第13話
作業を終え、そのままホテルへと戻ると言った僕を花歩が呼び止めた。少し待ってて、と言って家の中に入っていく彼女を玄関先で待つ。次にチョコレート色の重そうな扉が開いたときに出てきたのは、おじいさんだった。
「こんばんは」
「今日はどうもありがとうね」
にこりと皴を寄せて笑うおじいさんに、僕は「僕のほうこそ」と頭を下げる。お礼を言うのは僕のほうだ。おじいさんとあの日出会わなければ、きっと花歩とこうやって話をすることは出来なかった。もう一度、それを噛み締めて、「ありがとうございます」と頭を下げる。
「君は、花歩のことが好きかい?」
「えっと……」
突然の質問に惑う。玄関の扉がきちんと閉まっていることを思わず確認してしまった。おじいさんが真っすぐに僕を見つめている。少し前まで花歩が握ってくれていた手が、未だに温かさを覚えている。
「はい。とても、好きです」
ハッキリとそう答える。おじいさんの目は、ハッキリ、誠実に、僕の気持ちを伝えなければいけないと僕に感じさせたから。僕の答えに、おじいさんの目が柔らかく細められた。
「私はね、花歩の幸せを一番に願っている。花歩が、花歩の人生を歩めるように。あの子は、ここに縛られていてはいけないんだ」
だからね、とおじいさんが僕の手を握る。その手は骨張っていて、少しカサカサとしていて。だけど、その体温は誰よりも温かくて……そして、僕の手の甲を撫でるその仕草は、何よりも優しい。ただそこには、花歩への愛が溢れている。
「ジアンくん。どうか、どうか、ずっと花歩の傍にいてやってくれ。そして、どうか、あの子をこの庭園から連れ出して、助けてやってほしい」
どうか、どうか、とおじいさんは何度も繰り返す。おじいさんは祈るように俯いているから、その顔は見えなかったけれど、その声は次第に震えて、涙で濡れていくように聞こえた。
玄関扉を開けた花歩と入れ違いになるように、おじいさんは慌てて家の中へと戻っていった。花歩はその後ろ姿に、「少し出掛けてくるね」と声を掛けた。おじいさんは軽く右手を上げて応えただけだった。
「花歩、出掛けるの?」
「ジアンに一緒に来て欲しいところがあるの」
「今から?」
「そう。時間はある?」
「もちろん。花歩と過ごすために来たんだから」
あまりそうハッキリ言われると、と花歩がうっすらと頬を染めた。ほら、行こう。と、僕の腕を取り歩き出す景色は懐かしい。見上げた空は十年前のあの日とは違い、冬の夕暮れの色をしているけれど、新しい思い出が増えるようで嬉しかった。
「花歩は、いつから僕が僕だって気付いていたの?」
住宅街を抜け、花歩に連れられるままに、今度は市街地へと出る。その頃には辺りは随分と暗く、商店や街灯の灯りに照らされた道を歩きながら、隣にいる花歩へ尋ねた。
「もしかして、ボイスチャットした日から?」
「まさか。そのときは気付いてなかったよ。ジアンが初めて日本へ来たとき。顔を見て、ジアンだって気付いたの」
だってあなたのこと、ずっと応援してたから。と花歩が笑う。え、と思わず歩みを止めてしまった僕に、花歩は楽しそうに肩を揺らして笑った。
「たまたま見てたテレビで、これから日本でも人気が出るかもっていう韓国のグループの特集やってて。そのときに、ジアンがいるグループを知ったの。顔を見て、すぐに分かった。そうか、ジアンは一生懸命頑張って、夢を掴んだんだって嬉しくなった」
「僕の夢のこと知ってたの?」
「うん。お母さんが、ジアンのママから聞いたって教えてくれてたから。小さい頃から歌手になりたかったんでしょ?」
恥ずかしいな、と思わず声が小さくなる。花歩は「どうして?」と笑ってから、すごいことだよ、と続けた。
「アイドルとして生きるジアンは、とても輝いてた。街中にあるポスターとかテレビで見るジアンは、まるで別世界の人みたいで。私が会わないって思わなくても、もうジアンに会うことはないだろうなって思っていたし。だから、まさか一緒にゲームしてた人がジアンだなんて……分かったときは驚いた」
