番外編2話


 由紀さんと付き合いはじめて初めての週末だった。そわそわと落ち着かない瞬間のある少しくすぐったい日々の中で、それは突然に訪れた。


「おー、久しぶりですね」

「えっと、こんにちは」


 この人は知っている。由紀さんが会社の飲み会で潰れた時にタクシーで送り届けてくれた人。由紀さんの同期の人だ。


「由紀は? まだ寝てんの?」

「起きてますよ。 由紀さーん!」


 大声でリビングの方に呼びかければ、まだ少し眠たげな由紀さんが部屋着でこちらにやってきた。同期の人を見て少しだけ驚いて、そしてため息をつく由紀さんを見て目の前の人が楽しそうに笑っている。


 まだ寝てる、なんて言葉は、由紀さんが朝弱いことを知ってるからこそ出る言葉だし、こうやって目の前で気のおけない関係感出しながら会話されるのも、ちょっぴり嫉妬する。顔には出さないけど後で拗ねるくらいは許されるかな。


「てか入れてよ、お邪魔しまーす」

「ちょっと……」

「あ、スリッパ出します」


 来客用のスリッパを出せば彼女の視線がようやくこちらを向いた。


「由紀はいい恋人を見つけたねー」

「え?!」


 この家全体に響くような声に、一瞬驚いた顔が一気に吹き出して笑う。いや、だって、まさか私と由紀さんの関係を知ってるだなんて思わなかった。由紀さんが、そういうことを他の人に言ってるって思わなかった。

 そんなことで満たされるなんて、単純すぎるかな。


「何しに来たの優」

「えー、最近全然ゲームしてくれなくなったからその理由を見に来たんだよ」

「冷やかしならもう済んだでしょ」


 由紀さんのそんな言葉にも優さんは特に気にしていない。普段からそんな会話をしているのかもしれない。とりあえずグラスに麦茶を入れてソファーに座る優さんに差し出せば彼女はまた私を褒めてくれた。


「由紀こんないい子どこで持ち帰ってきたの」

「人聞きが悪い」

「あはは、転がり込んだのはむしろ私の方ですけどね」

「へぇー。 じゃあルナちゃんの方が由紀を捕まえたんだ?」

「え? いや……捕まったって意味では私の方が先かも」

「ルナ」


 由紀さんの低い声。私はあまりその声を聞くことがないからその声を聞くと言葉を引っ込めるんだけど、優さんはまだ気にしていないらしい。キッカケやどっちから、なんて話をめげずに聞いている。由紀さんは食べかけだった朝兼お昼ご飯を食べている。


「てかさ、名前教えてもらっていい?」

「そういえばお互い自己紹介してないですよね。 立川あさひです。 宜しくお願いしますね」

「え、ルナじゃないの?」


 そういえばそうだった。

 ははは、なんて下手な笑みを返しつつどう説明したらいいんだろなんて考える。だって説明の仕方をちょっと間違ったら、それって由紀さんが結構危ない人になっちゃうから。


 人間を拾ったって部分がまず中々人には言いづらいことだろうし、更にはその子を本当に猫みたいに名付けて呼んでた、なんて人によっては眉を顰めるかも知れない。目の前の人はそんなふうには見えないけれど、会話したのだって今日で二回目の私じゃわかりようもない。

 助けを求めるように由紀さんに視線を向ける。ようやく食べ終えて手を合わせていた由紀さんと目が合えば、焦茶色の瞳が真っ直ぐにこちらを見る。うーん、可愛い。


「夜に会って、猫みたいだからルナってつけた」

「うわー……由紀たまに常識とずれてるなーとは思ってたけどこれは今までのやつ超えてるね」

「あはは、えと、優さんのお名前も聞かせてくださいよ」


 由紀さんの包み隠さない言葉に、早々に話題をシフトする戦略に切り替える。どこまで由紀さんがこの人に私のことを言っているのかわからない以上、あまり下手なことは言わないに越したことはない。

 由紀さんはそんなこと全然気にしていないみたいだけど。

 

「私は秋田優。 よろしくねっと……あさひちゃん?ルナちゃん?」

「あはは、そうだな……あさひちゃん、がいいかな?」


 ルナって呼ぶのは由紀さんだけがいいから。心の中でそう付け加える。この名前に降り積もった時間や思い出がとても特別だから、こんな我儘をどうか許して欲しい。

 優さんはニコリと快活に笑うと、食器を洗い始めた由紀さんを呼ぶ。水の流れる音が止まって、由紀さんがため息をつきながらゆっくりとこちらに近づいてくる。二人掛けのソファーから退いて由紀さんに目配せをすれば、彼女の手がふわりと私の頭を撫でて、それからソファーに腰かけた。

 ローテーブルの隣に座り直しながら頭の感触を反芻する。優さんがいなかったら、少し甘えられたかな。目も覚めて特に用事のない休日、甘えるにはもってこいの日な気がする。


「甘ったるい空気出すのやめてよ、邪魔者みたいじゃん」

「そう感じるならそうなんじゃない?」

「こらこら」


 ソファーで二人雑談に花を咲かせる二人を眺める。時折会話に混ざりながら職場での由紀さんの話を聞いたり、家での由紀さんのことを話したりと楽しい時間が過ぎていく。甘えたい気持ちは消えないけれど、由紀さんの交友に自分も混ぜてもらえるのは嬉しい。それに、甘える時間はまだまだたっぷりあるしね。


