支配するもの
小此木センウ
1.変異
その夜、私が気がかりな現実を逃れてまどろみに落ちると、ベッドの足元に巨大な毒虫がいるのに気がついた。
毒虫は自分と同じくらいの体長があった。夢の中とはいえ怖気を感じる。大体眠りの中でさえ不安にさいなまれるなら、夢の意味がない。
蹴飛ばしてやろうかと思ったが、噛みつかれたら怖いし、もしゴミ虫の仲間だったらガスを噴射する恐れがある。
ゴミ虫のガスは高温高圧で、カエルの口内をやけどさせるくらいの威力がある。狭いワンルームマンションでやられたら私は焼死するか、ガスで窒息死するか、部屋が崩れて圧死するだろう。
部屋を出ようとしても、毒虫がドアの前を占領していて抜けられない。ベランダから出られないかとカーテンを開けると、薄明るい空を同じ毒虫が何匹も飛び回っていた。ゴミ虫は普通飛ばないからガスの懸念は薄れたが、噛みつかれる恐れは残る。
おそらくこいつは肉食だ。そういう凶暴な気配が、黒と黄色のだんだらの翅にまとわりついている。
結局何もできることはない。ひたすらベッドの上で悶々とするだけの、実に嫌な夢だったと思いながら私は目を覚ました。そして何か、実に嫌な予感を覚えた。
脇を見ると、はたして、夢と同じ虫がそこにうずくまっている。私は悲鳴を上げた。現実にこんなものが出てきたら嘘だ。
私の声に反応して、毒虫が顔を上げた。内側に隠されていた、獲物の骨まで噛み砕きそうな大顎があらわになる。
盛り上がった巨体に比べると貧弱な足がもぞもぞ動いて、毒虫は私の方へ歩き出した。思わず後退りし、壁に体を貼りつける。それ以上の逃げ場はない。黒光りする大顎に目が釘付けになって、背中を冷や汗が伝う。
だが、毒虫は少し移動しただけで動きを止めた。ほっとしつつ、虫の背後をうかがう。なんとか通り抜けられそうなだけ、ドアと虫の間が離れている。
私は枕元の携帯電話をつかむと、虫を刺激しないようにできるだけゆっくり、ドアに向かってベッドの上を進んだ。
膝立ちで歩きながら毒虫の様子を観察するうち、妙なことに気がついた。
二次元的というか、虫の姿に立体感がない。虫そのものがそこに存在する、というよりは、高精度で撮影した虫を透明な画面に映しているようだ。
ベッドを降り、床に落ちていた昔の作家の薄い文庫を拾い上げて、本の端で虫の翅に触れてみた。
予想通り、本は抵抗もなく翅を突き抜けた。虫は何の反応もなくじっとしている。私は思い切って自分の手のひらを翅に当ててみた。同じだ。全く感触がない。
私は大きく息を吐いた。つまりこの虫は実体のない幻覚、幻影の類なのだ。
ナノマシンの誤作動で作られた映像かもしれない。いやそうに違いない。
幻だとわかってしまうと、虫に対して懐かしさや親しみのような気持ちが湧き上がってきた。
ナノマシンの普及によって、昆虫は絶滅してしまったのだから。
ナノマシンが地上にばら撒かれて十年。
ことの起こりは、環境変異で世界中の農作物収穫が激減した年、国際的研究機関が出したレポートだ。恐ろしいことに、今後数年で全ての国が飢餓に直面し、人類の何割かは餓死に至ると、そこには書かれていた。
今でもはっきり覚えている。世界中が浮き足立った。数十億の犠牲者というだけでも衝撃だが、問題はさらに大きい。労働者がいなくなって食糧、エネルギーの供給が立ち行かなくなり、下手をすれば文明が崩壊する。
とにかく早く、手を打てる対策を取らなければならない。
そこで突如として現れたのがナノマシン技術である。
私も名前だけは知っていたが、実用化は遠い未来の話と思っていた。
ところが、某国が研究内容を公表して事態は変わった。その国は食糧も資源も輸入に頼っていたから相当に焦ったのだろう。
公表されたナノマシンは有機物で作られた一種のバイオコンピュータで、意外に安価で生産できた。
その機能は、地面の中で有機物の分解と保水を行い、また植物に入りこんで病害虫、旱魃、冷害への耐性をつけるという、まことに理想的な代物だった。
もちろん、生態系に与える影響について憂慮はあった。
だが、それらは差し迫った危機の解決を求める圧倒的多数の声にかき消された。
ナノマシンを統御する量子コンピュータが国際機関に移管され、世界各国で、生産可能なあらゆる設備を使って、作った当事者たちも把握できないほど大量のナノマシンが続々と自然界に放出された。
効果はてきめんに現れた。
その年以降世界の食糧生産は劇的な改善を見たのである。
また、特定の場所でナノマシンを集中運用する技術も確立し、かつて砂漠と呼ばれた地域が緑に覆われていくのが、人工衛星の映像からもはっきりとわかるようになった。並行して機能も大幅に拡大し、水質改善、大気の浄化から街の清掃まで、なんでもナノマシンが担うようになった。
最近では娯楽の分野でナノマシンを利用する動きが活発になり、ナノマシンを使った立体映像などが作られつつある。
ただ、起きた変化の中には気がかりなものもあった。
まず、ナノマシンが土壌改善を行なったことで、本来生体としてそれを行なってきたもの、具体的にはトビムシなどの微細な昆虫、またミミズやヤスデのように植物を土に還していた生物が消え去った。さらに植物の耐性強化により蝶や蛾、バッタなどの植物食の昆虫、次いでそれを餌としてきた肉食昆虫や他の節足動物もいなくなった。
不思議なことに、時を同じくしてミツバチなど保護されていたはずの昆虫も消えてしまったという。
結果として、ごく短期のうちに、地球の生態系で最も繁栄していたといってもいいグループがごっそり抜け落ち、ナノマシンに取って代わられたのだ。
私は出かける支度を始めた。毒虫が幻とわかったのだから、もう放っておいて出社しなければならない。
着替えながらテレビをつけると、どうやら全国で異変が起こっているらしい。だがとりあえずは会社だ。恒常性バイアス云々というわけではなく、誰かと会っていた方が多くの情報が取れるし意見も聞ける。
手早く準備を整えて外に出た私は、そこでうっ、とうめいた。
普段ならぴかぴかのマンションの廊下が、得体の知れない卵塊、蛹、虫こぶなどて埋め尽くされている。室内の毒虫と同じく全て幻だが、これでは虫が嫌いな人は歩くこともできない。
あまりよく見ないように半分目を閉じて足早に廊下を過ぎ、こういうのと密室で一緒にいたくないのでエレベーターは使わず階段を駆け下りた。
外の道はマンションの廊下ほどひどくはなかったが、それでもところどころに怪獣映画みたいな繭やら泡ぶくの塊やらが転がっており、まっすぐ進めるような状況ではない。通りに出てみると車道も似たような感じで、走る車はなかった。バスも運休だろう。
こうなってみれば今日は出社できる方が少数派なのだろうが、ネットで調べると、通常運行に妄念じみた執着を見せて鉄道は動いているし、何より自分の部屋であの毒虫と一緒にいたくない。
私は道を急いだ。
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