生の余韻

坂本忠恆

生の余韻


前略



 君に手紙を出すのはこれが初めてだね。

 しかし、どうか、身構えないでくれ。満を持してというのではない。これは、ちょっとした、僕の気まぐれに過ぎないのだから。

 僕の気分屋の質は、君も承知の通りだよ。


 こんな切り出し方をしたけれど、早速僕には君に謝らなければならないことがある。もちろん、この手紙の目的が決して謝罪にあるのではないことも、同時に言い添えておかなければならないが。


 君とのお別れを済ました後、僕は期せず君を殺すことになった。しかし、これは、本当に、本当に、僕の望んだことではなかった。僕の言葉を、君は信じるべきだ。そして、もし僕が、人間は二度死ぬことを定められているなどと言いだしたら、君はどう思うだろう。君は笑うだろうか?

 人は二度死ぬ。散々言い古されてきたことには違いないが、人間は肉体的な死の後に、どうやらもっと別様な形での死を迎えるらしい。例えば僕たちは、誰の記憶からも消えてなくなったときに、二度目の死を迎えるらしい。しかし、僕が発見した死は、このような類の死ではなかった。無論僕は君を覚えている。忘却は肉体の必滅と同断に心が負っている定めだから、もし仮に君が、僕に君を限りなく生かしておくことを求めるというのなら、悪いがそれは請け合えない。が、とまれ君は、如上の解釈に於いてはまだ生きているのだから、これについては安心し給え。


 なんでもない。つまらないことだよ。二度目の死なんていうものは。しかし、この表現は適当ではなかったかもしれない。生の余韻と呼ぶ方が、確かだったかもしれない。僕は君の息の根を止めたという方が、より良かったかもしれない。

 もっとも僕は、それをするのに然したる労を執らなかった。冴え渡るおりんの嫋々とした余韻を、その戦慄く真鍮にそっと触れて途絶えさえるときのような、少しばかりの無念を忍ぶ勇気さえあればそれで足りた。指先に僅か伝わる微震も、僕の罪への何らの諫めにもなりはしないはずだった。


 僕の殺人は、卑俗な意味でも、観念的な意味でも、物質的なものだった。

 確かに君は死んだ。とは言え、始め、死は誰の所有でもない。もちろん個人の所有でもない。死は極めて個別的事象ではあるけれど、個人的な事件にはなり得ない。個人として体験し得る死は、それが始まったと同時に既に終わってしまっているのだから、これはあたりまえのことだ。

 それでも往々人は、己の死さえも自身の財産の内に勘定しようとする。己の死さへも己の人生の一事件としてそこに組み入れようとする。

 これは何故か? 我々が死を恐れるからか? 物質的事実としては実に明快な死という一事象を、殊己が身の上に浮かべてみた際に、それが単なる物質的な事実を超えて、普遍的真実さえを超えて、不条理で不可解な宿命的事件になり果ててしまうその変化の過程を、認識の堰で留めようとする悲惨な努力が、この死すらも捉えようとする吝嗇な態度として顕れているのだろうか?

 ただ、このような個人的観想はいったん傍に除けて、死という事象を公平に見た場合、やはり死は個人所有のものではなく、謂わば共有財産のようなものであると、僕の目には映るんだ。


 死は始めは誰の所有でもないと僕は言った。これは確かだ。その死が、他者との共有物になるためには、ゼロ次元的な肉的死の時点よりも途方もなく緩慢な生の余韻の期間を待たなければならない。その間に肉体は腐り落ちるか灰になるかするだろうが、それでもやはり、個人の死が生きた人々の世界に遍満するまでには、何か、実際的な、それこそ物質的な、明確な段階のようなものを踏まなければならない。

 その点に於いて、君の死が共有資産たるに至るまでの期間は極めて迅速だった。その速さは、君の生きた世界の狭さによって、特徴付けられていたのだろうね。


 君のご両親が自分たちを差し置いて、君の生きた部屋に僕を招いたことだって、きっと君のこの死に急ぎな人生と関係があったに相違ない。君のご両親は、君の遺したものからどれでも好きなものを形見として持って帰って良いと僕に言った。が、これは方便に過ぎなかったことを、僕はそのあとすぐに悟った。それでも僕は、親不孝な君の代わりに孝行してやるつもりで、君のご両親の言う通りにしてやった。僕は直ちに、君の死を、君のご両親の持ち物にしてあげたんだ。


