第5話 すき

 龍野たつのさんの部屋で練習相手をするようになって2週間が経っていた。

 相変わらず教室では一切喋らないので表面上は何も変化がないけど一つだけ変わったことがある。


 ガタッ!


 帰りのホームルームが終わるなり龍野たつのさんが立ち上がる。2週間前までは周りに気を遣ってみんなが教室をあとにするまで自分の席で虚無な時間を過ごしていたらしい。

 なぜらしいのかと言えば理由は簡単。龍野たつのさんが恐くて速攻で教室から出ていったからだ。


 そんな龍野たつのさんが最近はすぐに教室を去るからクラスメート達は反対にしばらく教室に残るようになったらしい。うっかり廊下で鉢合わせないためだと竹田が話していた。


 なぜ教室に残るクラスメートの件も伝聞なのかといえば、僕は龍野たつのさんと一緒に教室をあとにしているから。

 放課後は毎日自宅に連れ込まれて台詞の練習に付き合っている。


 龍野たつのさんのあとに続く僕を見て竹田から『脅迫されてるんじゃないか』と心配されているが半分当たっているだけに曖昧な返事しかできなかった。脅迫が始まりだったとはいえ今は脳トロボイスやお姉さんボイスを至近距離で堪能できる悦びに打ちひしがれている。

 

 竹田だって龍野たつのさんの声を聞けば一発で虜になるはずだ。自分だけが彼女の秘密を知っているという優越感よりも、この才能が声優としてデビューするまでみんなに知られないのがもったないという気持ちが大きく上回っていた。


龍野たつのさん」


 学校では声を出したがらないので校舎を出て周りに生徒が居ないのを確認してから話し掛けた。

 目つきの恐さも今となってはシンプルにカッコよく見えて羨ましく感じている。


「教室でも声出していこうよ。可愛い声がもったいない」


「今更キャラ変とは無理でしょ。みんな私をヤクザだと思ってるし。特にチャラい男子は絶対からかう。舐められないためにも学校では睨みを利かせ続ける」


「う~ん……」


 中学生くらいまでならそういう男子もいるだろうけど、高校生にもなるとむしろ女子に媚びるというか、嫌われるようなムーブは避けると思う。

 龍野たつのさんは女子との交流も皆無だからそれに気付いていない。


 声優さんはラジオで学生時代の闇エピソードを語ることが多いけど、その一方で親友もいる場合が多い。

 僕だってクラスカーストは低いけど竹田とオタトークできるおかげで楽しく過ごせている。


 演技力を磨く意味でも女子の友達が一人でもいた方が良い。素人の僕でもそういう発想に至るくらいなんだから龍野たつのさん本人も自覚はあるとは思うんだけど……。


「もしかして私の練習に付き合うのが嫌になった? こっちには蛙部あべくんの恥ずかしい映像が」


「違う違う!」


 ギロリと睨まれて咄嗟に否定した。その鋭い視線だってMっ気の多いオタクに刺さるだろうし、そこから繰り出される甘いロリボイスはすごいギャップだ。

 顔を出して歌って踊るのが当たり前の声優にとって龍野たつのさんは最高の武器を取り揃えていると言っても過言じゃない。


龍野たつのさんならきっと声優デビューできる。そのロリボイスと恐い目つきのギャップは絶対にウケると思うんだ。それにお姉さんボイスまで使いこなせるんだから業界が放っておかないよ」


「褒めても動画は消さないから。まあ、蛙部あべくんの意見だけじゃ不安っていうのは事実ではあるんだけど……」


「だったら教室でも声を出してみようよ。ヤクザの娘っていう誤解も解けるしさ」


「…………」


 最近はマスク越しでもほんの少し表情が変わる瞬間がわかるようになってきた。

 アニメみたいな学園生活を想像したのかちょっとだけ頬が緩んだ。

 今までがクールで恐い印象だっただけに、そのわずかな笑みもギャップの大きさから愛おしく感じる。


「もしこの声で私がクラスでさらに孤立したら責任取ってくれる?」


「もちろん。っていうか絶対孤立しない。むしろ人気者になるね」


「……なら、明日から」


「そこをどけっ!!」


 良い感じに龍野たつのさんが腹を決めたその時、声を荒げながら走るおじさんにぶつかられた。その手には高そうなカバンが抱えられている。


「ちっ。邪魔なガキど……ひぃ!!」


 龍野たつのさんと目が合ったおじさんは威勢を失い後ずさった。よほど大事なのかカバンだけはしっかりと抱いている。


「くそっ ならお前だ」


「え?」


 おじさんはポケットから小さなナイフを取り出して僕の首元に近付けた。小さくてもその鋭さは本物だ。キラリと光る刃が僕の血の気を引かせた。


「へへ。これでゆっくり逃げられるぜ」


「あ……あ……」


 恐怖のあまり助けを呼ぶこともできない。そもそも助けを呼んだところで期待はできそうになかった。スマホを向けて撮影する人はいても警察に通報してそうな素振りの人は誰もいない。


