二話 道中にて
がたごと、と不規則な馬車の揺れに合わせて銀の髪もふわふわと揺れる。薄い幌ごしに聞こえる鳥のさえずりに耳を澄ませるのにも飽きて、
「ねえ、街まではもう少し? 前に休んでから随分経っているようだけれど……」
「ああ、もう少しの辛抱だ。悪いがそれまでは中で待っていてくれ」
暗に「休まない?」と言ったつもりなのだがこの男には通じなかったらしい。見知らぬ人間である自分にも声をかけるほどのお人好しではある上に、どうにも玄は少し真面目過ぎるきらいがあるようだった。
彼と出会ってから数日……人間になってからというものの、とかくこの身体は疲れやすい。仙女であった頃には考えられない苦労についつい溜め息をつきそうになってしまうが、そもそもこの馬車も歩き慣れない嫦娥の為に用意したものだ。贅沢を言っている場合ではないし、実際周りを気にしながら馬を走らせる玄の方がずっと疲れがたまっているのではないだろうか。
「変わった方、せっかく得た妻につまらない思いをさせておくつもりなの? 窮屈なのだし一度外に出させてくれないかしら」
彼女の高飛車な発言に玄はきょとんと吊り目がちの瞳を丸くする。そのまま少し考えこむ素振りを見せたかと思えば、池のほとりへと馬車を停まらせた。
「確かに君の言う通りだ。馬も休ませてやらなくちゃいけないしな」
そっちじゃないのだけれど、と思いつつも素直に言うのはなんとなく気恥ずかしくって嫦娥はこほんと小さく咳払いをする。そして彼に並んで池のほとりへと腰を下ろすとおずおずと口を開いた。
「今向かっている街はどういうところなの?」
「ああ……何度か寄ったことがあるが、活気に満ちた良いところだ。君の目的を果たす手助けに成りうると思う」
玄は現在人々の生活を脅かす悪獣を斃すために国中を旅をしているのだが、その最中に以前立ち寄ったのがこれから向かう
「そうなのね。ならますます早く着かなくっちゃ」
嫦娥は長女であるがゆえに月の女神になる予定ではあるものの、下にはたくさんの妹たちがいるのだ。「月の女神」になることはみんなの憧れであり、うかうかしている内に他の姉妹がなってしまったなんて展開もあり得なくはない。
「そうだな……だが、流石に今の格好では目立ちすぎる。君には悪いがせめて髪飾りだけでも外してもらえないだろうか?」
めらめらとやる気に燃える嫦娥をじぃと眺めながら不意に玄が一つの指摘を口にする。彼の言う通り銀細工の髪飾りは一目見ただけで高級品だとわかるほどの品であり、人々の暮らしに混ざるにはあまりにも異質な存在感を放っていた。
「それならあなたが預かっててくれる? なんならつけたっていいわよ。案外似合うかもしれないし……」
精悍な体つきの男性に女性用の髪飾りが似合うはずもない。揶揄いまじりの嫦娥の言葉に玄は不可解そうに眉間に皺を寄せる。そしてしばらくの沈黙の後、おずおずと申し訳なさそうに申し出たのだった。
「失礼ながら、俺はあまり着飾るのは得意じゃなくてだな。君の感性を疑うわけじゃないが、その……」
「やだ、あなたったら……ふふっ」
冗談に対し彼が少し恥ずかしそうに生真面目な返事をするのがおかしくって、抑えきれなかった笑みがついこぼれてしまう。くすくすと軽やかな笑い声をあげる嫦娥の姿に玄はきょとんと眼を丸くしたものの、つられてわずかに頬を緩めた。
「いいわ、不審がられちゃ元も子もないものね……けど、それなら私の格好の方が問題じゃないかしら」
胸元に繊細な花の刺繍のあしらわれた単衣や肌触りの良いたっぷりとした裳、透き通るほど薄い袖は天女の羽衣を思わせるほどだ。そんな恰好をしていれば人目を惹くのも当然だろう。そんな彼女に対し、玄は至極真面目な顔つきで口を開いた。
「その方がいいだろう。いざという時の言い訳も用意して……」
「えっ? なぁに?」
けれど最後まで口にするよりも前に彼は口をつぐんでしまう。それを不審に思った嫦娥が声を上げようとした瞬間、玄は彼女を勢いよく抱き寄せた。
「なっ……なに?」
「静かに」
緊張を孕んだ鋭い制止の声にじわりと上がったはずの身体の熱が急激に引いてゆく。鳥のさえずりの中に交じった数人分の足音と武器の擦れる音が耳に届くや否や、玄は短く指示を下した。
「おそらく賊の類だ。君は馬車の中に隠れていてくれ。相手は俺がする」
「でも、それなら逃げた方が……!」
多勢に無勢なのだから退いた方が良いという意見はもっともだ。しかし気づくのが遅れてしまった以上、下手に動くよりは迎え撃った方が被害は少ないだろう。
叢を掻き分けて木の陰から姿を現した盗賊たちを前にして、玄は焦った様子もなく弓を引くとそのまままっすぐに矢を放った。
風を切って勢いよく飛んだ矢は盗賊たちの合間を縫って頭領と思わしき男の被る笠の先に突き刺さる。まだ幾分距離があるにも関わらず寸分違わず狙いを打ち抜いた玄の腕前に、盗賊たちの間にどよめきが広がっていった。
「ここは退いてはくれないだろうか。さもなくば次は当てる」
威嚇射撃の効果は十分だったのか、青ざめた盗人たちの足は自然と後ずさり逃げる準備を始める。手にしている刃などもろくに手入れもしていないのか油で汚れており、脅しとしての役割しか果たしていないことが窺えた。
とどめの一押しと言わんばかりにもう一度矢をつがえれば、勝てないと悟った彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。後に残ったのは先ほどと変わらぬ葉の擦れる僅かな音ばかりで、緊張の糸の切れた嫦娥はほーっと大きな息を吐いた。
「大丈夫か?」
「ええ……でも驚いたわ、あなたって強いのね」
馬車の中を覗き込んで彼女の様子を窺う玄のまなざしは、先ほど盗賊たちを睨めつけていた時とはうって変わって穏やかだ。安堵でへたりこむ嫦娥に対し、彼はいたってあっけらかんと呟いたのだった。
「そうだろうか。まあそうでないと悪獣を退けて人を守ることなんてできやしないからな」
その言葉にふと嫦娥は自身の一つの思い違いに気づく。「この口ぶりから察するに、もしや悪獣というのは想像以上のとんでもない化け物なのでは?」と。仙人界には悪しき獣なぞ存在しないので、その事実に気づくのに幾分か遅れてしまったのがすべての敗因だった。
「……あなたの言う通り、街についたら着替えるわ。この格好じゃ逃げるのもままならないもの」
今の様に盗賊に狙われるのもできるだけ避けたいし、いざという時にこんなひらひらした服では逃げるのにも一苦労だろう。ため息交じりに決意を固めながら、ふと嫦娥は先ほど中断された会話を思い出して一つの疑問を零した。
「ねえ、そういえばさっき言っていた言い訳ってどんなもの?」
高貴な装いの言い訳と言っても、生半可なものでは納得してもらえないだろう。首をひねる嫦娥に対し、玄は頬を緩めると「ああ」となんでもないことのように告白したのだった。
「美しい妻を得たんだ。夫なら浮かれて着飾らせたとしてもおかしくはないだろう?」
「……やっぱりあなた、ちょっと変わってるわ!」
嫦娥の恥じらい交じりの叫びが、静かな林の合間にこだましたのだった。
落月物語 折原ひつじ @sanonotigami
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