第3話無花果の甘露煮は甘いけど苦い(渚視点)

「こんにちはっ! はぁ、お店の中涼しい。大河元気だった? あ、渚ちゃん良かったぁ会えた」


 突然お店のドアが開いた気配に顔を上げると、呑気な声が響いて一気に気が抜けちゃった。


「いらっしゃい、暑かったでしょ」


 四人掛けのテーブルを拭いていた私は、そう言いながらドアを開いたまま立つ彩花に近寄るとカウンター席に案内する。

 まだ昼間だし仕込みの時間だけど、彩花は兄貴の我儘で営業時間中は一人での来店を禁止されている。

 それを律儀に守る彩花も彩花だけど、彼氏でもないのにそれを守らせようとする兄貴はキモいの一言だわ。

 まあ、彩花はこの見た目で呑兵衛だし、その癖お酒弱いから心配になるのは当然だけど、私だったら例え彼氏からでもそんな制限掛けられたくない。


「はあ、涼しい。生き返る」


 カウンター席に座った彩花は、天井から下りて来る空調の冷気に目を細めているから、私はまたテーブル拭きの仕事に戻る。

 彩花は胸元の幅広リボンが可愛いフレンチ袖のレモンイエローのワンピースに白いサンダル姿で、今日は長い髪をアップにしてる。

 染めなくても何故か昔から色素が薄い髪をゆるく三編みにあんで、それをくるりと巻きピンクの花の形の飾りがついた簪でまとめている。

 顔回りに少し残した髪はくるりと巻いてあって、あっぷにした髪のお陰で白いうなじが良く見えて実に兄貴には目の毒だろうって感じだわ。


 彩花を迎える兄貴のデレデレ顔も、ここからはよく見える。

 兄貴の顔、本人は澄ましているつもりだろうけれど鼻の下伸びてるんじゃない?


「渚ちゃん、今忙しい? 少しだけ時間貰えるかな、私すぐに出なきゃいけないのよ」


 意外な事を言う彩花に首を傾げながら、ダスター片手にカウンター席へと戻る。

 いつもなら昼間っから美味しそうにハイボールを飲んでいくのに、今日はどうしたんだろう。


「なあに、今日は飲んでいかないの」

「今日はこれからおばあちゃまのお見舞いに行くの。その前に寄ったんだけど渚ちゃんがいてくれて良かったぁ」


 笑顔の彩花につられてカウンター席に座る。

 彩花のおばあちゃまは先週入院したんだと、おとといお店に来た彩花パパから聞いていた。

 何か大きな病気をしたとかじゃなく、最近の暑さで食欲が落ちているから念のための入院らしい。


「入院長引きそうなのか」

「そうねえ、暑すぎて食欲無くなっちゃったから心配したママが叔父様にお願いしただけなんだけど、おばあちゃまは家だと果物を摘む程度しか食べようとしないし、それじゃ倒れちゃうでしょう?」

「それじゃ心配ね」


 彩花のおばあちゃまはお年が確か八十歳を超えていて、去年手術をした後から食が細くなったんだと彩花パパが話していた。

 私と兄貴は親戚付き合いは今お世話になっている伯父さん以外皆無だし、祖父母も生きてはいるらしいけれど付き合いは年賀状すら無い。

 だから、同居しているわけでもないのにどの位食事しているかまで把握している彩花の家族に実は驚いているんだけど、普通の家ってそういう物なのかしら。


「飲まないなら、アイスティーでいいか」

「え、大河ありがと。ミルク多めでお願い出来たりする?」

「しかたねえな」


 お店で出すパック入りの業務用アイスティーではなく、わざわざ茶葉からお茶を淹れてあげるらしい兄貴の様子に「私も私も!」と手を挙げる。

 兄貴、元々はカフェ関係の仕事がしたくて高校卒業後にその方面の専門学校に行ったのになぜか今は伯父さんがオーナーしている居酒屋で雇われ店長をしている。

 でも、勉強しただけあって紅茶もコーヒーも兄貴が淹れるものは美味しくて、でもなかなか私には淹れてくれないから貴重なのよね。


「仕方ねえな。お前もミルクか」

「うん」


 彩花がいるから今日は特に優しい兄貴は、私の希望も聞いてくれる。

 兄貴はいそいそとアイスティーの準備を始め、それを見ながら彩花は隣の椅子に置いていた紙袋を持ち上げた。


「これ、ママから渚ちゃんに」

「おばさまから?」

「おばさまって言うとママ拗ねちゃうわよ」


 くすくすと彩花は笑うけれど、望まれていても私が彩花のママをママとは呼び難いのよ。


「彩花、分かってて虐めないでよ。せめて実花子さんとか」

「うーん、ママ自分の名前で呼ばれるの好きじゃないみたいだからなあ」

「え、そうなの?」

「うん。実はそうなの。パパの従妹にね文字は違うんだけど同じ『みかこ』さんて人がいるんだけど、その人がパパが大好きでね。結婚したばかりの頃結構意地悪されたらしくってね」

「うええ、何それ」


 げんなりして思わず下品な声を上げると、彩花は困った様に「何それって思うわよねえ」と頷いた。


「その人、ママより五歳位下みたいなんだけど未だに自分を私とかじゃなく、みかこって言うみたいでね。もう、ママにとってみかこがトラウマになってるの」


 彩花のママ、二十代前半で彩花を産んだらしいから今四十代後半に差し掛かったくらいでしょ? それの五歳上で自分を名前で言うって、なんか毎日が黒歴史なんじゃないの?


