カミコイ

節トキ

カミコイ

 初めて彼女を目にした瞬間の感動は、今も忘れない。心臓が止まるかと思った――ついに理想が現れたという歓喜で。


 白い肌に赤い唇、黒い瞳――その瞳以上に輝く、艷やかな長い髪。


 彼女、高尾たかおまいは、入学式から一月遅れて僕のクラスメイトとなった。病気で入院していたため、ずっと学校に来られなかったらしい。中学も休みがちだったそうだがついに快癒したとのことで、彼女と同校出身の女子達は涙まで流して喜んでいた。


 高尾さんは、あっという間にクラスの皆と打ち解けた。話し上手で顔立ちも綺麗だから、男女問わずいつも友達に囲まれていた。

 地味で目立たない僕なんかには早くも遠い存在で、話しかけることすらできない。けどそんなことはどうでもいい。彼女を毎日見られるだけで幸せなんだから。


 真正面から見ても横から見ても、高尾さんは美しい。でも僕の一番のお気に入りは、やっぱり後ろ姿だ。

 重力のままに落ちる髪は、しかし重さを感じず彼女の動きに連動して自在に形を変える。光を跳ね返すツヤは金属のようでいて液体のようでもあり、いつまで見ていても飽きない。本当に美しい。神秘的だとすら思う。


 そう――僕が一目惚れしたのは、高尾さんの髪。そこ以外は全く興味がない。高尾さんに限ったことじゃない。僕は、美しい髪しか好きになれないんだ。


 きっかけは幼い頃に見たテレビのCM。多分新商品のシャンプーの宣伝だったと思うけれど、えもいわれぬ輝きを放つ女性の長い髪に僕は目を奪われた。


 家族には『あれは加工だ』と言われたけれど、僕はあんな髪を持つ人が実在するんじゃないかという希望を捨てられなかった。

 時が経つにつれ、自分の嗜好が周りと違うとわかってきた。でも誰かに理解してもらいたいなんて思わなかった。だからこの嗜好は僕だけの秘密。僕は誰にも秘密で、秘密の理想を密かに追い続けた。


 そしてついに現れたんだ――理想の髪を持つ女の子が。


 見つめているだけで幸せ、最初は確かにそうだった。だけどだんだん物足りなくなっていって。



「……夏目なつめくん、だったよね?」



 高尾さんが静かに僕の名を呼ぶ。名前を知っていたんだと驚くどころじゃない。


 彼女はまだ体力がついていかないらしく、保健室で授業を受けることがあった。そういう日は遅くなることが多いようで、友達にも先に帰ってもらっていた。そこを狙って、僕は教室に忍び込んで彼女の席を漁っていたんだ――抜け毛でもいいから、彼女の髪を手に入れたくて。


 その現場を今、本人に発見された。言い逃れはできない。



「誰かが私の荷物を触ってるのに気付いてたから、今日は早く戻ってきたんだけど……何が目的? お金?」



 やばい、窃盗犯だと思われている。このままじゃ先生に報告されて、警察沙汰になる可能性も――。



「ぼ、僕、高尾さんのことが好きなんだ!」



 瞬時に思考を巡らせ、僕は裏返った声で告白した。身に覚えのない金銭狙いの泥棒に仕立て上げられるよりは、気持ち悪いストーカーだと思われる方がマシだ。どちらにしても、害でしかないけれども。



