円霓を縫う
伊島糸雨
円霓を縫う
アゥケニカは自分を特別だと思ったことはない。事実、彼女は人が生活の中で掲げる多くの指標において凡庸であったし、それ以外の事柄であっても、取り立てて得手と思えるようなものはなかった。彼女は
工場の
それから時が経ち、今では環境もずいぶんとましになったが、それでも決して好待遇とはいかない。指先の繊細な感覚と緻密な作業を可能とする視力、そして集中を持続するだけの体力が要求される
工場に至り、諸々の支度を済ませて一息つけば、始業の時間となる。各々定められた配置につき、日に日に増えるノルマを黙々とこなしていく。工場で大量生産される防護服は、かつて巫女が編んだものと比較すると非常に脆く交換のサイクルも早いため、需要は止まるところを知らない。市場に取り込まれた労働資源たる
かつてイェーヴェ=ロゥが唱えた次世代資源論は半世紀も経たぬ内に現実のものとなり、オロキュロイの大地に埋没した
アゥケニカはその日も黙してただ手を動かしていた。指先に絡めた
昼休憩には持ち込んだ弁当を人気のない木陰で食べた。工場の中庭の更に端。持ち場まで少し距離があるが、落ち着く場といえば他になかった。数種の穀物を球状に固めた昼食は、都市で最も安価な食事として知られるものだ。栄養価はさほどないが、よく噛めば幾分腹は膨れる。
地を這う虫たちをしばし眺めてから、早めに切り上げて配置に戻った。しばらくすると他の
管理者の執務室には一人の先客があった。ソファに深く腰掛け入室したアゥケニカを見るのは一人の女、色濃く濡羽を思わせる黒髪をゆるく纏め、髪に隠れた右目の対、左の黒瞳から放たれる視線は硬く鋭い。身につけた衣服は、ここ一帯では目にすることのない上等な品であるとすぐにわかった。アゥケニカが考えを巡らせる内に、管理者は女と向き合ってこう言った。
「ミス・フェリヤ。彼女でよろしいかな」
「間違いないわ。どうもありがとう」
フェリヤと呼ばれた女が席を立ち、傍においた鍔の広い帽子を被ってから、さも当然の権利のようにアゥケニカの手をとって執務室を出た。アゥケニカは混乱の渦中にあり、しばらく進んでからやっとの思いで口を開いた。「あの、これは、どういう──」
ふっと手が離れ、フェリヤは振り返るとにこりと微笑んでアゥケニカの顔を見つめた。齢を悟らせない知性と品性を兼ね備えた美貌の女は、「あら、聞いていなかったのね」とわざとらしく呟いた。そして今度は明確に、アゥケニカへ向けてこう告げる。
「私があなたを引き抜いたの。今からもう、あなたの
あまりにも急なできごとに戸惑いながらも、アゥケニカは指示されるままに一日で荷物をまとめ、母親へと簡単に事情を説明した。
フェリヤが奇妙な魅力を湛えた人物であるのは疑いようがなく、同時に、迎えにきた最新の
道中に交わした会話の中で、アゥケニカはフェリヤが自身を雇った理由を一つ知った。揺れる車内で、フェリヤはふと思い出したように語りかけた。「あなた、繊維糸も
アゥケニカはハッとして、流れゆく車窓の景色からフェリヤの瞳へと視線を移した。それはアゥケニカが特に公言する必要もないと秘してきた、特異な認知の在り方だった。アゥケニカが高い効率と優れた精度での作業を長く均質に続けていられたのは、繊細な指の感覚はもちろん、縫衣にまつわる多くの事物が
当然湧き上がるであろう言外の疑問へ答えるように、フェリヤは長く枝垂れた右半面の髪をそっと持ち上げた。アゥケニカは今一度息を呑んだ。露になった右眼は黄金に輝き、その瞳孔は垂直に鋭く裂かれている。人外の眼──フェリヤはアゥケニカの反応に満足すると、髪を払って元に戻した。
「〝人魚の瞳〟と呼ばれるものよ。血の薄さゆえの能力不足を補うために、十年前だかに
