6 予兆


 三十日目。カズラは日没を迎えてもなおガーネを待っていた。小雨が朝から降り続いている。カズラは落ち着きなく洞窟内を歩き回っていた。


「昨日はガーネさんを怒らせるようなことは何もしなかったけどな」


 それどころか昨日はこの前カズラから茹で芋と果実を分けてもらったお礼にと、ガーネの主食である貝を持ってきてくれたのだ。貝を生で食べるのは初めてだったが、食べてみればこれが意外に美味い。腹を壊すこともなかった。和やかな時間を過ごせたはずだ。

 それなのに、どうしてガーネは来ないのだろう? やはりカズラが無自覚に怒らせてしまったのだろうか。と何度目か分からない可能性に思い至ってカズラはゆっくりと膝を折った。尖った岩が脛に食い込んで痛い。


「元々は僕が一方的に始めたことだもんなあ」


 自分がまだ飽きていないことにも、ガーネが少なくとも昨日までは自分を見限っていなかったことも。どちらも奇跡のようなものだ。潮時なのかもしれない。しかし、まだ諦めきれない。とっくに終わった恋に追い縋る男の気持ちが今なら分かるかも、とカズラは乏しい表情で夜の海を見ていた。


「また明日」


◆◆◆


 三十一日目。降り止むこともないまま雨脚は強まっている。カズラはびしょ濡れのまま洞窟で仰向けになっていた。とっくに夜は明けていたが、厚い雲に覆われた空は相変わらず薄暗い。


「人魚狩りに捕まっちゃったのかな」


 声は掠れている。カズラはのろのろと上半身を起こした。


「もしそうならもっと騒ぎになってるはずだけど」


 新手の人魚狩りが来ていると知ってから情報は仕入れるようにしていた。昨日までの時点で彼らの動きに変化は見られない。前の連中と同じように海に出ては人魚を探して誘き出そうとしている。ガーネはもちろんガーネの群れの仲間も誰一人としてそんな見え透いた罠には近付こうとしないが。彼らの忍耐はいつまで続くだろうか。カズラよりも早く音を上げるだろうか?


「また明日」


 言い残して洞窟を出ていく。もはや濡れていない箇所を探すほうが難しかった。


◆◆◆


 三十二日目。雨は止むことを知らない。かつてない大嵐がやって来ると町では騒ぎになっている。確かに雨でなく風も強まっているのをカズラも肌身で感じていた。濡れた髪がいちいち顔面に張り付いてくる不快感も水分を多分に含んだ服や砂が肌に纏わり付いてくる煩わしさにもいい加減慣れた。最初から存在しないものとして扱えるくらいには。

 だからカズラは嵐の予兆をまるきり無視して洞窟に座り込んでいた。洞窟内の浅海も確実に高さを増していたが、カズラは知らん顔だ。


「ガーネさん、無事だといいけど」


 たまに独り言を溢しつつ、びちょびちょになった茹で芋を頬張る。美味くもないそれをカズラはひたすら食べ進めた。混乱と恐慌に弄ばれる島のなかで人魚狩りは単調に獲物を追い続けているが、狩りが成功したという一報は入っていない。


「また明日」


 ガーネの健康的に光る鱗を瞼の裏に思い浮かべながら、カズラは呪うように再会を願った。


◆◆◆


 三十三日目。海が荒れ狂っている。強風にあっちこっち揺らされながらカズラは浜辺までやって来た。雨の勢いはそれほどでもないが、とにかく風が強い。夜が明ける直前になっても空も海も暗いまま。時間の感覚が狂いそうだ。

 そして当然ながら浜辺には誰もいない。もちろん海にも。そもそもここに来るまで人影すら見当たらなかった。皆各々の家に籠って嵐が過ぎるのを息を潜めて待っている。こんな日に外に出ているのはよっぽどの物好きか、自殺志願者だろう。カズラはそのどちらでもないつもりだったけれど。


「こうなると故郷の海に似ているね」


 などと、呑気に感想を呟きながら小船を海へと押し出していく。幾重にも大波の重なった海は己のうちに入ったもの全てを貪欲に呑み込んで、そして二度と陸には帰さないだろう。それはきっと人よりも少し死をごまかす術に長けたカズラも例外ではないはずだ。

