午前5時のティールーム

令狐冲三

午前5時のティールーム

 ウエイトレスがカウンターで忙しく働いている。


 階段を上りきった右手の入口のドア越しに、店内を見回してみた。


 階下がベーカリーになっているそのティールームは、まだ早朝、それも5時だというのに、もう開いていた。

 

 開けて間もないのだろう、そんな匂いがしていた。


 空気はゆるく固められたゼリーのようで、妙にチカチカする蛍光灯の光がはりつめている。


 外の景色は青黒く、粒子の粗い写真のようだった。


 注文をすませると、しばらく目蓋を閉じ、その上を親指と人差し指で押さえ、息をつめ、フロアのたたずまいを思い浮かべてみた。


 端から5メートルほど伸びたカウンターの隅に、おばさんが一人コーヒーを前にして座っている。


 二つあるテーブルの一つには一組のカップル。


 女の方が、こちらに背を向けていた。


 カウンターのウエイトレスは、黙々と皿を洗っていた。


 注文の時にその顔は見ていたが、はっきり思い出せない。


 カチカチと硬い音がする。


 一枚ずつ丁寧に洗い、すすいだ皿を重ねているらしい。


 その音を聞いていると、二本のテグスでぴんと吊られた両肩から、力がゆっくり抜けていく感じがした。


 目をあけて、煙草の包みをポケットから取り出し、一本火を点けながら、周囲を見回してみる。


 想像は半分くらい当たっていて、もう半分は違っていた。


 透きとおった冷たい空気のせいで、店の中でもコートを着たまま気がつくとガクガク震えている。


 なんだか、体中にアルコールを塗りたくられているようだ。


 カップルは二人ともモコモコのスキーヤージャケットを着込んだまま、食べ残した大皿に視線を落としつつ、熱々のコーヒーをすすっている。


 まるで、冬山で遭難しながら、落ち着き払ってお茶の時間だけは忘れない登山家の夫婦みたいだ。


 隅っこのおばさんは、カーキ色のステンカラーコートのボタンをいちばん上まできっちりしめて、カウンターに視線を落としている。


 眼球の動きを見るに、何か文字を追っているようだった。


 ガラスばりの食器棚から皿を何枚か重ねて取り出す音にさえ、ゆるやかに、小さく反応し、一瞬だが視線が交わされ、そしてまたゆっくりと重なり合った視線がずらされながらもとにもどる。


 そのたびに、冷たい空気が少しずつコートに馴染んでいった。


 ベーカリーの二階にあるティールームで、朝の5時にそこに居合わせた人々は、誰を待つのか、ただ時を潰しているだけなのか、よけいなお喋りも、身動きすらせず、ただじっとそうしていた。


 コーヒーを飲んだり煙草を吸ったりしながら、鼻の頭を真っ赤にして働いているウエイトレスを見ていると、仕事は次々増えているようだった。


 テキパキと手際よく片づけていた手が止まった。


 思い出したように何か呟き、小さく舌打ちをして、大股でヒーターのところへ歩いて行き、スイッチを入れた。


 それから、ゴム底の靴をペタペタいわせながらカウンターへ戻り、乱れたリズムを修正しようとするように、入口のドアへ視線を遣りつつ大きく深呼吸をして、また野菜を盛りつけはじめた。


 テーブルにいたカップルが揃って席を立った。

 

 男の方がトイレに行き、女は口もとをひん曲げてドアを開け、出て行った。


 窓からまだ人通りのない歩道を見下ろすと、女はマフラーを直したり、手袋の模様をじっと見つめたりしていた。


 男はカウンターで支払いをすませると、ひとしきり周りを見回してから出て行った。


 せっかちなヒーターのせいで、いまやすっかり火照った顔を水に浸し、洗面台の前に立ってしばらくぼんやりしていたが、吸いかけの煙草を水を張った洗面台に落としたとたん、チン、という妙な音が耳に残った。


 エレベーターか、電子レンジか、どこから聞こえてきたかわからない音だった。


 おばさんがバッグから札入れを出して勘定をすませ、店から出て行った。


 さわやかな朝の光がその全身を照らし、一瞬、衣服の下まで見てしまったような気がした。


 すっかり小さくなった氷の浮かんだ水を飲み干してから、ティールームを出た。


 ウエイトレスは重そうな編みこみのカーディガンを脱いで、まだテキパキと仕事をこなしている。


 駅に向かう通りを歩くうち、ふとガラス張りの喫茶店に目がいった。


 さっきのおばさんが、また穏やかな顔で静かにコーヒーを口もとへ運んでいる。


 もうずっと前からその場所にいるように馴染んで見えた。


 コートのポケットに両手を突っ込み、揃えた靴のつま先を見ながら、車が疎らに走り去る道の端で、信号が青になるのを待った。


 朝の5時に開店しているベーカリーの上のティールームの壁は、何色だったろう?


 店内を思い出してみた。


 ヒーターを調節しにカウンターから出て行くウエイトレス。


 隅っこのおばさんや、口をひん曲げた女の顔。


 信号が青になり、道を渡る。


 壁の色は思い出せない。


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 ※ティールームは死語ですが、使いたかったので使ってみました。

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午前5時のティールーム 令狐冲三 @houshyo

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