「す、好き? 私を?」



 高尾さんが目を瞬かせて首を傾げる。

 するりと滑るように髪が揺れて落ちた。見惚れかけた僕は慌てて我に返り、こくこく頷いた。



「……いいよ」



 少しの沈黙の後、高尾さんは小さく答えた。



「夏目くんと、付き合ってもいいよ」

「な、何で?」



 僕は頬を引き攣らせて問い返した。



「私、病気のせいで恋愛どころじゃなかったんだ。なのに久々に学校に来てみたら、友達は誰々が好きとか彼氏と何したとかの話題ばっかり。全然ついていけなくてさ」



 そこで彼女は、立ち尽くす僕に近付きぐっと顔を寄せてきた。



「だから勉強させてよ。恋人ってこんな感じなんだって知りたいの」

「でも僕も女の子と付き合うなんて初めてだし、力になれるかどうか」

「夏目くんにとっても悪い話じゃないよね? だって、私のことが好きなんでしょ? ところで、下の名前何だっけ」



 こちらに拒否権はないらしい。諦めて、僕は名乗った。



「……大地だいち。夏目大地」

「じゃあダイって呼ぶね。私のことは舞でいいよ。よろしくね、ダイ」



 高尾さんが笑顔で告げる。


 僕は困惑しつつも、彼女の瞳――ではなくその上、西日に照らされて天使の輪を描く前髪を見つめて頷いた。




「ダイ、今日も待っててね。なるべく早く帰れるように頑張るから」


 保健室授業を抜けて一旦教室に戻ってきた舞が、僕に笑顔で告げる。


 付き合って一週間経つけれど、クラスメイト達の『何故彼女がこんな地味な奴なんかと』という視線にはまだ慣れられない。でも舞はお構いなしだ。



 彼氏は彼女を家まで送るのが決まり、初デートは遊園地で観覧車に乗る、歩く時は必ず手を繋ぐ――どこかの少女漫画で見たようなことを、舞はやりたがった。


 戸惑うことばかりだけど、舞の側にいると美しい髪を間近で見られる。時には想像もしなかったような動きや輝き方をするから、その度に興奮して平静を装うのが大変だった。

 特に観覧車では、隣り合って座ったせいで彼女の髪が僕の素肌に直に触れて、思わず声を上げそうになった。腕をくすぐったその感触は柔らかくてしなやかで、何となく温もりがあった。


 これは束の間の幸福だ。彼女が僕に飽きるか、好きな人ができるか、それまでの関係。だけど今は彼女の気まぐれに感謝して、こっそりと幸せを味あわせてもらおう。




「今度は映画観に行こ。ダイはどんな映画が……何?」



 僕の視線に気付いて、舞が振り向く。



「あっ……綺麗な髪、と横顔だな、と思って?」



 慌てて僕は誤魔化した。髪だけに見とれていたなんて言えるわけがない。


 すると舞は俯き、自嘲気味に笑った。



「ママがずっと手入れしてくれてたからね。でも私、この髪好きじゃないんだ」

「えっ、どうして?」

「不自然なくらいツヤツヤでしょ? これは日に当たってないせいなの。不健康の証みたいなものだよ」



 僕には最高の美点に映る髪は、しかし彼女にとってはコンプレックスでしかないらしい。



「ダイが好きになったのって、私の見た目だよね? 話したこともなかったし」



 図星を突かれて絶句する。外見、しかも髪限定。おまけに彼女には、褒められても嬉しくない部分で。



「私の本当の性格を知ったら、あっさり幻滅しそう。私って我儘だし自己中だし……それにすごいビビリで弱虫だし」

「そんなことない!」



 僕は舞の言葉を遮って、半ば叫ぶように訴えた。



「舞がどれだけ性格悪くても根性曲がってても、僕の気持ちは変わらない! 僕には舞だけだ、舞以上の人なんていないよ!」



 舞は呆けたように僕を見つめた。が、たちまち頬を膨らませて目を釣り上げる。



「ちょっとー。性格悪いとか根性曲がってるとか、そこまで言うことなくない? いくら何でも怒るよ?」

「ご、ごめん」



 熱くなって余計なことを言ってしまったみたいだ。反省しつつ詫びると、舞はすぐに表情を緩めた。



「嘘、怒ってないよ。私だけなんて言ってくれて嬉しい。ダイが初めての彼氏で良かったかもって、少しは思ったり思わなかったり?」


「つまり思ってない……と」



 仕返しとばかりに、今度は僕がしょげたフリをしてみせる。



「あ、バレた? なーんてそれも嘘だよ!」



 そう言って舞は笑って、腕にぎゅっと抱きついてきた。


 心臓が大きく高鳴る。半袖の腕に彼女の髪が通り過ぎるように触れたせい――のはずだ。なのに何故だろう、舞が離れてもドキドキは止まらなかった。




 少しずつ、僕と舞は打ち解けていった。


 舞も僕には気を遣わず話せるようで時には過保護な親や友達への愚痴を漏らしたし、人付き合いが苦手な僕も舞に対しては気兼ねなく冗談を言えるようになった。確かに強情だったり気まぐれだったり面倒臭いところはあるけれど、とても良い子だ。