 ガーネとは確固たる約束をしているわけではない。しかもガーネはもう三日、今日を入れれば四日も洞窟に来ていない。そんな相手のために荒れ放題の海へ漕ぎ出すなんて馬鹿げている。たとえ今日ガーネが洞窟へ来る気になったとしてもまさかカズラがこんな状況でやって来るとは思わないだろう。

 そうやって行かない理由を頭のなかで尤もらしく並べ立ててから、カズラは満足そうに笑った。


「でも、また明日って言ったしなあ」


 ガーネがそれを聞いていようがいまいが。意思が伝わってようがいまいが。そんなのは関係がない。これは己を満たすためだけの行いなのだから。

 舳先が海へと乗り出した。小船の大部分はまだ砂浜に残っているのにも関わらず激しい揺れがカズラに伝わってくる。けれどカズラは構わずに小船を押した。小船が海に滑り出るのと同時に飛び乗る。


「あーあ」


 海に出て間もなく押し寄せる波の滴によってずぶ濡れになった。カズラはへたれた前髪を乱暴に掻き上げる。魔法の蔓で櫂を操りながら、小船に蔓と手でしがみ付いた。しかしもはや魔法の力をもってしても制御できる状況ではなかった。

 役に立たない櫂を自ら手放す。直後に櫂はへし折れて白波の合間に消えていった。うねる波に小船は翻弄され、洞窟とはまったく違う方向へ運ばれていたがカズラは気付かない。もし気付いたとしても抗うことは不可能だっただろう。

 ひときわ巨大な波が小船へ覆い被さろうと持ち上がった。カズラは来たる衝撃に構える。だが、それに合わせるかのようにちょうど小船の下の海面が山のように盛り上がった。小船はいとも簡単に、いや、ようやくと言うべきかもしれない。ようやく小船は当然そうなるように転覆した。


「うわっ」


 まるで切迫感のない言葉を吐き出し終わらぬうちにカズラは波に攫われ荒ぶる海へと引きずり込まれた。海は濁っていて手の届く範囲すら見渡せない。そもそも上下左右に揺さぶられて今自分が海面に向かっているのか海底に向かっているのかも判断できなかった。とにかく蔓の魔法を海底らしき方へ伸ばして岩か何かに固定しようとしても、口から鼻から次々に侵入してくる海水がカズラの集中を阻んだ。

 泳ぎ方なんて知らない。カズラは泳げない。故郷の海はクルックスの海のように穏やかではなかったし、カズラを海に誘ってくれる家族も友もいなかったから。自分のなかに蓄えられている命が続々と消費されているのが分かる。瞬く間にカズラは死んで生き返ってまた死んで生き返る。カズラの抱える命の数々が尽きるのにどれだけの時間がかかるのだろうか?

 呼吸が許されず死ぬ直前の息苦しさを味わい続けたままカズラは考える。


(僕はついに死ぬのか。こんな間抜けで無様な死に方が僕のような人間にはお似合いなんだろう。いやこれでも勿体ないかもしれないな。こうして死ぬことは恥ずかしくない。後悔もない。ただ、ガーネさんに会えなかったことだけが心残りだ。君が誰かと恋をして、子どもを生んで、育てる。それを見ることは人間の僕にはできないけれど。この広い海のどこかに君がいるのなら……)


 霞む意識のなかでカズラは何か言おうと口を開く。しかしとうに気泡すら吐き出せなくなっているカズラが、ましてや言葉を伝えられるはずもなかった。


「……、…………」


 完全に脱力したカズラの身体が海に振り回される。意識を失ってもなおカズラは死にながら生きるのを繰り返していたが、命の全てを海が食べ尽くすのも時間の問題だった。

 そこに、凄まじい速さで接近してくるしなやかな影があった。


「ア□ァ■! ×ァ▲○●ア□ァ!」


 荒れ狂う海であっても遍く響く叫び声をあげながら、半人半魚の影――ガーネは海中を四方に捩じれながら沈むカズラを取り逃すことなく一発で抱きとめることに成功した。

 一息つく間もなく上昇し、カズラを仰向けにさせ海面から鼻と口が出るようにする。それから片手をカズラの背後から胸を抱えるように伸ばし、その手で顎を固定するように持った。カズラはぴくりとも動かない。その顔色は白化した珊瑚と似たり寄ったりだった。


