オオカミ少女と初恋の卒業

久里

オオカミ少女と初恋の卒業

「ねねっ。みくみく、岡崎おかざきくんとのカフェデート、どーだった!?」

「ちょっと茉莉まりちゃん! 声、大きいってば」

「ごめんごめん。だってぇ、気になるんだもん」

 お弁当を食べおわり、早速、恋バナで盛りあがりはじめる二人。

 いつも通りの、お昼休みの光景だ。

 学年が上がってクラス替えをしたばかりだけど、仲良しの二人と、また同じクラスになれて良かったな。

「そーゆう茉莉ちゃんこそ、最近は、桐生きりゅう先輩とどーなの?」

「ん? ふふふー。あたしはこの前、水族館デートにいったよ」

「安定のラブラブカップルだなぁ」

「いいなぁ」

 何気なく打った相づちに、本心が滲んだ。

 でも、わたしの『いいなぁ』は、みくみくの恋が進展していることに対してでも、茉莉ちゃんのお付きあいが順調であることに対してでもない。

 なんの気兼ねもなく、友だちに打ちあけられる恋をしていることへの『いいなぁ』。

雪帆ゆきほは?」

「好きな人、できた?」

 茉莉ちゃんとみくみくの視線が、一気に向けられる。

「ううん。特にいないかなぁ」

 あいまいに笑って、今日も、友だちにウソをつく。

「雪帆は、相変わらずピュアだねぇ。もう高校二年生になったのに、初恋もまだなんて天然記念物級じゃん?」

「雪ちゃん。茉莉ちゃんの言ってることは、真にうけとめなくていいからね。恋愛のタイミングは人それぞれだよ」

「大丈夫だよ、みくみく。言われなくても、話半分にしか聞いてない」

「雪帆って、かわいい顔して、ケッコー毒舌だよね……」

「ごめんごめん」

 二人とも、ごめんね。

 ほんとのわたし——野々宮雪帆ののみやゆきほは、そんなにピュアじゃないし、初恋だってとっくにしている。しかも現在進行形だ。

 だけど、この恋は、誰にも言えない。



 放課後。今日は、桜が映える、気持ちの良い青空だ。

 帰り道を進む足は、羽根が生えてきたみたいに軽い。

 鏡を見たら、きっと、顔もゆるんじゃってる。

 だって、今日は、ひろ君がうちに来ている日だから。

 身体中の細胞が喜んでしまうのを、とめられないんだ。

 たとえ、彼に会えるというたったそれだけのことで、こんなにも特別な気分になってしまう自分に罪悪感を抱いていても。

「ただいま!」

「おかえりー」

 男の人にしては少し高めの、間の抜けたような声。

 この声が耳に飛びこんでくるだけで、血管の中の小魚が、急にそよそよと泳ぎだす。

「ちょうどクッキーが焼けたよ。雪ちゃんも食べる?」

 リビングにつながる扉が開かれて、彼が顔を出す。

 大学入学を機に染めたモカ色の髪は、猫っ毛で柔らかそう。白シャツにスキニーのジーンズを格好よく着こなしているのに、その上で揺れている臙脂色えんじいろのエプロンは不釣りあいでかわいい。