 だから――『キスをしてみたい』という舞の要求には、応えられなかった。



 付き合って二週間の日、両親がいないからと言って彼女は僕を家に招待した。


 そしてキスしようと言って。

 ソファーの隣で顔を上げて目を閉じて。

 僕は恐る恐る彼女の肩を抱いて。


 でも、できなかった。その時、僕の手を避けるように彼女の髪が流れ落ちたのを見た瞬間、思ったんだ。目の前の唇に、僕なんかが触れていいわけない。だって僕は――。



「こ、こういうのは、本当に好きな人とじゃないとダメだよ」



 僕が精一杯絞り出した声で目を開けた舞は、ふっと気が抜けたように笑った。



「そうだね。ダイの言う通りだよね」



 その笑顔は、どこか悲しそうに見えた。




 気まずくなるかと思ったけれど、舞は変わらなかった。

 僕も気にしないようにして、週末は恒例のデートに出かけたのだが――その途中で思わぬ事件に遭遇した。


 目的地に向かう電車に乗っていると、突然車両の奥から大声がして僕はそちらを見た。すると、初老の男性が一人の女性に訳のわからない怒声を浴びせている。

 女性は今にも泣きそうな顔で、周囲に救いを求めるように視線を向けていた。だけど皆スルーだ。その内、車掌さんが来て何とかするだろう。僕もそう思い、目を背けようとした。



