第2話カツオの血合は生臭い(大河視点)

「ううう、痛かった」


 カウンターに突っ伏してぼやいている小さい頭を盗み見しながら、俺は仕込みをしていた。

 カウンターには、相変わらずのウィスキーと炭酸水。

 氷が溶けてしまうのが嫌だと騒ぐから、アイスペールは出していない。

 お嬢様だけあって、こいつは何気に我儘だと思う。


「注射嫌いでなんで献血なんてするかな」

「そこに献血車があるからよ」

「お前はどこぞの登山家か」


 昔っから注射嫌いの彩花は、注射されるのが嫌なばかりに健康に気をつけるという理解に苦しむ思考をしている。

 ダイエットの為ではなく、健康維持のため朝と夕方にウォーキングを兼ねた愛犬ポン太の散歩、週に二回はホットヨガに通い、時間があればプールに行って泳いでるらしい。

 頻繁に泳いでいても、筋肉っぽいのはあまりついてなく、どっちかと言えば華奢で何故か胸がデカい。

 シャツワンピースとか言うのを着てるのはいいんだが、首元のボタンを二つほど外してるせいでカウンターの中にいる俺からはちょっと悩ましいものがチラチラ見えて、何というか視線に困る。

 こいつは色んな意味で油断しすぎなんだよ。

 だいたいシャツワンピースって何だよ、ウエストを共布のベルトで軽めに絞めてても、彼シャツにしか見えねぇんだよ。

 止めてくれよ可愛過ぎるんだよ、目のやり場に困るし妄想が暴走しそうなのはもっと困るんだよ。


「ねえねえ、その真っ赤なのなに?」

「あ? ああ、カツオの血合いの辺りだな」


 伸び上がってカウンターの中を彩花が覗き込んで聞くから、仏頂面を必死に作り教えてやる。

 だから、その角度は色々と困るんだよ。

 顔が近付いたら、長いまつ毛がクルンとカールしてるのとか、渚が言うところのはね上げラインとかいう目尻のとこが色っぽいとか気が散って、仕込みの手が止まるんだよ。


「こっちは、タタキ用でこれが血合いな」


 オーナーである伯父さんがカツオのタタキ用にと仕入れてくれたのはいいんだが、血合いの部分までしっかりあったから、これは俺の賄用だ。


「血合い。凄い色だね」

「まあな、カツオ食いたいならタタキか生姜漬けがあるぞ」

「生姜漬けって?」

「んー? カツオを適当な大きさに切って塩振って粉つけて焼いたのを、生姜と青紫蘇入れた醤油ダレに漬けた奴。冷蔵庫で冷え冷え中だから味が染みてて美味いぞ」


 どこかの郷土料理らしいが、それは粉は付けずに塩焼きし、生姜醤油のタレに漬け込むらしい。だからこれはちょっとアレンジしたものになる。


「へえ、美味しそう。でもご飯と食べたくなりそうな味っぽい?」

「オーナーは酒の肴だって言ってるけどな」

「ふうん? で、それはどうするの?」

「これは俺の賄用だ。臭み消しの下処理はしたから後は適当に味付けして食うつもり」


 大きいまま味噌とマヨネーズを塗って焼くか、細かくして生姜醤油で味付けて胡麻を大量に入れてふりかけにするか悩むところだ。

 店が無いなら、玉ねぎとニンニクと骨からこそげ取った身を混ぜて胡麻油と塩とか醤油とかで和えたのとか食べたいとこなんだがなあ。

 ニンニク臭を巻き散らかしながら店に立つわけにはいかないよな。


「レバーみたいな色なんだけど」


 興味を失ったのか椅子に座り直し、カランとグラスの氷を鳴らしながら形良く整えてる眉をひそめている。