「すぐに言ってくれたら良かったのに」
「……出来なかったの。あなたに会えて嬉しかったけど、私だって気付いて欲しくなかったから」
「でも、気付かれたくなかったのに、本名そのままでゲームしてたの?」
「ゲームには慣れていないのよ。名前、思いつかなくて」
自嘲気味に目を伏せて、困ったように口角を上げて言った花歩は、「でも、」と続けた。
「でも、ジアンも、私に気付かれたくなかったみたい」
「ああ……そうだね。僕も、僕がジアンだって気付かれなくなかった。さっき花歩が言ったみたいに、別世界の人だって思われたら、距離を置かれると思ったから」
どうだった? 僕は。と首を傾げる。花歩は肩を竦めて、ニッコリと微笑んだ。
「ジアンは、ジアンのままだった。十年前なんて、お互いに言葉が分からなくて、全然話したこともなかったけれど。でも、ジアンはジアンだった。だから、そんなあなたとお話出来るのが楽しくて仕方なくて、離れられなかった」
花歩が再び僕の腕を引く。僕たちはまた、ゆっくりと夜の街を歩き出す。
「ジアンは、なぜ私だって気付かなかったの?」
「それは……もう花歩には二度と会えないって思っていたから」
「そうなの?」
「うん。だから、ゲームのKahoに、ずっと十年前の君の姿を重ねてた。ごめんね」
「それじゃあ、私が、ジアンが全然知らない『Kaho』だったら、どうなってたのかな」
「それでも、君に恋してたと思う。日本に来たとき、十年前の君と重ねることはなかったから。純粋に、君といて楽しかったし、惹かれてた」
うーん、と僕は言葉に迷いながら続ける。
「十年前の花歩は、僕の初恋だったんだ。記憶が色褪せても、心の中にずっとあった。確かに十年前の君を、ゲームの中の君に重ねていたけれど……でも、それとは関係なく、やっぱり君を好きになっていたと思う。十年前のあの日のように」
「うーん、これって喜んでいい話なのかな」
「ごめん、えっと僕は……なんて言ったらいいのかな、」
「ごめん! 嘘、冗談。ジアンが、十年前とかそんなこと関係なく、私を見てくれていて嬉しかった」
ごめんね、と笑う彼女に肩の力が抜ける。「ねぇ、花歩」と呼び掛けて、僕の腕に置かれた彼女の手を外し、そのまま指を絡ませて握った。手に汗が滲むのを感じる。おじいさんに言われた言葉が僕の胸の中で響いていた。
「ねぇ、花歩。僕と一緒に、韓国で暮らさない?」
花歩が息を飲む音が、やけに大きく聞こえた。花歩の歩くペースがゆっくりになり、次第に止まる。僕のほうが半歩先に進む形で、僕たちはそこに佇む。
「ねぇ、ジアン」
さっきの僕の呼びかけと同じように、花歩が僕を呼ぶ。俯き気味だった花歩が、ふと顔を上げて、そのまま空を見上げるように仰いだ。
「ここの病院、私のおばあちゃんが入院してるの」
彼女の視線の先を追うように、僕もそちらへと顔を向ける。ホテルのような佇まいの病院が、夜の闇の中、明るくそびえ立っていた。
「いつも、私がジアンと通話していたのが、そこのガードレールのところ。本当は、仕事が終わって、おばあちゃんのお見舞いに行って、それからあなたと通話してた。おばあちゃん、最近、あまり具合が良くないの。それが不安で、圧し潰されそうで……それが一番初めに、あなたにボイスチャットを飛ばしたキッカケ」
僕の手を、花歩がゆっくり離す。そして、そのままその手を、薄茶色のコートのポケットへと隠してしまった。
「ジアン、ありがとう。でも、私、おばあちゃんと最期まで一緒にいたいの。それに、おじいちゃんが一人になっちゃう。あなたとは一緒には行けないけど、でも、もう逃げたりはしないから。また、春に……私の庭に遊びに来て」
眉を下げて、肩を竦めて困ったように笑う。「きっと綺麗に咲いてるから」と。
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