第5話
昼は焼うどんだった。醤油味で、たっぷりと鰹節がかかっている。
「俺小さいころ鰹節が揺れるの本気で不思議でしたね。生きてんのかって」
と夏輝が言い、俺はそれまで鰹節が揺れていることさえ気付いていなかった。食べ終えて片付けると、夏輝はまたすぐにエプロンを付けて、料理に取り掛かる。煮込んでいる鍋の灰汁を取っている。
「水分を吸って伸び縮みするのと、高温の上昇気流で揺れるらしい」
「え?」
鍋を見ている夏輝が俺を見る。俺はスマホを見せた。
「鰹節が揺れる理由」
「調べたの?」
「気にならないか?」
夏輝は声を上げて笑った。その反応の意味が全然わからなくて不安になっていたら、まだ笑いの残る声で言う。
「そっすね。そういうのも調べればいいんだ。気付かなかった」
ふう、と、息を吐いて、鍋の火を弱くする。
「一雪さんって俺と全然違いますよね」
「そうか?」
と言ったものの、全然違うのはわかっていた。何を言われるのかと焦る。
「こういう人が東京の人なんだなーって。あんましゃべんなくて、笑わなくって、肌が白くて髪がさらさらで、賢くて、言われなくてもめっちゃ働いてて、時間に正確で、金いっぱい持ってて、余裕ありそうで」
「そうか?」
予想もしないことを言われて驚いているが、驚きが表に出ない。俺に限っては感情を隠すのはむしろ、余裕のなさだ。
「なんていうのかな……多分ですけど……俺たちって、全然違うじゃないですか。一雪さん料理しないし」
「はあ」
「俺料理好きでしょ」
「そうだな」
夏輝は鍋を見ている。俺の顔を、見ないようにしているのかもしれない。
「俺も結構なんか……足らないところ、あると思うんですよ。っていうか、ありますね。でも、俺たち、色々違うから、そういうところ、お互いうまくやりくりできると思うんですよね」
驚いた。驚いてから、泣きたくなった。そういう衝動が先に来て、うまく感情が掴めなくなる。こんなもの感じたことない。黙っている俺に、夏輝は笑った。黙っていてもいいと、許してくれる笑顔。
「今日も俺めちゃくちゃたっかい肉買ってますしね」
「肉ぐらい好きに買えよ」
夏輝は、
「そういうところですよ」
と言った。嬉しそうに。どうして嬉しそうなのか、俺にはわからない。でも嬉しそうにしていると、俺も嬉しい。
何かを煮込みながら何かを炒める。新しい材料が出てきて、それに熱が入るとぱっと鮮やかな匂いが立ち、やがて他の匂いに溶け込んでいく。そのたびに、匂いが深みを増していく。キッチンで起こるすべてを正確に把握しているかのような落ち着きで、夏輝は作業する。広い背中を横切るエプロンの紐。ちょうちょ結びの端っこがひらひら動く。料理が出来上がっていく。電子書籍で何か読もうかと思っていたのに、いつの間にか俺はすっかり見とれている。椅子の上に足をのせて、膝を抱えていた。一人のとき、俺は体を縮める癖がある。一人じゃないのに、一人みたいだ。孤独というより、安心に近い。何かを装わなくてもいい。俺は料理が出来るのを、待っている。無心で。無防備に。子供みたいに。夏輝は大きくて優しくて、俺に必要な全部だ、と、子供みたいな俺が思う。子供のころ、そんなこと、誰にも思ったことがないのに。この場所はあまりにもいい匂いがして、安心で、そんな経験をしたことがないので、俺は今までの俺ではいられなくなる。
ふいに、夏輝が振り返る。俺を見て笑う。俺を見て、俺がそこにいるから、ふと笑った。そういう顔だった。その瞬間、俺は突然、この男は、俺のことが「めちゃくちゃ好き」なんだ、と、理解する。俺は泣きたくなる。実際は泣かない。俺は泣いたりしない。
「あとは煮込めば完成」
「うん」
「外暗いな。雪降ってますか?」
夏輝は火を弱めて、キッチンから出て、窓に向かう。俺もその後ろを追う。部屋の中は寒いのが苦手な夏輝に合わせて十分に暖かいが、窓の近くに行くと、ひんやりとした冷気を感じた。窓を小さく開けると、寒さを感じるより前に夏輝が「さみ」と、抱き着いてきた。俺よりよほど夏輝のほうがあたたかいが、体温が高い分余計に寒さを感じるのかもしれない。