「ど、どうしてそんなこと」
アゥケニカからすれば正気の沙汰ではなかった。
よりによって人外の生体部位を移植するなど、どのような夢があれば試みようと思えるのか。
アゥケニカは呆然とフェリヤを見上げた。彼女はアゥケニカを一瞥してから、座席越しに前方の景色を眺め、言った。
「とても個人的な願いがあるの。あなたには、それに協力してもらう。──さ、まもなく
車両を降りフェリヤの導くままに、入り組んだ道を進んでいく。「ここには窓口も兼ねた本社があってね。今は晶気技術の専門職向けに一部商品を卸しているの。今日は一旦そこに泊まるわ」
唯々諾々と付き従い、七階建ての巨大な社屋に入ると、そこここを行き交う社員と思しき人々がフェリヤに向けて次々と挨拶を投げかけた。当人は軽く手をあげるのみだったが、後に続くアゥケニカは突き刺さる奇異の視線には身が縮まる思いがした。できるだけ目立たぬように、少ない私物を詰めた鞄を胸に掻き抱き、背を丸めた状態であてがわれた部屋までの道行きをやりすごした。
窓からは都市の蠢きがよく見えたので、アゥケニカは窓辺に寄せた椅子に腰掛けて日中の暇を潰した。日が傾き、燃える街に陰影が降りる頃、フェリヤの使いが夕食はどうするかと尋ねにきたので、おそるおそる自室で食べたいと伝えると、後になって盆に乗った食事が運ばれてきた。パンに野菜のスープと、肉のソテー。スプーンに、フォークとナイフ。アゥケニカは終始恐縮しきりで、配膳をした使いの者にもぺこぺこと繰り返し頭を下げた。一人を選んでよかったと思ったのは、うまく切れない肉に痺れを切らし、フォークで突き刺してかぶりついた時だった。栄養を欠いた肉体は食事を存分に歓び、アゥケニカは何か罪悪感に似た想いを抱えながらも、目の前にあるものを楽しんだ。そして綺麗に空となった食器を片付けにきた使いの者に、今度は丁寧に一度礼を言った。
翌日も早いとのことだったので、アゥケニカは早々に寝床に就いた。夜の帳が降りた後は、街灯りが唯一の光源となった。目蓋を下ろし呼吸を整え、じっと意識の朦朧を待ったが、まんじりともしないのにむしろ疲弊し、アゥケニカは小さな丸机に夜燭を灯した。寝台の淵に腰掛け、ぼうっと火の揺らぎを見つめていると、不意にドアがノックされた。「ど、どうぞ」慣れない応答の後、入ってきたのはフェリヤだった。目を瞬かせるアゥケニカにフェリヤは言った。「少し時間をいただけるかしら」
一も二もなく頷くと、フェリヤは眼前を横切って窓際の椅子に腰を下ろした。それから視線を彷徨わせるアゥケニカを左の瞳で見据え、「あなたの役割について、少し話しておくわ」と切り出した。
「明日、あなたは東方のユニシュ森林・山岳地帯近辺にある工場まで行ってもらう。あなたの仕事場ね。職員用の宿舎も併設されているから、今後はそこで寝起きすることになることは覚えておいて。で、あなたには当然、そこで
アゥケニカは首を振って否定した。繊維糸に使用する植物については最低限叩き込まれていたが、フェリヤの口にしたものは一度も耳にしたことがない。フェリヤは一つ頷くと、「今は特別な繊維糸の原材料だと思ってくれればそれでいい。ともかく、あなたたちには将来、そういう特別な素材を使って特注の衣服を縫ってもらうことになる。高品質で高価、そして伝統的な、ね」
灯火が室内にフェリヤの巨大な影を映し出す。アゥケニカは半ば誘われるように問いを投げかける。
「それで、あなたは──何を、望むのですか」
「故郷」
自明の論理としてフェリヤは言った。そこには一片の逡巡もなく、ただ純然たる決意だけが滲んでいる。「イェーヴェ=ロゥに奪われた巫女の大地を取り戻す。私もあなたと同じ血族なのよ。いささか、血は薄いけれどね」