「えええ、じゃあおじさま何て呼んでるの?」


 彩花のご両親とも付き合いは長いけれど、彩花のパパが何て呼んでいたか記憶にない。それになんだか軽いショックを受けてしまう。


「うーん。私の前では、ママとかだけど、二人きりの時はみーちゃんなの」

「みーちゃん」


 そうだ、ママ。確かにそう呼んでいた。

 でも二人きりの時はみーちゃんなんだ、なんだか可愛い。


「えーーっ。愛称で呼んでるの可愛いね」

「でしょ。でも私の前では恥ずかしいみたいで、パパがそう呼んでも返事しないのよ。ママって可愛いでしょ」

「本当」

「ふふふ。そうだ、みーママって呼んでみる?」

「名前で呼ばれるのが嫌で、おばさま呼びも嫌ならその辺りが妥協ラインかなあ」


 昔は彩花のママって呼んでたんだけれど、お店に来てくれた時にまでそう呼ぶのはなあと思っておばさま呼びしたら嫌がられたのよねえ。


「ふふ。じゃあ、ママにそう言っておくね。でも渚ちゃん、そうするとパパも拗ねると思うんだあ。パパの事英二パパって呼ぶ?」

「え、か、勘弁してよぉ」


 彩花のパパはおじさま呼びで何も言わなかったんだから、それでいいじゃない。

 付き合いは長いけれど、私は二人の姪ですらないんだから。


「だってパパもママも大河と渚ちゃんは自分の子供と思ってるんだから、他人行儀じゃ寂しいって」

「他人行儀でいいのよぉ」

「そんな事言ったら二人とも泣いちゃうわ」


 泣いちゃうわじゃないわ。私が泣くわ。

 なんで大学生にもなって友達の親をパパママ呼びしなくちゃいけないのよ。

 まあ、何となく二人が親みたいなものって感覚は私にもあるけれど。

 それはこの年で、言葉をそのまま真に受けちゃ駄目な奴だと思うのよね。


「……で、これ開けてもいいのかしら」

「あ、開けて開けて」


 紙袋の中を覗き込むと、赤いギンガムチェックのハンカチに包まれた長方形のタッパーらしき物が見えた。

 これって、なんだろ。結構重いよね。


「重いね。あれ、もしかして」

「予想通りの物でーす」

「わあ、すっごく沢山入ってる」


 ハンカチの中身はやっぱりタッパーで、蓋を開けたら予想通りの物が大量に入っているのが見えた。

 凄い、こんなに沢山。


「すごぉい、こんなにいいの?」


 毎年の事だから遠慮しても無駄なのは分かってるし、遠慮なんかしないけど。

 これ、いくつ位あるんだろう。


「いつもの通り、すぐに食べない分は冷凍で保存してね」

「うん、ありがとう。おばさまにもお礼伝えてね」

「みーママよ」

「うん、みーママ。ありがとう、これ大好きなの」

「知ってるー。ママが毎年張り切ってるもん。渚ちゃんが暑いの苦手で体調崩しやすいから心配だってブツブツ言ってたわ。ちゃんと食べてるかしらって」


 ニコニコ笑いの彩花は、兄貴がそっと差し出したアイスティーのグラスにストローを刺して、お行儀よく飲みながら「美味しいっ。大河の淹れてくれたお茶が一番」と無邪気に言って兄貴を喜ばせている。


「私の毎夏の健康は、これのお陰と言っても過言ではないわ」

「そうなの? 渚ちゃん、これヨーグルトに入れて食べてるのよね」

「うん。朝食食べる前に凍ったままヨーグルトに入れてテーブルに置いておくと、食べる事にはいい具合に溶けてくれるからいいのよ。美味しいし、お腹もすっきりするし何となく体調もいい気がするのよね」


 かなり大きなタッパーにぎっしりと詰められた、つやつやで飴色のこれは彩花のママお手製のイチジクの甘露煮だ。

 昔から便秘がちで貧血も酷い私の為、彩花のママが毎年沢山作ってプレゼントしてくれるものなんだけど、これ私には貴重な食べ物だったりする。


「そう言ってくれるとママが喜ぶわ。家の庭、いちじくとかブルーベリーとか枇杷とか実がつくものばかり植わってて、どれだけ食いしん坊なのって感じだけど。何とですねえ、ママがこっそりイチジク増やしてたのよ」

