第3話~初仕事~

 Ⅰ


世の中には、思ってもいない出来事に、連続して打ちのめされることがある。「神の悪戯」と、割り切って世を呪いながら、何とかそんな現実と向き合って生きるのは、生きている間だけの試練だと思っていた。

しかし、死んでしまっても、死神として存在する限り、そこに生も死も無関係であることを、僕は思い知らされることになる。


最上からのプレゼントである、総額100万円を超える超高級なロードバイクで、初めに僕が向かった先は、職場が入っている商業施設、イオンモールだった。

母のいる実家と迷ったが、サイクルコンピュータ(略してサイコン)のナビ機能で、場所を検索したところ、イオンの方が格段に近かったので、まずは美波に会いに行くことにした。

バスローブから、部屋のテーブルに用意されていたサイクルジャージに着替え、ビィンディングシューズを履き、コツコツとフローリングに足音を響かせながら、バイクを玄関まで転がして運ぶ、車体は恐ろしいほど軽く、ホイールも静かに回る。

玄関には、据付の靴箱があり、その上にヘルメットにサングラス、小さなリュックが置かれていた。リュックの中身を見ると、ナイキのスニーカーが入っており、袋の中に「好きに使え。」と書かれたメモ書きも同封されていた。

全ての準備されたアイテムを装着して、玄関を出る。もちろん合鍵など貰っていないので、鍵は開けっ放しのまま放っておく事にした。

バイクを両手で押しながら、目の前の通路を歩いていくと、エレベーターがあったので、とりあえず【→】のボタンを押してエレベーターを呼んだ。扉が開くまでの間、周りをきょろきょろと見回してみると、扉の向かい側の壁に、大きく4Fと書かれたボードが貼り付けてあり、ここはどこかのマンションの4階であることが分かった。

共用通路は小奇麗で、定期的に清掃がされているのが分かるし、エレベーターも1機だけではあるが、バイクと一緒に乗っても、余裕があるほど広く、中も小奇麗に保たれていて、このマンションの住人の生活ランクの高さと、管理会社の仕事振りが良く分かった。

オートロックの自動扉を抜け、大きな正面玄関から外に出ると、夏の眩しい日差しと、しぶとい蝉の合唱が、僕を迎え入れてくれた。アスファルトから照り返された太陽の熱で、頭と足元の両側から、既にジワジワと汗が噴出してきそうだ。

実感する夏の暑さに、生きているだろう事を実感した僕は、美波に逢える喜びと、最新のロードバイクに乗れる喜びを噛み締め、バイクに跨り、サイコンのナビに従って、進行方向を南にとった。

左足をペダルに装着させ、力を入れて漕ぎ出す。その時、最上の顔が過ぎった。

「用意周到で完璧なプレゼント」と「ここから出るな。」の忠告が、どうも矛盾していて気持ちが悪い、「あの男に従ったほうが良いのではないか。」と一瞬足が止まったが、それもすぐに「まぁ、いっか。」で払拭されて、僕は右足をペダルにはめ込み、ペダルを踏み締め走り出した。

最高級のロードバイクには、最高峰の電動コンポーネントが搭載されていた。道の細やかな勾配に、魔法のような静けさで、滑らかにスムーズなギアチェンジが出来る。車体が軽いからなのか、いつものギアで踏むよりも、数段軽くペダルが回る。

「やはり、死んでいるなんてはったりだ。」

この風を切る爽快感、地面から突き上げてくる振動、耳の奥を震わす呼吸音。本当に死んでいるのなら、この感覚はどう説明出来ると言うのだ。

 それにしても、機材が変わるだけで、こんなにも走りの違いを実感できるとは驚きだった。サイコンで示された、約20キロの道のりを、息を乱すことなく回すことが出来たし、巡航スピードも、いつもより3キロも速かった。何よりも驚いたのが、心臓の音が全く乱れていなかったことだ。どんなに急な坂道を登った後でも、心臓は早鐘を打つことなく、音を潜めている。これなら富士山だって、何処だって制覇出来る気にもなる。

 約40分のサイクリングを終え、目的地に着いたのだが、イオンの一般駐輪場に、このバイクを停めておくには心配でかなり悩んだ。しかし、お金も持っていないので少し離れた駅側の有料駐輪場での駐車も叶わず、結局はイオンの一般駐輪場の、監視カメラの視角にピンポイントではいる位置に停めることに決めた。

そこで、鍵を持っていないことに気が付き絶望したのだが、駄目元でリュックを漁ると、なんとチェーンロックキーが入っていた。「さすが最上、神を名乗るだけのことはある。」と、勝手に最上に感謝し、パイプに立てかけたバイクに、チェーンを二重に巻き付け鍵をかけた。

 それでもやはり、不安は拭い切れないので、「用を済ませてすぐに帰って来るから。」と、心の中でバイクに語りかけてから、その場を離れた。

 駐輪場から、一番近い入り口を通り、まずは靴を履き替え、ヘルメットを外し逆さにし、首のベルトを繋げて手提げ鞄のようにして、その中に外したサングラスを入れた。

トイレに行って身だしなみを整えようか少し迷ったが、エレベーターの【←】ボタンを押すと、運良く3機在る内の、目の前のエレベーターの扉がすぐに開いたので、身だしなみはそのままにすることにした。今は何よりも早く美波の顔が見たい。

乾き始めた汗を、店内の冷房が冷やし、ひんやりとした気持ち良さを肌に感じながら、僕は誰も乗っていないエレベーターに足早に乗り込んで【3】のボタンを押す。一瞬、人工的な浮遊感に包まれてから、箱は規則正しいスピードで昇り、3Fで止まると扉を開いた。

全国のイオン店舗の中でも指折りの集客力を誇るこのモールは、平日でもかなりの人で溢れている。エレベーターを降りると、エレベーターに誰も乗っていなかったのが奇跡なんじゃないかと思えるほど、3Fは人で埋め尽くされていた。

とりあえず、人の波に逆らわず、専門店街の広い通路を進むと、すぐに目的のフードコートが見えてきた。

美波がバイトをしているアイスクリーム店は、フードコートの入り口に位置し、見通しも良いので、ある程度距離が離れていても、店の様子や、店員の顔を確認することが出来る。他の通行人の邪魔にならないように、少し首を伸ばして店を確認すると、男の店員の顔が見えた。女性やカップルに人気のこの店は、店長以外の従業員は女性しかいない。会社の方針と、店長は話しているみたいだが、美波曰く、店長の独断の可能性もかなり高いらしい。そんな店長を、美波は避けていてるので、滅多にシフトが被ることはないはずだ。

「やってしまった。」その時僕は、肝心な事を忘れていることに、今更ながら気が付いた。

人の間を縫って、通路を横切る。イオンモールは、モールの中心が大きな吹き抜けとなっており、このモールは、その吹き抜けを囲うように、大きな数字の【0】のような形で通路が造られている。その吹き抜けから下を覗き、1Fに設置されている大きなデジタル時計を見ると、時刻は16:27と表示されていた。

そもそも今日が何月何日なのか知らないし、今日が美波の出勤日なのかも勿論、知る由もなかった。それに、たとえ出勤日だったとしても、美波は17:00からしかシフトに入っていないし、電車時刻の関係上、この時間では恐らく、まだイオンにも来ていないだろう。

店長に、今日は美波の出勤日かどうかだけでも確認しようか迷ったのだが、夏の暑さのせいかアイスクリーム店には長蛇の列が出来ており、とても話しかけられる状態でなかった。

僕は仕方なく、17:00まで自分の職場に挨拶に行くことに決めた。17:00過ぎにもう一度確認して、美波がいなければ、母のいる実家へ帰ることにしよう。

エスカレーターに乗り2Fへ下りながら、今度は自分の現状に頭を廻らす。良く考えれば、僕も仕事場へ行っていないでわないか。最上の話を信じたくはないが、あの話が事実であれば、約一ヶ月もの間、無断で欠勤していることになり、下手をすれば既に解雇されていてもおかしくない状況だと気付く。

彼女に会える楽しみは、職を失う不安へと摩り替わり、僕は走るようにしてエスカレーターを下り、人を掻き分け職場に向かった。

勤め先の眼鏡屋に着くと、そこも中々のお客で賑わっていた。店の前から中を眺めると、眼鏡が収まる幅で、格子状になっている白の木目版の什器が規則的に並べられ、その什器ごとにカテゴリーで分けられた眼鏡が、綺麗に陳列されている。

客達が眼鏡を物色したり、視力測定の待合室ソファーに座っていたり、購入の受付をしていたり、いつもなら見慣れて少し億劫になるような光景が、今の僕には懐かしく、愛おしくさえ思えた。

そんな感情に戸惑い、少しの間、ボーっと店を眺めていると、聞きなれた客引きの声が聞こえてきた。

「いらっしゃいませぇ。ただいま纏め買いキャンペーンをおこなっておりまぁーす。2本で1000円引き、3本で2000円引きと、大変お値打ちでございまぁーす。この機会に、どうぞご利用下さいませぇー。」

この、無駄に語尾を強調する客引きは、あいつしかいない。新入社員の四月一日(わたぬき)だ。

四月一日は、レンズの加工やら、視力測定や眼鏡のフィッティング作業で、忙しく作業をこなしている先輩社員方を尻目に、眼鏡のレンズを拭いたり、店頭の眼鏡を並べ直したりしながら、持ち前の明るさが滲み出ている笑顔を、その顔に貼り付け、客寄せに奮闘していた。

