ポップ・スカイ・ランデヴー

日比 樹

ポップ・スカイ・ランデヴー


「——は?」


 机に頬杖をついて窓の外を見ていたその時の僕は、きっとアホみたいな顔をしていたことだろう。

 こんなクソつまんねぇ授業やってられっかよ、の気持ちを見事に全身で表現しているクソ生意気な生徒だっただろうなと自分でも思う。

 五限目が始まって既に二十分ほどが経過したか、しかし僕の机の上には今だまっさらなノートが置かれていた。


 だけど僕には授業そっちのけで窓の外を凝視しなければいけない正当な理由があったわけで。


 教室の窓の外。突如として現れた美少女に、僕の眼は釘付けになっていたのだ。

 そんな僕を一体誰が責められよう。叫び声を上げなかっただけ褒めてほしいくらいだ。


 僕の死にたい気持ちを黒として、それを画用紙に広げて眺めて死にたい気持ちに浸っていたとする。

 突然その上からそりゃもうすごい勢いで青をベタ塗りされて、あれ? 僕なに考えてたんだっけ? となる。


 どんな心情か分かるだろうか。僕には分からない。


 つまり、僕は混乱していた。



 ▼



 蝉の鳴き声が五月蝿い夏の昼下がり。


 空調のない教室に押し込められて、集団催眠を受ける。

 デ……少しふくよかでいらっしゃる現国教師(男)が汗だくになりながら板書する後ろ姿。すけすけシャツ。見ているだけで僕の体温も三度くらい上がった気がする。

 少しでも風を感じようと窓の外へと視線を逃したら、何も考えずに絵の具をぶちまけたみたいな青空。そこへ浮かれたカップルが夏祭りの綿菓子を飾り付けたみたいな入道雲ときた。いかにも夏って感じ。色んな意味で暑苦しい。


(はあ……死にたい……)


 学生時代の夏と言えばそりゃもう恋に遊びにトロピカル☆(適当)みたいな、底抜けに明るいイメージがあるかもしれないけど。ハッキリ言って僕は嫌いだ。

 綿菓子ひとつで最高にハッピーになれたあの頃にはもう戻れない。何と言うか……時の流れは止められないんだな、と当たり前のことを再認識してとてつもない虚無感に襲われてしまうのだ。

 というか、何も夏だけの話じゃない。春も、秋も、冬も。全ての季節が僕を憂鬱にさせる。

 美しいもの明るいものが必ずしも人を元気づけるとは限らないのだということを、最近になって初めて知った。

 「今日の空は綺麗だ。今日も一日頑張ろう」じゃなくて。「今日の空は綺麗だ。そうだ今日死のう」だなんて。そんな風に思う人もいるのだということを、大抵の人は理解できないし、しようとしない。


 この素晴らしい地球で、そんなことを思う僕を、きっと人は病んでいるというのだろう。


 そんなんじゃない、いや、仮にそうだとしても。だからなんだ。

 人は真夜中にふと孤独を感じて死にたくなるらしいけど、僕にとってはこの昼下がりの平和な時間が死にたいへの入り口だった。

 お腹が満たされて、甘い眠気に誘われて、なんて幸せだんだろう。ああ僕は生きてるんだなあこの世界に。一人ぼっちで。そんな風に、思ってしまって。


 黒板に赤いチョークで示されたテスト範囲。

 来週から期末テスト。なんの勉強もしていない。

 それが終わったら夏休み。朝から晩まで塾の夏期講習。夏祭りなんて行かない。あんなごみごみしたところに行ってクソ甘いだけの綿菓子を食べるのは時間の無駄だ。

 夏休みが終わればまたテスト、テスト、冬休みに入ったら冬期講習。年が明ければ、受験。

 そこでこの先の人生の道筋が、半分くらいは決まるんだろう。

 やってみたいことは色々ある。でもそれを無邪気に口にできるほど、僕はもう子供ではない。と、自分では思う。

 何事にも一生懸命になれない自分。やらないだけだとほざく自分。

 分かってる、こんな僕はどうせ大した人間になれやしない。

 もう気付いてしまったから、頑張る意味を見出せない。というのもただ頑張らないための言い訳だ。失敗するのも笑われるのも怖い。だからもう——


 何もかもが面倒で、何もかもが嫌だ。


(そうだ、今日死のうか)


