今日、僕はレンコンの中身を覗いてしまった

BUILD

第1話

 その都市伝説を聞いたのは一体いつだったのだろう。

 日々の些細なブラウジングの中で目に入ったのか、それとも友人との雑談の中でぽつりと話題に出たのか、今となっては遡ることも出来ない。


 ――レンコンの穴には一つだけ、決して覗いてはいけない穴がある。


 実にありがちな、下らないジョークの一つだ。

 第一そこいらでニ、三百円もせず売っているような小さな野菜が、一体全体どうして覗いてはならないなどといわれてしまうのか。

 今年で大学二年にもなる僕は当然、こんなものを真っ当に信じ込む精神は持ち合わせておらず、一笑に付しててっきり忘れ去ってしまった。


 夢はなく、然したる努力もせず入った大学。

 何かに邁進することもなくただうわべだけの友人関係を糧に、貴重な青春を浪費する日々であったある休日の昼、忘れかけていたそれ・・はやってきた。


 買ってから数日。切り口はなんだが黒っぽくなっているし、表面はちりめん状の皺が寄ってきてしまっている。


「レンコン、か」


 冷蔵庫、ナニカの干からびたカスが散見される野菜室の真ん中にあったそれを、ひょい、と掴み上げ呟く。


 男というものは不思議な生き物で、普段はカップ麺など手抜きなものばかりで食事を済ませているにもかかわらず、ふとした拍子に凝った物を作り、食べたくなってしまう。

 例に漏れず僕もそんな性格をしていたもので、数日前スーパーへ買い物を行った時レンコンの煮物ときんぴらが食べたい、脳裏に過ぎった欲望のままこのレンコンを買ってきた。


 結局帰って来てから面倒になって調理していなかったが、生憎と今日は講義もなく時間がある。

 友人へ電話をかければ幾らでも時間を潰すことは出来る。しかし今は興が乗った。


 レンコンを掴んだままおもむろにキッチンへ立つと、暫く使っていなかった薄っぺらいまな板を取り出し、端の錆びた包丁で両端を切り落とす。


「中は案外綺麗だな」


 表面からは予想も出来なかったが、お目見えした断面は白磁器のように純白の、瑞々しい姿をしていた。


 さて、煮物やきんぴらとは言ったが一体どうやって作った物か。


 タオルで軽く手を拭いスマートフォンの検索欄にレシピを打ち込んでいる途中、検索候補にあの文字が現れた。


 『レンコン 覗いてはいけない』


「……っ!」


 瞬間、脳内を駆け巡るいつだか調べたこの話題に対する情報。


 まな板の上に乗るレンコンに空いた、十かそこらの穴へいやに目線が吸い寄せられる。


 馬鹿な。

 何をやっているんだ僕は。


 皮肉屋の僕が鼻を鳴らす。

 休日の昼間から、一体全体こんな下らない都市伝説へ熱心に取り組むだなんて、何か精神を病んでいるんじゃないか。

 本当に下らない。


 下らないのに、興味が湧く。

 馬鹿にしたいのに、忘れられない。


 気が付けば僕はレンコンを両手で抱きかかえ、かじりつくように穴へと目を突き当てていた。




「は、ははハ! なん、だよ……」



 がっぽりと空いた穴から見えるのは、見慣れた日焼けで些か色の褪せている壁紙。

 右に視線を動かすと昔買ったタペストリーや使い古された鞄、ぐるりと周囲を見回しても何一つ変わりやしないだたの自室だ。


 目を当てる穴を左へ。


 やはりそこに映るのは同じ風景。

 強いて言うのなら先程の穴よりちょっとばかり穴が小さくなったせいだろうか、視界が狭まり少し見える色が暗くなったことくらいだ。


 次へ、次へ、次へ。


 さしたる視界の変化はないものの、万華鏡を買ってもらった子供の様にくるり、くるりとレンコンを回す。

 そして最後、僕は真ん中に空いていたとても小さな穴へ目を宛がった。


 暗い。

 穴が一番小さいせいだろう、どうにもぼんやりとした視界でモノが見えない。

 ぺろりと唇を舐め、ぐりぐりと左目を押し付ける。


 もうすこし。



 もうすこし。



 次第に目が慣れ、見えてきた風景は……




 ピーンポーン!