「●×……カズラ、▲△□」


 カズラの、もとい人間の身体に損傷を与えない限界の速さでガーネは泳ぐ。カズラが再び海に沈むことのないように庇いながら激しい波の合間を縫って飛ぶように泳いでゆく。目指す砂浜までの距離が恐ろしく遠く感じた。

 人魚狩りに捕まって連れてこられた因縁の砂浜。カズラがガーネを見つけて救った場所でもあった。当時の恐怖と怒りが蘇って身体が強張る。けれど、ガーネは一瞬だって止まらなかった。一直線に砂浜へ乗り上げてカズラを波打ち際から遠ざける。しかしながら、波に攫われないぎりぎりのところまで引きずって運ぶだけで随分と時間がかかってしまった。一時は小康状態にあった雨がまた勢いを増しつつある。はっきりとした雨粒がカズラの顔に張り付いた砂をところどころに洗い流していった。カズラは起きない。完全に静止したまま上から覗き込むガーネと向かい合っていた。

 カズラは死んでいる。あの人魚狩りと同じように。これまでガーネが見捨ててきた人間たちと同じように。もう死んでいるのだから、ここから離れるべきだ。こんなときでもこんなところにやって来る人間がカズラ以外にいないとは限らない。そうだ。こんなときに。人間が御せるはずもない荒海を相手にしてまで魔物に会いにいこうとするようなおかしな人間が。また明日、と繰り返されたカズラの声をガーネはどうしても忘れることができない。


「カズラ!」


 ガーネは叫んだ。両手を組んで一つの拳を作り、思い切り振り上げる。そして力いっぱいカズラの胸めがけて振り下ろした。重たい殴打音を二度三度、更にもう一度鳴らしたところでガーネは止まった。大きく肩を上下させながら何の反応も返さないカズラを見下ろす。自然に癖のついた桃色の巻き毛がカズラの頬を擽っていた。


「カズラ……」


 乱れた吐息を不規則に吐き出しながらガーネはカズラを呼んだ。雨風に掻き消されるほどの小さな声。残念ながらガーネ自身もカズラに届くとは思っていなかった声。

 しかし、応えはあった。げほっ、ごぼ、ごほっ。カズラの胸から喉、そして閉じていた唇へと濁った水音が移動していく。そして、体内から押し出されてきた海水によってカズラの唇はこじ開けられた。それに合わせてカズラの両目が見開かれる。ガーネは慌てて姿勢を元に戻した。


「がっ……おえっ、げほっ! げほっ!」


 カズラは何度も激しく咳き込んだ。ひとしきり水を吐き出した後で、ゆっくりと上体を起こす。ガーネはその背中を優しく支えた。


「カズラ!」

「……ぅ、あれ、ガーネさん?」


 大声で名前を呼ばれてようやくカズラはガーネの存在に気が付いたようだった。生理的な涙で滲んだ鶸色の目が丸くなってガーネを捉える。急激に血色の戻りつつあるとぼけた顔にガーネは言ってやりたいことが沢山あった。けれど、カズラの魔法がなければ言葉で意思疎通を図るのは難しい。だから、ガーネは魔法がなくても伝わる唯一の言葉で思いの丈をカズラにぶつけることにした。


「カズラ! カズラ! ……カズラ!」


 一度たりとも同じ呼び方はしなかった。怒り、安堵、焦燥、歓喜。海中に沈むカズラを見てからこれまでガーネの心に湧き上がったありとあらゆる感情を込めてガーネは喚く。無意識のうちに数回カズラの肩や背中を叩いてもいた。


「うん……うん。ごめんね、ガーネさん。それと……ありがとう」


 カズラはされるがままずっと頷いていた。蔓の魔法を使えばお互い楽に会話ができると分かっていながら、しかし決してそうしない。この瞬間ばかりは二人とも相手の伝えたいことがはっきりと理解できていたから。

 しばらくするとガーネの噴き出す感情が尽きて、無言の時間が続いた。そうなってようやくカズラは細い蔓をガーネへ伸ばしたのだった。

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