「四月一日生と書いて、ワタヌキススムです。あだ名はウソップです。宜しくお願いします。」

僕に出来た初めての後輩で、教育担当を任され、いろいろと苦労した記憶が蘇る。

四月一日の口癖「大丈夫ですよ。世の中は何だかんだで、上手く回るように出来てますから。」の一言で、呆れながらも、何度もその楽観的な笑顔に悩まされ、そしてそれと同じくらい、何度も救われた事を思い出す。

「ワタヌキ。」

ちょうど彼が、店先まで客引きをしながら出てきたので、声をかけ片手を挙げる。四月一日は、僕を見て、一瞬何かを考えるように間を取り、会釈をして近付いて来た。

「いらっしゃいませ。」

目の前まで近付いて来た四月一日は、あろうことか、僕にまで営業スマイルで声をかけてきた。

「本日は、どうされましたか。」

なんなんだ、こいつは、ふざけているのか?教育係の先輩の顔を忘れたとは言わせない。

「からかっているのか?」さすがに頭にきて、つい声が大きくなってしまった。四月一日は、困ったように曇った笑顔のまま、少しだけ眉毛を八の字にして首をかしげた。なぜ怒鳴られたのか意味が分かっていないご様子だ。

「桜木だよ。」

四月一日の態度に、僕のほうまで混乱してきた。とりあえず名を名乗ることにする。いくらなんでもこれで気が付いてくれるはずだ。

すると、少しの間の後、四月一日の顔がパッと晴れた。

「あっ、先輩の…、失礼しました。桜木のお客様でしたか。申し訳ございません。私の名前を正確に読まれた方に初めてお会いしましたので、つい私のお客様かと勘違いを…。」そこまで言うと、四月一日の顔から、一気に明るさが抜け、苦い顔に変わった。

「何を言っているんだ。桜木は、…。」桜木は、「君の目の前に居るではないか。」と言いたかったが、四月一日に遮られる。

「大変申し上げにくいのですが。桜木は、もうこのお店にはいないんです。」

「えっ?」

「プライベートなことなので、あまり詳しいことはお話できなくて…すいません。」

四月一日は、僕に深々と頭を下げた。僕はといえば、何で四月一日に謝罪されているのかが理解できず、思考が止まる。

四月一日は、頭を上げて僕の目を見た。その目は、涙で滲んでいる。僕は、この男が泣いている所をこのとき初めて見た。驚きと戸惑いの中、四月一日が掛けている眼鏡に目が留まる。この眼鏡には見覚えがある。

「その眼鏡は?」

「あっ、お客様、この眼鏡に気が付くなんて凄いですね。これは、桜木先輩が愛用していた眼鏡なんです。先輩が亡くなってから、店長とみんなで話し合って、みんなでこの眼鏡を掛けて仕事しようって決めたんです。突然死んじゃったから、僕たち何にも出来ないけど、この眼鏡掛けてたら、先輩と一緒に働いてるって、忘れないでいられるだろうって。」

そう言って、四月一日は声を詰まらせた。その目には大粒の涙が溢れ、頬を流れるその粒を、彼は、右手の平で乱暴に拭っている。

その姿を目の当たりにして、僕は息が出来なくなった。空気を飲み込み、喉の奥がゴクリと音を立てる。首を伸ばして辺りを見回し、店の仲間たちを目で追う。四月一日が言うように、みんな僕が愛用していた眼鏡を掛けて働いている。細い黒縁の丸眼鏡で、誰もが似合うデザインとは違うその眼鏡は、僕たちの中で「のび太君眼鏡」と呼ばれていて、僕のトレードマークになっていたものだ。みんな、「お前にしか似合わない。」と、からかうばかりで、誰も一緒に掛けてくれることはなかった。そんな眼鏡を、みんなが掛けている。

なんとか息を吐き出し、荒く空気を吸い込む。気が付かないうちに、僕の頬にも涙の粒が伝っていた。

「言っちゃいけないのに、結局全部喋っちゃいました。先輩が居たら怒られちゃいます。」

涙目で笑う四月一日を見て、やっと僕も呼吸の仕方を思い出す。そして、つられて笑っている自分がいることに気付く。

「今度、それと同じ眼鏡を買いに来ます。」

喉を詰まらせながら、なんとか擦れた声を絞り出す。

「店員皆で買い占めちゃったんで、品薄なんですよ。在庫確保しておきますので、お名前を頂いても宜しいでしょうか?」

泣き顔と笑顔が入り混じった顔の四月一日に、僕は何と答えたらよいのか口篭ってしまう。ここで桜木ヒカルとは名乗れるはずもない。「また来ます。」と、言いかけたその時、「すいません、受付けお願いしたいんですけど。」と、タイミング良く、他の客が四月一日に話しかけてくれた。

四月一日は、「とにかく、在庫確保しておきますので、必ずまた来てください。」と言って僕に軽く会釈をすると、もう一度手の平で涙を拭い、両手で顔をパチパチと軽く叩いて気を引き締めるようにして、店の中に戻っていった。

僕は、そんな四月一日の姿を少しだけ眺め、懸命に働く仲間の勇姿を目に焼き付けた。この職場で働けて、このスタッフ達と一緒に働けて、本当に幸せだった。そのことを噛み締め、帰ろうかと、振り向こうとしたその時、鏡に映った自分と目が合った。

そこには、見たこともない顔の男が、僕を見返している。最上同様に、恐ろしく整った色白の顔がそこにあった。

僕は、トボトボと鏡に近づき、もっと近くでその顔を確認する。今までの僕には無かった長い睫毛、一重だった瞳は、クッキリとした二重瞼へと変わり、顔も一回り小さくシャープになっている。何気にコンプレックスだった低くて大きな鼻は、小さく高くスタイリッシュになってそこにあるではないか。

「なるほど、誰も僕だと気が付かないわけだ。」

ここにいるのは、桜木ヒカルではない。その時になって初めて、僕は、僕が存在しなくなったことを理解し、僕が本当に死んでしまったことを信じるしかなくなってしまった。

あまりの衝撃に、立っていられなくなった僕は、頭を抱えたまま近くにあったソファーに倒れこむように座って、両手で顔を覆った。

「最上が正しかった。間違っていたのは僕のほうだった。」

僕は死んでいる。この顔では、誰も僕が、桜木ヒカルだと気が付かないとは思うが、早くここから離れたほうがいい。ここには、生前の僕を知る人たちが多すぎる。

とにかく最上の家に戻ろう。最上の言うとおり、これからのことをしっかり考えなければならない。両手の中で収まっている顔は、いつもよりも小さく、心なしか手の平に触れる凹凸も大袈裟に感じられる。嘘のような現実に、クラクラしながらも立ち上がろうとしたその時。

「大丈夫ですか?」と、聞き覚えがある声が、そんな頭の上から降り注いだ。


 Ⅱ


 「海風 美月といいます。隣は、妹の美波です。こんな時間に押しかけてしまってすいません。」

 僕たちは、ダイニングテーブルを挟み、向かい合う形で座っている。最上の向かいに美月さん、僕の向かいには、ヒカルだったときの彼女、美波が座っている。

 「美月さんに、美波さんですか。お二人とも、とても美しい名前をお持ちだ。」そう言いながら、最上はテーブルに名刺を2枚並べて、こちらの自己紹介を始める。

 「私は、ここの家主であり、責任者の最上といいます。隣にいるのが、ちょうど今日からアシスタントとして来てもらうことになった、三ツ星です。」

 最上に紹介された僕は、軽く会釈をし「どうも、初めまして。三ツ星 光といいます。」と、美波の前に置かれた、自分の名刺の文字を読むように自己紹介をする。

 そこで、チラッと視線を美波に向けると、なにやら難しい顔をして、まじまじと僕の顔を見ていた。

 お互いの自己紹介が終わり、少しの沈黙が流れる。美月はどう切り出していいのか悩んでいる様子で、もじもじと下を向いているし、僕はと言えば、死神の仕事自体が初めての経験なので、成り行きに身を任せるしかない。

 すると、最上の「さて、」と、美波の「あっ、」という叫び声が重なった。美波は、瞳を大きくして僕を指差し、最上が珍しくその後の言葉を飲み込んでいる。

 「やっと思い出した。あなた、今日イオンで会いましたよね。イオンに入ってる眼鏡屋さんの前で、私が声を掛けたの覚えてます?あぁースッキリしたやっと思い出せたぁ。」

 肩の力が抜けたのか、美波はそれまで伸ばしていた背中を少し丸めた。

 「美波、人を指差して何言ってるの。」美月さんが、伸ばした美波の腕を窘める。

 「どうも、妹が、大変失礼致しました。すいません。」と、僕に向かって頭を下げた。

 「確かに、少々失礼が過ぎました。すいません。」と、美波も並んで頭を下げる。

 「いえいえ、全然気にしてないんで大丈夫です。それに、美波さんが言ってること間違ってないんで。」僕は、あからさまに両手の平を二人に向けた。出来るだけ美波と視線を合わせないようにしながら。