 あまりにタイミングの良すぎる強烈な電子音に、情けない悲鳴が口から漏れた。


 レンコンを放り投げ、唐突に鳴り響いたインターホンの音にドタバタと廊下を走る。

 しかし思考を駆け巡るのは、一体このインターホンの相手は誰なのか、ということだ。

 特に何かを注文したわけでもない。レシピ検索中にちらりと見たが、誰かから今日家に行くなどというメッセージが来ていたなんてこともない。ましてや彼女など、生まれてこの方いたこともない。


 まさか、ね。


 首をもたげた小さな可能性を、きっと何かの勧誘だろうというありがちで、最も高い可能性にて押しつぶす。


「……はい、なんでしょう?」


 がちゃりと扉を押し、ふと気付く。

 妙に大きな影が自分を覆っている。

 中肉中背、ごく一般的な痩身の体形をしているとはいえ、はたして覆い切れるような影がそこいらにいるだろうか。


 いやな汗が出た。

 だが何かを出来る訳ではない。恐る恐る首を上に向ける。


「国の者ですが」


 目の前にいたのは、夏も近いこの季節に異様な、全身黒のスーツとサングラスを掛けた複数人の大柄な男達だった。


「貴方……レンコンの穴を、覗きましたね」

「うわああああああああああああああああっ!!?」


 絶叫、逃走。


 脳が完全に理解をする前に、目の前の男たちから脱兎のごとく背を向け部屋の中へ飛び込むと、一目散にベランダへと駆けだす。

 もはやなにも手にしていない。

 スマホも、思い出の品も、何もかもを気にもかけず、机を全力で投げてガラスをぶち破る。


 嘘だろ、嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ!?


「逃げても無駄だ! 周囲は既に包囲されているッ!」

「なんでだよ……!」


 背後の叫びすら意識せず、裸足のままアパートの裏庭に着地する。


「なんでなんだよ……!」


 彼の言葉は合っていた。

 まるで殺人現場かのように僕のアパートは黄色いテープがかけられ、あちこちを忙しなく青い服の人物達が歩き回っている。


 そんな中、一人の警官と目が合った。


「来たぞッ!」


 途端にけたたましく唸り声をあげるサイレン、飛び交う怒号。

 しかしあまりにも異様な雰囲気に集まった大量のやじ馬が所々はみ出しており、運よく目の前にあった人だかりへ体をねじ込むと、一心不乱に人を押しのけ遂には逃げ出すことに成功した。




 ずるりと足を引き摺り歩く。

 どうやら家を飛び出す過程でガラスを踏みつけたらしく、足の裏が先ほどからひどく痛むのだ。

 それに服も、ズボンも、全身すらもが穴や切り傷塗れ。はっきり言ってまともな様子からは遠く離れている。


 一体何が起こっているのか、頭がおかしくなりそうだった。

 だが僕に出来ることは何もない。ただあの黒服や警察の目線から逃げることだけが、今、この一瞬の目的だった。


 ポケットの中に入っていた百円でこのところ随分と減ってしまった公衆電話へ飛び込み、友人へ電話をかけたが生憎と誰にも繋がらない。

 挙句に実家にすら繋がらないのだから困った。


 途方に暮れたまま、兎にも角にも服や靴が必要だと知り合いの家へ歩いていく途中、太いような気配に背中が焼けるような違和感を覚える。


 行き交う人々誰もが僕を見ている。

 何か小さく呟き、眉をひそめて。

 このボロボロの服装か? それとも靴すら履いていない事か? いや、全身切り傷塗れなせいかもしれない。

 せめて何処か公園で、止血と血を洗った方が良かったか?


 そう考えていた、二人の女性とすれ違うまでは。


『やっぱり今の人ってそう・・だよね』


 瞬間、僕は駆け出した。

 ここにいたら不味い。


 あいつらは僕の姿に疑問や、ましてや心配なんてしていない。

 あいつらが見ているのは……スマートフォン・・・・・・・だ! スマホで僕の顔を確認しているんだっ!


「うわあああああああっ!?」


 涙がボロボロと溢れ出す。

 喉がしゃくりあげ、足がもつれた。


 転んだ衝撃が脳天を突き上げる。


『……だ』

『あいつだ』


 あいつだ、あいつだ、あいつだあいつだあいつだあいつあいつだあいつだあいつだあいつあいつだあいつだあいつだあいつあいつだあいつだあいつだあいつあいつだあいつだあいつだあいつあいつだあいつだあいつだあいつだ。

 突き刺さる人の視線、視線、視線視線視線視線視線視線ッ!!


「捕まえろッ!!」

「ちがっ……違うんだ……っ!」


 もはや立ち上がって走ることすら出来なかった。

 いや、きっと逃げたところで無理だろう。無数の人々が顔に狂気を纏わせ、一斉にこちらへ走り出している姿を見てしまえば、どうにか出来るかもしれないなどという気概すらなくなってしまった。


 真っ先に辿り着いた若い男たちが僕の身体を掴み上げ、地面へ押し付ける。


「僕は……ッ!!!」


 胸が圧迫され、息すらろくに吸えない。


「黙れッ!」


 口に人々の手が覆いかぶさる。

 でも、叫んだ。


 ただひたすらに叫んだ。


 僕は、僕は、僕はッ!!!!!!


「僕はっ、レンコンの中身を覗いただけなのにっ!」




『速報です』


 踏み荒らされた部屋でテレビの音が無機質に流れる。


『レンコンの穴を覗き逃亡した犯人が先ほど確保されました』

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