落月物語

折原ひつじ

一話 月が落ちた日

 今にも零れ落ちそうなほど、たっぷりと月の実った夜だった。

 

 空を顧みることもなく、ただひたすらに青年は地に付した怪物へとまなざしを向ける。もうぴくりとも動かない異形は、一矢にしてその命を摘み取られていた。


 喉を射抜いた矢を引き抜けばごぽりと溢れた血が土を濡らす。細々とした流れはとどまることなく傍らに佇む青年の草鞋に染み込んでいった。

 翡翠を思わせる瞳の片方はぬばたまの髪に隠されており、横顔からはその表情は伺い知れない。日に焼けた頬は退治を終えたにも関わらず浮かない様子でひどく強張っていた。


 彼はただただ静かに自身が退けた怪物の亡骸を見下ろしたあと、小さく息を吐いた。

 呼応するように風が吹けば、辺り一面に生えた桂の葉が擦れてかすかな音を立てる。月明りから庇うように生い茂る葉影は常よりも暗い色をしていた。

 そこでようやく彼は月明りの異様な明るさに気づき、ゆっくりと視線を天へと向ける。


 その瞬間、遥かかなた上空から落ちてゆく少女の姿を双眸が捕らえた。


「……人、か?」


 呟きが喉から漏れるのと同じタイミングで、彼は地を蹴り勢いよく駆け出す。落下予測地点とはそこまで離れておらず、弓兵として鍛えた身体能力も相まって地に叩きつけられるギリギリで彼女を受け止める事に成功したのだった。


「ッ……君、大丈夫か?」


 頭上にあった桂が衝撃を吸収したのも幸いだった。常人ならただでは済まなかっただろうが男は難なくその衝撃を受け止める。抱え込むような形で抱き留めて安堵の息を吐いた後、ようやく青年は彼女の姿をはっきりと目に映したのだった。


 月の光をそのまま閉じ込めたかのような、銀の髪の美しい少女だった。頭の上で二つの団子にまとめられた髪には銀細工の髪留めがあしらわれており、一目でどこか高貴な身の上であることが見て取れた。流れる長髪には花が編み込まれているのか、夜闇の中でも甘やかな花の香がふわりと薫る。おそらく金木犀だろうか。


 不躾にも身なりを観察していれば、揃いのまつ毛に縁どられたまぶたがゆるゆると開き、藤色の瞳と視線がかち合った。


「あなた、怪我は……!」

 

 瞬間、事態を把握したのか白磁の肌から見る見る内に血の気が失われてゆく。空から人が落ちてきたのだ、受け止めた側は尋常ではない怪我を負ったのではないかと考えたのだろう。放っておけば今にも泣きだしそうな彼女に青年は慌てて訂正するべく口を開いた。


「いや、俺は人よりも頑丈だし鍛えているから大丈夫だ。どこも怪我はしていない」


 実際鍛えているからと言って空から落ちてきた人間を受け止めれば死んでもおかしくないのだが、そんな常識を知る由もない彼女は「そういうものなのね」とその言葉に疑問を抱くことなく受け入れほっと少女は深い息を吐く。落ち着いたであろうことを見計らって彼女を地面に降ろせば、豪奢な造りの沓が触れたこともなさそうな土を踏みしめた。


「そう、良かった。助けてくれてありが……」


 そこまで口にしてから何かに気づいたのか、ぎくりと肩を強張らせた後わざとらしく一度咳ばらいを挟む。そして先ほどの殊勝な態度を塗り潰すように大仰な口調で言葉を紡いだのだった。


「いえ、あなたの働きに礼を言います。ええと……」

げんだ。君にも怪我がなくて良かった」


 玄の労りに少女は少し面食らったようだが、すぐさままた偉そうに胸を張ってみせる。その様子を「あまり似合ってないな」と思いつつも彼は黙って彼女の台詞を待った。


「そう、玄と言うのね。その働きを賞して戻ったのちには何か褒美を取らせます」


 その言葉にようやく玄は緊急事態ということで忘れかけていた違和感に気づく。彼女は空から……生い茂る桂よりも遥か遠くの空から落ちてきた。その通常ではありえない事態に対して問いを投げかけるよりも前に彼女が口を開く。


わたくし嫦娥じょうが帝俊ていしゅんの娘にして、やがて月を司る女神となる者です」


 天を治める偉大なる帝の名前に玄の胸にちりりと焦りが走る。彼の娘だと言うのなら、その気品溢れる様子にも納得がいった。だが……


「それならなぜ君は人間界にいるんだ? 仙女は仙人界にいるものだろう?」

「うっ……い、いいでしょう。危険な目に遭わせてしまったのだし、あなたには聞く権利があるわ」


 玄の指摘に今度こそ嫦娥は身を縮こまらせて黙り込んでしまう。だらだらと尋常ではない量の冷や汗をかく様子は明らかに聞いてはいけないことを聞いた時の反応だ。哀れになって「言いたくないのならいいんだが」と助け舟を出したものの、彼女は小さく頭を横に振ってその申し出を断った。


「……追い出されたの」

「は?」


 そして風に揺れる木の葉のさざめきにかき消えてしまいそうなほどの小ささで、彼女は告白したのだった。


「だから! 人間の暮らしを学びなさいって言われて! 父上に仙人界を追い出されたのよ!」

 

 思わず聞き返してしまったことで吹っ切れたのか、今度は夜空に響き渡るほどの大きさで彼女が叫ぶ。その後勢いに任せてぶちまけた愚痴によれば、なんでも「月の女神になるのなら実際に国中の人間の暮らしを見て、彼らへの愛を学びなさい」という理由で天から落とされたとのことだった。


「うう……どうやって国中周ればいいのよ……というかそもそも愛って学ぶものなの?」


 獅子の子落としを思わせる教育方針に流石に同情を覚えていれば、不意に玄の脳裏に一つの考えが浮かぶ。だから彼は項垂れる彼女の目の前に膝をつくと、いやに真剣な表情で手を差し伸べたのだった。


「それなら、俺の妻としてついてくればいい」

「……へ?」


 今度は嫦娥が惚ける番だった。突然の愛の言葉に頬を赤くして唇をわななかせる彼女とは反対に、玄はあっけらかんと言葉を紡ぐ。


「俺は今、国中を回って悪獣退治をしているんだ。旅についてくれば人間の暮らしを見ることもできるし、妻と言えば身の上を怪しまれることもないだろう。君からすれば屈辱かもしれないが、そう悪い考えでもないと思う」


 その淡々とした口ぶりにようやく嫦娥は「妻のふりをして旅についてくればいい」と提案されているのだと気づく。思わせぶりな台詞に眉を吊り上げるも、当の本人があまりにも真面目な表情を崩さないものだから怒ることも出来ずにもにゃもにゃと唇を食んだ。


「……そうね。あなたのその申し出、ありがたく受けさせてもらうわ」


 そしてしばらくの逡巡の後、彼女はまっすぐに玄を見つめながらその手に手を重ねる。褐色の大きな手のひらに触れる華奢な指の温もりを感じながら、玄は誓いの言葉を口にしたのだった。


「ああ。君が天に帰るまでの間、良き夫として護らせてくれ」

「ふふ。じゃあ短い間だけれどよろしくね、玄」


 こうして、弓兵と月の女神は仮の夫婦と成ったのだった。




 



 



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