 彩花レバー嫌いだもんな。味は好きでも食感が苦手らしいという我儘っぷりだ。

 でも出したら残さず食べるんだ「嫌いじゃなくて苦手なの。それに折角大河が作ってくれたんだもん」とか何とか、そんなところも可愛いんだよなあ。


「まあ、血合いだからな。見た目はそんなもんかもな」


 だからこそ好き嫌いは分かられるし、捨てられる代わりに投げ売り価格になったり、今回みたいにオマケとして付けてこられたりする。


「美味しいの?」

「俺は好きだけど」

「大河は好きなんだ。ねえねえ、私ってば献血したから鉄分補給必要だと思うのよ。だからそれ食べてみたい」

「は?」


 のほほんと言い放つのは、自分が可愛いっての自覚してるんだかしてないんだか、昔からそこが謎な女だ。

 子供みたいな顔して、無茶苦茶飲む。

 飲むくせに弱くて、すぐに顔が真っ赤になっていつも以上に無防備になる。

 そこが可愛くて、だからこそムカつく。


「これは店に出す用じゃないんだが」

「えぇー、大河だけ食べるの? ちゃんとお金払うわよ。あ、骨が多そうだから食べられるところが少ないのかな? じゃあ、諦め……」

「いや、これだけ食うわけじゃないから、別に食べさせてやってもいいぞ」


 我儘だけど、無理強いはしない。

 そんなところが好きだ。

 はあ、これは好きになった方が負けの理論。

 我儘だろうと、何だろと結局望みを叶えてやりたいって思っちまうんだよなぁ。


「いいの? わぁあ、ありがとう!」


 ぱああっと嬉しそうに表情が輝く。

 こんな顔して喜ばれたら、嬉しい。

 というか、他の男にこんな表情見せたくない。 

 彩花を喜ばせるのがいつも俺だったら、嬉しいのにな。


「出来上がるまで、トマトでも食っとけ悪酔い防止だ」

「え、トマト」

「好きだろ冷やしトマト」

「うん、好き! 大河の作る玉ねぎドレッシング美味しいんだもん」


 そこは、好き大河。で区切って欲しい。

 恨めしく思いながら、血合いの下処理を終えて使った道具と手をよく洗い、まな板と包丁を野菜用のものに変えてトマトをカットする。

 トマトの皮を巻いて薔薇っぽくしたものの隣に、薄切りしたトマトを並べ玉ねぎドレッシングをかけて完成だ。


「ほらよ」

「わあ、凄い綺麗! 本物の薔薇みたい!」


 トマトの薔薇は、薄切りしたトマトを薔薇の形にするやり方と、トマトの皮を林檎の皮みたいに剥いたものをクルクル巻いて薔薇の形にするやり方がある。

 店で出すのは薄切りトマトのやり方なんだけど、トマトの皮が苦手な彩花にはこっちのやり方で出している。

 彩花のトマトの皮嫌いは、実と皮を分ければ大丈夫。という理由があるからだ。

 妹の渚には彩花を甘やかしすぎだと怒られているけど、そんなの知るか。

 せっかく食べさせるなら美味しい顔して食ってもらいたいって、料理するなら当然の感情だろうが。

 

「うーん、美味しいっ。大河に教えてもらった通りに作ってもこんなに美味しいドレッシングにならないのよねぇ。なんでかな」

「腕の差だろ」


 昔っから彩花は素直に感情を口にする。

 俺も渚も捻くれてるから、彩花のこういうところは何ていうか眩しい感じがする。

 育ちの良さ、ってやつなのかな。

 彩花の両親の上品さとか優しさとか、そういうものをそのまま受け継いだんだろうなって、それがよく分かる眩しさなんだ。

 

