第4話
寝床に自分以外の匂いがするのは落ち着かなくて、俺ははじめの頃なかなか寝付けなかった。俺より高い体温。シャワーを浴びたばかりでも少し塩っぽいような匂い。大きな体のどこに触れてもあたたかくて、寝息は健やかで、安心しきっている。夏休みの子供みたいだ。泳ぎ疲れた体を、砂浜に投げ出している。俺にはそんな時間はなかった。それほど忙しく過ごしていたわけでもないはずだが、子供のころの記憶が、あまりなかった。中学受験をしたとか、美術部に入っていたとか、事実はちゃんと覚えているのに、実感がない。空っぽの箱みたいな記憶。夏輝といると、その普段忘れている空虚を思い出してしまう。俺が得られなかったもの。自分が恵まれていることは知っている。それでも誰もが持っているようなものを俺は持っていなくて、それを人に知られるのを、ほんの幼いころから恐れている。そういう感覚があった。多分、四歳、母親が長患いで死んだときからだった。そのときのことも、もっと言えば母のことも覚えていないのに、えぐり取られたような恐怖の感触だけは残っている。この出来事の取り返しはつかず、俺はずっと喪失の中で生きていかなくてはいけないんだ、という。それはあとから記憶を繰り返し繰り返し塗り足してできたもので、もう原形を留めていないのかもしれないけれど、でもここにある。
夏輝は健やかだ。自分の職から得られる金銭ではなくそのものを愛し、自分の魅力を知ってはいるが無頓着で、誰に対しても優しく、俺には特に優しい。何かを買ってやると素直に喜び、卑屈にならず、自分のできることを懸命に返してくれる。一緒に暮らすまでは俺の休みに合わせて無理に休みを取っていたらしいが、暮らし始めてからは勤務形態が違うのでなかなか休みが合わない。それでも、一緒に過ごせる時間を、大事にしてくれる。朝早くても夜遅くても、必ず料理を作ってくれる。外食よりも塩気の薄い、あたたかい飯。夜、休みの前日、夏輝は少しだけ酒を飲む。居酒屋っぽい料理を細々つくり、缶のビールかチューハイを開ける。俺は飲まずにニンニクで炒めた枝豆とか、豚の角煮とかをちまちま食っている。そういうとき、夏輝は地元の話をしたりする。みんな朝が遅いとか、その分夜中に動いているとか、海はあっても滅多に入ったりしないとか、あんまり米がうまくないとか。
家族の話も聞いた。夏輝の実家は夏輝以外全員酒が強く、いつも酒を飲んでいる。姉と弟がいて、姉は美容師、弟は整備士をしている。母親も美容師で、父親は酒店に勤めている。おそらく。
「親父、ふらふらしてんすよね。もうその仕事もやめてるかもしれない」
普段よりややぞんざいに話す口元には、ビールの泡がくっついていた。二缶目のビールで、夏輝にしては多い。顔が赤い。明らかに酔っ払いだ。体臭にもすぐに酔いが現れるのか酒臭い。でもその匂いも嫌いではなかった。きっと、夏輝の実家の宴席はこんな匂いがするのだろう。
「親父だけじゃなくて男がふらふらしてる土地で、女の人ががんばって働くんすよ。で子供がうまれて、親戚みんなでめんどうみるんです」
「そうなのか」
うまく想像できない。俺には親戚もいない。いるにはいるはずだが、会った記憶がない。成人してから気づいたが、父親が避けていたのだろう。事情を聞こうと考えたこともあるが、父親にも会っていないのでどうしようもない。もとから知らないのだから、特に不便もない。
「俺、女の子にもてるんで、早く結婚して子供できるんだろうって、みんな思ってたんですよ」
夏輝は笑った。赤い肌と目尻の皺。いつもと同じように笑おうとして、うまくできていない。夏輝は嘘が下手だから、悲しみもうまく隠せない。俺には想像のできない悲しみだった。俺は男としかセックスできないことを自覚したとき、ほっとした。気の迷いだと思うと怖くて、確認みたいに急いで男を探したぐらいだ。これで、「家庭」みたいなものを、最初から望まなくて済む。十八歳の俺はそう思った。うまくできないことを望むのは、苦しい。
「俺、一雪さんのこと、めちゃくちゃ好きですよ」
ぼんやり考えている俺を見て、夏輝はそう言った。
「めっちゃくちゃ好きなんです」
繰り返す。だが、答えを求めているようではなかった。だから俺も答えなかった。夏輝は微笑んでいた。悲しい、優しい顔。こんなに優しい顔を、俺は見たことがないと思う。めっちゃくちゃ好き。こんな優しい顔の男が、俺を?