 「やっぱり、あのときの人なんですね。あの時は、死にそうな顔してましたけど、今は大丈夫そうですね。」美波のキラキラとした視線を、僕は回避することが出来ない

 「まぁ、ある意味で生き返りましたから。」自分でもヘラヘラとしているのが分かる。何と情けないことか。

 その時、「パチンっ。」と、最上の指が鳴り、皆がビックリして最上を見つめた。

 「さて、自己紹介はそれくらいにして。まずは三ツ星君、お茶を準備してもらえるかな。」

 突然の最上の指示に、僕は困惑する。この部屋に来て、お茶など淹れたことは一度も無い。いつも何処からともなく、最上が魔法のように用意しているではないか。

 「お茶…ですか。」

 指示の確認の意味も含めて、最上の顔を見ると、最上は何も言わずに、顎でキッチンの方を指した。

 「了解しました。」顎で使われるのは癪だが、仕方がない。お茶ぐらい淹れてやろうじゃないか。立ち上がって、ダイニングテーブルのすぐ後ろにある、カウンターキッチンへ向かう。白と黒のモノトーン調で統一されたキッチンはとてもスタイリッシュだ、だが全く使われた形跡がない。

キッチンに足を踏み入れたとたん、僕は「あっ、」と思わず声を出してしまった。もう既に、4人分のティーカップと、紅茶の入ったティーポットが僕を待ち構えていたからだ。最上がさっき、指を鳴らしたのは、これを用意する為だったに違いない。

 その時、ある考えが頭に浮かんだ。僕も死神になったんだから、最上と同じことが出来るはずだ。

 僕は試しに、紅茶に会うケーキを出してみることに決めた。目を閉じて、紅茶に合うケーキを思い浮かべる。柔らかくしっとりとしたシフォンケーキが思い浮かんだ。ついでにたっぷりの生クリームを添えて…、イメージを膨らませたところで、思い切り右手の親指と中指を擦った。

 最上のような、綺麗な音ではなく、カスカスの不発音が鳴った。淡い期待を込めて薄目を開けると、予想通り、ケーキは何処にも見当たらなかった。

 その代わり、海風姉妹からの訝るような視線が、痛いほど感じられ、僕は恥ずかしくなってキッチンの奥に一度消えてから、何事もなかったかのように、最上が用意したティーセットをお盆に載せて、テーブルに戻った。

 美波が小さな声で、「早くない。」と呟いたことは、聞かなかったことにして。それぞれの席にソーサーにのせたティーカップを置き、ティーポットから紅茶を注いだ。

 「冷めないうちにどうぞ、暑い時に、熱い紅茶を飲む事で心を落ち着かせることが出来るとか、出来ないとか。真偽は分かりませんが、味は保証します。」

 最上は、女性に対してかなり気が利いているように見える。実際に、海風姉妹は一口紅茶を飲むと、「美味しい。」と、少し目を大きくして顔を見合わせていた。そして、どこかちぐはぐに見えた二人の温度差が、少しずつ近づいていくように思えた。

 「今日お邪魔させて頂いたのは、私たちの父のことを、調べて頂きたいからなんです。」

 美月さんが、ゆっくりと自分自身でも確認するように話し始める。

 「そもそも、私たちの父親は自由奔放で、私たちも、どんな仕事をしているのかさえ、ろくに知りません。小さい時は、気紛れに帰ってきては、お小遣いや玩具をくれて、年に数回逢う親戚の小父さんのような存在でした。」

 美波は、姉の話に耳を傾けながら、真剣な面持ちで、たまに相槌を打っている。

 「そんな父親でしたので、私達を育てるのに、母はかなり苦労していました。収入も安定しない父親に代わり、母は大きな声では言えないような仕事もしていて、家族の時間と呼べるものは私達には、数える程しかありません。」

 「でも、何故か母は、一度も父のことを悪く言わないんです。」

 「あの人は、ただ不器用なだけだ、あなた達への愛情はちゃんと持っているけど、それを上手く表せないだけなんだ。って、だから嫌いにならないであげて。って、いつも口癖のように話していました。」

 「そして母は、二ヶ月前に突然、亡くなりました。」

 話を引き継ぐ形で、今度は美波が話を始める。僕はと言えば、今の話に衝撃を受け絶句していた。美波の両親の話は、あまり聞いたことがなかったし、まさか母親が亡くなっていたなんて。

 「母の死因は、雲膜下出血でした。パート先のスーパーで突然倒れて、そのまま息を引き取ったんです。スーパーの方たちの話だと、レジで女性のお客さんと楽しそうに話をしている最中に、突然倒れたそうです。あんな簡単に人間って死んでしまうんですね。って泣きながら話してくれたお店の人の言葉が今でも忘れられません。」

 「父は、何処から話を聞いたのかすぐに帰ってきました。私たちも連絡先を知らないので、未だに誰から聞いたのか…。父は帰ってくるなり、私たちに向かってこう言ったんです。」

 「安心しろ、お前たちの面倒は、これから俺がちゃんとするから、お前たちの今まで生活は、これからも変えなくていいから。」

 美波は、ここで少し間を取った。テーブルの上に置かれた手の平が、静かに力強く握り締められていくのを、僕は見てしまった。

 「今まで、散々好き勝手迷惑掛けておいて、心配するなって言ったんですよ。それに…、これからの生活が何も変わらない訳ないじゃないですか、私たちにとっては、母が唯一の肉親だと思っていたんです。その母がいなくなったって言うのに…。」

 美波は、そこで悔しそうに下唇を噛んだ。

 「それから父は、度々帰ってくるようになりました。」今度は、美月さんが引き継ぐ。

 「勿論、私たちは父を受け入れたわけではないので、会話はほとんどありません。ただ週に一度程度、ふらっと現れては、テーブルにお金を置いて、気が付けばいなくなっている、今は、そんな程度の関係です。」

 「生活は、父が置いて行ってくれるお金で、問題なく過ごせているのですが、私たちとしては、この状況を受け入れざるおえないのが悔しくて…。」

 「それで…。」静かに聞いていた最上が、そこでいきなり割って入った。

 「あなた達家族のストーリーは、大体分かりました。ただ、あなた達が私に何を求めているかは見えてきません。つまりは、我々は何をすればいいんでしょうか?」

「あの人の、浮気調査です。」最上の言葉が終わらないうちに、美波がきっぱりと声に出した。

 「ほう、失礼しました。話の続きを聞きましょう。」

何故か、満足げな表情を浮かべる最上を横目に、話は先へ進む。


「私たちの、悲しみや戸惑いも冷めないうちに、もう一つの不幸がまた、突然起こりました。」美月さんは、そこで言葉を区切り、美波に視線を移した。

「美波のお付き合いしている男性が、交通事故で亡くなったんです。」

ゴクリ。と、唾を飲み込む音が鳴り、僕は二、三度軽く咳をした。まさかここで自分が登場するとは思っていなかった。気まずい思いで美波を見ると、彼女は何故か、挑むような視線を僕に投げてよこしてきた。僕は、その視線を受け止めきれずに、すぐに視線を伏せる。

「美波のお付き合いしていた男性は、ヒカルさんといって、美波と同じ商業施設で働いている方でした。その日は、彼の誕生日で、美波の仕事終わりに会う約束をしていたそうです。でも、約束の時間を過ぎても来なくて…。」美月さんは、そこでまた美波を見た。

 「ヒカルが、時間を守らなかったことは、それが最初で最後です。」美波が静かにまた、話始める。

 「あの日は、ヒカルの二十歳の誕生日で、一緒に祝おうって話してたんです。でも、ヒカルがまずはお母さんと家族の話をしたいって。ヒカルは、お父さんの事知らなくて、だからこの機会に、お母さんに話してみたいって。だから、その後に必ず会おうって話してたんです。それにその日は、どうしてもって、無理やり店長にバイトを入れられていたので閉店までお店にいたんです。連絡は、バイトが終わる少し前にしか出来ませんでした。そしたら、バイト終わりに駅の近くの公園で会おうって事になって、そこで待ってたんだけど、全然来なくて。」

 「失礼なことを言うが、君は高校生だろう。あそこのイオンは22時閉店のはずだ。いくらなんでも、女子高生をそんな時間まで働かせていいものなのか?」意外にも、常識的なことを聞く最上に、僕は少し驚く。

 「本当はいけないんですが、家庭の事情もあって無理にお願いしていたんです。だからその分、店長の無理な願いも聞かなきゃいけない状況でした。それに、大体はヒカルと出勤日は合わせていたので、一人で帰ることはほとんどなくて、だから姉も、認めてくれて。」

 僕は、事情を知っていたので、自然と何度も深く頷いてしまった。すると、最上の鋭く冷たい視線が一瞬、僕を射抜いてハッとする。僕はもう、桜木ヒカルではないのだ。

 「一時間以上経っても妹が帰って来なくて、心配にになって電話を掛けたんです。そしたら、美波がすごく取り乱してて。その声を聞いた私も、パニクッちゃって。そしたら、その日たまたま帰ってきてた父が、車ですぐに迎えに行こうって言ってくれたんです。」

 「約束の時間を三十分ぐらい過ぎた頃でした。ラインも既読にならないし、電話も繋がらないし、でも、電車を一本乗り過ごしたのかなって思っていたんです。そしたら、ヒカルの携帯から電話が掛かってきて、取ったら警察の人だったんです。警察のものですが、この携帯電話の持ち主の名前は分かりますか?って、聞かれて。それから、私の名前とか、どんな関係なのかとか、色々聞かれました。意味が分からなくて、いったいヒカルはどうしたんですか?って聞いたら。交通事故で重体だって言われました。」