 なんの捻りもなくただただ単純に。

 今日の放課後アイス食べに行かない? みたいな。

 それくらいの軽さで決めた。


 黒板から視線を外してもう一度窓の外、綺麗で大嫌いな空を見てこの決意を固めようとした。馬鹿みたいに澄み渡った青い空、浮かれポンチの綿菓子みたいな入道雲。

 

 ——が、いた。


 いや、そりゃ空はそこにあるだろ、ってことなんだけど。

 ちがう、そうじゃない。

 馬鹿みたいに澄み渡った青い空、浮かれポンチの綿菓子みたいな入道雲。

 それをのまま外見にしたみたいな美少女が、いた。


 ポップスカイサイダーみたいな、キラッキラの大きな目。それを更に大きく見開いて『にこっ』という効果音がぴったりな笑顔を弾けさせた。

 ちなみにポップスカイサイダーというのは青い炭酸の上にシュワシュワのアイスクリームを乗せたヤツだ。まあクリームソーダみたいなもん。


「わあ、これって運命だね……!」


 僕は息を呑んだ。めちゃくちゃに呑んだ。で、なかなか吐くことができなくて死ぬかと思った。


 窓の外の美少女は、そんな俺にはお構い無しにふわりと首を傾げて微笑んだ。

 さらさらの青い髪が肩から流れ落ちる様があまりに綺麗で、僕はまた息を呑んだ。この女、僕を殺す気か。


 窓枠からこちらへ手を伸ばし、にっこりと笑いかけるその姿は、さながら囚われの姫を助けに来た騎士のようで。

 教室と言う名の牢獄に幽閉された僕を、美少女騎士が助けに来てくれるという感動のRPG。配役ミスにも程がある。クソゲーオブクソゲー。優勝。


 だが美少女はその役割をしっかりと理解しているような、その場面において完璧な台詞を口にした。


「見つけた、ボクのお姫様!」



 ▼



 人間じゃないことはすぐに分かった。理由は簡単だ。

 普通の人間は突然三階の窓の外に現れたりしないからだ。

 霊じゃないこともなんとなく分かる。というか、こんなトンチキな色合いの霊がいてたまるか。


 一瞬視線を逸らして周りを見渡す。

 皆して同じ髪色の同じ制服を着た生徒たちがうとうとしながら午後の授業を受けているという、色で表せば灰色か黄土色か。相変わらずの光景が広がっていた。


 窓のほうに視線を戻す。

 目が痛いほどの、青、白、しゅわしゅわ、キラッキラ。

 まるで合成みたいに、やっぱり彼女はそこにいた。


 どうやら僕にしか見えていないらしい。僕は状況を理解した。これでも空気は読める方だ。それが良いか悪いかは、正直何とも言えないけれど。


「姫、随分探したよ!」


 どういうわけか、彼女は僕のことを姫と呼んだ。僕の名前に姫要素はひとつもないし、そもそも僕は男だ。意味の分からないあだ名はやめていただきたい。

 ちょうどその時、先生が職員室にプリントを取りに行くとかで教室を出て行った。途端、皆が私語を始め教室内がざわつく。

 それに紛れて僕も「なんで姫?」と呟いてみた。

 そしたら彼女は何て答えたか。

 「まるで囚われの姫みたいな顔して窓の外を眺めていたから」だ。

 なんだよそれ。他人から僕はそんな風に見えているのか? 女々しすぎる自分を想像して余計に死にたくなった。


「ボクの名前はアオイ」


 聞いてもいないのに自己紹介をする。積極的な美少女だ。しかもボクっ娘ときた。


 アオイは僕の机に手をついて、


「今日は姫を迎えにきたんだよ」


 と言った。

 タンクトップのワンピースから伸びた腕は驚くほど白く、ツインテールの青い髪が目に涼しい。周囲の気温を数度下げてくれるような、まあ、悪くはない見た目だ。というかめちゃくちゃ綺麗だ。


