絶対に忘れるな白百合を

綾波 宗水

忘れるな。

 絶対に忘れるなを。

 ベランダのユリはいつから、誰が植えたんだ。自分じゃないはずだ。それなら、どうして何の花も咲いていない鉢にある草をみて、俺は白百合だと分かる。そう、分かるだろう。その不思議さを放って置くな。とことん悩め。そして思い出せ。

 白百合の最後の忘れ形見であることを。


 *****


 令和5年6月。引っ越しに備えて、必要な紙資料以外をスキャニングして、できるだけ身軽さをと風鈴の鳴るのを片隅にせっせと励んでいたとき、見ようによっては中二病全開なメモ書きがでてきた。

 しかし、若気の至りと決め込んで捨てる気にはなれなかったからこそ、コイツはおよそ12年以上の月日を経てもなお、大掃除をすり抜けて、今もシワ一つなく引き出しにしまわれていたのである。

 まだまだ社会人になって間もない俺は、世間的にも心境的にも子ども時代はそう遠くない過去。それでも失われた思い出というのは、数知れないだろう。往々にして形に残らなかった日々は、海馬にも小脳にもニューロンを刺激して電気信号パターンを再認識するほどには刻み込まれることは無い。

 だが、必死、ともいうべきその筆跡は、今の俺をも叱咤するような勢いが伝わる。

 母親に尋ねもしたが、俺と同じく半ば冗談の延長で書いたのだろう、だから真剣味がありそうなのに覚えていないのだと、経験則的合理主義な解答が反芻された。

 もうひとつ厄介なのは、うちの庭には確かに白百合――正確にはカサブランカ――が植えられていること、そしてその植えた主は両親でもないということ。したがって一人息子である俺でなくてはならない。種ならば、鳥や風が原因かもしれないが、カサブランカは球根である。その点において、確かに俺は


 注意すべきは、植えられた品種だけでなく、その主の名前?も『白百合』であるようなニュアンスが含まれていることだろう。

 当然ながら、今もってしても解決していない現状からも分かるように、俺の周りにそのような風雅な名前をいた人物はいない。そもそも本名であるかも疑わしいラインだが。『さゆり』や『ゆり』『ゆりこ』ならばあり得なくもないが、それすらも追憶と各年代の卒業アルバムに列記されている節はない。


 しかし全くのヒントがない訳ではない。

 この自筆のメモを、書いた覚えのないものの、認識しだしたのは12年前、すなわち平成11年、グレゴリオ暦2011年。

 それが分かるのは偶然にも専攻していた歴史学と同じ手法なのだが、日記をつけており、その第1冊目の2011年の日記から初出する。しかし、その時分でも既に理由不明なメモとして書き加えていることから、やはり成立年はそれ以前ということになろう。


 こうして同じところを何度もなぞっては、思い出せないその理由を、再び引き出しへと戻してきたんだ。

 でも、もういいような気もする。当時の自分にはいささか不甲斐ないが、思い出せないものは仕方がない。いっさいを架空と断定できないのがどこか怪文書じみていて、これまでも何度か捨てようとしたが、こうして今も考えてみたのだから。

「だから、もういいよな」

 記憶の上での執着が切れているのだから。

 物質の上での因縁を放棄しても構わないだろう。

 第一、本当に忘れたくなかったら、写真でもデッサンでも何でもいいから、もっと本質的なことを書けばいいものを。

 よしんば只今思い出したとして、その上、わが家の庭同様、『白百合さん』も健在であったとして、さて十数年ぶりの再会を喜ぶだろうか。個人的にスッキリするところは一時的に大きいだろうが、少なくとも現段階では乗り気になれそうにはない。


 棄てる前に、方向性を大胆に変えてみよう。まるっきりの空想でもなく、しかし、およそ現実味を帯びていないこのメモの正体。それは、子どもの時にしかみえない類のモノであるならどうだろう。

 狐狸妖怪、妖精、イマジナリーフレンド。あるいはもっと率直に、あの百合を擬人化していたとする説も今ある証拠では否定しきれない。アニミズムが活発な幼少・青少年期であれば、ある種、故意に空想する中二病という黒には残らない、純粋な有史以前の何かがあったかもしれない。


「もういっか」


 さっきも呟いたその言葉は、以前よりも含意的で、最後の柱が崩れる音がした。再び風鈴がそよ風を知らせる。一回、二回と。


 そのとき不意に俺は違和感をおぼえた。

 視界がほんの少し揺らぎ、ピントがずれたようになった。世界線の変動などと表現すれば、このメモに劣らず、言葉の響きだけは迫真性がありそうだが、それは単に涙だった。

 ――泣いている――

 その事実を認識したのは、涙越しに『白百合』がおぼろげに微笑んだ後だった。

「………………」

 三度目の風鈴がなったとき、は声が出せないのだとようやく感じた。

「また俺は」

 その分、自然と俺の口から思ってもみない言葉まで出てくる。

 また俺は…………忘れていたのだ。

 メモは残っていたのではない。このような結末を辿っている。

 そしてその時にしてようやく気が付く。

「ずっといたんだな」

 その名の通り純白な少女、日の当たり加減によっては白無垢の人妻のような、矛盾しているようでそうではない、ひとつの幼気いたいけな凛々しさがこちらを赦すように見つめている。

 彼女はもう死ぬようだ。12年の歳月を経て失われていった生命力は、だんだんと自他ともに影を薄くさせていったのだろう。忘れられた時、そのものは亡びる。


『あさしもの きえゆくひとは しらゆりの こころもとなし ふみのまにまに』


 彼女が詠んだ辞世の歌は、掛詞や縁語などといったような深い意味が込められているのだろうが、記憶だけでなく教養もないような俺にとっては、ただ率直な意味しかとることができなかった。

 彼女はこれを声には出さず、俺の指先を介して、空へ書かせてみせた。

 それを今度は俺が確認の意味も込めて読み上げたとき、ぱたりと庭の白百合は倒れた。その瞬間たまゆら、既にそこには何も残らず、再び手元のメモが、忘れるなと告げるのであった。

 四度目の風鈴の音が聞こえる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

絶対に忘れるな白百合を 綾波 宗水 @Ayanami4869

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