7 旅立ち


 ここ三日に渡って洞窟に来なかった理由をガーネは手短に説明した。掟を破ってクルックスの海から出て行くことを決心したガーネを群れの仲間はひどく責め、ずっと言い争いをしていたと。以前打ち明けてくれたようにガーネは外の世界へ男たちを探しに行くつもりなのだろう。ただ、群れの仲間に宣言するほど事が進んでいたことについては初耳だったのでカズラも驚いた。話を最後まで聞くのが先だからと言葉には出さなかったけれども。

 ガーネの困難はそれに留まらず、カズラ――つまり人間と交流を持っていることも露見してそれはもう揉めに揉めたようだ。自身が余計な火種となってしまったことにカズラは滅多になく気が咎めたのだが、ガーネはどこか吹っ切れた表情で顛末を語っていた。少なくともカズラが朧げな謝罪の言葉を差し挟む余地はなかった。


『……それで、群れとは絶縁することになりました。追放されたと言った方がいいかもしれませんね。外海へ旅立つ前にもう一度あなたに会いたくて洞窟に行ったんです。待ちぼうけにさせていたことを謝りたかったし……何より、あなたと話したかったから。でもこの大嵐でしょう。さすがに来ないだろうと思ったのですが……嫌な予感がしたので砂浜へ様子を見に行ったら、あなたの船が大波でひっくり返っていたわけです』


 そこまで話してガーネは沈黙した。そして物言いたげにカズラを見る。一気に新情報が流れ込んできたので正直なところ何に対してどういう返事をすればいいのかカズラは整理がついていなかった。結果として出てきたのは。


『……なるほど。そういうことだったんだね』


 そういう何にでも当てはまりそうなぼんやりした返事だった。ガーネは拍子抜けを通り越して軽蔑のため息をつく。尤もだと納得しつつも、カズラは続けた。


『僕に話したかったことって何?』

『それは……』


 ガーネが口ごもる。意外な反応にカズラは首を傾げた。てっきりお別れの言葉だろうと思っていたのだけれど。とにもかくにもガーネの返答を気長に待とう。時間潰しにカズラはまず濡れそぼった服を絞った。景気よく水が零れてくる。今もまだ雨風は治まっていないため無駄な努力ではあるのだが、手遊びになれば何だって構わない。

 水を絞った先から服が雨水に濡れていくのを無為に続けていたそのとき、カズラは不穏な気配を感じ取った。殺気とまではいかない。けれど、決して友好的ではない気配。素早く顔を上げ、魔法の蔓をいくつも伸ばして警戒する――や否や一筋の閃光が二人へ向かって走ってきた。


「!」


 カズラは伸ばしていた蔓を瞬間的に集め盾にして閃光を防いだ。蔓の盾は閃光によって少しばかり焼け焦げる。恐らく雷の魔法だと推測しつつ、カズラは第二撃が来る前に新たに蔓を何百本も発生させた。複雑に絡み合った無数の蔓がカズラとガーネを半円状に包み込む。生半可な魔法使いでは突破することのできない防壁だ。と言っても、カズラに籠城する気は毛頭なかった。ガーネと話す時間を稼ぎたかっただけだ。

 カズラがガーネの近くに寄って跪く。状況を把握しきれていないガーネは目を白黒させていた。


『ガーネさん。雷の魔法使いが攻撃してきた。多分新しくやって来た人魚狩りだろう。こんな日までご苦労なことだよね……って話が逸れた。ええと、僕が奴らの相手をするからガーネさんは海に逃げてくれるかい? 万が一僕がやられたとしても、あんな荒れた海に人間は追ってこられないからね。奴らを全員倒したら何かしら合図をするから……』


 と言い募るカズラの頬にガーネの冷たい手のひらが触れる。水かきの感触が新鮮だった。完全に虚をつかれたカズラは身動きが取れなくなってしまう。そんなカズラをガーネは見据えていた。