 美波の鼻を啜る音に視線を上げると、美波は静かに泣いていた。頬を通る涙を拭うこともせず、その雫はポタポタと、綺麗な顎のラインを下って落ちていく。

 「警察の電話を切ってすぐに、お姉ちゃんから電話が掛かってきました。何を話したのか、思い出せないけど、今から車で来てくれることになって。でも、公園でじっとしていられなくて、イオンの駐車場で待ち合わせることにして、それで…。」

 沈黙が流れた。美波の涙が落ちる音が聞こえてきそうなほど、僕にとっては、長く静かな沈黙だった。

 「なんとか合流して、警察から聞いた病院に着いたときにはもう…。」

 「ヒカルさんは、亡くなっていたんですね。」僕は、黙っていることが出来ずに話をすることに決めた。ヒカルは、過去の自分であって、黙って話を聞いていると頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。

 「それで、ヒカルさんの死と、お父さんの浮気との因果関係は何なんでしょうか。」

 隣でほくそ笑む最上は、とりあえず無視して、探偵の真似事のような質問を投げる。

 「それは…。」ここまで話しておいて、美月さんは言い悩んでいるようで、不安な面持ちで美波を見つめている。

 「あの男は、ヒカルのお母さんを知っていたんです。」

 今にも爆発しそうな怒りを、必死に抑えるように、歯を食いしばりながら、美波は何とか言葉を口に出した。

 「私は、母と姉以外に、ヒカルの存在を話していないんです。なのに、お葬式の日、あの男は、教えもしていないのに、ヒカルの家まで私を車で送ってくれました。その時は、あまり気にしていなかったんですが、その数日後、姉が偶然、あの男とヒカルのお母さんが一緒にいるところを目撃したんです。」

 そこまで一息で、言い切ってから、美波はまた静かになった。つられて僕も静かになった。静かになったというよりは、あまりの驚きに声が出なかったというほうが正しい。僕も、凜からそんな男の存在は、一度も聞いたことがない。

 「私が見たのは…。」

 そんな僕の心情を知るわけもなく、美月さんが話の続きを話し始める。。

 「あの日は、確かお葬式の2日後だったと思います。たまたまヒカルさんのお家の近くにある病院で、研修があったんです。その病院は駅からも近くて、私はその病院に、歩いて向かう途中でした。そこで男女が口論しながら歩いているところを見たんです。私とは反対側の歩道から声が聞こえてきて、何気なく見て驚きました。それが、私たちの父と、ヒカルさんのお母さんだったんです。」

 「それは、確かにその二人だったんですか。」

 上ずった声を何とか絞り出し、見間違いであって欲しい思いで、美月さんに確認する。

 「あれは間違いないと思います。私たちの父は、独特で…見れば間違いようがないんです。それに、ヒカルさんのお母さんも、かなりの美人さんで、間違えることはないと思います。それがその時に撮った写真です。」

 美月さんは、テーブルに置いていたスマートフォンを操作して、その時撮った画像を表示させ、僕らの前に置いた。その画面には、最上が見せてくれた、僕の葬儀の時に来ていたアロハシャツの場違いな男と、凜が写っていた。この組み合わせは、確かに間違いようがない。

 「父は年甲斐もなく、この季節はアロハシャツしか着ないんです。それに見て分かるように、個性的ですので間違いようがないんです。」

 すると、スマートフォンを凝視している最上が呟いた。

 「隣の女性もかなりの美人だ。美月さんが言うように、この女性は一度見たら印象に残りますし、間違いようもないですね。」

 「はい。私もそう思います。」

 最上からの助け舟に安心したのか、美月さんは、ホット胸を撫で下ろし、スマートフォンを元の位置に戻した。

 「ただ…、一緒にいたからといって、浮気をしているかどうかまでは分かりませんよね?」

 「それを調べてもらう為にここに来たんです。」

 美波は、勢いよく両手をテーブルに叩きつけ、叫びながら立ち上がった。僕は、その迫力に押されて、少しだけ仰け反って美波を見上げた。

 「口コミで、ここはどんな依頼でも受けてもらえると聞いていたのですが、本当のところはどうなんですか?お金だって、多くはありませんが、お支払いできる準備だってしています。」

 美波は、挑むように、最上を睨みつけている。

 「ちょっと、そんなお願いの仕方は失礼でしょ。落ち着いて座って。」

美月さんは、困った顔をして妹を窘める。しかし、それが逆に美波の怒りを逆なでしたようだ。

「お姉ちゃんは、いっつもそう。納得してないのに受け入れた振りして、あやふやなままでも平気で毎日を過ごしてる。あの男のことを、父親って呼んでるのがその証拠、悔しくないわけ?あの男、お母さん死んで間もないのに、女の人とヘラヘラしてるんだよ?しかも私の死んだ彼氏の母親とだよ。私からしたら、冷静でいられるほうが不自然だよ。私は、お姉ちゃんみたいに、上手く自分に嘘を付いて生きていけるほど、大人でもなければ、器用でもないのよ。」

「勿論、依頼はお受けいたします。」

「えっ。」

喚く美波の息つく間を、最上は絶妙のタイミングで埋めた。圧倒されていた僕も、妹の口撃に戸惑いを隠せない美月さんも、心の赴くまま叫んでいた美波でさえも、一瞬固まって最上を見つめた。

三人の視線を甘んじて受けた最上は、話を続ける。

「浮気調査、確かに承ります。しかし、私は今、非常に忙しいんです。なので、担当は、こちらの、三ツ星光が担当いたします。」

突然のご使命に、僕は目を丸くする。そして、二人の視線が僕に注がれるのを肌で感じた。

「この人って、今日入ったばかりなんですよね?」以外にも、美月さんが疑いの声を上げた。

「仰る通りです。」最上はあっさり認める。

「しかし、私が認めた優秀なパートナーです。働きに関して、この私が保証しましょう。それに、料金は無料で結構です。」

「タダでいいんですか?」今度は美波が、前のめりに驚いた声を上げる。

「ええ、構いません。この調査にかかわる費用は、全てこちらで負担することを約束しましょう。私としても、この男の力量を図るいい機会になりますし。」

最上は立ち上がり、何処にあったのか分からない黒のビジネス鞄の中から、A4のクリアファイルを取り出し、そこから紙を一枚抜取って、美波の前に置いた。

「さほどの内容で、問題がなければここにサインを。」胸ポケットから、黒の万年筆を取り出し、紙の隣にそっと置く。紙の内容を除き見ると、『契約書』と書かれており、先ほど最上が、話した内容と同じような文章が綴られていて、下のほうに、日付と名前を書く欄が設けられていた。

「分かりました。お願いします。」

美波はストンっと椅子に腰を下ろし、美月のほうを見ることもなく、万年筆を取り、可愛い丸文字で今日の日付と、名前を書き込んでいく。

「ちなみに、これはただ単に私の興味の話なんだが。」

最上は、美波と僕の真ん中あたりに立ち、美波がペンを走らせているのを見ながら尋ねる。

「なんですか?」

「あなた達のお父様が、浮気をしていたとして。あなた達はその後、彼をどうするつもりですか?」

最上の問いかけが終わるのと同時に、名前を書き終えた美波は、万年筆をテーブルに置いた。

「別に何もしないです。」

契約書を、両手で持ち、最上に文字が向くように紙を回して、美波は最上にそれを渡す。

「ただ、父親だと認めないってことが確定するだけです。」

「では、浮気ではなかったらどうする?」

最上は、受取った契約書にさっと目を通し、A4ファイルにしまいながら尋ねる。

「それは、その時に考えます。」

1秒も考えることなく、美波はそう答えた。

「その質問の答えを、今の私は持ち合わせていないので。」

「なるほど、実に興味深い。」

最上は、そう言って、契約書が入ったファイルを、僕の目の前に置いた。

「さて、今日はこれくらいにしておきましょう。もう夜も遅い、魅力的な女性の貴重な時間を、これ以上私たちに費やすのは、あまりに不合理と言うものだ。」

「本当だ、もう22時過ぎてる。」美月さんが、スマートフォンの時計を見て呟いた。

「僕、近くまで送りますよ。」

僕と、美月さんと美波は、立ち上がり玄関に向かい歩き出した。

「それでは、三ツ星君。後は頼む。お二人とも、お会いできて良かった。良い夜をお過ごし下さい。」最上は、そう言って深々としたお辞儀をすると、奥の部屋へと姿を消した。

3人で、エレベーターに乗り、エントランスをくぐると、真っ暗な夜が僕らを向かえた。昼間の太陽が残していった暑さを、夜がジメジメとした熱帯夜に変えている。クーラーの恩恵が無くなっただけで、体が一気に悲鳴を上げる。

「私の車、すぐ近くの駐車場にあるので、ここで大丈夫です。」

「そうですか…。」

不快な心を読み取られた気がして、僕は、苦笑いをして足を止めた。

「あの、これ。」

美波は、赤いリュックを背中から下ろし、中からメモ帳のようなものを取り出すと、なにやら書き込んで僕の手に渡した。

「私の携帯番号です。明日また連絡しますので。登録しておいて下さい。」

「あっ、僕の連絡先…。」

「いただいた名刺に書いてあったので大丈夫です。では、有難うございました。」

「お姉ちゃん、帰ろう。」

美波は、僕と美月さんを置いて、スタスタと夜の闇を進んでいく。

「ちょっと、待ちなさいよ。美波ったら。」

美月さんは、慌てて僕に一礼すると、小走りで妹の背中を追って行ってしまった。二人の背中が見えなくなるまで見送ると、クーラーの恩恵を再び受ける為に、僕はエントランスへと歩き出した。



