(おまけ)布美さん、あのね。
惨めなあたしはパーカーのフードを被って、道の端の方を歩いている。
いつも通る電気屋の自動ドアに、ポスターが貼られていた。綺麗で健康的な女性の笑顔だ。あたしは彼女のことを知っている。知っているが、そのことを周りに言ったことはない。
女優の
あたしはこの歳まで彼女の存在を知らなかった。彼女は母の元夫との子供であり、つまりあたしとは異父きょうだいだった。母はそのことを一切あたしに知らせず、ある日突然彼女が訪ねてきたのだ。
初めて会った布美さんは穏やかで淡々としていて、ちょっとぞっとするほど綺麗だった。
布美さんは最初に、母のことは全く恨んでいないことを告げた。あの人のもとにいれば、誰だって逃げたくなるでしょう。そう、すらすらと水のような声で言った。
「わたし、テレビに出ることになったの、ママ。迷惑をかけないようにしたいけど、知らせないよりはいいと思ったから会いに来ちゃった。先に連絡をしなくてごめんなさい」
母はその間、ほとんど声を発さなかった。ただぽつりと、「綺麗になったわね」とだけ言ったと思う。布美さんはにっこり笑って、「ありがとう」と答えていた。
帰り際、布美さんはあたしのことを見た。
「はじめまして」
「は……はじめ、まして」
つっかえながらそう言うあたしに、布美さんは目を細めて「いくつ?」と尋ねる。あたしはおっかなびっくり「十六です」と言った。布美さんはなぜだか一瞬目を閉じて、「そう」とだけ唇を動かす。それだけだった。
彼女はそれから、年末にもうちを訪れた。その時にはもう女優として、知ってる人は知ってる、ぐらいの知名度になっていた。そして今では、あたしたちの年代では大体名前を出せばわかるくらいの知名度だ。
あたしにとって、あれが姉だという認識はほとんどないし、口が裂けてもそんなことは言えないと思う。ただ、田路布々美と会ったことがあると言うだけで優越感はあった。
残念ながらそんなことを話すような友達は、あたしにはいないのだけど。
不思議なのが、一体どこで間違えたのかあたしには全く思い当たらないことだった。小学生の頃、あたしは友達の多い子供だった。男女関係なく仲が良かったし、世界は自分を中心に回っているものと疑っていなかった。
中学生の頃、まだまだ友達はたくさんいた。さすがに男の友達はかなり減ったが、それでもあたしはクラスの中心だった。上手くやっていたはずだった。
高校に入り、しばらくして。状況は一変した。仲の良かった友達とぎくしゃくし始めた。それにしたって、あたしには何も思い当たる節がない。ただ、あたしと喋るのが苦痛だというような態度を取られるようになった。そして極めつきに、話したこともないような女の子から面と向かって「ブス」と言われた。あれは本当に衝撃だった。
今思えば、因果関係としては悪意の方が先にあって、そのような暴言を吐かれたのだろう。しかし当時のあたしはそうは思わなかった。ブスだからブスと言われた。そう馬鹿正直に受け取って、あたしは心に怪我をした。なんせ、相手は本当に話したこともないような子だったのだ。そんな子だからこそ、事実を言っているのだと思った。そしてあたしはそれ以上心に怪我を負うのがこわくなり、色んなことから手を引いてしまった。
それ以上、イジメのようなものはなかった。ただ惨めなあたしはマスクをして、学校ではずっと俯いている。それだけだ。
時々、鏡の中の自分を見る。嫌なところばかり目についた。自信なさげなあたしの顔は、自分で見てもブスだ。目の形がブス。でも、だからって大したことはない。もうなんだっていいのだ。自分がブスだって知っていれば、調子に乗ることはないし、それで不必要に傷つくことはない。あの時みたいに、思わぬところで心に怪我をすることはない。だからあたしは鏡を見る。ブスだな、と再確認する。
とぼとぼ歩きながら家に帰る。玄関を開けると、女性もののピンヒールが置いてあった。心臓が飛び出そうなほど驚いて、あたしは靴を脱ぎ捨て居間の戸を開ける。
先ほどポスターで見た顔が、「おじゃましてます」とにっこり笑った。
「布美さん……来てたんだ。なんで来たの?」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど」
想像以上にくつろぎながら、布美さんは「ママはこの時間、お仕事?」と尋ねてくる。どうやらこの家には他に誰もいないようだ。不法侵入ではないか、と思ったがこの人はあたしの姉なのであった。
あたしはとりあえずお茶菓子を出しながら、「今日は何の用?」と訊いてみる。「近くに来たから寄ったの」と布美さんは言う。そんなことあるだろうか。彼女は今話題の若手女優である。
ぽつりと、彼女は言った。「そう邪険にしないで貰えると助かるな。わたしにとっては、あなたたちしか家族はいないから」と。
彼女の父は、昔人を刺して刑務所に入っていたらしい。出所してから、接近禁止命令が出ていたにもかかわらず三度布美さんに会いに行き、そのたび逮捕されて現在は精神科に入院していると聞いていた。
