第14話
帰国の日。空港の保安検査場の前で、僕は花歩に向き直る。日本でも韓国でも、空港で見送りをするのは互いに初めてのことで、それを話せば花歩は驚いたように笑った。
搭乗時間が迫る。華奢な手首に付けられた細身のシルバーの腕時計に一度目を向けた彼女は、柔らかな笑みを浮かべて僕を見た。
「またね、ジアン。お元気で。ジアンの活躍、ずっと応援してるから」
「ありがとう。花歩も元気でね」
そう返して、一度過った言葉を飲み込む。黒いロングコートのポケットに入った紙を指でなぞっただけで、そのままそれはその中に仕舞っておくことにした。花歩に内緒で手配した一ヶ月後の韓国へ向かうチケット。これは渡さないでおこうと決めた。
「また春になったら、会いに来るから」
「うん。待ってる。きっと綺麗なチューリップが咲いてるよ」
花歩に頷いてみせる。あの日言われたおじいさんの言葉を思い出す。この庭園から花歩を連れ出して欲しいと言われたそれに、胸の奥がギュっと掴まれる気がした。
「花歩。花歩は、ちゃんと幸せになっていいんだよ」
その白く細い指を、掬うように取る。花歩は、うっすらとその目を丸く見開いた。そして、僕の言葉を噛み締めるように瞬きをして、小さく首を縦に振った。
「ちゃんと、幸せになって」
それが僕とじゃなくてもいい。僕が無理やり彼女を連れ出したところで、意味のないことなんてずっと分かっていた。花歩が自分から望んで、歩みを進めなければ、本当の意味で花歩の心を救えないことなんて分かっていた。
「離れていても……生きる国が違っても、僕は花歩の傍にいる」
この十年、君のことがずっと心の中にあったように。
「ありがとう、ジアン。私も、ずっとあなたを想ってる」
ありがとう、と言って、花歩が僕の手を優しく剥がす。ほら、時間だよ、と僕を急かす。その目元は赤く、潤んでいるように見えた。
「ジアン。一緒に花を植えてくれて、ありがとう」
ひらひらと手を振る花歩の笑顔は、何よりも晴れやかで愛らしかった。僕たちは、きっともう会うことはないかもしれない。きっと花歩も、そう思っていたんじゃないか。
韓国へ戻ってから数日も経たないうちに、僕のスケジュールは休みなく埋まっていった。発売されたミニアルバムが想像以上の成績を出したおかげだった。
花歩との別れの余韻に浸る余裕も持てないまま、一日が秒速で過ぎていく感覚。むしろそれは、寂しさを感じずに済むから良かったかもしれない。
季節はあっという間に過ぎていく。マイナスを記録していた気温は、いつの間にか柔らいで、春の訪れを感じさせていた。
「そういえば、」
移動中の車内、僕の隣でコーヒーを飲んでいたイジュンが口を開いた。僕は、腕を組み、閉じていた目を開ける。
「兄さんから、最近あの人の話聞いてませんね」
「あの人?」
「ほら。日本の、」
数列前の席に座るマネージャーに聞こえないようにするためか、イジュンはその声を顰めた。ああ、と言えば、イジュンは好奇心を隠しきれず輝かせた目で僕を見る。その額にデコピンを食らわせれば、「イタッ!」と大きな声を上げる。その声に振り向いた周りにいたメンバーやマネージャーの視線が刺さるから、イジュンに「静かに!」と唇の前に人差し指を立てて言った。
「兄さんがデコピンするから、」
「いつもお前が……まぁ、いいや」
人の恋模様をからかうのはやめろ、と言う趣旨のことを言おうとしてやめる。周囲が、また僕たちのジャレつきだと思い、各々視線を戻したことを確認して、僕も声を顰めた。
「僕は、あの子の幸せをただ願って、想ってるだけだから」
「……どういうことですか?」
「それだけだよ、それだけ」
分からなくていいんだよ、とイジュンの頭を撫でる。不満そうな声を漏らすイジュンに、ジャケットのポケットに入っていたレモン味のキャンディーを渡して、僕はまた目を閉じた。きっと、それ以上僕に詰めることができなくて、不服そうに唇を尖らせているのだろう。それが微笑ましく、込み上げる笑いを抑え込んだ。
写真集の撮影のために訪れた植物園、来るのは、花歩と来たあの日以来だった。もうすぐ一年が経つ。あの日と同じように、黄色から徐々に赤く染まっていくバラのトンネルが懐かしい。
「僕、植物園なんて初めて来ました」
隣りを歩くイジュンが、綺麗ですね、と興味深そうに辺りを見回している。スタッフたちに続いて、バラのトンネルを歩いて行く。あの日のことが、まるで昨日のように思い出される。あの日は、この先で、花歩が泣いてしまったんだった。花歩に気付いた僕から、逃げるために。思い出の中、走り去っていく彼女の姿を追うように振り返る。
「僕は……幻でも見てるのかな」
「え?」
僕の口から零れた言葉を拾ったイジュンが、僕の視線を追い振り返ったのが分かった。
花歩がいる。バラのトンネルの中。愛しそうに、大きく実った黄色いバラへと手を伸ばしている。爽やかな風に乗って、漂ってくるのは、不思議な彼女の鼻歌。
「花歩、」
その名前を呼ぶ。誘われるようにこちらへとゆっくり視線を動かした彼女は、猫みたいな可愛らしい目を丸くさせてから、恥ずかしそうに首元の淡い紫色のスカーフを口元へ引き上げた。
「ジアン」
彼女が僕の名前を呼ぶ。足が自然と前へ進む。躓きながら駆け出した僕の背中に、
「あとは僕が何とかしますから!」と言うイジュンの声がぶつかった。
両手を目いっぱい伸ばして、掴まえた彼女の小さな体を力いっぱい抱き寄せる。花歩はその衝撃に小さな悲鳴を漏らしてから、腕の中でコロコロと笑い声を上げた。
「花歩、言ってくれたら、」
何から話していいか分からず、言ってくれたら良かったのに、と頭に浮かんだ言葉が飛び出る。彼女はそれに未だ笑いながら、「だって」と言った。
「ジアンにメッセージ送ったのよ。でも、既読が付かなかったから。忙しいのかな、とか、もしかしたら私に愛想尽かしたのかも……とか色々考えたんだけど」
「メッセージだって? ああ、ごめん。本当に最近、忙しくて……スマホを全然見てないんだ」
ごめんね、と謝る。彼女が首を横に振る。
「でも、どうして……僕が返事をしていないのに、来てくれたの?」
僕の問いかけに、花歩はすぐに返事をしなかった。その代わり、僕の背中に回した腕に力を込めたのが分かった。
「私、幸せになるために来たの。もう、ジアンには会えないかもって思ったけれど、自分の幸せのために来たの」
私ね、と花歩が続ける。僕の胸に埋めていた顔を上げて、僕を見た。
「ジアンが私を探してくれたように、今度は私がジアンを探しに来たんだよ。あなたの傍にいたいって思ったから」
やっと会えたと笑う花歩の頬は、桃の花のようにピンク色に淡く染まる。その頬を両手で包み、親指でそっと撫でれば、彼女はいつかのように「泣いていないよ」とくすぐったそうに笑った。
‐【その庭園にて】本編 完
その庭園にて 月野志麻 @koyoi1230
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