『わたしがやります』

『……君が? どうやって? 魅了の歌声はなくなってしまったんだろう?』


 直截的な物言いにもガーネは動じなかった。頬から手のひらを離すとカズラに背を向ける。そして閃光の飛んできた方向を睨み付けた。風雨とは異なる騒がしさが近付いてきている。雷鳴。そしてがなり声。


『ガーネさん』

『わたしが合図をしたら、蔓を退かしてください』

『目の前に奴らが来ているかもしれない』

『構いません』


 ガーネが深く息を吸う。薄い肩が小刻みに震えているのをしっかりと見届けてから、カズラは言った。


『僕はいつでも構わない。合図をくれ』


 ふふ、とガーネが可愛らしい笑い声を溢す。どんな表情をしているのか今の場所からは窺えない。きっと笑ってはいないのだろうと思う。それでもカズラは釣られて微笑んだ。


『歌ってみれば? と言ったのは、カズラ……あなたですよ』


 カズラに聞こえるか聞こえないか曖昧な囁きを落として、ガーネは歌い始めた。一生懸命張り上げているわけでもないのに、耳へ飛び込んでくる甘い声。命がざわめく。ガーネを取り巻くようにしてカズラには見えない何かが集まってきている。そんなまさか。ある予感にカズラは震えた。

 ガーネの人差し指が蔓の壁を示した。合図だ。カズラは魔法を解除した。二人を覆う蔓が消える。すると目の色まで視認できる距離まで人魚狩りが接近していた。二人の男。片方の男の腕からは稲妻が迸っている。

 カズラは数本の蔓を伸ばしたまま攻撃に備えようとしたが、逡巡の後に蔓を引っ込めた。ガーネがやると言ったのだから。ガーネが決めたのだから。カズラは干渉してはいけない。その結果ガーネが死んだとしても。降りしきる雨がカズラの頬を濡らしてガーネの手のひらの感触を上塗りしていく。

 ガーネの歌は途切れずに続いている。あくまでカズラの体感に過ぎないものの、ガーネに集まる見えない何かの数が続々と増えているようだった。人魚狩りが何事か叫んでいてもカズラの耳には届かない。


「! ――!」

「――! ――、――!」


 魔法使いが雷光を放つ。もう片方の人魚狩りは剣を構えてこちらへと向かってくる。ガーネさん、と呼びかけたい衝動を堪えてカズラは結末を何一つ見落とさないように目を凝らした。雷がガーネに到達するまであと一呼吸の間もない。しかしガーネは一心に歌い続けた。

 雷がガーネを焼き焦がすその寸前、カズラの視界の端の端で突然魔法使いがくずおれた。剣を持った人魚狩りもほとんど時を同じくしてその場に倒れている。降り注ぐ雨が無数の水の矢に形を変えて人魚狩りを貫くのをカズラは確かに見ていた。

 束の間に鮮血が二人の身体から溢れる。意識があったとしてもあの出血量ではまともに動けないだろう。カズラは腰を上げた。未だ歌を止めないガーネにゆっくりと近付いて、脅かさないように声をかける。意思疎通をするための蔓は繋げたままにしていた。


『ガーネさん。もう終わったよ』


 と呼びかけてようやくガーネは歌うのを止めた。しかし、相変わらず血の海に沈む人魚狩りから目を離そうとしない。そのためカズラはガーネの前へ進んで視線を遮るようにしゃがみ込んだ。


『あの人間たちが本当に死んだかどうか確認しなくては』

『そうだね。ちょっと待って』


 カズラはガーネと目を合わせたまま、背後へ蔓を伸ばす。二本の細い蔓がそれぞれ倒れ伏した人魚狩りへと張り付いた。しばしその状態で静止してから、蔓を消す。カズラはゆったりと首肯した。