そこで一息つき、とはいえ、とフェリヤは続けた。
「これは私の個人的な願い。だから、巻き込むあなたたちには生活と未来を保証する。どう? 気が変わってしまうかしら」
アゥケニカはもう一度首を振って応えた。最初から迷いなどない。為せることを為せ。ならばこの道はきっと間違っていない。
「それさえあれば、何も」
フェリヤが微笑む。アゥケニカはそれを真似て、ぎこちなく口角を上げた。
翌日は休息を挟みながらも、およそ半日かけての移動となった。凝り固まった筋肉と骨の節々が悲鳴をあげ、そろそろ限界という頃になってようやく、ユニシュ森林・山岳地帯の境界にたどり着いた。周辺一帯は豊かな自然に囲まれ、遠く白い山嶺の威容が見える。空気は澄み渡って清涼で、その中に煉瓦造りの建造物が複数連なっていた。
先に降りたフェリヤは涼しい顔で、よたよたと鞄に振り回されるアゥケニカを待っていた。「今日は私もここに泊まるわ。先に簡単に案内をするから、そうしたら休んで頂戴」
宿舎の併設された本館に足を踏み入れると、足元には臙脂の絨毯が敷かれていた。簡素で整然とした調度品などを見渡していると、一人の女性がやってきて「お待ちしておりました」と言った。
眩い金髪を肩口で揃え、怜悧な面立ちをしたその女性をフェリヤは「リーエ」と呼んだ。「ここの管理を任せているの。あなたたちの上司ね」アゥケニカは慌てて名前を告げ、「よろしくお願いします」と頭を垂れた。リーエは頷き、「荷物はそこへ。今回は特別に運んでおきます」と凪いだ声音で言った。
フェリヤは屋内を歩き回りながら扉を指差し、用途を次々並べていく。「ここは会議室」「談話室」「洗面所」「浴場」「工場」……等々。中でも工場内部は広々として、設備も充実していると思えた。アゥケニカは密かに胸を撫で下ろした。労働に従事するにあたって、その環境が当事者たちに少なからぬ影響を及ぼすことは経験則から知っていたので。
ひととおりの確認を終え、二人は宿舎へと足を向けた。連なる扉の前を進み、唯一開け放たれた部屋の前でフェリヤは立ち止まる。「ここがあなたの部屋よ。二人一部屋だから、仲良くなさいな」
そろりと中を覗き込むと、机と寝台が一つずつ、窓を軸に配置されているのが見えた。斜光の照らす室内では、亜麻色の髪をした同じ年頃の少女が寝台に腰掛け本を読んでいる。正面に立つと、顔を上げてアゥケニカを見上げた。
「あの、今日からここで働くアゥケニカといいます。よろしくお願いします」
「リーエさんからお話は伺っています。ユヴィです。よろしく」
律儀に差し出された手を握ると、自分のものと同じような感触がしてにわかに嬉しくなった。
廊下を見てもフェリヤの姿はもうなかった。扉を閉めてから荷物を整理し、手持ち無沙汰のまま椅子に座って窓の外を眺めた。雑多な
ぺら、ぺら、と紙をめくる音がする。それがピタリと止んだとき、「食事の時間ですよ」とユヴィが言った。「あっ、はい」
疲労から微睡みかけた心を叱咤して、アゥケニカはユヴィの後を追った。その日は休日であったこともあり、皆が揃った食堂で、アゥケニカは退屈した
他者と関わる経験に乏しいアゥケニカにとって、最初のひと月は怒涛と表現する他になかった。急激な環境の変化もあいまって、以前よりも楽であるはずなのに、一日の終わりには精根尽き果て、夜はすぐに床に就いた。先輩であるユヴィから工場での作業工程や手法を学び、それらを実践する日々の傍ら、距離を模索しながらも積極的に関わってくる他の
とはいえ、関わらざるを得ない時はもちろんあった。新人に課せられる研修においては、リーエより〝
「最終的にあなた方が手繰ることになる繊維糸は、
アゥケニカは加工前の
「百年以上を生き花を咲かせた