「今夜も、なかなか綺麗な満月ではないか。」

部屋に戻ると、最上がキッチンから顔を出した。美月さんたちを見送っただけのこの短時間で、ダイニングテーブルには数々の料理が並んでいる。

キッチンからお盆に2つのワイングラスとワインのボトルを載せて現れた最上は、なんとエプロンを付けていた。それでいて無表情なものだから、そのあまりのギャップに、僕はつい噴出してしまう。

「何を笑っているのだ。君の初仕事を祝ってやろうとしているのだぞ。」

コースターの上にワイングラスを並べ、エプロンを付けたまま、最上はカウンターキッチンを背に腰掛けた。

「すいません。サプライズって言葉があまりにも似合わなかったものでつい。」

僕も、最上の対面の席に座る。すると、最上が早速、僕のワイングラスに赤ワインを注いでくれた。

「とりあえず、初契約おめでとう。これで君も正式に死神の道を歩みだしたことになる。」最上のグラスにワインを注ごうと、ボトルに伸ばした手を遮って、最上は自分で自分のグラスに少量のワインを注いだ。

「気持ちは有り難いが、私にはそういった気遣いは無用だ。」そう言って最上は、右手にグラスを持ち、僕を見た。

「死神には、人間社会の礼儀は不要ってことですかね。」僕もグラスを掲げる。

「そういうことだ。さすが、私が見込んだ人材だ。飲み込みが早い。」

「では、君の新しい門出に、乾杯だ。」

「有難うございます。」

僕たちは、軽くグラスを合わせて、ワインを一口飲み込んだ。

「実は僕、ワイン飲むの初めてなんですよ。想像していた味と全然違います。」

「それで、感想は?」

「正直言って、あんまり美味しくないです。」

「その正直なところが、君の長所だ。私もワインには詳しくないからな、これが美味いのか不味いのか、私はどちらでも構わない。」

「最上さんって、変わってますよね。いつも無表情だし、言葉の抑揚も少ないから、逆に心が読めないっていうか、何考えてるか分からないっていうか…。だから、探りようがないんですよ。嘘も絶対通用しない感じするし。」

「死神の心については、後で詳しく説明するとして、まずは食べよう。」

テーブルに並んだ料理を見て、僕は眉根を寄せた。ハンバーグに、唐揚げにエビフライ、並んでいる料理のラインナップは、所謂パーティー料理で、若者が好きな揚げ物や肉料理だ。

それだけなら何の違和感も無いのだが…。

「これって、全部手作りですよね?」

「手作りだと、何か問題があるのか?」

「いや、別に無いですけど、こんな短時間でどうやって用意したんですか?」

「そんな細かいことを今話す必要は無いだろう?理由は単純明快だ、料理には愛がこもると言うではないか、我々には中々表現が難しい感情の一つが愛だ。これは確かに私が作ったものではないが、私なりの表現の具現化だと解釈してくれればいいだろう。」

そう言った最上は、唐揚げを素手で一つ摘み口に入れた。

「うん、味は保証しよう。君の口には必ず合う。」

「僕にはあなたが、魔法使いに見えますよ。いただきます。」

最上の言う通り、料理はとても美味しかった。出前やコンビニ、ファストフードのような無機質な美味しさではなく、まるで母が作ってくれた料理を食べているような、ぬくもりと優しさが食べる度に内側に積もってゆくような。最上の言うように、料理には愛情が最高の隠し味なのかもしれない。

「君が酔っ払ってしまわないうちに言っておくが、体に何らかの変化があったら、逐一私に報告してくれ。君は初めての人間出身の死神だ、データ収集も兼ねて、君の体調管理も私の大事な仕事の一部だからね。」

先ほど口に入れたから揚げを、一瞬で飲み込んだ最上は、一口だけ飲んだワイングラスを脇に退け、組んだ手の上に顎をのせている。その姿があまりにも現実離れしているように見えて、僕は思わず咀嚼していた口の動きを止めた。こんな風に、人に目を奪われるのは二度目だった。

一度目は母の凜だ。マザコンだと罵られようが、事実なのだから仕方が無い。人は美しいものに射抜かれた時、そこに流れる時間は止まる。誰が何と言おうと、選ばれた人間には、無意識なのか意識的になのかは知らないが、そういう特殊能力が備わっているのだ。

そして、彼はまさに今、僕の時間を止めているに違いない。無論、最上は死神なのだから、凜と一緒にしてはいけないのだろうけど、きっと同じ部類の生き物に分類出来るはずだ。

「彼女たちの話を聞いてどう思った。」

僕の時間が、再び息を吹き返して、僕は食事の続きを噛み始める。ハンバーグから肉汁が染み出し、肉の旨味が口の中に広がるのを感じる。

「どう思ったって言われると…、ただただビックリしました。」

少量のワインを口に含み、肉と一緒に飲み込んだ、肉汁とワインが混ざり合い、ワイン独特の苦味と渋みが和らぎ、飲み易さが増したように感じた。やはり肉には赤ワインが合うというのは本当だった。と自己完結する。

「美波さんが、前の僕の彼女だってことは…?」

「生前の君のことも、ある程度調べているからな、それくらいは知っている。」

それを聞いて、僕は何度も軽く頷く。

「まず、美波の母親が亡くなっていたなんて知りませんでした。亡くなった後も一ヶ月は一緒にいたはずなのに、僕は何にも気が付きませんでした。父親のことだってそうです。家族の話は、僕も意図的に避けていましたから、知らないほうが当たり前かもしれないけど…、でも、僕はなんにも気付いてあげられませんでした。あんなに怒る彼女を見たのも初めてです。正直悪夢でしたよ。挙句の果てには、浮気相手候補に、僕の母親が出てきましたからね。開いた口が塞がらなくて、息するのも忘れるくらい驚きましたよ。」

改めて、美波たちの父親の容姿を思い浮かべる。色黒の肌にオールバックの髪型、そしてアロハシャツ…。凜と一緒に歩いている姿さえ想像が出来ない。

「その割には、冷静に話していたように見えたがな。現に今君は、何事もなかったように食事をしている。」

「顔も体も変わったんで、心も変わっちゃたんですかね。確かに、あの時はショックで驚いて、思考停止状態でしたけど。今は不思議と、なんとも思ってないですね。むしろ何でも知ってたなんて思ってた自分にムカついてますよ。誰だって人に見せたくない一面や二面があって当然じゃないですか。それを知らなかったからって、ショックを受けたり絶望するのは、あまりにも自分勝手かな…なんて思ったり。」

皿に残っていたエビフライの尻尾を口に放り込む。ザクザクと尻尾を噛み砕きながら、今の自分の言葉を頭の中で繰り返す。変な話だが、さっきの自分の言葉が持つ説得力に、自分自身が共感していた。それに、僕はいつからこんなにサバサバした人間に成ったのだろうか?そう自問自答してすぐに答えが見つかった。

そうか、僕はもう人間ではないのだ。

「なるほど、君は私が思っていたよりも適応力がありそうで安心した。この仕事は、嫌でも人の死に触れる。感情で生きていた人間がベースの君に、この仕事が務まるのか、正直心配していたんだが、何とかなりそうだ。」

最上の口から、【死】という言葉が出たとたん、僕の心が激しく揺れた。ゆっくりと口の中の物を飲み込み、箸を置いて最上をまっすぐ見る。

「まさか、あの二人のうちのどちらかが死ぬってことですか。」

彼女たちの話を聞いて、父親の浮気調査が仕事だと、勘違いしていたことに僕は気が付いた。これは死神としての仕事だ、それが何を意味するのか、自分の覚悟のなさに、ほとほと嫌気がさす。

「彼女たちのどちらかかもしれないし、その父親かもしれない。今の時点では分からないが、この仕事に関わる誰かであることは間違いない。必ず誰かは死ぬ。」

「その誰か見付けるのも仕事の内ってわけですか?」

「その通りだ。」

「でもどうやって…。」

見つけ方が分からない。浮気調査をしながら、これから死ぬ予定の人間を探すなど出来るとは思えない。それとも死ぬ人間を見分けられる機能が死神には備わっているのだろうか。

「ゼロから見つけ出すなんて不可能に近い。大丈夫だ、これが助けてくれる。」

最上が握っているのはスマホだ。ライフと呼ばれるそのスマホを、僕も胸ポケットから取り出して眺めた。改めて見ても、普通のスマートフォンにしか見えないが、裏返してみて、初めて1つだけ違いに気が付いた。

スマホの裏にロゴマークのようなアイコンが付いていて、それが、僕が良く知るかじられたリンゴではなく、バナナだったのだ。誰もが良く知るリンゴの代わりに、バナナ3本が1房になっているアイコンが付いている。なかなかユーモアがあって可愛らしい。

「調度良い、ライフの役割と使い方について、詳しく説明することとしよう。」



夜のドライブは嫌いだ。

姉の運転する車の助手席に乗り、私は頬杖を付きながら、流れていく夜の街を眺めている。人工的なネオンで着飾った街の色が、瞳に映っては消えて、車は順調に家への道程を進んでいく。