『ああ、大丈夫。二人とも死んでるよ』

『……そうですか』


 ガーネは詰めていた息を細く吐き出した。沈鬱な雰囲気が纏わり付く。しかしカズラは歯牙にもかけずにこやかに会話を続けた。


『水の精霊と仲良くなれたんだね』

『……まだすぐには力を貸してくれませんが』

『そこはまあもっと練習が必要だね。でも、綺麗な歌声だったよ』


 と上機嫌に微笑むカズラとは対照的にガーネは浮かない表情をしていた。両の手をかたく握って顔を伏せる。続けて囁き声でカズラに訴えた。


『…………わたしは、人間を殺しました』


 それは罪の告白だった。ガーネが信心深い人間で、かつ然るべき場所で行っていれば聖職者から正しい許しが得られたかもしれない。だが、ガーネは人間ではなく、ここは聖所ではなかった。それでも告解する相手がカズラでなければ許しでも慰めでも叱咤でも意味のある何かが与えられたのかもしれない。けれど、聖職者から最も遠い存在であるカズラが与えられるのは平凡な相槌だけだ。


『そうだね。それが?』


 ガーネに寄り添うようで突き放している言葉だった。ゆるゆるとガーネが上を向く。その顔には自嘲の笑みが張り付いていた。


『わたしたちを狩る人間を殺してやりたいとずっと思っていました。そんな力が欲しいと……けれど、楽しくはありませんね』

『無理に楽しもうとする必要もないさ』

『これから何度だって水の精霊の力を借りることがあるでしょう。わたしはきっとそのたびに……誰かを殺すのです』

『自分の身を守るためだ』


 後ろ向きな発言を続けるガーネを言い含めるような口調だった。正直なところ、カズラにガーネの抱く葛藤は解消できない。どうしてガーネが苦悩しているのかという理屈は漠然と掴めても理解はできないから。カズラにできるのはガーネが余計な重荷を負って判断を鈍らせないように自衛のためだと断言することだけだった。

 その思いが通じたのかどうかは定かではないが、ガーネは浅く頷いた。


『……そうですね。わたしはもう決めたのですから』

『ああ。そうだ。君は決めたんだ。群れを捨てて、邪魔者を殺して、恋をしに行くんだって』


 矢継ぎ早に語る。ガーネの迷いを振り払うように。励ますように。それだけではまだ足りないとガーネの手を握ろうとして……カズラは自身の太ももに両手をきつく押し付ける。ガーネはカズラの顔だけを見つめていたから一連の動きには気付かなかった。

 しかしながら、ガーネは居住まいを正して言った。灰色の海をちらりと見やる。


『……カズラ。わたしは行きます。外の海へ。男を探しに……知らない世界を見に行きます。すぐに死んでしまうことになっても、望んだ結果が得られなくても……わたしは後悔しません』


 自分に暗示をかけるみたいに言うんだな、とカズラは内心でだけ揶揄う。


『君ならやり遂げるよ。旅の途中で雪だって見られるさ』

『また適当なことを言っていますね』


 ガーネにしては低い声で凄まれた。そのわりには口元が綻んでいるから迫力に欠ける。カズラは喉の奥でくくっと笑った。


『これまでよりは真剣に願ってるんだけどな』

『もう。あなたという人は……』


 しばらく二人は何を言うでもなく笑っていた。何度か洞窟で共有した穏やかな時間。

 そして、いつになってもきっかけを作りたがらないガーネに代わって話を切り出したのはカズラだった。海に向かって片手をかざす。


『さあ。ガーネさん。また人間がやって来ないとも限らない。人魚狩りの死体は僕が片付けておくから、君は行くんだ』

『カズラ……』


 ガーネは下唇を噛んだ。震えてはいないが、その場を動こうともしない。ああは言っても生まれ育った海を離れがたいのだろう。何が待ち受けているか分からない外の海へひとり泳ぎ出すのが恐ろしいのだろう。別に無理しなくてもいいんだよとここでガーネを引き留めるのと、無責任な人間らしくガーネを送り出すのと、一体どちらがより残酷なのだろうとカズラは思った。考え込んでもきっと答えられないだろうから、カズラは迷わず後者を選んだ。