 君がほとんど一生を過ごした君の寝室には、まるでひとつの王国のような厳格な秩序があった。僕が君の部屋に一歩足を踏み入れたとき、そこには、君が発って以来の空気が、まるでその秩序の下に額ずいていると思わせるほどに、何やら重々しく淀んでいた。

 本棚の本が作者の順に並ぶべきことは当然の取り決めだった。雑多な小物の類も、キャビネットの上に兵士の隊列のように規律正しく並んでいた。皺ひとつなく畳まれた寝具には文明国的な開かれた山河の印象があって、その他にもこの整理され過ぎた部屋の持つ諸々の、自然を意に介せぬある種の驕慢さには、この部屋全体を恰も死に対する城壁に見せている痛ましさの由縁があった。

 君の生きたこの小さな王国には、君主たる君への忠誠心が、静かな熱意の中に抑圧されているようだった。この抑圧の空気が、如上の兵士の隊列や、開拓された山河によって惹起されたものであることは疑いないけれど、それでも僕にはやはり君のこの城壁が、生きるための準備ではなくもっと別の何か、君の静かなる覚悟、準備を怠るまいとする明確な意図によって築かれたのではないかと思われてならないんだ。

 整然さの中にこそ、即ち、意図の中にこそ死が宿ることを、君は知っていたか?

 整然こそ望むべき姿であるという考えは、外ならぬ自然により出でた人間が抱える不自然な道理による背理なんだ。その証左に、人の意図は乱雑さを生み出さない、どれだけ意図して乱雑さを生み出そうとしても、徹頭徹尾意図によってのみそれが為されたのだとしたら、そこには自ずとある種の整然さが顕れてきてしまう。

 乱雑なものの中に意図があるのではない。より整然としたものの中にこそより強い意図がある。君の城壁も、君の意図したところによって築かれたのでなければ説明のしようもないはずだ。人が意図するその終着に死があるというのは、僕には殆ど自明のように思われる。

 無論、死は意図せずとも訪れる。しかしこれは、我々の多くがそれの訪れる時を知らないからだ。死はいったんそれが強く意識され始めると、意図を要請し、意図に接着し、意図に宿る。

 そして気が付けば、死それ自体が意図するものすべての拠り所になっていくのだよ。君にも覚えがあるはずだ。そうだろう?


 僕は主を亡くした部屋の中で独り、君の残していった意図の塊のようなものに囲まれながら、今までにないくらいの息苦しさを感じていた。

 空気全体に、張り詰めた弦のような厳しさがあった。少しでも身動きをするものなら、その弦が僕の皮膚に触れて、そんな僅かな接触のために、その一本一本が音を立てて切れていってしまう。こんな取り返しのつかない場所に追いやられてしまったような、居た堪れない厳しさが僕を襲ったんだ。

 一度損なわれると二度と現れない非再現的真実に満ちた場所さ。

 僕は君の部屋をこんな大仰な語彙で表わすことに前向きではないが、正にそこには聖域と呼んで憚らない触れ難さがあった。君の肉体がまだこの世にあったのなら、僕はこんな感想を持たなかっただろう。何故僕たち人間は、人の死によって残された様々な形跡に、どこか呪術めいた含みを汲もうとするのか。そこには死者が無責任に残していった意図こそあれど、生者にまで有効な意義など何一つあるはずないのに。


 僕は暫らくの間何もできずに部屋の中央に佇んでいた。辺りを見回しながら、途方に暮れていたのさ。

 あの生真面目な本棚、寸分の狂いも許さぬ小物類の配置、皺ひとつ無いよく伸ばされたシーツ。壁際のラックに置かれたオーディオセットの絞りは、部屋に音楽を絶やさなかった君が、読書の邪魔にならぬ程度の君こだわりの音量でセットされていた。文机の上に分厚い文庫が置いたままにされていて、その小説の終わりのあたりに栞が挟んであるのを見ると、君が最後にこの場所を発ったそのときに、君の心象に去来したであろう動揺とも冷静ともつかぬ様々な微妙な感情が、まるで僕の中にもリプレイされてくるようだった。

