世界を壊そうと先輩は笑った

リリィ有栖川

その髪は刃物のような

 海月になりたかった。

 海を漂う姿が優雅で、何より考えなくていいのがいい。


 人間は脳なんてものがあるからずっと考え続けてしまうんだ。脳なんてものがなければ僕は今頃ちゃんと家に帰って風呂に入って上手くすれば布団の中にいるかもしれない。


 どうして僕は夜のコンビニ前でペットボトルのジャスミン茶を片手にぼぉっとしているのだろうか。いくら明日が休みとはいえ、時間の無駄が過ぎる。


 前を走る車を見ていても車が好きなわけじゃないから楽しくもないし、楽しそうな声を聞くと何だか心の穴に風が吹くような感じがする。


 時刻はもうすぐ二十三時。かれこれ一時間以上こうしている気がしていたけれど、なんてことはないまだ二十分しか経っていない。


 いや、二十分も、なのかもしれない。

 なるべく考えないようにしないと、叫びだしそうになっている。


 何がいけなかったんだろうと考えると、生きていることがいけなかったのではないかと思ってしまう。


 別に死にたいというわけじゃなくて。

 僕は一度、死のうとしたことがあるんだ。

 正確には、一緒に死のうと約束した。

 一緒に世界を壊そうとしたんだ。


 今考えれば子供の浅はかな考えだったのかもしれない。だけどあの頃の僕らには、あれが唯一の世界への反逆だった。


 あのうだるような夏の日々は、今では眩しすぎて直視が出来ない。見つめてしまったら、目が潰れてしまいそうだから。


 だけど、こんな日は、夜でも蒸し暑いこんな日は、どうしても、思い出してしまう。


 あの日の彼女の眼差しを。


 ポケットで何かが震えて、過去へ行こうとしかけた僕の意識は現実に縫い付けられる。

 取り出した斜陽の携帯に上司の名前。

 ため息を吐いて応答するしかない。


「お疲れ様です」

「ああお疲れ。今大丈夫?」

「はい」

「さっきやってもらったやつさ、間違いがあってさ。至急直しといて」

「え、あの、まだ家に着いてなくて」

「なんで?」

「いや、なんでと言われましても」

「どれくらいで着きそう?」

「いや、まあ、十分くらいですかね」

「じゃあ家に着いたらお願い。簡単だからさ」

「……わかりました」

「じゃ、お疲れ様」

「お疲れ様、です」


 通話が終わり、どっと疲れが出る。


 これはちゃんとあなたに確認とりながらやった仕事だし、そもそもあなたがやった方が早いと思うんですが、逆に何故やらないんですか? 至急なんですよね?


 そんな風に聞けたら、生きやすかっただろうか。


 あるいは、お酒を飲んで酔っ払えたら、こんなに俯いた生活はしないで済んだだろうか。


 ああ、やっぱり海月になりたい。


 しゃがみこんで地面に向かって大きなため息を吐きだして、なんとかもう一度立ち上がる。最近平衡感覚がなくなる瞬間があるからちょっと怖かったけど、どうにか立ち上がることが出来た。


 そう思った矢先によろけてしまい、人にぶつかった。


「あ、すいませ──」


 んの一文字が、口から出なかった。


 そこにいたのは、あの頃と変わらない彼女だった。


 高校二年生の僕が一緒に死ぬことを約束した一つ上の先輩。網田花音。


 僕の、初恋の人だ。


「か、花音」

「いつから呼び捨てに出来る程偉くなったんですか?」

「あ、え、いや、これは、ちがくて」

「何が違うんですか」

「あの、すいません」

「よろしい」


 満足そうに頷く花音先輩は、別に久しぶりにあったとかではない。つい一ヶ月前にもあったばかりで、邦画の悪態を吐く先輩をなだめたのは記憶に新しい。


 あの時は神はセミロングで邪魔だからと軽く結んでいるここ数年変わらないスタイルだった。なのに今は、あの当時の、一番鋭かった時の、刃物みたいなボブカット。


 あの頃よく着ていたロングコートをこの蒸し暑い日に羽織っているせいで、首に汗がにじんでいる。


「花音先輩、あの、え、なんでいるんですか? というかその恰好見てるだけ暑いんですが」

「あなたを探しに来たんですよ」

「僕を? どうして?」

「映画を撮ります」

「は?」

「我々が世界に反逆する方法をずっと考えて、ずっとそのために資金を集めていました」

「いや、いやいやいや、急ですよ」

「いいえ。十年前から構想は練っていましたし、その頃からお金を貯めていました」

「花音先輩はそうかもしれませんけど」

「しかも今は技術の進歩のおかげで、これだけでも十分なものが撮れます」


 そう言って先輩が取り出したのは最新機種のスマートフォン。


 確かにプロの映画監督も使っていたりすると聞いたことがあるけれど、いやそうではなくて。


「役者はどうするんですか」

「いるじゃないですか。二人も」

「僕たち二人?」

「そうです」

「でも、そしたらカメラは誰が」

「基本三脚などを使ってです。動きのあるシーンもありますが、それも二人で事足ります。それでは行きますよ。行きの車で脚本を読んでください。短いから簡単です」

「い、いや、でも僕これから仕事しないといけなくて」

「仕事、好きだったんですか?」

「いえ、それは、そんなことは、ないですけど」


 でも、やらないと嫌味を言われる。責任が二割でもあれば、上司は百こっちが悪いように言ってくる。


 考えるだけで、腹痛がする。


「隆くん」

「なんですか」

「仕事、辞めてしまいなさい」

「はあ!?」

「そして三ヶ月、あなたの時間を私によこしなさい。お金はあげますから」

「い、いや、でも」


 話を割るように電話が鳴る。上司からだ。反射的に応答しようとしたら、するりと取り上げられてしまう。


「あ、ちょっと!」

「もしもし。山波隆は今から私が使いますので。ふざけてませんよ。良ければ彼を首にしていただいて構いません。それでは」


 通話を一方的に切ると、花音先輩は電源を落としたあと自分のポケットにしまって歩き出してしまう。


「か、花音先輩!」

「隆くん」


 立ち止まり、振り向いた先輩に、僕は息を飲んだ。

 本当に、あの頃と変わらない、悪い笑顔。


「一緒に世界を壊しましょう。このくだらない、私たちの世界を」


 それは、昔花音先輩が僕に言った言葉と、全く一緒だった。


 あの後ろ向きな言葉が、まさかこんなに眩しい言葉になるなんて。


「ほら」


 差し出された手をじっと見て、僕はつい笑ってしまった。もう、僕の負けだ。


「ええ、わかりましたよ」

「よろしい」


 手を取ると、ぐんぐん進んで行く花音先輩。


 もう止めることはできそうにない。それは確かにあの頃と変わらないのだけど、あの頃と決定的に違う所がたった一つある。


 僕らは、生きようとしていることだ。


 大人になってしまったなと、少し寂しくはあるけれど。

 今度は生きて、この世界を壊そうじゃないか。

 出来る出来ないなんて関係なくて、僕らは今から、世界を壊す。


 退屈な僕らの小さな世界を。




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世界を壊そうと先輩は笑った リリィ有栖川 @alicegawa-Lilly

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