ユニシュの地は現在国の管理下にあり、年に一度わずかな
「リーエさんも、巫女の血筋なのですか」
研修の最終日、教壇を去る背中にアゥケニカは問いかけた。リーエは振り返ると静かに笑って言った。
「いいえ。でも、フェリヤ様は
その瞬間、リーエの表情はいつになく和らいで、慈愛さえ感じられるほどだった。アゥケニカはぽうっと惚けたように、閉じる扉を見つめていた。
けれど後日になって、何事もなかったようにキビキビと職務に徹するリーエの姿を見ると、あの言葉も表情も、虚ろな白昼夢であったのではと疑わしくなった。それでもどうしてか、頭には束の間の温かな光景がじんわりと残って、冷える夜に思い出せば、心が少し温まった。
リーエの厳格さは疑う余地もない周知の事実であったが、その点同室のユヴィは表情の変化に乏しい上、いつまで経っても丁寧な言葉使いを崩さなかった。しかしながら、いざじっくり向き合ってみると、ユヴィは親切で優しく、そして他のどんな
ある休日の昼下がりには、体力を持て余した
共同生活を続けるうちに、ユヴィの奏でるぺら、ぺら、という音は日々を構成する重要な一要素となっていった。残した母に手紙を書くときも、余った繊維糸で編み物をするときも、朝も夜もユヴィは取り憑かれたように読書に耽っていた。それはもはや濫読と言うに相応しく、施設中の書物はとうに制覇され、時折視察に訪れるフェリヤが新刊を入荷するまでは同じ本でも繰り返し読んでいた。物語も技術書も図鑑も辞書も無関係に、ユヴィは言葉を追い続けた。アゥケニカもユヴィも、会話もなく同じ空間にいることを苦には思わなかった。その関係は緩やかで心地良く、二人は特に示し合わせるでもなく行動を共にしていた。
ユヴィの生い立ちについては、いつかの夜に本人から直接聞かされていた。珍しく早くに横になったユヴィが語り出すのを、アゥケニカは身を固くしてじっと聞いた。アゥケニカ自身の経歴は施設到着初日に丸裸にされてしまっていたが、お喋りな子はともかく、寡黙なユヴィからそのような話が持ち上がるのは初めてのことだった。
ユヴィはアゥケニカより一年早く、
「じゃあ、ユヴィは一番長くここにいるの?」
「そうですね。私より年長の
ユヴィの言葉にはどこか誇らしげな響きがあって、アゥケニカはその発見を嬉しく思った。
「フェリヤさんのことは、好き?」
答えはわかり切っていたが、半ば戯れにアゥケニカは言った。ユヴィはくすりと可憐に微笑んで、「ええ」と強く頷いた。
「私の家族ですから。あの方も、リーエさんも──もちろん、あなたも」
アゥケニカはもう一つ新たな発見をして、顔を熱くしながら「ありがと」と呟いた。
アゥケニカがユニシュに来てから五年もすると、年長の
顔ぶれが変わっていく中で、アゥケニカとユヴィだけはユニシュを離れるそぶりも見せなかった。アゥケニカは何も気にする様子もなく残り続けるユヴィに「あなたはいいの?」と訊ねたことがある。するとユヴィは燭台の火に照らされて本を読みながら、「地位にも血の因縁にも興味はありませんよ」と言った。
「今は私が必要とされることが喜びですから。できる限りをできる範囲で尽くすだけです」
「それじゃあ、あなたの願いは?」
ユヴィが
「家族と共にいること。今はそれが唯一の幸福です」
期待通りの返答にアゥケニカはにこりと笑い、ユヴィをそっと抱きしめた。「もう、なんですか、アーキ……」苦笑するユヴィはくすぐったそうに身を捩ったが、やがて力を抜くとアゥケニカの背に手を回した。
フェリヤは五年の間も変わらず多忙を極めたが、ユニシュには度々足を運び、数日滞在しては