「噂は本当だったわね。」

沈黙に耐えかねたのか、姉が口を開く。

「それにしても、美波から話を聞いた時はビックリしたわよ。今から噂の探偵に会いに行く、だなんて…。」

大通りを左折して、片側一車線の細い道に入り、交差点の赤信号で止まる。夜も遅いからか。私たち以外に車は見当たらない。

「お姉ちゃんはさ、信号無視とかしないよね。」

「いきなり何言い出すのよ、当たり前のことでしょ。」

「今はさ、私たち以外誰もいないじゃん。赤信号だからって律儀に止まる理由ってなんだろうって思ったりしないの。」

「思わないわよ。赤信号は止まれって、幼稚園児でも知ってるルールでしょ。その他に理由って必要?」

想像した通りの答えが返ってきて、私は鼻で笑いそうになるのをぐっと堪える。「あぁ、やっぱり、お姉ちゃんはお姉ちゃんだ。」と、頭の中で呟き、私はまた黙って窓の外を眺める。

「なんで黙っちゃうかなぁ…。」姉の呟きが終わらないうちに、信号が青に変わり、ゆっくりとタイヤが回り、また外の世界が流れ始める。

私は、ついさっき訪れていた探偵事務所のことを思い返していた。『何でも屋』という名前の、恐ろしく綺麗な顔立ちの紳士がやっている探偵事務所。巷では都市伝説と化し、姉が言うように噂なっていた。

イケメンな紳士が、ほぼ一ヶ月できっちり依頼を完遂するという。しかも、依頼内容は文字通り何でも受けてくれるらしく、相場はイケメン紳士の気分次第で、基本的には格安だという、なんとも具体的な都市伝説が、現実となって目の前に現れた。

きっかけは、あの男だ。

お母さんがいなくなって、数ヶ月もしないうちに、私にとって最愛の人まで永遠に会えない存在となったあの日。私の心はきっと、修復が不可能なまでにグチャグチャに握り潰されていたに違いない。

今思い返してみても、あの時の記憶は曖昧で、どうやって毎日を消化していたのかさえ、自分自身でも説明が出来ない。

そんな時に、姉から聞いた、あの男の浮気疑惑。私の心は再びグチャグチャに掻き回され、あの男への疑念という一点だけで、収束した。

私は、生まれて初めて、家捜しをするために、家からふらっと出て行くあの男をつけた。

そしてあの男が、私の家から歩いて10分程のところに、アパートを借りて生活をしていることを知った。

そしてある日のこと、何の理由があったのかは覚えていないが、私は家捜しを実行に移した。

ふらっと家から近所にあるコンビニに、肉まんを買いに行った帰り道。何故だか、その時ならあの男のアパートに忍び込めるような気になって、自然と足が向いたのだ。

コンビニがある方向が、たまたまあの男のアパートに近かったからかもしれない。単なる気紛れな虫の知らせだったのかも知れない。まぁなんにせよ、その何の気なしの思いつきの行動で、私はあの男のアパートに忍び込むことに成功した。

理由は単純に、窓の鍵が開いていたからだ。初夏の蝉が鳴き始めた頃だったから、単純に開けていた窓の戸締りを忘れただけだろうが、そのおかげで、私はあの男のアパートに忍び込み、念願の家捜しを果たした。

どうにかして、姉の言う浮気の真相を突き止めようと、躍起になって探した結果、見つけたのが、『何でも屋』と書かれた、最上の名刺だった。

~何でもいいから、相談してみろ~の文句と、最上の神と書いてモガミ・ジンと読む、冗談みたいな名前まで。嘘みたいな名刺に、見つけたとき失笑したことを思い出す。

しかし、信じて実際に来てみれば、噂は本当だった。

イケメン紳士は、ちゃんと存在した。しかも、今日から雇ったアシスタントの男性に、イオンで遭遇していたなんてオマケ付きで…。

その人は、イオンで絶望していたように見えた。その男性、光さんの背中と、彼氏だったヒカルの顔が頭の中に過ぎる。名前が動詞か名詞かの違い、でもイケメン度合いは全然違う二人。(私は、ヒカルの顔のほうが好きだけど、一般論で言うと、光さんはかなりのイケメンだ。) 

きっと、何もかも違う二人だけど、何処となく空気感が似ている気がして、探偵事務所では取り乱してしまい、今思い返すと、言わなくてもいいようなことまで、話してしまったような気がする。

何はともあれ、出来ることはやったつもりだ。あとは都市伝説を信じて任せよう。そう自己完結をしていると、車はビル街を抜けた。背の高いビルがなくなって、車の窓から見上げられる夜空が広くなり、ぼんやりと見上げていた私の目と、人工でない真ん丸の自然の灯りとで目が合った。

煌々と輝く、今夜は満月だ。

ヒカルが好きだった月、ヒカルが死んだ日に輝いていた月。

そう言えば、光さんとは、出会いの月になるのか。なんて考えていたら、無意識に視界がぼやけ、満月の輪郭が滲んだ。

下まつげに溜まった涙が零れる前に、お姉ちゃんに気が付かれる前に、ゆっくりと瞼を閉じ、欠伸をする振りをして、目尻をゴシゴシと拭いながら横目で姉を見ると、姉はハンドルを握り、何気ない顔をしながら鼻歌を歌っていた。

私が知っている姉の癖。気不味い空間で、姉が出来る身を守る術。

姉は、自分から他人の領域に踏み込むことを極度に嫌う。だから、気不味い沈黙が続くときや、自分ではどうすることも出来ないとき、いつも決まって鼻歌を歌うのだ。

歌う歌もいつも同じ、懐かしい気がするけど、お姉ちゃん以外が歌っているところを聴いたことがない歌。

昔一度、誰の歌か聞いた時に、「帳(とばり)」という人の歌だよ、と教えてくれたけれど、売れていないインディーズの歌手なのだろうか、その帳を、私は一度も見たことがない。

耳慣れたメロディーに、耳を傾けていると、さっき少しだけ落ち込んだ気持ちが、幾分か和らいだ気がした。そして、姉への素直な気持ちが沸いて出てきた。

私は姉のことを、古きよき時代の女性そのものだ、と思っている。いつも人より一歩引いたところで物事を見ていて、ルールや規律を重んじて、控えめで人の話を聞ける人だ、そしてそれを尊重して、思いやることが出来る人だ。

はたから見たら、臆病で、気が小さい人に見えるかもしれないが、意外と芯が太く、嘘が通用しないのが、姉の美月だ。

それなのに、あの男に対しての態度は、私の知っている姉とかけ離れている。それが許せなくて、さっきは怒鳴ってしまった。

「さっきは、酷い事言ってごめん。」

満月を見ながら、姉の鼻歌を聴いていると、自然と素直な言葉を口に出していた。

「あら、どうしたの急に。」

それほど驚いていない声を出して、姉が鼻歌をやめる。

「なんとなくよ、なんとなく。」

相変わらず、私は姉のほうを見ることなく、満月に話しかけるように呟く。

「そうねぇ、まず、さっきって言うのはいつの話?」

ハンドルを大きく左に切って、車は大きく左折する。

「はぁっ。」

姉の言葉に、驚いてしまったのは、私のほうだった。カーブの遠心力に耐えながら、思わず姉を見る。

「心当たりが、色々ありすぎちゃってねぇ…。」

そう言ってまた、鼻歌を歌いながら、姉は含み笑いを浮かべている。

「もう、からかわないでよね。さっき、あの探偵事務所で話してるとき、私が二人の前で、お姉ちゃんのこと、悪く言っちゃったでしょ。そのさっきよ。」

「あぁ、そのさっきね。」

ゆっくりとブレーキが踏まれ、車はまた、赤信号で静かに止まる。

「別に、謝らなくていいわよ。だって、美波は間違ったことを言ったわけじゃないでしょう。」

姉の顔には、さっきの含み笑いがまだ残っていた。でも、さっきみたいな柔らかな笑顔ではなく、自虐して自分を蔑むような笑顔が、そこにはあった。

「私にはね、誰もいないこの道で、赤信号を無視して進む勇気がないの。正しいことを、正しく守ることしか出来ないのが私。お父さんのこともそう、受け入れるしか私には選択肢が無いのよ…。」

美しい満月が浮かぶ夜空の下、車通りも人通りもない一本道の途中で、律儀に赤信号で止まっている車を、もし空の上から眺めることが出来たなら。私はそれを、馬鹿らしいと笑い飛ばすだろうか。それとも馬鹿正直で素晴らしい行いだと、感心するだろうか。

自問自答して、すぐに答えが見つかり、私は私のことを少しだけ嫌いになった。

「謝って損した。やっぱり忘れて。」

赤信号が、青に変わり。車がゆっくりと、家路へと進む残りわずかな時間。姉の口からあの鼻歌が聴こえてくる事はなかった。



オレンジ色に輝いていた満月が、いつの間にか白銀に色を変え、少しずつ闇を濃くして夜を昇って行く。

最上からの死神に関する講義は、実に2時間以上かかった。真夜中になり、日も変わったころ、昼間に目覚めたベッドに寝そべりながら、僕はライフと呼ばれるスマホを眺めていた。

最上が言うには、死神は眠る必要がないらしく、彼の言葉通り夜が更けてきても眠気は一切感じない。だがさすがに少し疲れたようで、ふかふかのベッドに包み込まれる感覚は、とても気持ちが良かった。

真っ黒な画面を眺め、手触りで質感を確かめてみる、滑らかでひんやりとした、金属なのか樹脂なのか分からないが、よく知っている肌触りで、丸みを帯びた側面には、右側に1つ、左側に2つボタンが付いていた。さらに、左のボタンの上には、消音モードオン・オフの切り替えスイッチも付いている。

