きっとこれは愛じゃない
そいつとであったのはいつかの精神科の待合室。
あいつからの連絡はいつも端的だ。まあ、私もそうだけど「助けて」のメッセージと位置情報。
ただ今回に限っては位置情報なんか必要なかった、加えていうならメッセージが来ることも知っていた。
壁の薄い安アパートは、隣の泣き声がよく響くから。
壁に背中を預けていれば、身体越しに響く音で自ずと部屋の様子が想像できる。
ドアを開ける。
躓く。
鞄を下ろす、いや、落とす。
膝を落とす。
沈黙。
震える。
こえ。
泣く。
声。
震えるような。
喚くような。
請い願うような。
そんな声。
何があったか、私は知らない。
知る由もない、知る気もない。
優しさもない。
同情もない。
共感もなけりゃ。
思慕も、慈愛もない。
あるのはただの。
自己愛と。
自己憐憫だけだ。
私はただ、私を守りたい。
自己中に身勝手に。
他人のことなど、構いもせずに。
ただ、それだけだ。
だから、鍵のかかっていない部屋に土足で踏み入った。
遠慮もなく、悪びれもせず。
それから、蹲るあいつの首根っこを引っ掴む。人のこと言えないけど、ほっせえ身体。
そのまま、了解もないままに、ずるずると引きずった。
ふんじばって引きずっても、存外、抵抗はなくて。
人一人の体重はいささか重かったけど、首が閉まってないところをみるに、ある程度は自分で動いたんだろう。
私の部屋まで引きずって、それからベッドの隣に雑に転がした。
転がされたあいつは死体みたいに、ぴくりとも動かなかった。
ただ涙腺だけは活発みたいで、堕ちる雫が動くことだけはよくわかった。
そこからは別に何もしない。
夜長の夕食に冷凍うどんを食べる私の部屋で、あいつはただ泣きじゃくっている。
一応、顔上げさせて、ジェスチャーで冷凍庫にうどんがあることだけ伝えた。
泣き伏せたような顔が、歪みながら頷いた。ひっでぇ顔。
それに満足したら、私はあいつの部屋から寝袋を引っ張ってきてあいつの隣に置いておいた。
さあ、特にやることもないので、もう眠ろう。
そう想って、自分のベッドに入って目を閉じた。
翌朝、目を覚ましたらもうあいつの姿はなくなっていた。
机の上にはうどん一玉の代金だけが置かれていて。
丼が一つ濡れていたから、どうも洗い物はちゃんとして行ったらしい。
耳を澄ましても隣の部屋から生活音はしてこない。
向こう側で眠りについたか、それかもう外に出てしまったか。
私は、私たちは助けを求められない限り、お互いのことは何も知らない。
知ろうとしない。
わたしたちは何も喋らない。
ただスマホのメッセージの上では、意外にお互い饒舌だった。
今日、あったことをお互い喋る。
喋るって言っても、具体的に何があったとかじゃなくて、頭の中でぐるぐるしてる言葉をそのまま吐き出すような感じ。
ゼミでは疎外感があるとか。
発表で足引っ張るのがしんどいとか。
休みがちで出席を躊躇うとか。
叱責されて死にそうとか。
正論だから余計効くとか。
役に立たないとか。
そんな自分が嫌いとか。
ぐちゃぐちゃとだらだらと、お互いの感情だけを延々と吐き連ねる。
別にそれに感想とか送らない。
仮に問われても正直何も湧いてこないし。
へえ、そうなんだで終わるくらい。
あいつもきっとそうなんじゃないかな。
心地いいわけじゃない。
安心も別にしない。
針のむしろで二人仲良く刺さっていて。
だから、気を紛らわせるために手だけ握っているようなものだ。
だから、この気持ちに名前はない。
少なくとも他人に向けるような感情はどこにもない。
私達は結局、お互いに、自分自身の都合のいい幻想を着せてるだけ。
あいつがちょっとましなら、私もちょっとましになるかも。
あいつが死にそうなら、私もどうせだから死にそうになってみる。
あいつがまだ生きてるから、なんとなく私も生きてみる。
それは言うなら、自己愛で、自己憐憫で、何よりそう自己防衛だ。
誰のためでもなく自分のために、ただそれだけだ。
だからきっと、あの時あの場所で出会っているのなら、別にこいつじゃなくてよかった。
こいつも、きっと私じゃなくてもよかったんじゃないかな。
ただ、たまたま隣にいて。
ただ、たまたま似たような立場だった。
だから、たまたま自分を重ねて。
本当は自分に向けるべき憐憫を、愛情を、防衛を、代わりにあいつに向けている。
ただ、それだけの関係だ。