「増やしてた?」

「うん、イチジクって夏に収穫出来る種類と秋に収穫出来る種類があるみたいなんだけどね、これは夏に収穫出来る種類の物で、ママがいつの間にか増やしたのが秋に収穫出来る種類の物みたい。だからこれが無くなった頃に上手くいけばもう一度持って来られると思うわ」


 彩花の言葉に目を見開いてタッパーを見つめる。

 それって、もしかして私の為に植えたってこと。


「私、お礼どうしたらいいのかしら」

「そんなの、美味しかったからまた食べたいでいいんじゃない?」

「それじゃ駄目でしょ」

「だってママは渚ちゃんが喜んでくれるのが嬉しいんだもん、ママねえおかしいのよ渚ちゃんがこれもう飽きたって思ってたらどうしようって言いながら、大量に甘露煮を作ってたの。心配ならイチジクを増やす前に聞くべきよね」


 それはそうだけど、飽きるなんてこと無いと思う。

 だって、これって兄貴以外で、初めて私の為にって作って貰えたものなんだもの。


「ねえ、彩花」

「なあに?」

「秋になったら、またイチジク収穫出来るのよね」

「うん」

「その時、私も収穫とか手伝ってもいいかな。おばさまと、みーママと一緒に私も甘露煮作りしたい」


 カウンターの上にタッパーを置いて、照れ隠しにアイスティーを一気に飲み干すと、彩花はぎゅううと私に抱き着いて来た。


「ママ、すっごく喜ぶと思うわ。約束ね」

「うん」


 彩花に抱き着かれている私を兄貴がにやにや笑いで見てるから、私はむかついて彩花の背中に両腕を伸ばした。


「渚ちゃんがデレてるー。嬉しいっ」

「デレてませんっ」


 というか、彩花の胸って大きすぎない?

 ふざけて抱き合うにしては、胸の感触がありすぎなんですけど。


「うふふ。あ、私もう行かないと。おばあちゃまから電話が来ちゃう。大河アイスティーのお金」

「あ、ああ。って金払おうとしなくていいから」


 律儀にお財布を取り出した彩花に兄貴が慌ててる。

 私も飲んでたのに、彩花こういうところは律儀なのよね。


「え、いいの? じゃあ、ご馳走様。今度はパパとママと三人で来るね」


 にこやかに手を振って、彩花は店を出て行った。

 彩花が居なくなると、なんだか急にお店の中が静かになってしまう。


「お兄ちゃん、私ちょっとこれ仕舞ってきていい?」

「ああ、いいぞ」


 タッパーを抱えて店を出る。

 エレベーターで上に上がり、部屋のドアを開く。


「あーっ、もう。彩花もおばさまも、私を甘やかさないで」


 玄関に入ってドアを閉めて、ずるずるとドアに寄り掛かりながらしゃがみ込んでしまう。

 自分の子供と同じとか、ママと呼んでくれなきゃ寂しいとか、どうしてそんな風に言ってくれちゃうんだろう。

 そんな事言われたら、私期待しちゃうのに。


「お母さんなんて、一緒に暮らしてる時だって私が夏になると体調崩しやすいことすら知らなかったのに」


 どうして彩花のママの方が詳しいのよ。

 お母さんなんて、二人が離婚してから一度も会ってないから仕方ないのかもしれないけれど。


「彩花が羨ましい。親に愛されて、それが当たり前に育つなんて」


 虐待とかはされていたわけじゃないし、兄貴がいたから一人だったわけでもないけれど。お父さんもお母さんも私達に対して関心なんて全然無かった。


『渚ちゃん、これ食べられるかしら。お腹が張って苦しいって言ってたでしょヨーグルトにこれを入れて食べるとね、お腹の調子が良くなるのよ』


 初めて彩花の家に兄妹でお世話になった夏休みのあの日、元々便秘がちな上暑さと慣れない環境ですっかり体調を崩していた私に彩花のママが作ってくれたのがイチジクの甘露煮だった。

 イチジク以外にもすりおろした林檎にヨーグルトだったり、桃のコンポートを入れた牛乳寒天だったり、色々と試してくれた結果一番私の体にあったのがイチジクの甘露煮だった。

 甘露煮を入れたヨーグルトを食べた後、ちょっと時間をおいてから彩花のママは私をソファーに寝かせてお腹を優しく撫でてくれた。


『お腹少し冷えてるかしら。こうやってねえ手を当ててると良くなるのよ』


 優しく撫でてくれる手の温かさとか、声を掛けてくれる彩花のママの表情とか、殆ど家にいなかったお母さんから感じたことが無い優しさを感じながら夏休みを過ごす内に私の体調は良くなっていった。

 最初は彩花の家にイチジクの木なんて植わってなかったのに彩花の家の大きな庭の一角にイチジクの木が三本植えられて、気が付けばイチジクが毎年大量に収穫される様になっていた。


「甘えてもいいのかなあ」


 ずっしりとしたタッパーの重みが彩花のママからの愛情だと信じて、私は鈍い振りをして言葉をそのまま受け入れたい。そんな気持ちになりながら、ぽとぽとと涙をこぼしていた。

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