第2話

 知り合ったのはゲイバーだった。早めに仕事が終わった金曜の夜、たまに行く店に顔を出した。本業が不動産だというオーナーが老後の道楽にとオープンした店だ。落ち着いていて、年齢層も高めで、出会いの場でもあるが同じ指向の男同士ゆっくり飲むこともできる場所だ。気に入った男がいればという期待はあったが、それよりもまずリラックスして飲みたかった。一人でカウンターに座って一杯目を飲んでいると、ドアが大きな音を立てて開いた。珍しい。そのドアはいつも静かに開き、男たちは静かに開けた人物を観察する。つい目を向けると、そこに夏輝が立っていた。店中の男たちの好奇の視線はすぐにはっきりと色めいたものになる。夏輝は居心地悪そうにしており、一層男たちの心をそそっていた。

 まだ成人したてに見えた。安物のTシャツにジーンズという服装。整った顔立ちや服の上からでも筋肉の盛り上がりがわかる見事な体格。いかにも、男にもてそうな男だった。大きな体なのに初心で、身なりに無頓着。いかにも、だが、俺の好みではなかった。俺は年上の、もの慣れた男が好きだった。仕事も家庭も遊びも、すべて余裕でこなしてしまうような。そっと目線を外そうとすると、遠慮がちに店を見回していた夏輝が、俺を見た。目が合う。そして、嬉しそうに笑った。見つけた、とでも言いたげに。戸惑う俺の隣にやってきて、

「ここ、いいですか?」

 と、尋ねた。俺は笑ってしまった。肩が触れるほど近くに来た夏輝は、汗の匂いがした。汗と、太陽であたためられた砂のような匂い。嗅ぎ慣れない匂いを、もっと近くで嗅いでみたくなる。

「なんていうの?」

 呼び名を尋ねたつもりの俺に、

「上原夏輝です。夏に輝くって書いて夏輝」

 と本名を堂々と名乗った。俺がカズユキと名乗ると、

「どういう字ですか?」

 と尋ねてくる。こういう場で、あまり身元を知られたくないという発想自体がないらしい。何故だか嘘をつく気がそがれて、一に雪、と答えた俺に、

「いい名前だなあ。俺、雪大好きです。見たことないけど」

 と笑った。

 夏輝はメニューでまず目に入ったらしきビールを頼み、サービスのナッツの皿を不思議そうに眺めた。こういう場に不慣れなことを隠さない。

「こういうところ来るの、初めて?」

 プライベートでまで年下に気を遣うのは好みではないが、夏輝には人の素朴な親切心を刺激するところがある。会話の主導権とか、どこまで情報を出していいのかとか、普段気にしている駆け引きすべてをどうでもよくしてしまう素直さ。夏輝ははにかんで、頷いた。

 一杯をゆっくりと飲みながら、俺たちは初対面同士のぎこちない会話をした。夏輝は地元の調理師学校を出て、今は洋食屋で週五日働いていると言った。住んでいるのはシェアハウスで、二段ベッドの下に寝ているらしい。もともと女子用の物件だったのでベッドも小さく、そのうち自分が壊すかもと笑った。

 ビールを飲み終わる。俺がメニューを手に取ると、夏輝は不安げに視線をさまよわせた。ああ、と勝手に納得する。ここは値段設定が高めだ。

「奢るし、好きなものを頼んでいいよ。フードは軽いものしかないけど……」

 金ならあった。金を稼ぐ利点は、金のことを考えなくていいことだ。夏輝が年下なのは助かった。奢るのに理由を作らなくてもいい。

「そうじゃなくって」

 さえぎる声は大きかった。張りのある声は、空間の流れを遮り、一瞬店中の会話が途切れた。すみません、と小さくなって夏輝が言う。

「あの……こういうの、いつまで続けたらいいんですか?」

「こういうの?」

 夏輝は背筋を伸ばした。

「俺とセックスしてくれますか?」

 あまりにも真剣だった。俺が避けてきたものの一つ。セックスも、それに伴う感情も、何もかも大したことがないと思っていたい。

 普段なら断る。だが頷いていた。頷くことでどうなるのかと考える余裕もなかった。ただ、目の前にいる夏輝の真剣な問いに、頷いてやりたかった。夏輝の声や、表情や、肉体や、匂い。そこには何かがあった。いかにも男に好かれそうな男、というだけじゃない、俺の気をそそる何かが。

「出ようか」

 俺のグラスに残った酒を飲み干すと、二人で店を出た。都会の残暑のだらしのない湿気。夏輝は俺の腕をつかんでいた。ワイシャツ越しにも、熱い手だった。ホテル街に向かって歩き出す。

