二千二重人格

渡貫とゐち

2002の転校生

 岩槻いわつき千早ちはやと出会ったのは去年の春だった。


 高校二年生、新学期――、

 クラス替えもなかった教室に入ってきた、一人の美少女だった。



 教壇の前に立って自己紹介をした彼女のその天真爛漫な笑顔に、ぎゅっと心を掴まれたというだけの話である――ようするに、俺は恋に落ちたのだ。


 見た目と笑顔で心を奪われたのは、つまり『容姿』にしか目がいっていないじゃないかと言われても仕方ないが……、まあ、事実、そうなのだ。


 転校生なのだから、彼女の情報を持っているわけがない。

 どういう子で、なにが得意でなにが苦手なのかを知る暇もなかった。


 クラス替えがなく、変わり映えしない教室に入り込んできた(……言い方は悪いが)『異物』……、周囲を見慣れているからこそ、彼女の容姿が特別、目を引いたのかもしれない。


 許容範囲以上の『可愛い』を急に目の前に出されたものだから、反射的に理性が吹き飛んで恋に落ちた――のだと言えば、自分で納得してしまうカラクリだった。


 では、彼女を知れば知るほど、恋から遠ざかるのかと言えば――そうではなかった。


 クラスに溶け込み始めてきた彼女――岩槻千早を知れば知るほど、自分が落ちた『恋』という穴から這い上がることはできず、謎が深まるばかりである……。


 彼女のことをもっと好きになった、というわけでもなく。


 正直に言ってしまうと、出会った翌日から、恋に落ちたことなど『なかったこと』のように感覚が消えたのだ……。


 まるで、するりと手元から抜けてしまったかのように……。


 恋に落ちたあの感覚が、すっぱりと消えてなくなっていて――。



 毎日、顔を合わせて会っているのに、彼女にドキドキすることがなかった。

 これがクラスに溶け込んだ末の『慣れ』――というやつなのであれば、俺のひとめぼれはその程度のものだったのかもしれないが……、

 容姿に目を引かれて、見慣れたら彼女の『顔』も周囲に埋もれてしまった……?


 いや、だけどやっぱり可愛いことに違いはない。


 俺の目が慣れたわけではなかったのだ。


 ――俺は恋から抜け出したわけではなかった……、ある日、それが証明されたのだ。




 遅刻を繰り返した罰として、放課後、空き教室の掃除を言い渡された俺は、サボりながらダラダラと掃除を続けて……——気づけば日が暮れていた。


 軽い休憩をした時に、どうやら机に顔を突っ伏して眠っていたらしい……、掃除は……終わっていたのが幸いだった。でも俺、集めたゴミを捨てたっけ……、記憶になかった。


「やっほー、各務かがみくん。ぐっすり眠ってたね」

「…………、岩槻……?」


「そーだよー。久しぶりっ……って、違う違う。毎日会ってるんだもんねー、へへっ」


 なーんちゃって、と――『冗談を言ったんだよ?』と俺に分からせるような仕草だった。

 そんな誤魔化しをする前は、素で言っていた感じだった……色濃く出ている本音である……。


 久しぶり?

 確かにそうだ。


 彼女と出会った時と同じドキドキ感が俺の中にある――、


 懐かしい気持ちだった。


 目の前の岩槻が、昨日、一昨日の岩槻と違うわけではないのに……——いいや。


 違うのだ。どこがどうとは言えないけど、俺が恋に落ちた時とまったく同じ雰囲気……、声など毎日のように聞いているはずなのに、顔なんて飽きるほど見ているはずなのに……、

 どうしてか、今、目の前にいる岩槻に、視線以上に心が奪われる……。


 状況が加味されているのか?

 だけど恋に落ちた時は周りにクラスメイトがいたし……今とは真逆の状況だった。


 二人きりだから?

 夕方の学校という舞台だから?


 違うな……そういうことじゃない。


 岩槻以外が条件に入っているわけではなく、やはり岩槻に変化があったのだ。


 髪型、化粧? 喋り方……、完璧とは言えないが、それでも同一である……。

 彼女の外見に変化があったとは思えない。


 じゃあ、仮に成長したのだとしたら、今度はどうして『成長以前の彼女に恋に落ちて』、『成長後にまた俺が恋を思い出した』のか説明ができない――。

 だから変わったのだとしたら、彼女の内面か。


 精神的な成長でもないだろう……、

 過去、岩槻ではあったが、ここ一ヵ月ほどはまったく顔を見せていなかった――、一部分。


 今、こうして久しぶりに見せてくれた一面は――……なるほど。


「二重人格か?」


「…………」


「え、引いてる? 確かに唐突なことを質問したとは思ってるけど……、

 違うなら違うって否定してくれれば済む話なんだけ、」


「――なんで分かったの!?」


 ガタガタ、と周囲の机を押しのけながら、岩槻が近づいてくる。


 きっと綺麗に彼女が並べてくれたのだろうが……、それを自分で台無しにしていた。


 ……それよりもだ。


『なんで分かったの?』


 じゃあ、やっぱり岩槻は……、二重人格なのか?


「な、なんとなく、だけど……、岩槻らしい時と、岩槻っぽくない時があって……。考えられるとしたら二重人格なのかなって思ってさ……」


 演技で使い分けていた、という考え方もできるが、言葉で説明できない感覚的なことまで騙せるほどの演技力を持っているわけではないだろう。


 俺が『恋に落ちた岩槻』と、まったく『なんとも思わない岩槻』が混在している岩槻千早、ただ一人だとすれば……、人格が違うことが、俺が抱いた違和感の正体だろう。


 二重人格……。だとしたら初日から今日までの間、俺の前では彼女の人格が表に出ていなかったことになる……、にしては、期間が空き過ぎじゃないか?