黙っている間に、夏輝は座ったまま眠ってしまった。俺はテーブルに残っているつまみを、一つ一つ食べていった。豚の角煮はすっかり冷えていて、ひるんだが、口に入れてみた。冷えていたって、食える。当たり前だった。子供のころは、つめたい飯ばかり食べていた。父親が買って、置いておくのだ。保育園のときからそうだった。帰ってきて、それを食う。つめたく四角く固まった米。でかくて、食っても食っても終わらない気がした。それでも食い終わって、寝て、寝ている間に父親が帰ってきている。朝、たまに会う日もあるが、先に仕事に出ていることのほうが多い。俺は園にも一人で通ったし、一人で帰った。そういう育児、育児と言っていいのかもわからないがそういうやり方、今では問題なんじゃないかと思うが、時代なのか父親がうまくやっていたのか、当時の俺は不満もなかったし、よその大人に何か言われた覚えもない。ほしいものを言えばなんでも買ってもらえたし、自分用に使っていい金がいつも封筒に入れて棚に用意してあった。頼まなくても服や図鑑や漫画、新しいゲーム機やソフトが置いてあったりした。金銭的に恵まれているんだな、という自覚はあった。同時に、こういう関わりは、あまり一般的じゃないという自覚もあった。運動会や遠足のとき、俺はコンビニの弁当を、誰かに気づかれないようにこっそり食っていた覚えがある。ばれないはずないが、今でも周りが俺のことをどう思っていたのか、わからない。知る機会もないし。
たまの休みに、父と食事をすることもあった。レストランや焼き肉。どれも高い店だった。うまいかと父親は聞き、俺はさえない顔で頷いた。味がよくわからなかった。学校の話をした。雑談のふりをしながら、父親が知りたい情報をなんとなく探って、そのことをさりげなく話し、父親はそれを受け取る。良好な関係でいる、と、いうことにしたかった。表向きさえ取り繕っておけば、問題に向き合わずに済む。
中学生になったとき、レストランに行った。中学生だからか、それまで連れていかれた店よりやや格式ばったところだった。小学生は入れない店だったのかもしれない。
こんがり焼かれた小さな魚の切り身を食いながら、父親は、うまいか、といつもみたいに聞いた。俺はうまいよと、いつもみたいにさえない顔で答えた。
お前はこういうのよりコンビニの弁当のほうがいいのかもな。
と、父親は言った。俺は黙って、付け合わせのかりかりしたジャガイモを食べた。驚きすぎると驚いたという反応もできない。どうやら父親は、俺が本気でコンビニ弁当が好きだと、思っているのだ。俺が好きで、あれを食べていると、本気で思っている。
タクシーで家に帰ると、父親は俺に封筒を手渡して、また同じタクシーで出て行った。仕事だとそのときは思ったが、もっと別の用事だったのかもしれない。封筒には金が入っていた。金。いつも金だ。ありがたい話だ。金があればなんだってできる。俺は携帯電話で、もう弁当は用意しなくていいと、父親にメールをした。返事はなかったが、それ以来用意されることはなかった。あれから、俺は一度もコンビニ弁当を食ってない。全部外食。無理なら何も食べなかった。
泣いたり、怒鳴り散らしたり、するべきだったろうか。俺にはどちらもできなかった。父親が精一杯なことは、わかっていた。俺が好きでやっていると思えば、あの人は楽なんだ。少しぐらい楽をしたって、いいだろう。あの人だって苦しい。他の誰に何を言われても、俺にはわかっていた。あれ以上は望めない。何をどう言ったところで、あの人にあれ以上は無理なのだ。俺にはわかる。
だって俺は、父親に似ている。この世界で一番。俺が似ているのは、あの人しかいない。会ったことのない親戚。父の寝室に飾ってある結婚式の写真でしか知らない、記憶もない母親。何もわからない。遠すぎる。
テーブルで、夏輝が眠っていた。大きくて健やかで、優しい。愛されて育った男。そんな環境想像できないが、そんな男が、こんな場所で、眠っている。
一雪さんのこと、めちゃくちゃ好きですよ。
俺もだよ、と、言えればよかった。お前のこと、めちゃくちゃに好きだよ。お前は最高で、出会えたことが奇跡みたいだ。一緒に暮らしてるけど、お前を見るたびに嬉しくなる。あったかい飯食うたび感動してる。そういうことが、言えればいい。夏輝は喜ぶだろう。わかっていた。
それでも、言えなかった。俺はテーブルの上のものを全て食べ、食器を片付けて、シャワーを浴びて一人でベッドで眠った。翌朝夏輝はさっぱりした顔で、朝飯を作ってくれた。何事もなかったようなふりで。だから、俺もそうした。そういうことは、得意だった。
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