どこからどう見ても、生前僕が使っていたスマホと違いが無い。唯一の違いは、背面のロゴマークが、リンゴじゃなくてバナナであることぐらいだ。

右側に付いているボタンを親指で押すと、真っ黒だった液晶画面が、花が開くようにパッと明るくなる。デスクと一体型の棚から照らすランダムな間接照明しか付いていなかった薄暗い部屋だったので、突然の明るい光に、僕は目を細めた。

薄めで見たスマホの画面には、砂漠の丘に満点の星空が広がる壁紙を背景に、四角いラインのアイコンが1つだけ、星空に浮かぶように表示されていた。

更に画面を良く見ると、下方の丸いボタンの真上に4つのアイコンがあった。

緑地に白、受話器マークの電話ボタンと、灰色地にカメラマークのカメラボタン、これまた灰色地に丸いギアのようなマークの設定ボタンと、見慣れた3つアイコンが規則正しく並んでいて、そしてその横に、白地に¥マークの始めてみるアイコンがあった。

興味本位に、その¥マークを親指で押すと、画面がまた黒く染まり、その中央付近に「残高100,000円」の表示が浮かび、そのすぐ下に、「使用履歴なし」の文字が光っていた。

最上の講義の記憶を手繰り寄せる。

「依頼に関わる費用は、このライフの中に入っている。今は電子マネー、キャッシュレスの時代だからな。ライフに入っている金は自由に使える。ただし、補充は無いから使い過ぎるなよ。」最上の言葉を思い出してから、もう一度画面の数字に目を向ける。すると不思議なことに、さっきまでただの数字でしかなかった100,000が、いきなりお金として認識され、少しだけ胸がソワソワし出した。

「このお金、もし余ったら、好きに使えるのかな…。」そんな、下種な期待が頭を過ぎり、死神になっても、人間の欲深さがなくなっていない自分に少しだけ絶望して、死神だろうが人間となんら変わらないのだなと、自分を皮肉って鼻で笑った。

それから、次にラインのアイコンをタップすると、ホーム画面の友だち表示が『1』になっていて、誰だろうとタップすると、なんて事のない、最上の名前が表示された。

「最上神」漢字で書かれている文字を見て、最上の神とは、冗談みたいな名前だなと、少し笑った。

さすがに、最上にラインを送る気にはなれず、今度は電話のアイコンをタップすると予想通り、電話帳には、最上の名前だけが表示されていた。

生前のスマホには、何人登録がされていたっけ?決して友達や知り合いが多いわけではなかったが、50人ぐらいは入っていたはずだ。

登録者数が1人になっただけで、こんなにも惨めで心細く、情けない気持ちになるなんて知らなかった。スマホは、気が付いていないだけで、ただの機械ではなくて、誰かと繋がっていることを証明する、見えない糸なのだ。今は、その糸は最上としか繋がっていない、それはすなわち、最上しか知り合いがいないことを意味する。

そういえば…。

ばっ、とベッドから上半身を起こしてスーツの右ポケットに手を突っ込む、探していたものがすぐに指先に触れたので、丁寧に取り出した。美波から貰ったノートの切れ端に、彼女の可愛い丸文字で、携帯電話の番号が書かれている。ただの番号の羅列と、見慣れていたはずの文字に、胸の奥から懐かしさが込み上げて来る。自分と誰かを繋ぐ糸が1つ増え、その1つの大切さに、もうこれ以上無くてもいいかもしれないと、僕の心はとても温かくなった。

それにしても、人間という生き物は、何処までも貪欲で、何処まで我儘な生き物なのだろうか。

美波の番号を入力しただけで、ラインは彼女と繋がった。たった数分の指の操作だけで、もう既に、美波と言葉のやり取りが可能になった。この小さな箱の中には、どれだけの苦労と閃きと、努力の結晶が詰まっているのやら。同じ人間だったものとして、人間の欲を形にする選ばれた能力を持った人々には、ほとほと頭が下がる思いだ。

「先ほどは、来て頂いて有難うございました。三ツ星です。今後は、こちらで連絡を取り合いましょう。」早速メッセージを打ち込み送信ボタンを押すと、すぐにメッセージ隣の送信時間の上に【既読】の文字が付いた。

「今日は、依頼を受けてもらって、本当に有難うございます。早速なんですが、明日また会ってもらえませんか?」まるで、僕からの連絡を待っていたかのように、メッセージはすぐに返ってきた。ラインの良い所は、チャットみたいなレスポンスの良さだ。まるで会話をしているように、ポンポン文字が送られてくる。

「私は構いません。依頼内容の具体的な打ち合わせもしておきたいですし。時間と場所はどうしますか?」

「でしたら…、一緒にランチに行きませんか?行きたいお店があるんです。」

まさかのデートのお誘いに、自然と顔がにやける。

「いいですね。それでは予約をしておきますので店舗情報を教えてもらえますか?」

「私から誘ったのに、ご予約までお願いしちゃってもいいんですか?場所はココです。」

いいんですか?と言ってきながら、ちゃっかりと甘えるところが美波らしい。

「これも仕事の内ですから、それでは今日はもう遅いので、明日の朝予約の電話をしてみます。時間は午後1時からで予約いたしますので、宜しくお願いします。」

「分かりました。それではまた明日、連絡を待ってます。」

ほんの数回の文章のやりとりに、僕の心は弾んだ。美波と初めてデートの約束をしたことを思い出す。そういえば僕らの初デートもランチだったっけ。

そんなことを思い出しながら、美波から送られてきた店舗情報のURLをタップすると、インターネットに繋がり、店舗情報が画面に表示された。

表示されたお店の情報を見て、僕は胸が熱くなった。画面に映っていたお店は、さっき懐かしむように思い出した、美波と初デートで訪れたお店だったのだ。

「行きたい店って、もっと良い店いっぱいあるだろうに。」

美波が指定したお店は、僕と美波が働いているイオンモール内のレストランだ。イタリアンのお店で、焼きたてのピザなどが楽しめるビュッフェが人気のチェーン店。

ここなら予約する必要も無いか、と思いながらも、しっかりと明日のイオンの開店時間を調べ、お店の電話番号をライフに登録した。

ライフのホーム画面を見ると、夜は既に午前1時を少し回っていた。最上から受けた死神についての話の中で「死神は、寝る必要が無いんだ。」と聞かされたことを思い出す。確かに全然眠れる気がしない。

その原因が、美波と再び会うことが出来る嬉しさからなのか、死神になったことによる副作用なのかは定かではないが、僕はゆっくりとふかふかな布団に体中を沈めるように預けて、深く深く瞳を閉じてみる。



死神の講義は、上手く出来ただろうか。

最上はマンションの屋上で、紅茶を飲みながら満月を眺めている。屋上は最上の部屋のリビングほどの広さで、プールサイドにあるような、パイプ椅子を引き伸ばして寝そべられるようにした椅子と、小さな丸いローテーブルしかない、最上はその椅子に浅く腰掛け、飲み終わったカップを、ローテーブルにあるソーサーの上に静かに置いた。

それから、椅子にゆっくりと寝そべり、さきほどの講義と光について考えを廻らせることにする。

単調な仕事をこなす事は嫌いではないが、たまには刺激がある仕事をするのも悪くない。人間に死神の仕事や、死神のアイテムを理解させるのは中々容易い事ではない。人間は目に見えるものは簡単に信じるが、目に見えないもの、初めて知る知識に関しては心を閉ざす傾向が強い。目の前に死神が現れ、そしてその死神から「お前は今日から死神だ。」と言われて、どんなことがあったにせよ、私の部屋に留まり、クライアントの話を聞き、仕事に対しても前向きに取り組もうとしてくれている彼は、やはり死神になる器があるのだろう。

私の計画に間違いはなかった。彼は、私にとってのダイアモンドになりうる。

話を進めるうちに、ついつい気持ち良くなってしまって、自慢話を挟んでしまったことは反省点に上げられるだろう。私が、ドラえもんの生みの親を担当したと言った時の彼の顔を思い出し、鼻から少しだけ高慢ちきな息が漏れる。

MJが、実は死神だと告げた時の彼の顔は、きっとこれから数百年は、忘れないだろう。それにしても、MJのイニィシャルで、ジェネレーションギャップを初めて実感することになろうとは、私も想定外だった。

彼が、ただの変わり者なのか、これが時代の移り変わりなのかは定かではないが、私が今、時代交代の波に揉まれている事を実感するには十分すぎるインパクトがあった。

彼との会話は、実に興味深い。

ライフが胸ポケットで震えて、まだスーツ姿だったことに気が付いた。今夜は『夜の仰』もない、穏やかな満月の夜だ。最上は、パチンっと指を鳴らし、仕事着であるスーツから、シルクのパジャマへと、一瞬で着替えた。シルバーの艶々としたシルクが、肌にとても気持ちがよく、最上は穏やかな気持ちで震えたライフを眺めた。

「早速連絡を取り合うとは、仕事熱心で良い傾向だ。」

光と美波の、会話のような文字のやり取りを眺めていると、最上の穏やかな表情は次第に崩れ、最後には大きな溜息が体全身を脱力させるかのごとく、深く深く穴という穴から漏れ出していった。

「夜が明けたら、また話をしなければ…。彼はまだ、自分の立ち位置を解っていないようだ。」

もう一杯、暖かい紅茶を飲もうかと、体に力を入れたが、すぐに考えを変えて、また椅子に体を預けた。不思議な感覚だが、今夜は眠れそうな気がしたのだ。

何もかも忘れられるように、思い付く限りのドラえもんの秘密道具を頭の中で一つ一つ思い浮かべる。『マジックお尻』を思い出したところで、「彼の躾にぴったりな秘密道具だな。」と1人でまた、くだらない笑みが、鼻から抜けて夜の空に混じった。