「うん。食べる!」

「はーい。手、洗っておいで」

 ひろ君。本名は、真野千尋まのちひろ

 わたしの、好きな人。

 急いで洗面所に向かって、リビングに戻ると、ひろ君が「今日は、ココアクッキーにしました」ってお皿を差しだしてくれた。

「いただきます」

 眩しい笑顔から逃れるように、クッキーを口に放りこむ。

 星型のかわいらしい見た目に反して、砂糖控えめの、ビターな味。

「おいしいけど、ちょっと苦い」

「雪ちゃんは、甘党だもんね」

「お子さまだなぁ、って思ってる?」

「まぁ、かわいいじゃないの」

「思ってるじゃん!」

「ふふっ。バレちゃった?」

 学校の男子に笑いかけられてもビクともしないのに、ひろ君にされると、あっという間に心臓が忙しくなる。不思議。

 ドキドキしていたら、テーブルの上の彼のスマホが震えた。

「おっ。秋葉あきはも、そろそろうちに着くってさー」

 あきは。

 彼の唇からその名前が飛びだすと、このそわそわと落ち着きのない気持ちは、シャボン玉のようにパチンと弾ける。

 相づちを打つ間もなく、玄関扉の方から、鍵をあける音が響いた。

「ただいまー」

「帰ってきた帰ってきた」

 ひろ君は上機嫌そうに口角をあげて、彼女を迎えに立ちあがる。

 ここから玄関までの距離は、わずか数メートル。

 だけど、そのたった数秒ですら、惜しいんだ。

「おかえり、秋葉。こんなに近くにいたなら、連絡する必要なかったんじゃないの?」

「え? 歩きスマホしてたわけじゃないんだし、別に良いでしょ」

「ダメとは言ってないけどさ。待ちきれなかったなんてかわいいなーって思っただけ」

「っ。うるさいし」

「はいはい、怒らないのー。ココアクッキー作ったし、機嫌なおして? 秋葉の好きなビター風味」

「えーっ、ありがとう! 手、洗ってくる」

「現金だなぁ」

 親しげに会話をかわす二人が、リビングに戻ってくる。

 そして、秋葉——わたしの二つ年上のお姉ちゃんと、目があった。

「ただいま、雪」

「お帰り、お姉ちゃん」

 野々宮秋葉ののみやあきは

 ショートカットがよく似合う、一見、近寄りがたい雰囲気の美人。

 大人っぽい見た目も、成績優秀なところも、姉妹なのに全く似ていない。

「ねえ、雪。昨日食べたいって言ってたひよこプリン、コンビニで見つけたから買ってきてあげたよ。冷蔵庫にいれとく」

「えっ、ほんとに? ありがと~!」

「あれ。秋葉、僕の分は?」

「千尋には、この前カフェでおごってあげたでしょ。どさくさにまぎれないの」

「秋葉。雪ちゃんの前でそーゆーことを言うと、まるで僕がダメな彼氏みたいじゃない」

「今更?」

「ひどい!」

 くすくすと笑いあう二人。

 空気になりかけていたら、ひろ君が思い出したように、わたしへ視線を向けなおした。

「これから秋葉とお花見しにいくんだけど、良かったら、雪ちゃんもくる? 今日は良い天気だから、お花見日和だよ。ね、秋葉も良いでしょ?」

 お姉ちゃんが答える前に、慌てて口を開く。

「わたしはパス! もうすぐ、推してるバンドの配信があるからっ」

「あー! 雪ちゃんの好きな……なんとかっていうバンドの?」

「虹の破片だよ。ひろ君は何度言っても覚えられないんだから~」

 秋葉の言ったことは、どんなに小さなことでも、覚えているのにね。

 よぎった思考に、勝手に、傷ついている。

「そーいうことだから、楽しんできて!」

 二人にひらひらと手をふりながら、足早に、階段を駆けあがる。

 自分の部屋に入って後ろ手に扉を閉めた時、安堵の息がこぼれてきた。

 これから配信があるなんて、ウソだ。

 ただ、あの二人と、カップルが沢山いそうな場所に行きづらかっただけ。

 だから、お姉ちゃんが『もちろん良いよ』って言う前に断った。気にしているのはわたしだけだって、また思い知らされる前に。


 ひろ君は、わたしのお姉ちゃんの恋人だ。

 家が近所で親同士の仲が良いから、わたしとお姉ちゃんが小学生だった頃は、よく真野家に預けられていた。そんな経緯で、両親ともに真野さんには感謝しているし、ひろ君のことも信頼しきっている。彼が家の合鍵を持つことまで承諾するほどだ。

