番外編2 前日:香取萌彩の憂鬱・下
★
親子と偽ってフロントを通る。本当に親子みたいな歳の差だろう。
ビジネスホテル希望を了承できないようなザコは相手にしない。場慣れして落ちついた相手なら状況を理解してくれやすいし、持ち合わせもそれなりに持っていることが多い。あとから現金を見せびらかせば、最初の約束より多くを要求できるともくろむ変態ばかりなんだろう。その強気な余裕も人目を気にしない度胸も、突き崩されたときの反動を大きくする。
あえてのように油断もしているから、シャワーも先に浴びに行ってくれる。もちろん、財布を取って逃げるなんてケチは真似はしない。さっさと変身して、魔法少女の怪力を教えてあげるだけでいい。ATMに行くのはひとりだ。監視カメラにはそう見える。
面白いのは、変身後を見て驚いたあと、たいてい警戒しつつもうれしそうな顔をすることだ。誘ってきた子がどこへ行ったか知らないが、事情があって交代したのだろう、と雑な推理をする。薄いスカートの吸いつく腰やむき出しの肩を視線がなでて、自分は幸運だと信じこむ。〝あたし〟の鼻先から目を離せなくなって、ほてった赤い目で唇を凝視する。
鏡にも映らないあたしは〝自分〟の顔を見たことがない。けれどみんながそうであるように、きらめくような愛くるしさを
ぐろーりぃ、あうと。
スマホをサイドテーブルに投げだし、クイーンサイズのふかふかベッドから起きあがりついでに無造作に唱える。ボトムがスカートになるが、股下に深いスリットが入るので少し涼しい。元が短足な上にピンヒールを履かされるので、床に降りたとき一瞬違和感を覚える。けれども、魔法でできた細くて長くてきれいな足は、背も伸びた体を危うげなく支えてくれる。
令法野の外で変身は禁止です。バケモノが寄ってきますよ? 遭ったことはありません。
もうこれでいいじゃん。ずっと変身してればよくない?
変身後の自分に嫉妬? ないない。こっちが本当のあたしだもん。
遺伝子とか、頼んでないものをたくさん引きずらされて、うまくできなかったのが元の姿。なんにもなければこうなってたんだ。無数にある平行世界のどこかには、元からこの姿だったあたしがいて、この姿で普通に学校へ行って、普通に友だちと話して、後輩と遊んで、おこづかいで買ったお菓子を振る舞って、志望校への推薦をみんなに祝ってもらったりしてるんだ。なんてね。
変身したては必ず杖を握っている。おとぎの国の女神の木から
血まみれにしてしまうとATMに行かせられない。さっさと杖を手離そうとしたそのとき、シャワーの音がやんだ。
ゴソゴソ音がして、すぐ浴室のドアがあく。
バスローブも着ずに出てくるのはマナー違反だ。なにも着てないなら、いったん血まみれになってもらってもいいかなと、両手で握り直した杖を、やっぱり落としそうになった。
「ふぅ。いい水でした」
男性のハダカは見慣れてしまった。
大半がだらしなくゆるんだ体ばかりだったし、幻滅するのに飽きたと言うべきか。少数派は筋トレマニアたちだが、あれはあれで薄気味悪い。
「ただ少し、配管が古くなり始めていますね。建物全体から考えれば健闘しているほうですが、そろそろ更生でなく更新も視野に入れるべきでしょう」
今日のも、大半の例にもれなかったはずだ。
なのに、浴室から出てきた男は、磨き抜いて落とせるものを落としつくしたみたいに、細く引き締まった体をしていた。
体型だけじゃない。背もやけに伸びている。ホテルの天井が低く作り間違えたようにさえ見える。
髪も生えている。濡れて光る漆黒の長い髪が、白い胸板にまで張りついて、吸った水を伝わせている。まっすぐ流れ落ちる髪のあいだには、無駄な化粧のない人形のような整った顔がある。
男は細くとがった顎に手を当てて、吊り気味の細い目をさらに伏せて、シャワーから出る水の質や湯船のぬめりなどについてひとりで延々と説きつづけていた。視界にあたしはいるはずだが、歯牙にもかけていないようだ。
どこから入ってきた? 浴室に入った客はどうなった? まさか、最初から中にいた?