やはり、今夜も眠れそうにないみたいだ…。


 Ⅵ


 カーテンの隙間から差し込む光が、眩しくて細く瞳を開くと、真っ白な天井が見えた。昨日今日で,この天井も見慣れた物になりつつある。人間の対応力は凄いものだ、そこまでぼんやりと思ったところで、自分が既に人間で無いことを思い出し、自虐的な失笑が零れる。

 全く眠くなっかたはずなのに、知らないうちにぐっすりとねむりこんでいたみたいだ、ベッドから体を起こすと、スーツ姿のまま眠っていたことに気付く。高級そうなスーツには皺がより、格好良さは半減してしまっている。

 「最上に怒られるかな?」一瞬、そんな事を考えたが、最上のことだ、また軽く指を鳴らして元通りにしてくれるに違いない。

 ベッドから立ち上がると、何かが床にぽとりと落ちた。落ちた衝撃でライフは画面を僕に見せる形で転がり画面の液晶が光を放った。

 ライフのホーム画面は初期設定のままなのでデジタルの時計表示になっており、その時計は現在、12:05を示している。

 そこで、昨夜の記憶が蘇った。今日は美波と13:00に会う約束をしている。

「やっばい、初日から遅刻とか洒落にならないだろう。」

 急いで寝室を出ると、ダイニングのいつもの席で、最上が新聞を読みながらティーカップに口を付けているのが目に入った。紅茶を飲んでいるのは、言わずもがなだ。

 「おはよう。」

 最上は、新聞から視線を外すことなく挨拶をする。

 「どうやらグッスリと眠れたようだな、人間ベースだと死神にも睡眠が必要になってくるのだろうか?これは貴重なデータだな。」そう言うと、最上は新聞を畳んでテーブルに置き、何処から取り出したのか、真黒な表紙の大学ノートにペンを走らせ始めた。

 「それにしても、スーツのままで寝るのはやめてくれないか、私は仕事のパートナーであって,君の母親では無いんだ。」

そう言いながらも、最上はパチンと指を鳴らした。スーツの皺はスッキリと消え、身体中お風呂上がりのようなサッパリとした感覚になる。

 「これが最初で最後だ、次からはちゃんと自分で洗ってアイロンをかける事だ。」

 相変わらず視線をこちらに向けることなく、最上は何かを書き終えたノートを

胸ポケットに仕舞い、畳んだ新聞をまた開いた。

 「有難う御座います。以後気を付けます。」全身の仕上がりを確かめる様に、身体中キョロキョロと確認する。

 「それより、その魔法みたいな指パッチン、俺は使えないんですか?」と、言いたかったのだが、途中で最上が僕の言葉を遮った。

 「私は死神だが、人間の習慣を素晴らしいと思っている。その最たるものが挨拶だ。人間の体をしてる間は、人間のマナーをしっかりと守ることを勧める。」

 その言葉に反応して最上を見ると、この日初めて、彼も新聞から視線を外し、僕をしっかりと見据えていた。

 「挨拶は、挨拶で返すのが礼儀ではないのか?」

 細い銀縁の眼鏡越しに見つめられた僕は、またあの時間が止まったかのような感覚に襲われる。そんな整った顔で見つめないで頂きたい。

 「失礼しました。おはよう御座います。」

 僕は、最上の視線から逃げる為に、姿勢を正し深々と体を曲げた。

 「分かってくれたならば問題ない。」

 恐る恐る頭を上げると、最上はまた新聞に視線を向けていた。

 「それよりも、こんな所で話していて大丈夫なのか?クライアントの約束は13時だろう。もうあと45分ほどしかないぞ。」

 最上の助言に、僕ははっとした。

 「そうだった、こっからイオンまでは、自転車で40分だったから…もう絶望的だ。」

 遅刻が濃厚になり頭を抱える僕に、最上は小さく息を吐き出した。

 「君にはデリカシーと言うものが欠落しているな。」

 最上は再度新聞をたたみ、今度は体ごと僕の方に向けた。

 「忘れている様だが、クライアントの恋人は間抜けな自転車事故で死んだ、通常な思考回路なら自転車での移動は避けるべきだと思うが?」

 最上の指摘にグゥの音も出なかった。当たり前の事だ。僕は、違う体と名前でまで、美波を傷付けてしまう所だっった。

 「観念して謝ります。今からならまだ、彼女も家にいるかもしれない。」

 そう言ってライフのホーム画面を見ると、10分前に「今から出ます。」と、美波からのラインのメッセージが表示された。

 「どうやら私の目は節穴だった様だな。これから苦労しそうだ。」最上はそう言うと、何かを僕に投げて寄越した。

 反射的にそれを右手で受け止めると、車の鍵だった。

 「外の駐車場の43番だ。車の運転くらい出来るだろう?」

 相変わらずの無表情で、最上は僕を揶揄う。

 「有難う御座います。それじゃあ急いで行ってきます。」

 もう一度僕は、最上に対して深々と腰を折り、部屋を後にした。


 43番はすぐに見つかった。エントランスから外に出ると、目の前がそのまま駐車場になっていて、白線で区切られている区画に、同じく白線で数字が書かれている。どう言う順番で数字がふられているのかは不明だが、43番は駐車場の中央部に位置していてさがしやすかった。

 車は意外にも黒のN-BOXだった。可愛らしい角ばった車で、新車のようにピカピカに磨き上げられている。運転席のドアを開けると、本当に新車の匂いがして少しだけ面食らった。



 昨日はよく眠れなかった。光さんからのラインに、私から食事の誘いをするなんて、私自身が一番驚いている。

 そして、きっと眠れなかった原因も、光さんに会えることが決まり、気持ちが昂っているからだと、自分でも分かってしまっているのだ。

 あの男のことを散々罵っておいて、結局自分にも、あの男の血が色濃く流れている事実を実感せざるおえない。

 自己嫌悪で胸が詰まると同時に、自分勝手にも、あの男への憎悪がまた一つ膨らんだ。

 ヒカルの事は、今でも大切に思っている。誰かに言い訳をするつもりじゃ無いけど、私は今でもヒカルの彼女だと思っているし、彼のことを愛していると、心から言える。

 でも、出会った時から、光さんには言葉には言い表せない、懐かしさのような安心感があった。

 その正体が分からず、何故だかソワソワと落ち着かない、きっと食事に誘ってしまったのも、この得体の知れない感情をはっきりさせたいが為だろうと独言し、ヒカルに買ってもらった、お気に入りの真っ白なワンピースを着て家を出た。光さんに「今から出る。」と連絡をし、勿論メイクも忘れずに。

 「それにしても、どうしてヒカルとの初デートの場所を指定してしまったのだろう?」電車に揺られながら、昨夜のラインを見返して思う。何処と無く光さんの中にヒカルの面影があって、懐かしい思い出を連想してしまったからだろうか?

ヒカルの顔を思い出してから、光さんの顔を思い出す。ヒカルには悪がどこも似ていない。ヒカルよりも格段にイケメンな光さんの顔が、私の思い出の中のヒカルの顔を打ち消した。

 私は、いつからイケメン好きになったのだろうか?外見にあまり興味がないタイプだと自負していたはずなのに。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと横に流れる街並みを見ていると、電車はすぐに目的の駅に到着した。

 駅からイオンに直通の連絡通路をゆっくり歩いて自動ドアをくぐる。

 平日の水曜日だが、夏休み真っ直中なので、店内は若者で埋め尽くされていた。

 同年代特有の、溌剌としたプラスのオーラで満たされた空気に、私は足を止めて、一呼吸ゆっくりと深呼吸をする。

 母とヒカルを失ってから、私の心は他人の幸せを、自然に受け入れられなくなってしまっている。深呼吸をして、体に見えない防護膜を張るイメージで気持ちを落ち着かせる。目を閉じて「大丈夫。」と、呪文のように呟くと、強張った肩の力が少しづつ、指先から抜けていくのがわかる。

 ここ最近で儀式のようになってしまったルーティーンを終え、私は短く息を吐き出してから歩き出した。

 とりあえず、イオンの1F、専門店とスーパーの間にある休憩スペースまで歩いて、大型のデジタル時計を見ると12:26だった。携帯を確認すると、10分前くらいに「今から車で向かいます。」と、光さんからラインが届いていた。

 「どんな車に乗っているんだろう?あの容姿だから、外車が似合うな。」なんて想像を巡らしながら、「お気を付けて。」とだけ送信する。

 すると、数分と待たぬうちに手の中の携帯が震えた。

 「すいませんが、お店予約出来てなくて…、もし僕より早く着いていたら、先にお店入っててもらえますか?」

 文面を読んで、自然と笑みが溢れる。「ヒカルとの初デートと同じ流れじゃん。」と、偶然の一致に思い出が重なり、携帯をもつ手に力が入る。

 「夏休みで結構混んでます。ちょっと早いですが、先にお店行ってますね。」と返信すると、「夏休みかぁ、ごめんなさい、急いで行きます。」とすぐに返事が返ってくる。

「安全運転でお願いします。」と送り、思い出のお店へと歩き出した私は、久し振りに夏休みの若者と同じように、気付かないうちにプラスのオーラを身にまとっていた。

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ヨルノミチカケ @Yorunomichikace

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