正義執行官

 過剰正義性問題に遭遇した人間の選ぶ道は大まかに2通りある。

 

 1つは治療だ。過剰な正義感をコントロールする術を学び、社会復帰を目指す。多くの患者が選ぶのがこの道だ。

 まずは自分の中で引かれた善悪のラインを理解し、それが現実の社会とどうズレているかを認識する。

 自分が許せないのはどういうズレが許せないのか少しずつ明らかにし、新たな習慣や思考経路を作ることで自分の中に新たな線を引きなおして行動を変える。これは認知行動療法として確立されている。

 それは簡単な道ではない。その善悪のラインが非常に根深く存在していることが原因だ。治療には平均して数年を必要とする。

 専門家とのカウンセリングでまずは自分の善悪のラインを理解する。人は皆それぞれの善悪のラインを持っている。それはその人の生まれ育ち、環境、教育などによって自然に形成され、多くの人はそれを意識することも少ない。

 無意識に作られたラインは無意識に人を支配している。無意識にあるものを意識するのは難しい。例えば心臓の動かし方を知っている人間など存在しない。呼吸の方法はそれより少し難易度が下がるが、横隔膜の運動まで理解している人間は少ないだろう。

 善悪のラインというのはそうした身体の運動よりもさらに難易度が上がる。他人の脳では数えきれないほど多くのニューロンが三次元的に複雑に絡み合い、電車の路線図のように簡単に図にすることはできない。また人によって異なるその地図を解析する方法も、改変する方法も存在しない。そしてそのネットワークがどのように人の思考を作り出すのかは全くの未知数だ。

 

 全く未知の部分を臨床で探り出すというのは無謀な挑戦だ。治療では脳の仕組みを一旦無視し、結果としてもたらされる思考に注目する。

 具体的にはまず身近なケースワークから自分の許せること、許せないこと、そしてその理由を自分の言葉で明らかにしていく。次にその問題を掘り下げて、他人の境遇や思考に目を向ける。他人はなぜケースワークのような行動を取ったのか、そこには無数の理由が考えられる。人は普通、他人に対して自分と同じ境遇や思考を適用してしまう。その仮定を崩し、他者の行動・言動・認知を考える。そうするうちに、最初は許せないと思った問題も、一概にそうとは言えないことがある。

 店員に対して偉そうな態度を取る人は、それ以外の場面、例えば家庭、職場、友人関係といったあらゆる場所で逆の立場にあるのではないか。客と店員という本来対等な関係において、それでも客は必要とされる存在である。客が無ければ商売は成り立たない。そういった小さな優位性が、彼・彼女が攻撃的な姿勢を取る唯一の機会なのではないか。

 そうした数多くの可能性を考え、自分の線引きは不確かな前提に基づくものであったと判明することもある。そこに新たな線を引きなおす可能性が生まれる。

 この作業を繰り返し、自分の認知を改め、それを行動にして習慣化する。長い時間を必要とするが、これによって症状が改善することが認められている。


 私は過剰正義性問題を持つものの多くと同じく、まずは治療に取り組んだ。いくつものケースワークをこなし、自分の線引きを把握することに注力した。

 その結果はここに書き記すことが困難なほど散々なものだった。私は治療に失敗した。

 1年間治療に付き合ってくれた主治医は、改善の見込みがないと判断すると私に2つめの道を提示した。


 患者の数パーセントには治療で症状が緩和しない場合がある。自分の中の善悪の線引きが強固で、たとえ相手がいかなる状態にあってもその線引きが変わらない場合、治療は困難だ。

 2つめの選択肢は、その過剰な正義感を社会のために活用する方法だ。

 この国には正義執行官という職業がある。自分の中の正義が、国が認める正義と合致する場合に特殊な国家資格が与えられる。資格があれば、部分的に自分の正義を執行することが許される。

 基本的に民事不介入を原則とする政府が、民事への介入を許す数少ない例外の1つである。また、軽微な法律違反など、警察が取り締まり切れない細部を補填する仕組みでもある。

 

 資格では執行が許される範囲と、許される執行の度合いが決められる。

 執行される範囲とは、自分の中の正義と国が認める正義が合致する領域である。たとえば他人に迷惑を与える行為、他人の権利を侵害する行為、軽微な法律違反などが存在する。

 執行の度合いとは注意・指導、強制執行、刑罰執行と大きく3段階に分けられており、それぞれ3級から1級に区分される。

 注意・指導とはその名の通り該当者に対して口頭での注意、指導を行える能力。強制執行とは注意に従わない人間に対して、その行為を強制的に中断させる能力。

 刑罰執行は極めて特殊である。この国には罪刑法定主義という原則がある。あらゆる禁止行動に対して、それに従わない場合のペナルティーをあらかじめ明文化して、違反者にそれを課す仕組みだ。

 正義執行官の刑罰執行には、この原則が適用されない。執行官が間違っていると考えた行為に対して、執行官が適切と考えた刑罰を、執行官の判断で執行することが出来る。1級正義執行官とは、自分の中の正義を自由に執行できる、正義執行官の中でも特殊な存在だ。

 もちろん刑罰執行が妥当であったものか、審査するシステムが備わっている。過剰・過小な刑罰を執行した場合には、最悪資格が剥奪され、自身が罪に問われる恐れがある。1級執行官は自分の正義に絶対の自信があり、その正義の研鑽に多大な時間を費やす者である。


 私は正義執行官の試験について調べた。といってもすべての過去問は非公開で、受験者にはその内容に関する守秘義務が課されているため、事前に対策することは不可能だ。私が考える正義が、国の考える正義と合致するかどうか、すべてはの問題はそこだ。国の考える正義は秘匿されている。受験者が国の正義に寄り添うような回答を準備し、正義執行官という特権を手に出来ない様にするために。たとえ開示されていたとして、本当に過剰正義性問題を抱えるものは試験のために自分の正義を曲げることなどしないだろうが。

 正直今の自分には自信がない。私は善人ではなく異常者だったのだ。その思いが足枷となっている。私は直近の試験に応募することが出来なかった。

 代わりに私は母校に連絡を取った。卒業生で、正義執行官の職に就いたものはいないかを問い合わせるためだった。本物の正義執行官は何を考えて、何を信じているのか。他人とは違う、異常者だという烙印を押されてもなお自分の正義を貫くと決めた人間はどう考えているのだろう。それが知りたかった。

 大学から1人だけ記録があると言われた。よく考えれば、卒業後に転職した場合は就職先の記録変更など行われない。彼女は在学中に1級正義執行官の資格を取得し、卒業と同時にその職に就いたという。

 私は彼女に連絡を取ってもらい、面談の許可を得た。一般的な社会人経験もないまま正義執行官になるというのはあまり例がない。彼女が何を考えているのか、私はますます興味がわいた。

 歳は私の4つも下だった。まさか後輩の下にOG訪問を申し込むとは考えてもいなかった。

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過剰正義性問題 @QilinMori

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