「やめなさいよ! 何があったか知らないけど怒鳴ることないじゃない!」



 が、隣にいた舞は違った。高らかに叱責の声を上げ、ついには二人の元へと駆けて間に割り入る。僕も慌てて席を立って後を追った。



「うるせえ! すっこんでろ!」



 男は相当酔っているようで、離れた場所からでもわかるほど酒臭かった。



「すっこむのはそっちよ! 酔って暴れるなんて、人として恥ずかしいと思わないの!?」

「何だとこのガキ!」



 男が舞に手を伸ばす。

 舞は咄嗟に身を躱したものの、長い髪までは制御できなかった。男の手が、舞の美しい髪を掴む。舞の、苦痛の表情。



「舞に触るな!」



 男に飛びかかったのは、ほとんど無意識だった。と同時に顔面を衝撃が襲う。殴られたと理解できたのは、三発の拳を食らってからだ。



「ダイ! やめてよ、お願いやめて!」



 男の怒号の合間に、舞の悲痛な声が響く。振り下ろされる拳より、僕にはその声の方が痛く突き刺さった。




「何であんな無茶したの」



 ガーゼだらけの腫れた顔で帰りの電車を待っていたら、ずっと黙っていた舞が静かに言った。



「私の勝手でやったことなんだから、放っておけばよかったんだよ。私なんか、どうなったって」

「どうなったっていいわけないだろ!」



 思わず、僕は声を荒らげた。顔のあちこちが痛む。でも言わずにはいられなかった。



「どうでも良くないから無茶したんだ! 舞が殴られるくらいなら、自分が痛い思いをする方がマシだよ! 舞を守ろうとしたのも僕の勝手だ! だから……」



 だから気にしなくていい、という言葉にできなかった。舞の瞳から、涙がこぼれ始めたからだ。



「ごめん」

「ごめんね」



 二人の謝罪の声が、重なる。


 それから僕達は見つめ合い、どちらからともなくキスをした。



 あの時――僕が飛び出したのは、愛する髪を乱暴に掴まれたからじゃない。苦しげな舞の顔を見て、守りたい守らなきゃと思ったからだ。



 唇を離すと、舞は照れ臭そうに笑った。



「今日のデート、散々だったね。でも来週は」

「うん、付き合って一ヶ月記念だから楽しいデートにしよう」



 僕が続きを口にするのを見計らったかのように、待っていた電車が来た。



「私、最初にデートした遊園地に行きたいな。また観覧車に乗りたい」



 いつものように隣り合って座ると、舞は夢見るような表情で提案してきた。それから恥ずかしそうに頬を染めて、上目遣いに僕を見る。



「前に言わなかったけどね……観覧車の天辺でキスした恋人は、永遠に結ばれるんだって」



 その噂は、僕も聞いたことがある。



「僕が相手でいいの?」



 そっと問うと舞は大きく頷き、真顔で答えた。



「ダイがいい。ダイ以外の人なんて考えられない」



 喜びにときめく。と同時に、棘のような痛みが胸に走った。


 僕もちゃんと言わなくてはならない。



「あのさ……僕からお願いなんだけど、その時に改めて告白させてほしいんだ」



 舞はふふっと笑って頷いた。



「じゃ私も、その時に改めて告白する。ダイが大好き、本当の彼女にしてくださいって」



 つい吹き出してしまった。



「今言っちゃってるじゃん」

「いいの、もう一回言うから!」



 真っ赤になった顔を隠すように、舞は僕の肩に体を預けてきた。



「ねえダイ、頭撫でてよ」



 驚いて僕は彼女を見た。



「ダイが綺麗って言ってくれたから、この髪、私も好きになれたんだ。今は自分でお手入れしてしてるんだよ。ほら、触ってみて。ナデナデして褒めて?」



 舞が頭を突き出してねだる。


 本人から初めて許可を得て、僕は憧れだった彼女の髪に触れた。想像していた以上に滑らかで柔らかくて、そして温かい。


 この体温を愛おしく思った。髪の感触より彼女の温もりに、心から幸せを感じた。






 しかし次の土曜日に、舞と観覧車に乗ることはできなかった。


 約束をした翌々日、舞は亡くなった。


 病気が治ったというのは嘘で、もう手の施しようがない状態だったらしい。どうせ死ぬなら学校に行きたい、死ぬ前に普通の女の子らしいことがしたいと本人が強く希望して叶った束の間の時間。


 僕達が出会ったのは、そんな僅かな一時だった。



「夏まで保たないと言われていたから、本人も私達も覚悟していたの。でも夏目くんは何も知らされていなかったんだもの、ショックだったわよね。あの子、本当にあなたの話ばかりしてた。でも病気のことは絶対に言わないで、同情で付き合われるのはイヤだから、最後まで自分のことを好きでいてほしいからって……」



 泣き崩れる舞の母親に、僕は何と返したか、覚えていない。



 約束の日、僕は一人訪れた遊園地で、一人観覧車に乗った。


 そこで遺品として受け取った桐の箱を開ける。中には、一束の髪。主を失っても尚、髪は美しい艶に輝いていた。


 撫でてみれば、あの時と同じ滑らかな感触。でも温もりはない。


 いろんな記憶が頭の中を駆け巡る。一目惚れした理想の美しい髪。だけど思い出すのは、その髪の持ち主――舞のくるくる変わる表情と声ばかりだ。


 髪をかき上げた、舞の横顔が好きだった。

 艶めく前髪の下から覗く、舞の瞳が好きだった。

 何度か握った細い手も、一度だけ触れた唇も、あたたかな体温も。


 我儘で自己中でビビリで弱虫。僕に黙って勝手に逝くなんて、本当にその通りだと思う。けどそんなところも含めて、舞のことが好きだった。舞という存在を作る全てが好きだった。



 だけどこの想いは伝えられない。伝えたい相手はいない。どこを探してもいない。



『ダイ』



 目を閉じれば、笑顔で僕を呼ぶ舞が鮮やかに蘇る。押し流すように涙が溢れても、その姿が滲んで溶けて消えることはなかった。


 僕は生涯、舞のことを忘れないだろう。本当の恋を教えてくれた人。この先どれだけ髪の綺麗な人に出会っても、どれだけ恋をしても、彼女のことだけは忘れない。きっとずっといつまでも。



 ゴンドラが天辺に到達すると、僕はもう届かない想いを込めて、両手に抱いた髪にそっとキスをした。




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