「でも本当に良かった」


 伸びを一つして、優さんは言う。

 突然猫を飼い始めたと言ったこと、それが猫じゃなく人だったこと、その人を由紀さんが大事にしていること、そんな日々を話では聞いていたけれど、それが本当に祝福していいことなのか確信がなかった。

 もし、万が一。それは大切な友人に対してならきっと当たり前に抱く不安だと思う。


「由紀はどこかドライだったからさー、余計に安心した……勝手なお節介なんだけどね」


 ふわりと笑うその表情は、言葉以上に安心していることが伝わるような笑みだった。この笑みを裏切らないようにしたいな。


「これからも任せてください」


 背筋を伸ばして力強くそう答えれば、優さんは明るい笑い声をあげて、由紀さんはなんとも難しい表情をする。我慢する理由も言い淀む壁も今はないし、ずっと我慢してきた分今はいっぱい気持ちを伝えたいと思うから、由紀さんも受け止めることに慣れて欲しいな。


「本当、由紀にはもったいないいい子だね」

「うるさい」

「本当は今日一日居座ってやろうと思ってたんだけど、もう十分安心できたしお邪魔虫はさっさと帰ろうかな」


 そう言うと優さんは徐に立ち上がる。突然押しかけてきた目的はどうやら達成されたみたい。テキパキと身なりを整えてそそくさと玄関に向かう彼女を追いかける。由紀さんはソファーに座ったままひらひらと力なく手を振るだけだった。


「ありがとうございました、由紀さんのこと気にかけて貰って」

「本当に大学生? しっかりしてるね」

「あはは、そうでもないですよ」


 靴を履き終えた優さんが振り返る。そこには先ほどまでの朗らかな笑みとは違う、微笑の中に真剣さが滲むような顔があった。


「……私、由紀のこと猫みたいだなって思ってたんだよね」

「え?」

「ユキって名前の白猫のイメージ。 ツンとしてて、誰にも甘えなくて、一人で凛と立つ白猫」


 白猫。確かに実際には私よりも由紀さんの方が猫っぽいと思うことは多々ある。よく寝るし、一人で過ごす時間が好きそうで、結構気まぐれな部分もある。

 白い猫が毛繕いをしている映像を浮かべて、くすりと笑う。


「だから、ルナって黒猫みたいな名前を聞いた時は結構面白いなーって思ったし、お似合いだなーって思ったよ。 二人は出会うべくして出会ったのかもね」


 毛繕いをする白猫の隣に、黒猫が近づく。黒猫の舌が白猫の毛繕いを手伝って、白猫の目をゆっくりと細まる。


「大事にします」

「うん。 あの子自分を大切にすることすら疎いところあるから、宜しくね」


 玄関の扉を開けて、こちらに手を振る彼女に会釈をする。眩しいくらいの晴れやかな空がゆっくりと閉じて、パタンと扉が閉まる音。彼女がどんな理由をもってして由紀さんを大事にしてるのかまでは推し量れないけど、でも、私に出来ることは変わらない。

 

 リビングに戻ると、由紀さんがソファー越しにこちらを振り返る。無意識に入っていた肩の力が抜けて、ソファーに座って彼女に肩を触れさせる。


「ごめんね、突然」

「いえ……職場での由紀さんの話とか聞けて嬉しかったですよ」

「それならいいけど」


 返ってくる肩にかかる重み。隣を伺えば、彼女もまたこちらを見ていて、自然と顔が引き寄せられる。ゆっくりと目を瞑りながら唇を触れ合わせれば、コーヒーの香りがする。私がコーヒーの匂いで由紀さんのことを思い出すようになってしまったらどうしてくれるんだろう。そうなっても、後悔するなんてことはないけれど。


「……」


 もう一度各度を変えて触れる。自分がこんなに簡単に欲情するなんて知らなかったな。

 付き合ってみても由紀さんが大きく変わることはない。私が我慢してたものを我慢しなくなったみたいに突然甘えたがりになるわけでもないし、求める数が増えるなんてこともない。ただこうやって過ごす時間に、目を緩めて口角を上げることが増えた気はする。そのせいで私は焚き付けられて、頭が熱で浮かされてばかりなんだけど。

 

「……したいの?」

「……はい」


 フッ、と目の前の彼女が僅かに笑う。私を甘やかす時の顔。もうその顔に苦しいなんて思うことはなくて、ただひたすらに甘くて、蜂蜜の中にどろりと浸かってしまうみたいなそんな心地。触れる舌先に、合わせるように由紀さんが動く。今日はもう存分に甘えてしまおう。そう決心して彼女をソファーに押し倒す。焦茶色の瞳が私を見上げて、また甘やかすみたいに目を細める。

 

 手放せ、なんて言われても手放したくないし、由紀さんが自分を大事にするのが下手ならその分私が大切にするし。とにかく、私ができることがあるならなんでも注ぎたい。

 

「大事にします」

「それ、さっきも聞いた」

「あはは……そうですね」


 唇、鼻先、こめかみ、熱を注ぐように唇で触れる。さっきも言ったけど、何度だって言いたくなるから仕方ない。

 偶然か必然か、似合うとか似合わないとか、分かりようもないけれど、必然だったって、お似合いだねって言われる人でいたいから。誰よりも隣にふさわしい人に、誰よりも由紀さんを大事にできる人になりたいんだ。

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その日、ルナと名付けました 里王会 糸 @cam_amz_

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