頭の中は依然ほとんど真っ白だ。ただ、かろうじて機能するはじっこから聞こえる警報音がだんだん大きくなってくる。中に最初からいたのだとして、なぜ出てきた? なにをしに出てきた?
――出よう。
お粗末な結論だが十分だった。客がどうなったか知らないが、通路をふさいでいる男を殴り倒して廊下へ出るのが先決だ。あるいは、ここは8階。少し不安だけれど、背後の窓を壊して飛び降りられなくもない。
得体のしれない相手を前にして、近づきたくないという思いが勝る。窓だ。
そう決めて、ためらわず振り返ろうとした瞬間、
「ああ、いけませんよ、
男があたしに言った。あたし、のいるほうに向けて言ったのだと、顔を見直して気がつく。
男は顎を少しあげて、あたしの頭上を見ていた。
頭皮に毛の逆立つ感覚がある。意識が真上に集中する。
でも、視線は下へ向かった。
落ちてきたから。足もとに、音のような気配を立てて。
ぱた
カーペットに、小指の先くらいの小さなシミ。いま落ちてきたものでできたシミ。
ぱた ぱた
続けて増える。三つになり、六つになり。
ぱた ぱたた ぱた ぱた
見あげたくなかった。けれど、見あげなければ、どうなっていたのだろう。
息づかいを耳に聞いた。興奮した獣の、待てと言われて忠実に押し殺すそれ。
吐息を髪に感じた。胸の悪くなる生臭さも。
垂れる黒髪を見た。擦り切れた網目のヴェールも。
目が合う。
赤い
顔のもう半分には、熟れた実を爪で引き裂いたような目と、同じように裂けきった唇がある。
むき出しの果肉のようなツヤツヤした角膜の奥で、こぶしの入りそうな瞳孔が震えている。本来なら頬のある場所には、やっぱり人間らしからぬ鋭い歯列も覗いていた。目じりはこめかみを貫いて頭のうしろに。口の端は耳のそばにあって、絶えず吐息と唾液をこぼしていて。
「ァあ……あ……、……あぁアァ……アぇぇぁ……」
「魚卑似、聞いていますか?」
「まぁぁ、ぉぉぉぉ……まぁぁぁ、ほぉ、ふぅぉ……」
気道を焼きつぶしたようなうめきと吐息。
男の呼びかける声がしきりに届く。半分巨眼の半分口裂け女は、答えもしなければ振り向きもしない。なにも映り込まない暗い瞳孔は、震えてはいてもどこへも向かない。
だって、そうだ。彼女の見ているものは、どこへも映らない。
ぼんやりとゆるんでいただけの口の端が、不意にくっきりと笑うように引きつった。
「まぁぁぁふぉぉぉぉ、しゅぉぉぉぉぉぉじょぉぉぉぅぉぉぉうぉぉぉぉぉぉぉぉ……ッッ」
「ひきッ……!?」
自分から声が噴き出して、初めて顎が痛むくらい奥歯を噛み続けていたことを知った。
糸を切られた人形みたいに体が落ちる。おしりで床を叩いたのに、腰から下が消えたみたいに感覚がない。見あげたままで、ずっと視線を動かせない。
「やれやれ。本当に怒られますよ?」
「ぶぅぅぇぇぇぇぇ、だってだってぇぇぇぇぇ……」
「だってじゃありません」
「だってだってぇぇぇっ、だってだってだってだってだってだってぇぇぇぇぇぇ……!」
「だってじゃないんです」
一本調子で男の声がするにつれ、女の裂け切った口がまたたわんで、逆さ吊りのまま体が左右に揺れはじめる。よく見ると腕も異様に長く、末広がりで手のひらが胴より巨大なことにも気がついた。指全体が黒く分厚いかぎ爪状になり、スカートから生える無数の突起とともに天井へ食いこんでいる。女はその爪を抜いて、かき抱くように自分の頭を包み込む。
「んぅぅぅぶぶぶぶぶぅ……タタリたいぃぃ、タタリたいよぉ、タタリたいよぉぉ! タタリたいタタリたいタタリたいタタリたいタタリタタリタタリタタリリリリリリリぃぃぃぃいぃいぃいいいぃぃぃぃいぃぃぃぃぃッッッ!!」
「魚卑似っ!」