 しっかり者だけど実は手先が不器用なお姉ちゃんと、一見なよそうだけどいざという時には男前なひろ君。

 中学を卒業する時に、ひろ君からの告白で付きあいはじめて、もう三年が経つ。

 二人は、誰から見ても、お似合いだ。

 わたしだって、そう思っている。両親が考えているように、このまま結婚してほしいとも。二人を引き裂くだなんて、考えたこともない。

 だから、わたしが抱いてしまった彼への恋心は、矛盾そのもの。

 お姉ちゃんに言えないのはもちろん、友だちに話したところで困った顔をさせてしまうだけだ。

 誰にも言えない。

 今のわたしの願いは、ただ一つ。

 わたしが本当の意味でひろ君の妹になる前に、この恋心が死んでくれることだ。



 十一月。イチョウが、校庭を黄金色に染める季節になった。

「あたし、桐生先輩と別れるかも」

「え! なんで!?」

「んー。先輩、受験で忙しくなって、イライラすることが多くなってさ。たまに会っても、気まずくなってばかりなんだよね」

「そっか……。でも、冬の受験が終わったら、また仲良くできるんじゃない?」

「そうだとしても、今度は、あたしが受験だよ?」

 春、恋する乙女の顔をしていた茉莉ちゃんは、今や、冷めた顔でため息をついている。

 心配そうに茉莉ちゃんを見つめるみくみくの横で、わたしは、一時でも好きな人と両想いになれたなら充分幸せじゃないかと無責任に思う。

 思うだけで、もちろん口にはしない。

 時が流れても、わたしの恋はいまだに死ぬことなく、窮屈そうに息しつづけている。


 両親二人とも仕事で帰りが遅くなると聞いたから、今日の夕食はわたしが担当した。ちなみに、手先が不器用なお姉ちゃんに任せるという選択肢はない。

 今日は秋葉の大好物、オムライスだ。

 食卓に並んだ料理を目にするなり、お姉ちゃんは瞳を輝かせた。

「おいしそ~! 雪、ありがとう!」

「ふっふー。お惣菜ですませるか迷ったけど、明日は、お姉ちゃんの誕生日だからね」

「そーだよ。もう二十歳になっちゃう、早いよね」

「お姉ちゃんの場合、まだ二十歳になってなかったんだって気もするけど」

「なによ。老けてるって言いたいの?」

「ちがうちがう、大人びてるってこと!」

 いただきます、と手を合わせて、スプーンにふわふわの卵をのせる。

 うん。おいしくできたな。

「ん~~、おいしい。雪は、将来、良いお嫁さんになるね」

 ドキリとした。

 胸に、ざわざわと波紋が広がる。

 分かってる。お姉ちゃんの言葉には、なんの他意もない。

 だからこそ、悪意にまみれた言葉以上に、残酷なこともある。

「わたしが良いお嫁さん、かぁ。想像つかないな」

 たまに、結婚式の夢を見る。

 海の見えるきれいな会場で、新郎のひろ君と、花嫁のお姉ちゃんがみんなから幸せそうに祝福されているの。わたしは、世界で一番満ちたりたその光景を遠くから眺めて、良かったねって泣いているんだ。

 自分がウエディングドレスを着ている夢は、一度も、見たことがない。

 お姉ちゃんが、少しだけ吊りあがった大きな瞳で、じっとわたしを見すえる。

「ねえ。雪は……好きな人とか、いないの?」

 心臓が、どくんと、大きく跳ねあがる。

 友達からは、何度も聞かれたことのある質問。

 だけど、お姉ちゃんから飛びだしたのは、初めてだった。

「うん? いない、よ」

 ドクドクと激しく鼓動を揺らしながら、みくみくや茉莉ちゃんにしたのと同じように答える。

 大丈夫。まだ、大丈夫だ。

 不自然なところは、なにも——

「ごめん。じゃあ、聞き方を変えるね」

 ——全身が、強張る。

 やめて、お姉ちゃん。

「雪はさ……千尋のことが、好きだよね?」

 これ以上、暴こうとしないで。

「もちろん。好き、だよ……」

 声が、震えた。

 恐ろしい沈黙を埋めるように、言葉を重ねる。

「でも、そういう、好き、じゃないよ……ひろ君は、おねえ、ちゃんの」

 喉がきゅううっと締めつけられて、顔がとんでもなく熱くなった。ぎこちのない言葉は、肯定しているも同然だったから。

 お姉ちゃんは、悲しげに、眉尻を下げた。

「意地悪な聞き方をして、ごめん。隠しているのは、雪なりの私への気遣いだって、ちゃんと分かっていたの。でも……だけど……私、雪が切なそうな瞳で千尋を見つめてるたびに、辛かった。自分が悪者になっているみたいで」

 崩壊の、音がした。

 わたしが今まで、ウソで守ってきた世界の、崩壊。

 『悪者になったみたいだった』という衝撃的な言葉が、耳の奥で、何度も木霊する。心臓がドクドクと激しく波うって、瞳からは、みっともなくボロボロと涙がこぼれてきた。

「じゃあ、お姉ちゃんは、どうしたら良かったって言うのっっ!? 今まで、わたしが、どんな思いで——」

 ——無害で善良な妹を、演じてきたと思っているの?

 吐きだそうとした悪態に、『お姉ちゃんのためを思って』という恩着せがましい感情が乗っかっていることに気がついて、喉がひゅっと細まった。

 お姉ちゃんのためを思って? 

 頼まれても、いないのに?

「……ねえ、雪。もう、互いにウソをつくのはやめよう。私、雪が千尋を好きなことに気がついていないフリをするの、疲れちゃったよ」

 息が、つまる。

「千尋が、お姉ちゃんの恋人じゃなかったら、雪はどうしてた?」

 答えに窮したわたしから、お姉ちゃんは視線を外した。「ごちそうさま。オムライス、ありがとう」と言い残し、無言のままお皿を洗って、階段をあがっていく。

 一人リビングに、残された。

 喉の奥から苦い唾がこみあげてくる。

 心のどこかでわたしは、自分の想いを犠牲にすることで、二人を守っているんだと思ってきた。

 それは、なんて痛烈なカン違いだったんだろう。



「雪ちゃんは、好きな人とかできた? もうすぐ高校生活も折り返し地点だよね」

「いるよ」

「ふーん。……って、え!? 今、いるって言ったよね!? 出会ってから、浮いた話の一つも出てこなかったかわいい雪ちゃんが、ついに恋を!?」

 すうっと、息を吸いこんだ。

 もう、ウソを吐くのは、終わりにしよう。

 お姉ちゃんにも、自分にも。

 目の前の、彼にも。

「うん。目の前にいる」

 切れ長の瞳をパチパチとまたたいているひろ君は、まるで、小さな子供みたい。

「え……。えっ!? それはー、えっと……新手の冗談?」

「失礼だなぁ。大まじめだよ」

 野々宮家のリビングに、居心地の悪い沈黙が落ちる。

 ひろ君は、あっけにとられたように、ぽかんと口を開いた。

 それから、叱られた子供みたいに、うつむいた。

「えっと……ごめん。オレ、全く、気がついてなかった」

「謝ることじゃないよ。ずっと、隠してたから」

「そっか……。このこと、秋葉は知ってた?」

 わたしが告白している時ですら、ひろ君の心は、お姉ちゃんが占めている。

 これが、お姉ちゃんのせいにして逃げてきた、現実。

「うん。だけど、ずっと、知らないフリをしててくれた」

「そう、だったんだ……」

 ひろ君は、言葉を探すように、口を閉じた。

 ややもして、意を決したような顔で、わたしを見つめる。

「ありがとう、雪ちゃん。気持ちはすごく嬉しいけど、オレ、秋葉以外の女の子のことをそういう風には想えない」

 あぁ。ひろ君らしいな。

 やさしい声で、これ以上にないほど、明瞭に線引きをする。

 なよそうに見えるけどさ、こういうところ、ほんとに男らしいんだよね。

「……うん。それも、知ってたよ」

 わたしはずっと、心のどこかで、お姉ちゃんの妹だからひろ君に女の子として見てもらえないのは仕方がないと思ってきた。

 違う。

 ただ、彼に選ばれなかったという、それだけのことだ。

 喉の奥からこみあげてくる熱い塊を、無理やり、飲みくだす。

「だからさっ、そんな顔、しないで? これからも、お姉ちゃんのことをよろしくね」

 この後、帰宅してきたお姉ちゃんは、わたし達の間に流れる微妙な空気を察してすぐにひろ君を外に連れ出した。


 こうして、墓場まで持っていくはずだったわたしの初恋は、いっそ清々しいほどの大失恋に終わった。

 まだ実感がないからか、涙も出てこない。

 夜寝る前にベッドの中で思いだして、身体中が干上がるほど泣く自信はあるけれど。

 泣いて、泣いて、涙も枯れ果てたころには、きっと。

 この恋を、笑って話せる日がくる予感がした。

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オオカミ少女と初恋の卒業 久里 @mikanmomo1123

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