第二章
二
ある日曜日の昼下がり、乃木家の十畳間には読経の合唱が響いていた。縁側より白銀の光が注ぎ込まれ、乃木には全てがまぶしくあった。目、そこには家族や祖母の背中が霞んでおり、僅かに瞼の上端で、掛け軸にある菩薩の厳めしい顔を捉えた。彼にはそれが疎ましかった。皆一様に畳表のイグサに影を落として、同じ頁の、同じ行の、同じ文字を嗄れ声で読み上げる、祖母の勤める御導師の鈍いスピイドを超えてはならぬとやや慎重に。その中で乃木はいやに冷静で、かつ客観的で、右手から垂れ下がる数珠も、左手で支える経本も、正座する足の痺れも、周りの人々の声も、全てが実体を伴わず迫らずに、その感触が彼の肉体の外にとどめられていた。それが殊更に彼の意識を惑わせ、暗記した題目を空で読む自分、その現実存在を洞窟の壁の裏側から漠然と見つめているような気で包まれていた。彼の前では次第に菩薩のあの顔と真白な十畳間の連続的な交差だけが残った。頭の中では、目を閉じたときに見える万華鏡のような色彩が蠢いて、彼にはもう何が何だか分からなかった。
しかし、ある一つの事柄についてよくよく思い出してみると、こうして血縁者一同で経を唱える場において、彼の立場は非常に特殊なのだ。つまるところ、少年乃木には信仰心などまるでなかったのだ。
十畳間にりんの涼しげな音が響き渡る。世界の感触が肉をもって乃木に戻ってきた。その時、彼は掛け軸の菩薩像に向かって頭を下げていた。そして、皆が順々に頭を上げていく中、とにかく自分は最後に上げようと努めていた。彼は額に汗を浮かべている。それはこの白銀の陽射しの為とは言えないような冷ややかな汗である。やがて祖母がおもむろに頭を上げると両手をぱちんと合わせて「皆さん、お疲れ様でした」などと言っては乃木の方を向いて、
「――は偉いねぇ。こんなにも丁寧な礼拝。それにお経を読む声も明るくて爽やかだったねぇ」
そう言われることが乃木にとってどれほど気まずいかその場で座している者にはまるで見当がつかないだろうが、乃木は腹の底を悪くしながらも、わなわな面をあげて「ありがとうございます」と笑顔で答えた。
――それは美しくはない。――
その後、祖母は体験に説法を組み入れた、まったくいつも通りのおはなしを始めた。乃木は背筋を針金のようにきっと伸ばし、じっと祖母を見つめた。そのお芝居がお芝居であると悟られぬように足先まで強張らせたが、それでも彼の眼差しは祖母の瞳を貫いて虚空を見ていた。燻る線香の匂いが灰色の煙のたなびきにのせられてそっと乃木の鼻腔を触る。春の陽気に温められてより香ばしい。祖母の話は親切な人々の愛想笑いに迎えられて盛り上がっていく。その傍ら、彼は夢心地な気分にゆすられ、次第にまどろんでいった。軽蔑、嘲笑といった観念故ではなく、ただ純朴な不可思議という観念故であった。しまいには祖母の声が周囲の雑踏と混じり合って区別つかなくなり、ハニイディッパアにきつね色のとろけるような蜂蜜がゆったりと絡めとられていくように彼の意識はいくつかの大切な過去にとりこまれていった。
頭に空からぽつんと雨のしずくが落ちてくるような、そんな突然の事である。彼が四五歳の頃、母が小さな鞄を手に持って「――ちゃん、――ちゃん、今日はあなたにあげたいものがあるの」とにこやかな表情で、ジグソオパズルに夢中になっている乃木を呼びとめた。すると、彼はパズルを無作法に放り投げては慌ただしく立ち上がりながら「やったぁ。ママ、何をくれるの」と叫んで、母のもとにどたどたと駆け寄って幼い双葉のような両手を差し出した。
「――ちゃん、良かったわね。あなたもね、もうひらがなが読めるものだから、ママがこれを取り寄せたの」
そう言って、母は乃木の光沢のある頭を撫でて小さな鞄から南無妙法蓮華経と数珠を取り出した。乃木は首をかしげた。それが一体何を意味しているのかわからなかった。ただ唯一の幸いは彼がまだ幼かったために、この時の母の異常な強迫を強迫だと感づかなかったことである。乃木はそれを落とさないよう慎重に受け取った。母はただそれだけのことをまるで乃木が自分の意思を受け入れてくれたかのように喜んだ。彼女に乃木は見えていなかった。ただ自分の想像と期待の中に住む乃木という妄想を見ていた。これは彼女の悪癖である。
乃木は南無妙法蓮華経と数珠を片手ずつに持って見比べてみた。どうにも食べ物ではなさそうだし、玩具にも見えない。その最中、母は小さな鞄から襷を取り出して乃木の肩にかけてやった。その襷には南無妙法蓮華経経菩薩法沸所護念分別廣説と墨字で仰々しく記されていた。その襷の仰々しさと乃木の幼さが妙な隔たりを生んで滑稽であった。しかし、母にはそれが愛らしく見えた。
「これで良いわね。とても立派よ、――ちゃん」
母は乃木の餅のような頬っぺを甘く掴んで言った。乃木は未だ母の言わんとすることがわかっていなかったが、母の「立派」という言葉だけが胸に届いて、純粋無垢にきゃっきゃっと声を立てて喜んだ。
「それでね、――ちゃんは今日から私たちにお仲間入りするの。ご法座よ、分かるかしら。週に一度、家族やおじいちゃんおばあちゃんの皆んなで南無妙法蓮華経をあげるのよ。もう霊友会には入信させておいたからまったく恥じることないわ。ねぇ、これはおめでたいことなのよ。あなたがちゃんと大人になってきてるっていう証なの」
母は乃木の目を下から覗き込むようにしながら言った。それから首を彼の耳元に滑り込ませ、彼の寂しい背中には両腕を優しく回した。彼は緊張して目を見開いた。そこで悪寒が走った。その母の言葉が乃木には狂気的にかつ暴力的に差し迫ったのだ。それは支配と庇護が重なり合った母の純粋な想いである。大人たちの無理解と侮りが引き起こす悲劇なのだ。乃木はこの時を以て他者への嫌悪感を知った。しかし、母の穏やかな眼差しとその裏側の冷淡さに彼は引き止められた。彼は観念した。やんぬるかな、そうして乃木も両腕を母の背中に回すと、見事二人は熱い抱擁を交わした。
「ほんとにおめでたいことなの」
耽美 ゴシック @masyujpn
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