男の制止を聞かず、女の体が上下を返す。床に降り立つより早く、ほとんど倒れこんでいるあたしを囲むように両手の爪を突き立てた。
「むりィぃぃ、もうむりィィィ! むりむりむりむりむぅぅぅぅうふへぇへぇぇエッエッエッエッエッエッエッ」
「いやいや、ダメですって。そこまでですよ? 魚卑似?」
「アシいっぽんん、ユビいっぽんんん、ミぃミのひとぉぉぉつくらいならぁぁぁぁぁ!?」
黒い爪が下の床ごとカーペットを裂いて、あたしのいられる場所をどんどん縮めていく。大きな杖を抱いているのに反撃もできないあたしには、呼吸まで止まりそうなのをこらえて声を出すので精いっぱいだった。
「たっ……ぁす、け……」
「オヴィンニク」
黒爪が止まる。
二の腕に触れかけていたところだ。女は愉悦に猛り切った顔のまま、息も止めたように固まった。
聞いたのは、あの男のではない声。
「待て。待てじゃ」
落ちつきはらった、けれど、子供のような声。
ベッドの上。誰かいる。
動かせる自信のなかった首が動いて、迫りきていたかぎ爪の合間から覗き見た。
真っ赤なレインコート。緑のカエル柄の、黄色いレインブーツ。
まだ中学生は遠そうに見える小さな体が、ベッドのふちに腰かけて床に届かない足を揺らしていた。部屋の中なのに被りっぱなしのフードの中から、日焼けよりも黒そうな肌と
「いい子じゃ。が、
褒める。
あどけない目鼻はどちらにもそぐわない、気のない顔をしているだけだ。その様に老いて熟しきった生き物の空気を感じるせいで、現実味に敬遠されてしまっている。唖然とするあたしの頭上で、大口の女が舌を飲んだような声をもらす。
「んぶぅぅぅ、でもぉぉ……」
「でもではない。ここはそなたの〝
「ぶぶぶ……」
どうやって
「早かったですね、
「笑止じゃ。この〝家の精・ドモヴィーク〟、いかな十五階建てであろうと手間取るものか。そこにヒトが住むのなら」
「最上階がオーナーの専用ペントハウス、でしたか? これはお見それしました」
男が胸に手を当てて、やけにうやうやしく首を振る。それを見ていた女の子が、初めて眉を動かして、人間味のある渋面を見せた。
「
「おや? これは失礼、ついうっかり。着衣はどうも慣れないもので。ときに浪戸。この場にふさわしい出で立ちとはどのような? あるいはご希望がありますか?」
「なんでもよいわ。はよ着ろ」
「なんでもいいが一番困るんですがねえ」
前を隠しもしないで両腕をひらき、男が肩をすくめてみせる。
気の抜けたその仕草を見た瞬間、突然あたしの体は動くことを思い出した。
「おや?」
「んぶ?」
杖を真横にして女が両手を閉じられないようにし、後転でかぎ爪のすき間から外へすり抜ける。
ぶつかった壁を蹴ってベッドの上へ飛んだ。そっちには子どもしかいない。入り口へ抜けるならそっち。
ベッドのヘッドボードを蹴り砕く勢いで、また跳んだ。
「魚卑似」
床に足がつくまぎわに、聞いた。
犬にエサをやるような、やさしい声。
「よい」
あたしは転んだ。
なにが起きたのかわからなかった。足をつかまれたわけでもない。
ただ目測を見誤ったみたいにうまく着地できなくて、膝と肩を思いきり打って床の上を転がった。
起きあがるのは早い。魔法少女の体は頑丈だ。
頑丈なので、ぶつけた部分に痛みもない。肩はそう。なのに、膝が痛い。
とても痛い。なんてひどい痛みだろう。
しかもどんどん強くなっていく。痛すぎて、すねから下の感覚がない。まるで膝から下が消えたみたいだ。
大丈夫。足はある。床についた手のそばにちゃんと。
「え……?」
ヒールを履いた足がある。足だけ。ふくらはぎまで。
赤い紅い断面が見える。白いのは骨だろうか。そんなことより、これはなに?