きっとこれは恋じゃない。
だって私はあいつのことを何も知ろうとはしていないから。
きっとこれは愛じゃない。
だって私はあいつのために何も努力などしていない。
お互いがお互いの肩代わりで、身代わりだ。
ただ、それだけの関係なんだ。
ただそうは言っても異性だし。一応、一度だけ、あんた性欲とかないの、って聞いたことがある。
EDだからない。
って返ってきた。別に世の中、EDが全員性欲良くないわけじゃないと思うけど。
そういうことにしているのか、本当にそうなのか実際の所はよくわからない。
まあ、仮に私達がヤッたところで、お互いの自慰行為にしからないだろうけど。
ただ一度、あいつが吐き散らかして無理やり風呂に入れた時があった。その時、偶然、あいつのいわゆるその部分が見えてしまった。
そこには何か、切ったような、傷付けたような跡があった。しかもそこ、だけじゃなくて、下腹部全体にそんな跡があった。
その傷の意味するところを想像はできるけれど、私が踏み込む意味は特にない。
だってわたしたちは他人なのだ。
おそらく病名も違うわたしたちの精神科での共通点は一つだけ。
それは、「医師に告げても何も解決しなかった」ことだけだから。
というより、多分、どちらも本質的なことは何も告げられていないのだ。
きっと、誰にも。
心の奥にも、傷の底にも触る意味はないし。触ったところで何もできない。
そんなもの、打ち明けられたことも、伝えられたことも一度だってありはしないのだから。
生まれてこの方、開くことのなかった心の扉は、気付けば鍵穴が壊れていた。
それを自覚したころには、開け方すらもうわからない。
だからきっと、私達は本当の心の奥は誰にも明かさないまま、これからずっと生きていくんだろう。
それはきっと、自分自身を重ねているあいつにでさえ、あっても同じだ。
だから、わたしたちは何もしない。
お互いの過去にも傷にも触れはしない。
あいつの服の下に私が触れないように、私の腕時計の下もあいつは決して触れはしないから。
それはつまりそういうことだ。
高校生の頃から、ずっと隣にいるくせにお互いに決して踏み込まない。
というか、決して踏み込めないことを、踏み込んだ先の扉が決して開かないことだけは、お互いに知っているから。
だって、もしもどちらかが心の扉を開けてしまったら。
きっと相手を壊してしまう。
漏れ出してきたものに、お互いが耐えられないだろうから。
死にたいと。
苦しいと。
辛いと。
消えたいと。
いなくなりたいと。
壊れてしまいたいと。
そう十数年の間、ずっと押し込めてきた言葉たちは。
ぐちゃぐちゃに溶け合って、居場所もなくて、もう誰かを傷つけることでしか吐き出せなくて。
そしてそれが―――もう誰にもきっと受け止めきれないことだけを。
私達は知っているから。
人の心の扉を開くには、受け止められるだけの相応の強さが必要なんだ。
残念ながら、私達はお互い笑えてくるほどに心身ともに貧弱だった。
だからそう。
ずっと隣にいるために。
これでいい。
私達は、これでいい。
次の日。昨日と同じように壁に背中を預けていたら、あいつの背中が壁越しにとすんと響いてきた。
多分偶然なのだけれど、ちょうど私がいるところに。
それから、メッセージが一つ来た。
ありがとう。
何に対してなのか、そもそもどういう意図なのか。
私たちの間のことだ、実はこれが今際の際の挨拶だった。なんて可能性もなくはないのだけど。
なんとなくだけど、今は死にたい時じゃなさそうに想えた。だから―――。
こちらこそ。
と短く返した。
そうやって、それとなく笑顔を漏らしていたら、スマホの通知がピロンとなった。
前、吐き散らかした夜に出会った人から、連絡が来ていた。そういえば、ゼミが同じだったから、あの後連絡先を交換してたんだっけ。
定型句の挨拶を交わしてから、メッセージが再び通知を鳴らす。
『そういえば、あの彼とはどういう関係なの?』
喜色と好奇めいたメッセージに思わず苦笑いを浮かべてしまう。
あれは恋人?
違います。
兄妹? 家族? もっと深い関係?
違います。
あれは、そう――――。
※
私達の間にいる想いはそう。
恋でもないし愛でもない。
きっとこれは恋でもないし愛でもない キノハタ @kinohata
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