「……でも、布美さんだっていつかは結婚したりして新しい家族を作るでしょ?」
「どうかなぁ。私はもう、恋をしないと思うから」
「なんで」
「一生分恋した」
すごいスキャンダルを聞いた気がする。あなたと同じぐらいの歳の頃、と布美さんは付け加える。
「最初から最後まで私の片思いだったけど、でもきっとあれを超えるような出会いはないから」
「……もったいない」
「もったいない?」
「布美さんは綺麗で、きっとたくさんの人が布美さんに恋をするのに、布美さんが恋しないなんてもったいないじゃん」
「もったいない、かぁ……」
どこか遠くを見た布美さんが、「恋なんて人生の全てじゃないけど、あなたの言いたいことはすごくわかるな。私もそう思ったっけ、彼はたくさんの人に恋されながら誰にも振り向かない人だった。そうだった……すっかり忘れてた」と、やはり水のような声であたしにはわからないことをすらすらと言った。
「でも、やっぱり恋って人生の全てじゃないんだよ。恋なんてしなくたって生きていけるし、好きな人がいなくなっても地球は回ってるし」
「そりゃそうだけどさー。きっと布美さんに生まれ変わったらあきれるほど恋したいって人、いると思うよ」
「やりたい人はやればいい。私はそうじゃない。それだけ」
珍しくきっぱりと、彼女はそう言った。
あたしはそんな布美さんの態度が気になって、「布美さんの好きな人は、どんな人だったの」と尋ねてみる。
「変わった人だったよ。顔はよかったけど」
「どこら辺が変わってた?」
「初対面で私のパパに水ぶっかけた」
「やば」
「“一に忍耐、二に忍耐、三四がなくて五に拳”がモットーだったの」
「何それ……?」
ハッとした布美さんが、「言うほど忍耐強かったかな、祥吾さん……」と呟く。思い切りよかったからなぁ、と真剣な顔で何か考えていた。
「好きだったんだ?」
「好きだったよ」
「今も?」
「そうだね、今も大好き」
「両想いになりたかった?」
「両想いになりたいと思うから、恋なんだよ」
「布美さんでも振り向かせられない相手だったんだ」
急に言葉に詰まった様子の布美さんの表情を、あたしは伺う。「布美さん?」と声をかけた。彼女はぐっと堪えるようにして、どこか明後日の方向を見る。
「あの人に会えたのは奇跡だったし、あの人に出会えて本当に良かったと思うけれど、それでも私……どうしてあの人に恋なんかしちゃったんだろうと思うの。恋なんかじゃなくてよかったのに。全然、あの人だってそうじゃなくてよかったのに」
「布美さん、泣いてるの?」
「祥吾さんのこと尊敬してる。感謝してる。大好き。でも、それが恋である必要なんて全然なかったのに。あの人が私を見るのと同じように、大切な友達でよかったのに。彼はどうしてこの気持ちを知ってから死にたかったんだろう。わたし、こんな気持ち知らずに死にたかったな。あの頃は本当に素敵な気持ちだと思っていたのにね、こんなにずっと強くてずっと消えないものだとは思ってもみなかったから」
長めのため息をつき、布美さんは「恋なんてしなくても生きていける」ともう一度言った。あたしはそれをゆっくり咀嚼して、頷く。
しばらく、沈黙が辺りを包んだ。ふと布美さんが「はるみちゃん」とあたしの名前を呼ぶ。
「本当は帰りに渡そうと思ったんだけど、先に渡しちゃうね。お土産を持ってきたの」と、何か紙袋を差し出した。中を見ると、高級そうな小箱が入っている。
小気味良い音を立てて箱が空いた。中には、シンプルで美しいデザインの化粧道具が入っている。
「……あ、ありがとう」
「今の子がどういうブランドを使っているかわからないけど……」
「全然……全然、あたし化粧とかしないから」
「そうなの?」
ふふふ、と布美さんは笑った。「私も、全然お化粧しなかったの。十六歳まで、全然」と肩をすぼめている。
「てか、化粧なんかしても仕方ないよ。あたしブスだし」
「えっ」
布美さんはあたしの顔を覗き込み、「ええー??」と目を丸くした。
「誰に言われたの?」
「誰に言われたとか、そういうんじゃないから」
少し強めの口調でそう返してしまった。布美さんは瞬きをして、「おいで」とあたしの腕を引っ張る。そのまま洗面所に連れて行かれた。
「私、魔法使いの弟子みたいなものなの」
「まほうつかいのでし……?」
「私でどうにかできる呪いならいいけど」
座って、と言われて腰を下ろす。すると布美さんはあたしの前髪を上げて「ここで押さえてて」と指示を出してきた。何か、粉のようなものを優しくあたしの顔に広げる。
「あのね、はるみちゃん」
「何? てか今何やってる? 化粧?」
「魔法」
さすが芸能人になる人はなんか変わってるな、とあたしは思った。布美さんは難しい顔をしながら「目を閉じちゃダメだからね」と言う。戸惑いながらも、あたしは目を見開いた。
「あのね、はるみちゃん」
「何……?」
「誰にそんなことを言われたかわからないけどね」
「だから、誰に言われたとかじゃないんだってば」
