矢本智也は閃いてしまった

湖城マコト

殺虫スプレー

矢本やもとくん。一生のお願いだ。どうか捜査に知恵を貸してくれないだろうか!」

「一生のお願いというフレーズを、つい最近も聞いた気がするんですけど」


 高校一年生の矢本やもと智也ともやは困惑していた。下校途中の智也を捉まえ、顔を合わせるなり頭を下げてきた壮年の男性は、警視庁捜査一課所属の古日山こひやま弥彦やひこ警部補だ。長身で筋骨隆々の古日山警部補が二回り年下の智也に懇願する様は、大いに人目を引いた。


「事件解決のために何卒!」


 過去に偶然事件現場に居合わせた智也は、見事な閃きで事件解決に貢献した実績を持ち、捜査を担当していた古日山警部補や一部の警察関係者から一目置かれる存在となっている。それ以来、古日山警部補は度々、智也に極秘で捜査協力を依頼するようになった。


 古日山警部補は警察の面子よりも事件の解決を何よりも大切にしており、そのためなら、時には外部からも知恵を借りることも必要だと考えている。平穏な日常を望む智也は捜査協力には及び腰なのだが、押しに弱く、結局はいつも古日山警部補に押し切られてしまい、協力する羽目になってしまう。その繰り返しはもはや様式美である。


「分かりました。分かりましたから頭を上げてください」


 結局今回も智也が折れた。目立たず、普通の高校生として生活したいのに、通学路で注目を集めるわけにはいかない。


「協力に感謝するよ。詳しくは車で話そう」


 捜査情報に関わる話しなので、やり取りは人目を避け、古日山警部補が乗って来た車で行われることとなった。目立ちたくない智也もその方が助かる。


「さてと、本題に入ろうか」


 市街地から外れた湾岸の駐車場で、古日山警部補は車を止めた。ここでならゆっくりと智也と捜査会議が出来る。


「昨日、博物館に勤務する天知あまち朱春あけはるという男性が自宅の書斎で殺害されているのが発見された。死因は腹部を刺されたことによる失血死。トラブルやアリバイの有無から、容疑者は四人にまで絞られているが、犯人の特定には至っていない」


 古日山警部補は捜査資料を智也に提示した。本来一般人の目に触れていいものではないが、二人の間ではすでに日常茶飯事となっている。


「その事件に、僕が介入する余地はあるんですか?」

「矢本くんに協力を依頼した理由はこれだよ」


 捜査資料によると、被害者の天知朱春は殺虫スプレーを強く握りしめた状態で亡くなっていた。これは特殊な状況といえる。


「襲撃を受けた被害者が、咄嗟に近くにあった殺虫スプレーで武装したが力及ばず、そのまま息絶えたというのが捜査本部の見解だが、私はどうにも疑問でね。


 捜査資料にあるように被害者は即死ではなく、刺された後もしばらく息があったようだ。その場からは動けなかったが、手の届く範囲で物に触れようとした形跡も確認出来る。そのような状況下でも被害者は、最期の瞬間まで殺虫スプレーを握りしめていた。私にはこれは単なる武装ではなく、被害者からのメッセージに思えてならない」


「所謂、ダイイングメッセージというやつですか」


「その可能性を、一緒に探ってはくれないだろうか? これがダイイングメッセージだったなら、犯人を特定することが出来るかもしれないし、何よりも被害者の最期の思いを汲んであげたい。もちろん私の考えすぎで、取り越し苦労となる可能性も否定は出来ないが」


「被害者の最期の思いですか。分かりました。一緒に考えるぐらいは別に構いませんよ」


 誰が解決するかではなく、事件が解決することが一番大切だと考え、被害者の心情にもしっかりと寄り添う。古日山警部補のこういうところが、智也は嫌いではなかった。だからこそ結局は、捜査に協力する羽目になってしまう。


「容疑者というのは、資料にあるこの四人ですね」


「上から、被害者の上司であるたかどの義郎よしろう。被害者の元交際相手である虹野にじの帆奈美ほなみ。被害者の友人の蟹江かにえ保隆やすたか。近隣住民の天道てんどう露子つゆこ。全員に被害者との間にトラブルがあり、犯行時刻のアリバイも確認されていない」


「ダイイングメッセージだとすれば、この四人の誰かを示している可能性が高いということか」


 現状、殺虫スプレーと結びつきそうな要素といえば、一部の容疑者の名前だろうか。虹野帆奈美の「虹」と蟹江保隆の「蟹」には「虫」の字が。天道露子の「天道」は「天道虫てんとうむし」の名前に含まれる。しかし、だからといって犯人の特定には結びつかない。何か他に手掛かりはないのかと、智也は資料を読み漁っていく。


「古日山さん。この虫の冊子というのは?」


 智也の目に止まったのは、表紙に「虫たちの秘密」と題された、薄い冊子の写真だった。刺された後に被害者も触れたようで、血塗れの指の跡が確認出来る。


「被害者の勤務していた博物館では現在、『身近な昆虫の不思議』という展示が行われていてね。近々、地元の小学生が課外授業で訪れる予定になっていたそうで、児童たちに配布するための冊子を製作していたようだ。それはその見本だね」