「降ってないですね」
「でも降りそうだな」
「わかるんですか?」
「雪が降る前の寒さっていつもと少し違うから」
「じゃあ待ってたら降るかな」
体を縮めて、ぎゅうっと俺を抱きしめる。そんなに寒いなら窓を閉めろ、と、思うのに、黙っていた。黙って二人で上を見上げる。
「あ、あれ、雪ですか?」
「え?」
夏輝が指すが、見逃した。本当に雪だったのかと思っていたら、白い欠片が、はらはらと落ちてくる。
「雪だ」
「雪だ」
二人で言って、しばらく窓のそばに立って、上を見上げていた。雪はどんどん勢いを増していく。雪なんて楽しみでもなんでもなかったのに、降っているのを見つめてしまう。ベランダの手すりに雪が落ち、溶け切らないうちに別の雪が落ちる。このままだと積もるのかもしれない。明日の朝、街が白くなっていたら、夏輝は喜ぶだろう。鼻のあたまがつめたい。夏輝がくしゃみをした。
「降りましたね」
「うん」
窓を閉めた。まだ俺を抱きしめたまま夏輝が言う。
「プレゼントかな」
「プレゼント?」
「今日、一月十二日ですよ」
一月十二日? なんだ? と思っているうちに、夏輝は俺を抱えたままキッチンに向かう。鍋の蓋を開けて、軽く混ぜた。湯気にのって、ふわりと匂いが広がる。
「いい匂い」
「うん」
ビーフシチュー。深い茶色のとろりとしたシチューに、大きな肉や人参やジャガイモが、ごろごろと沈んでいる。ありふれた料理だ。夏輝の店でもよく注文するが、こんなにいい匂いがするんだと、初めて知った。
「味見してください」
「俺が?」
戸惑う。味見なんかしたことがないし、夏輝がしたほうがいいに決まってる。夏輝は後ろから俺の顔を覗き込んで、にっこり笑った。
「だってこれ、一雪さんのために作ったんですよ」
言葉もない俺に、夏輝は小さな、ティースプーンよりも更に二回りぐらい小さな、普段から味見に使っているスプーンにシチューを掬うと、ふうふうと息を吹きかけて冷ました。
「はい。あーん」
俺は戸惑い、口を開いた。そっと舌に置くように、スプーンを口に含まされる。
おいしい。
小さなスプーンで掬った、ほんのわずかなシチュー。ちょうどよくさましてあって、うまいもの全部を凝縮したような味がする。俺のためのひと匙。こんな美味しいものは知らない。知るはずもなかった。
俺は何も言えず、もう空っぽになったスプーンを咥えていた。
「美味しい?」
赤ん坊に尋ねるみたい。俺はなんとか頷いて、スプーンを手に取った。小さなスプーン。赤ん坊が咥えるみたいな。柄に何か彫ってある。Kazuyuki。それと、日付。二十九年前の一月十二日。夏輝の手が俺の手に重なる。
「これ、誕生日でしょう?」
「ああ……」
名前と誕生日が彫られた小さなスプーン。きっと素材は銀。俺の、銀のスプーンだ。ずっとしまい込んでいた、祝福の贈り物。誰が贈ったかもわからないものが、これだけの時間をかけて、俺の欲しかったもの全部のせて、俺のところにやってきた。
「お誕生日おめでとうございます。何あげたらいいかわからないから、とりあえず料理で」
言葉が出てこない。瞬きをすると、目頭が少し濡れた。泣くのに慣れてないから、ちゃんと涙も出ない。俺は笑って、夏輝の方を向くと、抱き着いた。
「ありがとう……それから、」
「はい」
これを、言っていいんだろうか。こんなことを、誰にも言ったことはない。叶えられる望みだと、思ったことがない。それでも、夏輝なら叶えてくれるかもしれない。今の俺なら、そう望むことができる。
「ずっと一緒にいてくれ」
「はい」
と、当たり前みたいに夏輝は頷いた。火を止めると、俺をしっかり抱きしめてくれた。
ひと匙の祝福 古池ねじ @satouneji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
雑記/古池ねじ
★9 エッセイ・ノンフィクション 連載中 38話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます