけじゃないだろう。DNAみたいに生体を構成する情報も含まれている。さらに言うなら、組織の置換はナノマシンのお手のものだ。例えば、鉄を取りこんで外骨格を金属化するとか」


 同僚が真っ青な顔でつぶやいた。

 虫たちは目を見張る速さで扉を食い進んでいく。その間にも他の扉が破られて、別種の虫がどんどん入ってくる。逃げ場がない。


 やがて虫たちは扉を食い尽くし、品定めするようにその場でぐるぐる動き始めた。

 うち一匹が、こっちに触角を向けて動きを止める。周りにいた虫も、それに倣うように停止した。


「……おい、あれは何をやってるんだ」


「身体の構成に必要な、次の物質を探してるんだろう」


「それって――」


「動物性蛋白じゃないか?」


 次の瞬間、虫たちは触角をぴくりと動かすと、一斉にこっち目がけて突進してきた。

 重たい金属製のデスクやキャビネットを軽々弾き飛ばしながら迫るそれを、私たちはなす術もなく凝視していた。

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