「血塗れの手でページをめくった跡があります。これも、ダイイングメッセージの一部かもしれない」


「確かに、混乱してたまたま触れただけならばともかく、ページまで捲っているとなると、意図した行為の可能性が高い」


 殺虫スプレー単体ではメッセージ足り得ないが、昆虫について扱った冊子と組み合わせたら、何か意味が見えてくるかもしれない。


「見てください。冊子の中の二つのページにだけ、強く押し付けたような血の跡が残されています。被害者が強調したかったのは、この二ヶ所だったのではないでしょうか?」

「強調されているのは、アリについてのページと、カマキリについてのページか」


 他のページは隅に血の指紋が残っているだけにも関わらず、アリとカマキリのページは掲載写真にも血が滲む程、くっきりと被害者の痕跡が残されていた。


「アリとカマキリ……殺虫スプレー。もしかして」


 何かを閃いた智也は、急いでスマホで情報を検索し始めた。


「古日山さん。ダイイングメッセージの意味が分かりましたよ」

「本当かい! 矢本くん」

「殺虫剤と昆虫の冊子を組み合わせたこのダイイングメッセージは、容疑者の一人の名前を表していることが分かりました」


 そう言って、智也はリュックからボールペンとノートを取り出し、アリとカマキリの名前を漢字で「あり」、「螳螂かまきり」と書き込んだ。


「殺虫スプレーとは読んで字の如く、虫を殺すと書く。このダイイングメッセージはアリとカマキリを漢字に変換した後に、虫を取り除くことで解読が出来ます。カマキリの漢字は二種類ありますが、今回はつくりがとうの『蟷螂』ではなく、つくりが堂の『螳螂』でしょう」

「堂って、まさか」


 智也の言わんとするところが、古日山警部補にも分かったようだ。


「蟻と螳螂から虫を取り除くと、残された文字は『義』と『堂』と『郎』。並び変えると『たかどの義郎よしろう』となる。被害者が遺したダイイングメッセージは堂義郎です」

「……君の推理にはいつも驚かされる。早速捜査本部にもダイイングメッセージについて報告させてもらうよ」


 捜査資料を提供してから、まだほんの五分程度しか経過していない。捜査資料だけを見て謎を解き明かす。その姿はさながら現代の安楽椅子探偵であった。古日山は早速、捜査本部へと一報を入れた。


「後は本部からの報告待ちだ。それにしても、被害者も今わの際によくあんなダイイングメッセージを考えついたものだな」

「メッセージを残す材料が存在していたのは偶然でしょうが、言葉遊びとしてのアイデア自体は、被害者が以前から持っていたのかもしれませんよ」

「どういう意味だい?」


「被害者の名前は天知朱春。さっきとは逆で、虫という字を加えるとまったく違った字が見えてきます。「天」に虫を足すと「かいこ」。「知と朱」に虫を足すと「蜘蛛くも」。春に虫を足すと「うごめく」です。自分の名前を使った言葉遊びとしてこの発想が頭の中にあったから、被害者は咄嗟にダイイングメッセージとして利用することが出来たのではないでしょうか」


「そこまで見抜いていたのか……君は本当に何者なんだ?」

「下校途中だった。普通の高校生ですよ」


 謙遜ではなく、それが智也の本音だった。少なくとも警察に捜査協力を求められるようなことはない、ごく一般的な高校生としての日常を智也は望んでいる。


 ※※※


「――了解。迅速な対応に感謝する」


 程なくして、古日山警部補の元に捜査員から連絡が入った。


「矢本くん。堂は無事に逮捕されたよ。元々罪の意識からかなり追い込まれていたようでね。ダイイングメッセージを突きつけたら、もう言い逃れは出来ないと、大人しく観念したようだ。ダイイングメッセージの解読が無ければ、犯人の特定にはもっと時間がかかっていたかもしれない。君のおかげで事件を早期に解決することが出来たよ」


「僕はただ、閃きを口にしただけですよ。終わったのなら、自宅まで送ってもらえますか」

「もちろんだ。近々お礼もさせてもらうよ」


 事件が一段落し、智也を自宅まで送り届けるべく、古日山警部補は車を発進させた。


「矢本くん。また何かあったら、君に協力を求めてもいいだろうか?」

「事件解決は一般人である僕ではなく、警察の仕事です。出来ればそちらだけで何とかしてください」


 正論故に、古日山警部補は何も言えなくなってしまった。智也の言うように、本来は自分たちだけでどうにかすべき問題なのだ。そのことは重々承知しているが、事件解決のためには、時には外部の人材に頼ることも必要だと古日山警部補は考えている。事件を迷宮入りさせることだけは絶対にしてはいけない。


「……だけど、どうしても行き詰ってしまった時は、話しぐらいは聞きますよ。必ずしもお役に立てるとは限りませんけど」


 口では反目しながらも智也自身、内に秘めた正義感までは隠しきれていなかった。


「ありがとう。矢本くん。ところで進路はもう決めているのかい? まだ決まっていないのなら、将来は是非警察官の道を」

「なりませんよ。僕はごく一般的なビジネスマンになるのが夢なんですから」

「それじゃあ、将来は君の務める会社へと捜査協力に伺って」

「いや、マジで止めてくださいよそれ」

「冗談だ。半分」

「半分?」


 二人の押し問答は、智也の自宅に到着するまで続けられた。




 了

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