フェリヤの特殊縫衣業は順調に成長を続け、特にユニシュで作られた衣服は富裕層やエリートたちの間で一種のステータスとなりつつあった。各地に支部を設け、ユニシュと同様に巫女の血筋にある子を集めた施設も複数設立された。フェリヤは各地を飛び回りながら、自身のブランドとも言える勢力圏を確実に押し広げていった。
年の巡る
フェリヤはソファに深く腰掛け、蒸留酒を口に含んでは物憂げに火を見つめていた。絨毯を踏むアゥケニカにも気付いているのかどうか──いつになく疲弊し、視線は虚ろにぼやけていた。
傍らの椅子に身を収め、ややあってアゥケニカは口を開いた。野暮なことと承知してはいたが、フェリヤのそんな姿を目の当たりにするのはおよそ初めてのことだったので、気がかりが優っていた。
「その……ずいぶんと、お疲れのようですが。眠れていないのですか」
フェリヤは緩慢に視線を寄越すと、吐息混じりの声で「そうね」と呟いた。
「若い頃のようにはいかないものでね。こうして休まなければやってられない。不便な身体よね」
皮肉げな笑みは頬に皺を刻み、落ち着きの中に培われた品を添える。フェリヤの所作はいつ見ても様になっており、アゥケニカは密かに憧れていた。一つ定めた星へ邁進する背中は勇壮にして優美だった。ユヴィともまた違い、前をゆくフェリヤへの憧憬がアゥケニカをユニシュへ留めていた。
フェリヤがグラスを傾けると、カラコロ氷が音を立てた。濃い飴色を飲み下し、しばし瞑目してから「でもね」と言葉を続ける。
「あなたたちの顔を見るのが一番安らぐのよ。だからここにいる。これまでのことが、無駄じゃなかったって思えるもの」
「なら、どうして──どうして、皆が出て行くのを認めたのですか」
堪らず尋ねたアゥケニカに、フェリヤはふっと笑いかけた。それはかつて自分を送り出す母に見た表情とよく似たもので、少しどきりとする。「ねえ、アーキ」フェリヤは言った。
「子供というのはね、成長したら、いつか手放すべき時が来るものよ。いつまでも縛り付けておくつもりなんてハナからないもの。だってこうすれば、少なくともあの子たちは立派に生きて行ける。もう何もない無力な子たちじゃないのよ。人を育てるって、そういうことではなくって?」
あなたもそうよ、と伸ばされた手がアゥケニカの頭に触れる。髪を梳くように優しく撫ぜて、すぐに遠ざかる。アゥケニカは名残惜しげにその腕を見つめ、フェリヤはそれを承知のようにひらひらと手を翻した。
「後二十年──いいえ、後十年もしないうちに
フェリヤの瞳は遠くを見つめている。火の揺らめきと雪のひらめきを越え、微かな残り香を追うように。
「私は過去が忘れられない。幼い時、移住を強いられる前に目にした故郷の景色がずっと心にこびりついている。澄み渡る泉、川をゆく魚たち、芳しい木々の香り、祭祀の日の楽しげな熱、衣を編む巫女たちが口ずさむ、歌の音色──」
フェリヤはそっと歌い出した。その声はわずかに震えていたが、豊かな響きを持って談話室へと広がった。アゥケニカは脳裏に故郷を思い描いた。自身の生まれではなく、依拠すべき記憶も持たない、遥かな大地を。
去る雪は花を憶え
満ちる月は雲を払え
若き芽の萌ゆるを記せ
刻み纏い重ね編む日に
淡き指をなぞり連ねて
フェリヤの頬を小さな煌めきが伝った。アゥケニカは歌にじっと耳を傾け、その旋律を心に刻んだ。
フェリヤから歌の話を聞いた翌日、アゥケニカは作業が始まると小声で歌を口ずさんだ。作業の音に紛れるほどのか細い声だったが、しばらくすると隣にいたユヴィが後に続き、やがて新人の子らが戸惑いながらもつられて歌い始め、ついには美しく調和を成して工場に響き渡った。「永遠に紡ぐ古きを思え……」言葉は景色を共有し、女たちは己が神へと仕える巫女であることを思い出した。
この奇妙な体験ははじめの一度のみのことで、