 そのすべてが、もう二度と得ることの叶わぬ奇跡の徴のように思われた。いや、実際に、そうだったんだ。

 文机の脇に置かれた花瓶には一輪の赤い造花が挿してあった。君はこの花弁の上に埃の積もるのをひどく気にしていたね。

 僕が最初に認めた君の死の証は、この花弁の上に兆していた。君がこの部屋を後にしてから、まだ一週間程しか経っていなかったけれど、時間が確かに君の生の余韻を蝕んでそれを世界の中に溶かし込もうとしていることを、この花弁の上に薄ら積もった埃の層が示していた。

 それを見ると、僕の心にはやっと勇気が沸いてきたんだ。


 僕ははじめにオーディオセットの電源を入れた。すると、僕にも馴染みのある曲が、馴染みのある優しい音量で流れ始めた。僕は時計を見た。もうここに半時間もの間立ち尽くしていたことを知って、僕は驚いた。動くものはすべて、それこそ秒針でさえも、そのときの僕と同じように微動することすら躊躇っているように思われたから。

 僕は文机の上の文庫から栞を抜いた。君がどこまで読んでいたかわざと分からぬように、速やかにそれを引き抜いてみせた。次にその文庫を本棚に戻そうとした、が、いざこの作者名が五十音の順に並んだ本棚の目の前に立つと、再び僕の手は止まった。僕は、これらのもの、一見生活感に乏しく見えるが故に尚のこと浮き彫りになった生々しいほどの君の生きた痕跡、生の余韻が、余りに強く僕の心に響いてきて、何もできなくなってしまったんだ。

 それでもまだ僕は君を殺してやることを諦めなかった。本棚には、本と本との間に明らかに空席になっている隙間があった。僕はその段の一番端の本と本棚との間に指を挿し入れると、もう一方の端の方へと力いっぱい押し込めて、その隙間を潰してしまった。そして、新しくできた端っこの空席に、別の段から引き抜いた本を差し込んだ。こんなことを何度も繰り返して、僕は君の本棚を、ひどく大雑把な人のそれのように変えてしまった。

 君に忠実な軍隊も、君の領する山河も、僕の侵攻からは免れなかった。死への城壁は、君の死によってではなく、この僕によって、君の死と共に崩れていった。

 そして僕は始終自分の耳に、あの弦の切れていく火花に射竦められるような響きを聴き続けた。


 気が付くと僕はその場に座り込んでいた。陽も落ちかかっていて、部屋の中は薄暗かった。

 ようやく君のご両親が部屋に訪れた。

 始め彼らは、確かに我が子の寝室には違いないが、しかし今までとは明らかに変わってしまったその部屋の様子に、少しく哀しみの表情を浮かべた。それでもすぐに、何かに合点のいったような、どこか晴れやかささえも感じさせる気色を見せると、毅然と僕に歩み寄ってきて、涙を拭いてくれた。

 最後に君のご父君が、オーディオセットの音量ダイヤルを無音になるまで絞り切ると、電源を落とした。

 これで君の死が、完全に、僕たちのものになった。


 結局、僕は例の一輪の造花を、君の形見としてもらうことにしたよ。こんなものは、全く僕の趣味には合わないのだが、しかし、これをもらうことにした。

 君がこの造花に何を見ていたのか、今更僕は知るまい。朽ちない花というものが、いったい君にとって如何様な意味を持っていたか、など。

 僕は今、君から引き取ったこの造花を、寝室の窓辺に置いている。僕の部屋は間違っても陽が差してこないから、そこに置いても全く問題ないんだ。そして、寝る前にその花弁の上の埃を払ってやるのが僕の新しい日課になりつつある。

 僕の気まぐれな日常に、ひとつの面倒な仕事を増やしてくれた君が、恨めしくてならない。



不尽

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生の余韻 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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