 SNSにアップすればバズり、テレビ局から取材依頼も来るかもしれない。だけど、それでは僕は助からないし、このおじさんを現行犯逮捕するこもできない。

 きっと誰かが通報しているだろ。しかし、誰も通報していないのである。ネットミームの一場面を見事に再現してしまっていた。


「妙なマネしたら首切るからな。へへ。一躍有名人だぜ」


 首筋に刃物を突き立てられている以上、下手に動くわけにもいかずおじさんの言葉に対して何のリアクションもできない。

 それが逆鱗に触れたらどうしようかと不安もよぎったけど、当の本人は独り言のようにつぶやいているだけ僕の反応はどうでもいいらしい。


「おらっ! どけっ! このガキ殺されたくなったから大人しく通せ!」


 ナイフを見せつけるように大声を上げると通行人はサーっと引いていく。

 ひとまず安心なのは僕が人質になったことだ。もしナイフで喉を傷付けられて声質が変わっても世界に大きな影響はない。


 もし龍野たつのさんの声が失われたら……そう考える方が今の状況よりもよっぽど恐かった。

 どうやら僕はよっぽど龍野たつのさんの声が気に入ったらしい。至近距離でも僕だけにささやかれた台詞が脳内で再生される。


 もしかして走馬灯ってやつかな? この2週間はあまりにも幸せ過ぎた。運を使い果たしたのかもしれない。

 ああ、せっかくならアニメでも龍野たつのさんの声を聞きたかった。ロリボイスはもちろん、ドスの利いた声もハマるんだろな。


「てめえ、ここが誰のシマかわかっとんのか? あ゛あ゛!?」


 そうそうこういうやつ。はは、あまりの恐怖で妄想が具現化しちゃったかな。

 

「ひっ! す、すみません……って、ヤクザなんていねえじゃねえか」


 おじさんと一緒に振り返る形になり、僕だけは状況を把握することができた。今のはこの辺を仕切るヤクザではなく龍野たつのさんの声だ。

 周りの人もスマホで撮影するのに夢中だったせいか声の主を特定できず、どこかにヤクザがいるんじゃないかと辺りをキョロキョロ見渡している。


「くそっ! タチの悪いイタズラだ」


 再び逃げようと方向転換すると別の声が聞こえた。


「きゃあああああ!! 変態!!! 誰か助けてええええ!!!」


 子供よりも子供っぽい甲高い声が響いた。

 おじさんに変態の自覚はないのかあまり気にしていない様子で逃走を続けようとしている。

 だけど、僕を人質として抱えたまま走るのは難しいらしくその歩みは遅い。


 あくまでも変質者に絡まれた子供が助けを呼んだだけ。おじさんはそう考えているみたいだが、世界はロリに優しい。

 刃物を持った男が男子高校生を人質に取っても助けを呼んでもらえないが、幼女が助けを求めれば多くの人が飛んでくる。


「貴様! そこで何をしている!」


「なっ! お前ら変態を捕まえにきたんじゃ」


「まず目の前の現場を優先する。当然だ」


「このガキがどうなってもいいのか!」


 警察官の登場によって興奮状態になったおじさんは僕の首にナイフを当てた。まるで命が奪われていくように刃のひんやりとした感触が全身をかけめぐる。

 

その絶望感を大きくしたのは警察官の表情だ。この世の終わりみたいに口を大きく開けて茫然としている。

頼りにしている警察官にそんな顔をされたら僕だって諦めるしかない。せめて龍野たつのさんだけはしっかり守ってください。

死を覚悟した時、最後の最後で天の声が聞こえた。


「うふふ。私とエッチなことをしたい人は手を挙げて」


 こんな痴女みたいな人は二次元にしかいない。そうわかっていても手を挙げたくなるほどに艶やかな声。

 人質に取られているにも関わらず反射的に手が動くと固いものにぶつかった。


「がっ!」


 おじさんは万歳したまま倒れてしまった。人の心があるので頭をぶつけていないか心配だ。


「って、龍野たつのさん! なにやってんの!」


「犯人が油断するかなって。まさか蛙部あべくんが倒しちゃうとは思わなったけど」


 ふふっと笑みを浮かべる龍野たつのさんはイタズラっ子みたいでとても可愛いい。この瞬間をクラスメートが目撃していたらあっという間に彼女本来の魅力が広まるのに。


「いやいや危ないでしょ! ケガしたら大変だって!」


「練習相手に死なれる方が困るの。文句ある?」


「あ、いえ。すみません」


 ヤクザボイスで睨むのはやめてほしい。そっちの道の人じゃないとわかっていても単純に目の前に恐怖が降臨している。


「キミ達、ケガはないか……って、この前の」


「あ……」


「え?」


 龍野たつのさんは僕の手を取り全速力で走った。

 2週間前よりも力強く握られたその手は簡単にほどけそうにない。


「待ちなさい! 顔は覚えたからね! あとで事情聴取させてもらうからね!」


「あはははは。私達、指名手配されるのかな」


「学校には連絡行くだろうね」


「あーあ、学校で声を出さなきゃいけないのか」


「最高だ。龍野たつのさんの声をみんなに知ってもらえる」


 僕らは何も悪いことをしていないのに事件現場から逃げたせいで面倒なことになりそうだ。

 だけど、それも龍野たつのさんと一緒なら楽しそうと思える。


「そういえば蛙部あべくん、私とエッチなことしたいんだよね?」


「え……あっ」


「お兄ちゃんは変態ロリコンじゃなかったの?」


「違うんだ。あれは死の淵に立たされて気の迷いというか」


「そうなの? 私は本気でオッケーだったのに」


「ふぇっ!?」


「女なら誰もいいのかよ。クソが」


「ひいっ!」

 

 ロリ、お姉さん、ヤクザ……3人の声に耳に犯されながら自分の限界以上の速さで走っているといよいよ思考力が低下していく。

 脚はもう限界を超えているのに声でエネルギーを注入されて無理矢理動いている。

 そんな感覚だから僕はこの言葉の意味をきちんと咀嚼することができなかった。


「好きだよ」


 僕の脳は彼女の声によって完全に溶かされていた。

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