更に数年が経ち、ユニシュの管理者であったリーエがフェリヤの秘書として本社に異動となると、アゥケニカが次の管理者として推されることとなった。なんでも、最年長となっていたユヴィは他地域の工場を任されることになり、アゥケニカへとお鉢が回ってきたのだという。
「寂しくなるよ。ずっと一緒にいたから」
最終日、見送りに出たアゥケニカがそう口にすると、ユヴィは肩を竦めて言った。
「フェリヤさんに、『あなたが必要だ』と言われてしまったら、お手上げです。名残惜しさはありますが、またできることをやろうと思います」
二人は出会った日のように握手を交わし、共に糸を繰ってきた手を労りあった。そして迎えの車両へと向かう時、ユヴィはふと工場へと顔を向け、漏れ出る歌に破顔して、言った。
「ああ、今ようやく気がつきました。いつの間にか、ここが故郷になっていたなんて」
アゥケニカは自身が経てきたこれまでを思いながら、ユニシュでの日々を送った。新人の子がやってくれば当時の緊張やフェリヤとリーエのことを思い出し、休日に子供たちの声が響けば、一つの部屋でユヴィと読書に耽った時を振り返った。巫女の血を引く子供たちは工場で
アゥケニカの母はフェリヤらの手厚い保障もあって、老境に至ってからは工業都市を去り、
フェリヤがかつて言ったように
フェリヤは老いてからもユニシュを訪れることはやめなかった。夜中の談話室で共に蒸留酒を味わうようになってからは、組織運営や技術革新にまつわることから、ユニシュの植生や子供たちの様子、種々の他愛ない話にも花を咲かせた。「あと少しよ」酩酊してくるとフェリヤは決まってそう言って、重ねるように「あと少し」と繰り返した。肉体への負荷を抑えるため〝人魚の瞳〟を摘出した影響か、眼帯となった右眼を抑えながら。
フェリヤの言葉の通り、その頃にはユニシュ森林・山岳地帯の一部を買い取る交渉が国との間で始まっていた。フェリヤらは莫大な資金と合わせて歴史的・文化的背景やイェーヴェ=ロゥの功罪を根拠に根気よく争い、数年をかけて第一の譲歩を勝ち取った。これは一部の人々によるユニシュ奥部への立ち入り制限を緩和するもので、ここから更に掘り下げていくことが期待されていた。
しかしそこで、長く無理を重ねてきたフェリヤが病に倒れる。特殊縫衣業の先駆者として、世界的服飾デザイナーとして、ユニシュにおける巫女の血族の象徴として、多方面で時の人となっていたフェリヤの病状は各種媒体で報じられ、
車椅子のフェリヤの側には変わらずリーエがいて、二人が出迎えると齢を重ねた互いに言及して柔らかく微笑んだ。「まったく、不便な身体だこと! あなたたちが羨ましいわよ」フェリヤはアゥケニカとユヴィを順に見てから、冗談めかしてそう言った。
「ようやく休めるようになるのかしらね。本当に、あと少しなのだけど」
中庭に並び、ティーカップを手にフェリヤは言った。「まぁ、やれることはやったから、悔いはないのよ。後のことは、次の世代に任せないとね」
「呪いになってしまうから、ですか」
アゥケニカが言うとフェリヤは笑った。「あら、よくわかってるじゃない」
途中からユヴィとリーエも加わり、茶会は和やかに続いた。その後、休憩時間となった子供たちが興味津々の様子で窓から顔を出すので、フェリヤが「いらっしゃいな」と手招きし、予定を変えてのお楽しみ会が繰り広げられた。文句を言う者は誰もいなかった。アゥケニカはユヴィと肩を並べ、子供たちと戯れるフェリヤを見守った。
「私たちの次は、あの子たちの番ですね」
「〝若き芽の萌ゆるを記せ〟なんてね。責任重大だよ」
半ば隠遁したフェリヤに代わり、ユニシュに関わる交渉はリーエが表立って行うことになった。その間、アゥケニカとユヴィはフェリヤから特殊縫衣業の運営にまつわる多くを学び、徐々にリーエの補助なども担うようになっていった。