「どっちがいい?」

 なんとなくわかっていたが、尋ねてみた。

「え?」

「抱くほうか抱かれるほう」

 男の経験がないだろうなと思ったので、婉曲な表現になった。ぐ、と、手に力が入る。

「どちら……でも……」

 俺は笑った。嘘が下手だ。いや、嘘ではなく、どちらでも受け入れるつもりはあったのだろう。

「いいこと教えてやるけど」

「え、はい……」

「どちらかって言うと、抱く方が重宝されるよ」

「え?」

「抱かれたがる方が多いんだ」

「あの」

「うん?」

「一雪さんは、どっちですか」

 夏輝の会話の仕方は、俺とは違う。知りたいことは最初から尋ねる。俺は観念する。

「君には抱かれたい」

「抱きたいです」

 嬉しそうな顔をする。俺を抱けるというだけで、こんなに嬉しそうな男がいる。それは本当に、抗いがたい快楽だった。十八歳で初めて男と寝た時も、こんなに嬉しくはなかった。あのときは年上の慣れた男に対して、初めてなことを隠していた。言えば相手が喜んだかもしれないが、それも嫌だった。おかしなことをしないように必死で、なんとかやり遂げたという記憶しかない。今思うと、相手にはばれていたのかもしれない。それも癪だ。そういうふうにしか誰かと関係を結んでこなかった。

 よく使うホテルに行くと、夏輝は興味深そうに部屋を見回した。変わったところもない、普通のホテルだ。

「男とは初めて?」

「え、いや……」

 少し、期待が裏切られたような気がした。勝手なものだ。

 夏輝は続ける。

「あ、えっと……男だけじゃなくて、全部初めてです」

 打ち明けたことにほっとしたのか力を抜いて、ぽん、とベッドに腰かけた。その瞬間に感じたものを、俺はうまく説明できない。

「シャワー浴びてくる」

 そう言って、逃げるように浴室に向かった。

 セックス自体には期待しなかった。当たり前だ。初心者に何を期待できる。俺がもてなしてやる側で、精一杯楽しませてやろうと柄にもなく思った。たまにはいいだろう。念入りに準備をして、そのあともなんだか気が騒いでしばらくシャワーの下に立っていた。

 ようやくバスローブを着て出ると、夏輝は入る前と同じ場所に座っていた。ひざに肘をついて、両手に顔を埋めていた。俺が出てきたのを確認すると、ほっとしたように笑った。立ち上がる。

「俺も浴びてきます」

「いいよ」

 そっと胸を押すと、他愛なくベッドに倒れた。薄いシャツは汗に濡れて、脇や胸の色が変わっていた。汗と砂、日差しと塩と生き物の匂い。通い慣れたラブホテルのベッドに、海の匂いが漂う。夏輝は目を見開いていた。大きな黒い瞳。睫毛が濃くてくるりと長い。言葉もわからない子供みたいに無防備に、自分をさらしている。薄く開いた唇に、自分のものを重ねた。乾いて熱くてふっくらとしている。そっと舌を伸ばして唇と咥内の境目を舐めると、夏輝もおずおずと舌を伸ばした。ゆっくりと、二匹の生き物がお互いを確かめ合うように、舌をすり合わせる。キスが終わったころには、俺たちの体勢はひっくり返って、夏輝が上にいた。ぱらぱら落ちる汗の一粒一粒に、海の匂いがした。

 夏輝のセックスは、予想外だった。よかった。よかった、という表現が適切なのかもわからない。俺の知るセックスとは何もかもが違った。夏輝が巧みだったわけじゃない。ただ、俺のことをよく見て、気遣ってくれた。痛みがないよう。快適なよう。俺の全ての反応を見逃さないように気を配って、俺が喜ぶことを要求するより前にしてくれる。俺は、セックスのことを本当は何も知らなかったのだ。夏輝はただセックスという名前にくくられる経験がなかっただけで、人と人とが触れ合うやり方を、よくよく知っていた。

「気持ちいい?」

 夏輝が俺の額にキスをして、そう尋ねる。俺は答えられない。夏輝は無理に言わせたりしない。そっと俺の肩を撫でてくれる。快楽を与えるときと、安心させるとき、夏輝の指はまったく違うふうに動く。俺の目を見て、目を細める。子供っぽい喜びに溢れた瞳と、くっきりとした皺。腹の中よりもっと深い、自分でも届かない場所が縮む。自分がどんな顔をしているのかわからない。

「一雪さん、かわいい」

 そう言われると、もうだめだった。ぐったりとする俺に夏輝は楽しそうに笑って、それから俺の頭を撫でた。

 長く絡み合ったあと、夏輝はシャワーを浴び、それからすぐに寝てしまった。朝起きて、キスをして、もう一度セックスをして、連絡先を交換して別れた。朝、外で見た夏輝の肌は産毛がきらきら光っていて、夢みたいなまぶしさだった。

 連絡するか。俺は迷った。また会いたいです、と、夏輝は別れ際、土曜の朝の駅で言った。嘘ではないだろう。俺も、夏輝のことは気に入っていた。嫌なところはひとつもない。それでも迷っていた。同時に、どうせそのうち連絡してしまうんだろうとも思っていた。ただ時間が必要だった。俺は人との関係について決断するのに慣れていない。ただ自然に離れていく。ほんの束の間関わって、いつの間にか遠くなる。そういうものだった。

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