「また死にたいって思ってたよね?」

「なんでそれを……」

「あはは、分かる分かる」


 なるほど、人の心を読めるのだろうか。宇宙人か。それとも何だ。

 僕には何も分からない、分からないけれど。


「ボクと一緒に逃げよう」


 目の前に差し出された、僕はその手を取った。

 それはもう本当に、自分がお姫様にでもなったような気分で。


 怪しいとか怖いとか、そういう感情は一切なかった。何故か。アオイの見た目が可愛いかったからだ。

 例え騙されて魂を奪われようが、謎の儀式の生贄にされようが、クソつまらない授業を受けているよりはそっちのほうが随分といいように思えた。


 とまあ冒頭からここまでうだうだうだうだと言ってきたわけだけれども。

 結局のところ、僕が非日常に夢を見てる中二病だったってことで。

 たった数行で済む話を鬱鬱とした雰囲気で語る事が出来るくらいには、僕は拗らせた十五歳だった。


 アオイの手はひんやりと冷たかった。

 繋いだ手をくいと引かれた。

 入って来た窓を指さしてアオイはキリっとした顔を作る。どうやら騎士設定はまだ続いているようだ。


「逃げ道は確保してある。今なら敵はいない」


 僕は答えた。


「いや、ごめん。さすがに窓からは出られないから教室のドアから出るよ」


 いくら中二病をこじらせているとはいえ「天使が僕を呼んでいる……っ」とかいって窓から飛び出すほどの勇気はない。そんなことをしようもんなら瞬く間に僕の名が学年、いや学校中に知れ渡ることだろう。「♰蒼天に覚醒し純白の天使♰」と。それはガチで死にたい。


「なぁんだ、つまんないの」


 唇を尖らせるアオイはやっぱり可愛くて、僕は頬が熱くなるのを感じた。

 いや、ちがう、これは暑さのせいであって。決して出会って数分でアオイに惚れてしまったとかそういうんじゃない。そういんじゃないんだから……っ。



 ▼



「逃げるって、ここかよ」


 アオイに手を引かれ、辿り着いたのは学校の屋上だった。


 あ、ちなみに教室を出たところで先生と鉢合わせたので「気分が悪いので保健室に行きます」と伝えて来た。僕は至って真面目な生徒なのだ。


 うちの学校の屋上は普段は施錠されていて、漫画みたいに誰でも出入りできるわけじゃない。屋上に来たのはこれが初めてだ。しかも美少女と二人きり。

 僕の胸は高鳴っていた。しかしそれを隠すように、努めて素っ気なく言葉を発する。


「結局学校の中じゃん」

「でも、教室よりは随分と気持ちがいいでしょ?」

「でも暑いよ」

「姫は我儘だねぇ」


 校庭がゆらゆら揺れている。

 その隅っこに、錆びたモニュメント時計が幻みたいにひっそりと佇んでいた。十三時だ。だけど、嘘だ。

 一昨年僕が入学した時には既に止まっていた。もうじき撤去されるらしい。


 まあ、今時みんなスマートフォンを持ってるわけだし、腕時計だってある。わざわざでかい時計なんて置いてもらわなくても、自分の過ごしている今が何時なのかくらい把握している。一日は長い。何もなければそれがあと八十年は続く。

 十五歳の僕にとってそれはもう、永遠と同じくらいの、とてつもなく長い時間に思えた。


「時間はねぇ、本当は短いんだよ」


 同じように校庭を見下ろしていたアオイが言った。


「いきなり、何?」

「姫はさ、ずっと退屈な毎日が無限に続くと思ってるよね?」

「まあ……実際そうだろ?」


 アオイはゆっくりと首を振った。


「そういうものではないんだよね」


 言って、じっと僕を見据える。

 いつか家族と行った、沖縄の海みたいな澄んだ色だ。


「姫は僕のことが嫌いでしょ」

「さっき会ったばかりで嫌いとかないけど」

「だって、いつも死にたいって思ってる」

「それがなんの関係があるの」

「あるんだよねぇ、これが」


 何が言いたいのか分からない。


「ねぇねぇ、姫にはボクの姿がどんな風に見える?」

「……クソ暑い夏の午後の空と雲」

「そのまますぎ! 他には?」

「サファイア」


 その言葉が出たのは、別に僕が女性を宝石に例える様なキザな心を持ち合わせていたからではない。ふと幼少期にやっていたゲームのタイトルを思い出したからだ。赤と青が同時発売して、名前がかっこいいから、というしょうもない理由で僕は青を選んだ。サファイアという言葉を覚えただけで大人になったような気がしてワクワクできたあの頃の自分が今となってはもう懐かしい。ほんの数年で、世界は変わってしまった。というか、きっと変わったのは僕なのだろう。