「その人の言っていることと私の言葉なら、どっちを信じる?」
あたしは口を開いて、考える。冷静に考えて――――「布美さん、かな。布美さんはちょっと変わってるけど真面目っぽいし」と答える。てか、そもそもブスって言ってきたやつのこと未だによく知らないし。
ふっと笑った布美さんが、あたしの頬を両手で掴む。
「あなたは可愛い。私が保証する」
じゃーん、と布美さんはあたしに鏡を見せた。もちろんあたしの顔が映っている。
「どう?」と訊かれてあたしは戸惑う。「どう、って言われても……」とゆっくり鏡の中の自分の顔をなぞった。
「可愛いのかな、よくわかんない」
「えー……私の腕の問題なのかな……」
上手くいかないなぁ、と布美さんが嘆く。あたしはなんだか吹き出してしまって、もう一度鏡を覗き込んだ。
「可愛いかな?」
「可愛いよぉ、はるみちゃん。もっと可愛くなるよ」
可愛いは作れる、ってこと? なるほど一理ある。「あなたは可愛いよ」ともう一度布美さんが言った。
「あのね、はるみちゃん」
「何?」
「結局のところ自分の尊厳は自分で守っていくしかないんだと思うの。あなたは誰に何を言われても、自分のことを信じたいように信じる権利がある。あなた以外の誰も、あなたのことを縛れない」
「……綺麗ごとでしょ、それは」
「綺麗ごとでも何でもない。自分の選択に責任を持つこと、それを誰かのせいにしないこと、そのために自分が一番納得できる選択をすること。尊厳ってきっとそういうものだと思うから」
人生の色んなことを、誰かのせいにしないために自分で納得できる選択をする。自分が信じたい自分を信じていい。
自称魔法使いの弟子は、そう教えてくれた。そうなるとあたしは魔法使いの弟子の弟子ということになる。ちなみに彼女の師匠は死んでしまったので、彼女は魔法使いにはなれないのだそうだ。「はるみちゃんの方が器用みたいだから、きっとお化粧上手になるね」と彼女は言った。
あたしはその日のうちに、布美さんに連れられた美容室で髪を切った。うざったい前髪は眉毛まででバッサリだ。それから、布美さんがくれた化粧道具で一生懸命練習した。
結局のところ、よくわからない。あたしは本当にブスなのかもしれないし、言うほどではないのかもしれない。それを決めるのはあたしなんだと布美さんは言った。理屈ではわかっても、そう簡単に心の持ちようが変わるわけじゃない。「そういう時は形から入るの」と布美さんはどこか可笑しそうに言った。師匠がそう言っていたそうだ。
その師匠というのが、きっと彼女の好きだった人なのだろう。彼女がその人のことを話すとき、その瞳の色が恋の話をした時と同じだった。
あたしは髪をアイロンで巻いて、化粧をする。校則で化粧は禁止されているが、今さらそんなことを咎める教師はいない。
登校する。いつもより視線を感じた。あたしは緊張したけれど、俯かないようにした。誰も声をかけてこない。でも惨めではなかった。
放課後、帰ろうとして廊下を歩いていると、後ろから腕を掴まれた。
顔を真っ赤にした女子が、「このブスっ」とあたしに唾を飛ばしてくる。あたしは不快で眉をひそめたが、すかさず「昨日より?」と訊いてみた。
「は?」
「昨日のあたしより、ブス?」
「そうだよ、何化粧なんかしてんだよ、ブス。似合わねーんだよ」
思わず、あたしは力が抜けてしまってけらけら笑った。
そんなはずはない。そんなはずはないのだ。
百歩譲ってあたしがもう救いようのないブスだったとしても、昨日のあたしよりは今日のあたしの方が断然可愛い。これは間違いない。『引っかかったな』という気持ちすらある。昨日のあたしより今日の方がブスだなんて! そんなわけないのに! この人、なんにもわかってないんだ!
そして明日のあたしは、残念ながらまた今日よりちょっとは可愛くなっている予定だ。
「ごめん、急いでるから」とあたしは腕を振りほどく。その人は呆気に取られて、その場に突っ立っていた。
なんだかスキップしたいような気持ちで家に帰る。ちょうど布美さんが家から出るところだった。昨日は一泊していたのだ。
彼女は、大きめの麦わら帽を被っている。大事そうに手で押さえながら。
「布美さん、あのね」と声をかける。布美さんは振り向いて、「おかえり」と言ってくれた。
「こんなに高いの、毎回買えないからさ。あたしのお小遣いで買えるコスメ教えてほしいんだけど」
「それもそうだね」
「それとさ、布美さん、あのね」
「うん」
巻いた髪をくるくると指先でもてあそぶ。緊張した。あたしは深呼吸をして、「あのね」ともう一度言う。
「お姉ちゃんって、呼んでもいいのかな……。嫌じゃなかったら、というか、失礼じゃなかったら」
すると布美さんは、本当に綺麗な顔で笑って――――あのポスターよりずっと綺麗な顔で笑って、「喜んで」と言ってくれた。
祥吾さん、あのね。 hibana @hibana
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