 前置きなしでガーネを横向きにして抱き上げる。それぞれ両腕でガーネの背中と人間であれば膝裏の辺りを支えた。あまりに咄嗟のことでガーネは抵抗することも思い浮かばずにカズラへしがみ付いた。


「! ア●△×!」


 ガーネが耳元で叫んでもカズラは素知らぬ顔で海へと歩いていく。蔓はまだ繋がっているものの、わざと互いの言葉が通じないようにしていた。間違いなく自分より重いガーネをカズラは軽々と運ぶ。カズラが飛び抜けて力持ち、なんてことはあるはずもなく。ガーネを抱え上げたときからしれっと生やしていた魔法の蔓が体重のほとんどを支えているからだ。波がつま先に触れる位置まで来てようやくカズラは魔法を再開させた。するとすぐさま甲高い声で叱られる。


『いきなり触らないでください!』

『ごめんごめん』


 悪びれない様子のカズラにガーネが追い打ちをかけることはなかった。暴れもしない。静かに抱えられたまま、遠ざかる人魚狩りの死体を目に焼き付ける。カズラが衝撃を与えないよう浅瀬に下ろすまでガーネはそうしていた。

 カズラは荒れた海を一瞥し、再び屈んでガーネと目を合わせた。ガーネの身体を支えていた蔓たちが一瞬のうちに消え去る。


『人魚の君が旅立つには最高の日だ。こんな海じゃ人間は絶対に追ってこられない。君を捕まえることなんてできない。好きなところに泳いで行くんだ』


 聞く者によって響きの変わる透き通った声だった。恐らくガーネは激励と受け取っただろうし、もしかしたら惜別の言葉にも聞こえたかもしれない。


『カズラ……ありがとう』


 ガーネは黄金色の瞳を潤ませていた。瞬きをするたびに人間と変わらない涙が青白い頬を濡らす。雨に混じってすぐに見分けがつかなくなった。カズラは僅かに思案する素振りを見せて、やっとガーネの手を握った。やはりガーネの手は冷たい。でも今のカズラの手もなかなか冷えている。カズラが一方的にガーネの手を包み込む握手というには不格好な繋がりに、しかしカズラはこの上なく満たされていた。

 そしてガーネが握り返してくるのを待つでもなく、カズラは手を離す。ガーネが疑問を述べる前にカズラは立ち上がった。まだまだ離れがたいと臆面もなく訴えかけてくる黄金色から濁った色をした海へと視線をずらして、また戻った。年長者ぶった余裕のある笑顔で告げる。


『また……どこかの海で会おう』


 ガーネは不確かな将来を展望する言葉を噛み締めるように何度も何度も首を縦に振った。涙か雨か分からない滴をがむしゃらに拭ってカズラを見上げる。


『はい。また……どこかで』


 返事はせず、笑みを深めるに留めてカズラは魔法の蔓を切断した。ガーネが海へと潜っていく。勢いのある波に足を取られそうになってもカズラはその場から動かない。ガーネは振り返ることも手を振ることもしないまま波間に消えていった。紺碧の鱗が七色に煌めく、その一瞬だけを残して。

 ガーネの這った跡は押し寄せる波があっという間にただの砂浜へと塗り替えてしまった。もうここに人魚はいない。クルックス海の人魚が自ら進んで人間の前に姿を現すことは二度とないだろう。仮にそんなことがあるとするなら、それはこの海の人魚が滅びる時以外にない。


「海を眺める楽しみが増えたな」


 と呟いてカズラはすべきことのために踵を返した。カズラの旅はこれからも続く。そして海の近くに行くたびにガーネを探して、落胆したりしなかったりガーネじゃない新しい何かを発見したりするだろう。

 カズラは人魚のいる海に一度だけ手を振る。それから全速力で駆け出した。嵐に負けないくらい奇妙な歓声を上げながら。


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人魚のいる海 鈴成 @tou_morokoshi

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