 そんなふとした思い出でセンチメンタルになってしまう十五歳の青い僕。

 だがそんな僕にはお構いなしに、アオイはまだこの連想ゲームを続けたい模様。期待を込めた目で僕を見るな。


「続けて!」

「海」

「ふむふむ、他には?」

「ラムネ……の中に入ってるビー玉」

「ほうほう、それから?」

「ブルーハワイのかき氷」

「う~ん、もういっちょ!」

「……ドラ*もん」


 半ばやけくそで求められるままにどんどん答えていく。

 だが青いものって意外と少ないのだ。僕は一分も経たないうちに青のストックを出し尽くし、苛立ち紛れに最後の言葉を投げつけた。


「ポップスカイサイダー! くそっ! もうこれで終わり! なんなんだよ一体! 僕のこと馬鹿にしてんのか!?」


 ムキになって怒る僕を見て、アオイは笑った。


「ううん、それでいい。もう充分だね」


 アオイは両手をめいっぱい広げた。

 背景は青い空と白い雲。この景色の色をカラーパレットに並べてみたら、きっとアオイを描くことができる。

 そのまま滲んでとろけて、消えてしまいそうだ。


「僕との時間はお昼の真っ青な空の色。買ってもらったゲームのタイトル。好きだったアニメのキャラクター、ずーっと遠くまで続く海、それからしゅわしゅわラムネに浮かぶビー玉」


 アオイが知るはずのない僕の思い出が、アオイによって積み重ねられていく。


 それに伴ってどうしようもなく、次から次へと色んな思い出が溢れてきて。


 幼少期、両親と外出した帰りには必ず買ってもらったポップスカイサイダー。それを昼下がりの公園のベンチに座って食べる。世界中の幸せを全部詰め込んだみたいにキラキラした時間だった。


 空が綺麗だから今日も一日頑張ろうだとか、そんな風に思えない自分が。好きなものを嫌いだって、駄々をこねてるガキな自分が。


「ボクとの時間を、死にたいって思いに使わないで」


 僕は、大嫌いだ。だけど本当は、今この時間が幸せだって分かってる。


「こんな素敵な時間には、大好きなポップスカイサイダーを思い出して、楽しい気持ちになってほしい」


 どうしてだろう。僕は、泣いてしまった。


「やめろよ、……そんなの思い出してたら死ぬ気が無くなっちゃうだろ……」

「うん、それでいい」


 アオイはきらきら笑った。


「それじゃあお姫様、お手をどうぞ」


 僕は片手で涙を拭いながら、もう片方の手を出した。

 アオイはその手にそっと口づけて、微笑んだ。

 なんだよこれ、普通逆じゃないのか。


「これからもずっと、ボクのことを大事にしてね」


 僕はまだ何も言ってないのに。

 なんだかプロポーズの返事みたいなことをアオイは言った。

 それから少しずつ青にとろけて、消えた。

 

 窓から眺めていた空と何ら変わりないはずなのに、僕の大好きなものを全部集めたみたいな、鮮やかで、きらきらで、澄み渡った青だった。

 そうか、彼女は俺の過ごした時間だったのか。その時やっと気が付いた。


 今日の空は綺麗だ。だから。


「帰りに駅前のアイスクリーム屋に寄って、ポップスカイサイダーでも食べるか」


 そういえば僕には大好きなものがたくさんある。


 死ぬのは別に、今日じゃなくてもいい。もっとずっと、先でも。


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ポップ・スカイ・ランデヴー 日比 樹 @hibikitsuki

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