「腕の差かあ、ママみたいに美味しいご飯作れないし、大河みたいにこんなに可愛いトマトのお花も作れないぃ」


 彩花、見た目より酔っているのかもしれないと気がついたのは甘えたような喋り方になってたからだ。

 最近ママ呼びは子供っぽい気がすると、お母さんと呼び方を変えてたくせに、しっかりママに戻っている。


「そのうち上手くなればいいんじゃないのか」


 渚は今日、店に出るのを遅番の予定にして出掛けてる。

 店を開ける時間まであと一時間はあるってのに、この段階でここまで酔っ払ってんのは不味くないかと焦る。


「そうかなあ。大河はぁ、優しーよね」


 にぱっと、子供みたいな顔で笑いながらトマトを食べてハイボールを一口。


「それ以上飲むなよ」

「まだこれ三杯目だよ」


 三杯目と言いながら、さっき出したばかりの新しいボトルがもう半分に減っている。

 これ、このあいだ彩花の父さんが帰り際に入れていったばかりの奴だ。


「お前、そんな飲むとおじさんに泣かれるぞ」

「パパはぁ、ここで飲むならいくら飲んでも良いって言ってるから大丈夫なんですぅ」


 そりゃ、彩花の両親は子供の頃から俺と渚を知ってるから、娘がポンコツでもこの店なら大丈夫だって思ってるんだろうが。


「大河が怒るから、お店開く前に来てるのにそれでも怒るの?」


 くてん。

 こいつは猫なのか。

 人間の首ってそんなに横に傾ぐのかって角度で、彩花の首が傾いている。


「怒ってない、怒ってない。血合は結構匂いがキツイから、酔っ払ってると食えないんじゃないかって心配してんだよ」


 店の客と仲良くしてて、いつの間にか名前まで把握してるなんて知ってからは、とてもじゃないけどこの店でも一人飲みなんてさせられない。

 だから、一人で飲みに来るなら開店前に来いと理不尽な要求を突きつけた。俺の彼女でもなんでもないのに、理不尽なのは分かってるがそう言えば彩花は素直に開店前にやって来て「開店前だと大河とお話沢山できるからラッキー」なんて、馬鹿可愛いことを言ってくれた。

 

 独占欲とかでこんな事言ったんじゃない。

 こいつの両親もこの店の常連だから、親と一緒ならいつでもOK、だけど一人は危なすぎるんだ。


「本当に怒ってなぁい?」

「無い無い。ほら、出来たぞ」


 話しながら作ったカツオの血合いの味噌マヨ焼きを皿に並べ、カウンターに出す。

 これ以上飲ませたら大変だから、小さめに握った焼きおにぎりもついでとばかりに出してから、グラスに炭酸水と氷を足す。


「わあ、美味しいっ! なんか鉄分って感じの味がするけど、レバー嫌いの私でも美味しく食べられる」

「そりゃ良かったな」


 美味いものを食ってる時の、彩花の顔が好きだ。

 それに気がついたのは、自分が作った料理を彩花に初めて食べたせた時だった。

 彩花のこんな顔、俺だけがずっと見ていたいんだって気がついたのに、そう気がついたのは彩花からの告白を「彩花は、俺には妹みたいなものなんだ」と断ってから一年以上過ぎた後だった。

 

「おーいーしーっ」


 箸を握りしめて、足をバタつかせている。

 素面なら絶対にしない言動、完全な酔っ払いだ。

 

「お前は本当に美味しそうに食うな」

「だって、大河が作ったもの美味しいんだもーん。ママのご飯の次に大好き」


 ニコニコ笑う酔っ払いの笑顔の可愛さに、理性が焼き切れる前に、自衛とばかりに彩花の父さんにスマホからメッセージを送る。


『酔っ払いがボトルを全部飲み干す前に迎えに来てください。助けて〜~~っ』


 こんなふざけたメッセージを送れるのは、それだけ俺が彩花の父親に信用されてるからだ。


『りょーかい』


 呑気な文字だけのスタンプに安堵のため息をつくと、その元凶はすでにカウンターに突っ伏していた。


「彩花、頼むよぉ」


 カウンターの中にへたり込んで、気持ちを立て直す。

 今更好きとか言えない。

 だってこいつはもう、俺を幼馴染の兄としか思っていないんだ。多分。


「気持ち残ってたら、ふられたとか言わないよなあ。俺信用されすぎだろ、目の前で泥酔とかさあ」


 すやすやと寝ているカウンターの向こうの酔っ払いに手を出したら、そこで関係は壊れるだろう。


 今までの信用も絆も、何もかもが一瞬で壊れてなくなってしまうだろう。


 なんで俺はあの時自分の気持ちに、気が付かなかったんだろう。馬鹿すぎる。


 後に悔いるから後悔なんだと、もしも恋愛の神様がいたら大笑いされそうな気持ちで、俺は僅かに残る理性で欲望を抑え込んでいた。

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