自分の膝を見る。
スリットから覗く白い太ももから続く、しなやかで見ほれるようなふたつの曲線を探すけれど、そこには濡れて黒いシミをどんどん広げているカーペットがあるだけで。
もう少し離れた場所で、もうひとつのヒールを履いた足を、耳まで裂けた女の口がくわえていた。
「い…………いぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ!?」
自分の口から出た声だとすらわからなかった。
あの女が足を吐き捨てて吠えていたようにも思う。絶叫が重なって、焼きつぶされるような痛みも混ざって、わかるもの全部がぐちゃぐちゃになる。
「あぁぁぁ! あぁっ、あぢ! あああああだじのッ、あ、あぁあぁぁぁぃっ、あじ、あ、あぁ、あぁッ、あああああッ!」
「
よく響く声。
どうしてこの声だけ、こんなに耳の奥に響くのだろう。こんなに叫んでいるのに。こんなになにもわからないのに。
女の子がベッドからぴょんと飛び降りる。しゃがみこんで黒い膝小僧を突きだし、あたしと目の高さを同じにする。
「
「あ、あ、あああ!? そ、そうだッ、もとの、ほんとのあたしのからだ! ふっ、ふっ、ぐ、ぐぐぐ、ぐりょぉりぃ、お、おォぉっ――」
「
「……お?」
こんなにあたしはあたしなのに。
こんなに理想のあたしなのに。
どうしてなにも叶わないんだろう?
どうしてあたしだけ、あたしのままなんだろう? あたし以外になれないままで終わるんだろう?
彼女の声が響く理由。だって、逃がす気がないからだ。
彼女は魔法少女を知っている。認識阻害の魔法を知っていて、知られない魔法を知っているから、それはきっと彼女に効かない。
どっちのあたしも、彼女は手離すつもりがない。終わりが来るまで。
ちがう。ちがうよ、もあちゃん?
とっくに終わってたじゃないの?
この部屋に入る前から。SNSで獲物を漁る前から。
万引きしたミルクグミを踏み潰す前から。誰にも気づかれずに部室を出る前から。
絵筆を握りつぶす前から。魔法少女になる前から。
終わってた。終わってたんだ。
遺伝子とか、頼んでないものを引きずらされて。最初から、あたしなんか。
「は………………へ……へは、へ……は、へへっひひ……はっ、はっ、はっ」
もうおしまい。おしまいだよ、もあちゃん。
やったね。
「え、えぇぇへひ、へっひっ、ひっひ、へっへっへっへへへへっへっへっへっ……!」
「壊れたか」
「む?」
声が響く。冷たい顔をした女の子のうしろで、はだかの男の人が顔をしかめている。
「いいんですか? 保険とはいえ、なんだかんだでようやく網にかけたのに」
「なに、つぶしはせぬ。式体は頑丈じゃ。適当に気つけをくれてやればよい」
「ろぉぉぉどぅぅぅ、やっていぃぃいぃ? ねぇぇ、やっていぃぃいぃぃぃぃぃ?」
「潘尼」
「承知」
「ぶぇぇぇっ、ずるぅいぃぃぃぃ、バァァンニずるぅぅぅいぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
おしまいだよ、もあちゃん。おしまいですよ。
つめたいみずがのぼってくる。
ゆかからわいて、おなかをはいまわって、くびをたどって、ぎゃくりゅうしたはなみずとだえきでぐちゃぐちゃなくちのなかにはいってくる。
「壊れたフリならば、やめておくことじゃ。悪い話ではないの
こえがひびく。なんてあたたかいこえ。
きっとてんしさまなのだろう。くろいてに〝ハコ〟をもって、まっかなおめめできゅーとにわらった。
「みどもと契約して、本当のマホウショウジョにならぬか?」
番外編2「やったね、もあちゃん」‐END
Astella★Magia! 魔法少女はお茶してる💝 ~戦いはマスコットにおまかせで~ ヨドミバチ @Yodom_8
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