ひと匙の祝福

古池ねじ

第1話

 肉の焼ける匂い。牛肉だ。牛肉って、焼くとこんな匂いがするのか。三十年近く生きて、初めて知る。牛肉も焼いた肉ももちろん食べたことはある。この間は部長の誘いで部署の人間でわざわざタクシーに乗って、昼から目の前で焼いたステーキを食った。ランチで六千円。だが目の前で料理してもらっても、俺のステーキを焼いているのと同時に誰かのガーリックライスを炒めているし、ソースが温められている。店での食事はそういうものだ。朝の新鮮な空気のなかに、焼ける牛肉の匂いだけがする。そんなことは初めてだ。フライパンと油と肉が触れ合って弾ける小さな音。牛肉だけでこれだけ匂いがするんだなと感心する。

「見てるの楽しいですか?」

 安物の分厚いスウェットの上に、紺色のエプロンをした夏輝が笑いかけてくる。二十一歳の肌は日に焼けてつやつやとしているが、笑うと目尻にはくっきりと皺ができる。その皺を見ると、俺はなんとも言えない気分になる。好ましくて、もっと見ていたくて、でも見ていられないような。目をそらす。

「別に見てない」

 なんとなく嘘をつく。夏輝は追及もせず、牛肉をトングでひっくり返している。俺はそれを見ている。楽しくはない。でも見ている。

「あんまり面白いこともないけど。でも人が料理してるとこって見ちゃいますよね」

 夏輝はそう言うとカップから赤ワインをフライパンに注いだ。アルコールの匂い。牛肉の匂いに嗅ぎ慣れた赤ワインの匂いが合わさると、料理らしくなる。

「うまそー」

 夏輝はいつも楽しそうだ。

「一雪さんお昼なに食べたい?」

 朝食から一時間も経ってないのに。朝は鍋で炊いた白いご飯とベーコンと白菜ときのこの味噌汁だった。夏輝は白米が好きだ。朝はだいたい具が多めの味噌汁に白米。

「たまの休みにも一日中料理して疲れないか?」

 夏輝は白い歯を見せて笑うと、カウンターに置いた俺のパソコンを指さした。

「休みの日でも朝から仕事して疲れない?」

 俺は笑った。俺が笑ったからか、夏輝も嬉しそうにする。夏輝は素直だ。

「仕事は疲れるけど金が稼げる」

 新卒で入社した外資系企業は、残業も多いが給料も多い。仕事にやりがいを感じたことはないが、仕事をしていればあとはどうでもいいという社の空気は居心地よかった。金を増やしたいと思ったことはないが、金がない人生というのは想像もつかない。金にだけは困ったことのない人生だった。誰でも知っているような企業で役員をしている父親は、俺が二十歳になった祝いにと、ガストロノミーがどうのの泡とか煙とかが駆使されたフレンチでランチのコースを奢ってくれ、このマンションをくれた。都心の新築低層マンション。4LDK。広すぎるが誰かに貸したりするのもめんどくさく、実家から荷物を持って引っ越した。あれから父はたまにニュースや雑誌で顔を見るが、一度も会っていない。絶縁というほど強い意志があったわけでもなく、なんとなく。

 結婚して子供ができても住める物件にした。

 そう言った父親は気まずそうだった。この男は、気まずいときには高圧的な物言いになる。父と過ごした時間は短いのに、そういうことはわかってしまう。俺はぴかぴかのキッチンを眺めた。食洗機まで備え付けてある広くて立派なキッチンだ。選ぶのが面倒だから一番高いものを選んだんだろう。そういうことが、言われなくても理解できる。

「俺は料理好きだからね」

 と、夏輝が言う。夏輝はこのキッチンによく似合う。大きなキッチンに百八十を超える大きな男。このキッチンでできることのひとつひとつを喜んでいた。

「食べに行ってもいいけどさ、今日外寒いから出たくない」

「雪の予報だったな」

「え、本当? 雪降るの? 積もるかな?」

 途端に目を輝かせる様子に子供みたいだな、と言いかけて、そういえば、と夏輝の出身地を思い出す。東京に来て一年も経っていないので、東京生まれの子供よりも雪の経験は少ない。俺は子供の時から雪を楽しみにしたことなんかなかったが。

「積もりはしないだろうけど」

「なーんだそっか。えーでも雪降るの楽しみだな」

 降るとは限らない。それでもすっかりその気の夏輝のために、俺も雪が降りますようにと、こっそり願った。

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