冬が巡り春が来て、イェーヴェ=ロゥの死から三十余年が経った。その年、ユニシュ森林・山岳地帯における巫女の大地についての交渉は公式に決着し、秋には〝文化の保存と伝統の継承〟の名のもと、フェリヤをトップに据えた互助会によって再生事業が開始された。
特別に編成された調査隊に付き添って巫女の大地を訪れたフェリヤは、聳え立つ
フェリヤは巫女の大地に建設した仮の施設に居を移し、隠遁して日々を送った。彼女は再生事業について具体的な方針を示さないまま、年の暮れにこの世を去った。朝、リーエがいつも通り起床の手伝いをしに寝室を訪れると、眠りの表情のまま息を引き取っていたという。
享年七十二歳。葬儀は内々で実施され、アゥケニカやユヴィと同世代の
ありとあらゆる難題が一挙に押し寄せる中、アゥケニカは一度支部へと戻っていたユヴィの元を真っ先に訪れた。晶気機関列車に乗り、借りた車を飛ばし息せき切ってユヴィの居室のドアを開けると、彼女はいつかの光景を再現するように、窓から差し込む光の中、寝台の縁に腰掛けて本のページを捲っていた。ぺら、ぺら……。アゥケニカは一瞬、自分がいつどこにいるのかわからなくなった。だから、導かれるようにユヴィの前へと歩み寄り、ゆっくりと顔を上げたユヴィへ、力強く手を
「あなたのことが必要なの」
ユヴィは待ちくたびれたというようにゆるく首を振ってから、「ええ」と微笑んで本を閉じた。
「喜んで──アーキ」
手のひらが重なる。アゥケニカはユヴィをぐいと引き寄せ、「頼りにしてる」と笑った。
アゥケニカとユヴィを中心とする新体制は最初から順調とはいかなかったものの、迅速な組織の立て直しや労働環境に賃金の見直し、とりわけ、放置されていたユニシュにおける巫女の大地の扱いの明文化を受けて徐々に支持を増やしていった。当面はすでに引退していたリーエの助言を受けつつ、巫女の血族への支援や帰郷の補助、伝統的な
「永く紡がれてきたこの糸を、無闇に絶ってはなりません。望郷の想いも、この身を流れる血の繋がりも、無力と諦念の中で潰えるべきものではない。雪解けの後花が咲くように、我々は呪縛を解いていきたい。そのためには未来を育てる必要があり、子供たちこそ私たちの希望なのです」
巫女の大地再生プロジェクトと巫女の子供たちへの支援を公表するにあたって、アゥケニカはそのように締め括った。プロジェクトは手始めに、既に亡い巫女たちを弔う伝統的な墓地の作成に取り掛かった。一年後、完成した墓地の片隅には、アゥケニカの母の名も刻まれていた。
イェーヴェ=ロゥは今でも
「あなたは、あなたの思うまま生きてもいいのではありませんか」
ユニシュの工場、その中庭で、ユヴィは隣に立つ盟友へと語りかけた。彼方の山嶺より吹く風が、亜麻色の髪を靡かせていた。「本当に、厄介なものでね」アゥケニカが言った。
「誰かの願いのはずが、いつの間にか私自身の願いになってしまった」
アゥケニカは目を細めて、
「だから、別にいいの」
フェリヤやリーエがそうであったように、自分たちもまた老いたと思う。それでもまだ、瞳には力強い光が残っている。
それは過去より出て
「なら、最後までお供しましょうか。私は私の、ささやかな幸福のために」
去る雪は花を憶え
満ちる月は雲を払え……
工場からは
一条の風が声を攫っていく。ユニシュの大地にも、また春が訪れた。
フェリヤの死から二十年後の、ありふれた午後のことだ。
円霓を縫う 伊島糸雨 @shiu_itoh
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