 もしかしたら家ではこっちの岩槻で、

 学校では普段の岩槻が担当しているのかもしれないが……。


 たまたま、俺の前では滅多に出ない人格なのかもしれないな……。

 ――よりにもよって。


「へー、各務くんって、やっぱり頭が良いんだね!」


「……そうでもないだろ。テストの点数が良いわけじゃない」


「取ろうと思えば取れるでしょ? でも計算して、高過ぎず低過ぎずの点数を狙って維持してる……、だって出来過ぎるとみんなからのハードルが上がるもんねっ!」


「……まあ、な。毎回、高得点を出せる確信があるわけじゃない。何度も高得点を出すと、それが当たり前になってしまう。

 そうなると周囲の期待も上がって、それに応えるために実力以上のことをしなくちゃいけなくなる……、それはごめんだからな」


「ほら、頭良いじゃん!」


 勉強、教えてもらおっかなー、なんて(メロディっぽく)口ずさむ彼女は、本気で俺に勉強を教えてほしい、とは頼んでこなかった……。

 頼まれたら断らないぞ? 今の岩槻なら――。


「教えてもいいぞ」

「んー、やめとく。努力は自分でしないとね!」


「それも大事だが、努力の方向を教えてくれる人がいてもいいだろ。向きを間違えたら、無駄にはならないが、効率が悪くなる。努力も、ただ黙々とすればいいってもんじゃない」


 時間は有限だ。

 一生かかる難問でも、努力の向きさえ合っていれば数年で解けることもある。


 人に頼っていいのだ。……頼るべきなのだ。


 自分だけで乗り越えられる壁の方が珍しいだろう。


「だね。でも、やっぱりいいよ。

 ちょっとね……事情のせいもあって、きっと各務くんに迷惑をかけると思うから」


「二重人格のことを言っているのか?」


 気にしない、とは言わないが、分かってさえいれば戸惑うこともないだろう。

 それに、岩槻が二重人格であることは、クラスには知れ渡っていない様子だし……、つまりクラスメイトもまだ知らないんじゃないか?

 俺が気づいたような違和感を抱いていないということは、人格が変わっても今のところちゃんと適応できているってことだし――。


「うん、そうなんだけどね……大変だよ、各務くんが」


「人格が変わっても記憶は保持される……でいいんだよな? そんな大きな欠陥があればたぶんもうばれているだろうし……、記憶も知識も共有できているなら、そう俺が困ることもなさそうな感じがするけどな――」


「わたしの人格の切り替わりに気づいた各務くんだからこそ……分かっちゃうと、頻繁に入れ替わってるから、それぞれのわたしに対応するので疲れちゃうと思うし……」


 頻繁に入れ替わっていた?


 じゃあ目の前の岩槻も、よく顔を出していたのか……?


 気づかなかった、なんてショックを受けるほど、彼女と親密な関係じゃない。


 今回、たまたま気づいたようなものだろう……。

 このラッキーを、特別なものであると思い込んだらダメだな……。


「気にするな。二つの人格に対応するくらい、俺にもでき、」



「あ、もっと――『二千二重人格』なの」



「………………は?」


「二千二重人格なの。今のわたしは、二千二分の一のわたし」



 二千……二重人格……?


 頻繁に入れ替わっているってことは、じゃあここ一ヵ月ほど目の前の岩槻が顔を出さなかったのは、単純に考えれば、のを待っていただけ……?


 スパンが分からないが、この岩槻が顔を出せるのは一ヵ月に一回としておくと――、


 今日が終わればまた一か月後になる……。


 俺の心を奪ったくせに、二千二の人格の中に埋もれるつもりか!?


「だから大変だろうし、勉強はいいよ――」


「いや、やる」


「え?」


 人格を切り替えるためのスイッチがどこなのか、あるかどうかも分からないが――単純に、長く隣にいればこの岩槻と出会える頻度も高くなるということだ……、であれば。


 彼女と一緒にいられる時間を増やすことは必須。


 できれば今の岩槻を長いこと維持できる方法まで分かれば完璧である。


「ほんとにいいの? 結構、一日の中で人格が変わってると思うから……」


「教室で見てても違和感なんてなかったし、人格に大差なさそうだけどな。……大丈夫だ、人格が変わっても、岩槻なら、苦手ってことはないからな――」


 正確には、今の岩槻には、だが。


 ……他の人格になっても、今の岩槻の面影があるならきっとやっていけるはずだ。


 ドキドキしないだけで、岩槻千早であることに変わりはない。



「……ありがと、各務くん。じゃあ『この子』たちのこと、任せてもいいよね?」


「ああ。どんな人格だろうと、そう岩槻から離れたやつがいるとは思え、」


 瞬間だった。


 人格が切り替わったのだろう……岩槻の目つきが鋭くなり――、



「おい、やらしい目でこの子を見てんじゃねえよ」



 と、岩槻が言った。


 ……え。二千二の人格の内の一つが、これか……?


 めちゃくちゃ、分かりやすく『変わった』って分かる人格じゃねえか!?!?


 ぐ、と胸倉を掴まれ引っ張り上げられる。……違う意味でドキドキしてきたんだが、やはり岩槻の腕力だからか、彼女の腕がぷるぷると震えていた……。


「み、見てないっ! 見てないから落ち着け! えっと……岩槻の……どの人格だ?」


「あー……一応、こっちでは決めてんだよな……、は『千早96-か12』だ、よろしく」


「ナンバープレートかよ!?」


 岩槻の……九十六番目の人格ってことは分かるが……じゃあ『か12』って、なんだ?


「簡単だろ」


 岩槻が、さらにキッと俺を睨みつけ、


「――過激派の、十二番目ってことだよ、覚えとけ」



 ―― おわり ――

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