最終話:あの背中に恋をした

「いい男が傘も差さないでなにしてンの」


 初めて会った日の悠太の笑顔。酩酊してほの紅い目元を細めて微笑うその仕草に柾は、懐かしさと、憧憬だけでは言い表せない複雑な感情を掻き立てられたのだ。

 思わず引き寄せて、縋るように悠太の身体を抱く。


(違う、そんなことはしていない。……これは夢だ)


 自覚したところで目が覚めた。すっかり見慣れた天井、隣へ移す視界にはうずくまるように身体を丸めて眠る悠太の背中。

 ホッと胸を撫で下ろすような安堵が、罪悪感の表れのようで柾は眉を寄せた。

 脳裏にある蓮の言葉と、今し方見た夢の感情。


『因果だなって思った』

(余計なことを)


 すべては夢だ、と柾は思う。一方でそんなことを夢に見ること自体が意識させられている、深層心理だろうと囁く己の声が聴こえるようで心音が昂って行く。


(罪悪感が見せた質の悪い夢だ。今更そんなことに気を取られるなんて馬鹿げている)


 深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。

 悠太がもぞりと寝返りを打つ。その瞳は開いていて、ぱっと目が合う。眠っているとばかり思っていたが、しっかりと目の覚めていた様子に更に動揺が走る。心を見透かされたような居心地の悪さ。


「おはよ」

「……おはよう、寝ぐせついてるぞ」


 サイドに掛かる髪のうねりに手を伸ばして、柾は微笑い掛けた。悠太は手を好きにさせながら柾の方へ擦り寄る。春を迎えたとはいえまだまだ朝方は冷え込む。体温を分け合うように触れたそこからじんわりと熱が伝わった。


「前に、柾さん夜中におれの部屋帰って来て添い寝してったことあるでしょ」

「あったな、そんなこと」

「おれ、半分夢だったんじゃないかって思ってた。でも、あンときの柾さんの香水の匂いと体温がさ、すげえ記憶に残ったの」


 柾もよく覚えていた。その日、外回りの仕事を終えて家に帰った柾は一変して殺風景になった部屋に衝撃を受けた。出て行った彼女が改めて不在中に荷物をまとめて出たのだという事実は明らかで、分かり切っていたはずの現実を再度突き付けられ、その寒々しい光景に耐えられず悠太の部屋を訪れたのだった。数日連絡も寄越さずの上深夜のことで後ろめたさがあったはずが無連絡で押し掛け、挙句鍵の開いて居るのをいいことにそのまま同衾を決め込んだという、冷静な頭で考えれば異常なことだった。

 

(思えば初めから、おかしかったんだな)


 甘えていた、としか言いようがない。言葉を選ばず言えば親切心に付け込んでいた。

 それでも、悠太はそれを懐かしそうに目を細めて微笑って語る。拘って見えた柾の名を自然と呼んでいた。


「あンとき、あの匂いがしなかったら、おれはあの店で会う柾さんに気付かなかったかもしれない。刺青のこともあるけどさ、多分一番の決定打はあの匂いだったんだよ」

「だけど一度目は気付いてなかっただろ、あれは」

「頭ではね。でも、あの匂いで胸が掴まれる思いがしたのも、そこに執着したのもおれが柾さんを好きだったからだ。……言い訳みたいに聞こえるだろうけど、おれはそう思ってる」


 「似ていた」からなんてのはつまらない、以前の柾ならそう考えたはずだった。それでもそのどちらもが自分であることを思えば、自分に嫉妬する理由なんてないのだと分かる。

 これ以上の言葉は必要ない。柾はその頬を包んで思いを託して唇を重ねた。


(代わりなんかじゃない。それでも、俺が悠太を愛して行くには、イツキのことを否定しているままでは駄目なんだな、きっと)


 愛せなかったこと。それを心懸かりにしていること。事実を受け入れて生きて行く必要性を改めて感じていた。

 唇をゆっくり離す、その瞬間から悠太の口角が上がるのが分かる。どちらとも知れず、目を細めて微笑い合った。


「一緒に暮らそうか」


 以前は早すぎる、と答えた形のひとつを気付けば口にしていた。


「……マジで言ってんの」

「別にすぐじゃなくてもいいなら、言ってもいいだろ。そういう心積もりだってことは知ってて欲しい」

「後悔しない?」

「しない。したくない」


 悠太のこの部屋へ転がり込むには部屋は狭すぎたし、柾はあの部屋へ悠太を招き入れたいとは思えなかった。誰かの影を落とした場所での暮らしをするぐらいなら、思い切って新しくふたりだけの居場所を作り出せばいい。

 

(これが俺の、繋ぎ方だ)


 未来が何処まで紡げるのか、そんな不安は不思議となかった。

 過去を受け止めながら、明日より今を選ぶことをしたい、柾はそう考えていた。

 悠太が今一度ぎゅっと柾の身体を抱いてから、身体を起こす。


「珈琲淹れようか。また一旦家戻らなきゃでしょ」

「……ああ」


 布団を抜けて、立ち上がるその背中を目で追う。


(不思議なぐらい、怖くないな。慢心とも違う。離れないだろうと、離さないだろうと、どうしてこんなに強く信じられる?)


 自身でも答えが分からないが、心地良く温かい感情だった。枕元に転がったスマホで予定のアラームまでまだ時間があるのを確認して、柾もゆっくりとベッドを出た。

 キッチンに立つ後姿をそっと抱き締める。肩越し覗いた悠太の手元はちょうどひとつだけ砂糖を入れるところだ。


「悠太は甘めが好きか。……俺も今日はお前と同じにしてくれ」

「ブラックでいいから、なんて言ってたのに」

「最後に飲んだのがいつか憶えてないぐらいには、ブラックしか飲んでない。たまには、いいだろ。お前と同じものが飲みたい」


 粉末珈琲の上に、ふた匙の砂糖。悠太は振り返り気味に本当にいいのか、と目で訊ねてからもうひとつを同じように用意した。

 甘すぎるのは分かり切っていたが、その甘さを感じたい気分だった。

 電気ケトルが程なく沸き、並々と淹れたマグをそれぞれ手にしてソファへ並んだ。手慰みに点けるテレビを流し見ながらとりとめのない言葉を交わすこの時間の甘さは、始まりの朝からは想像も付かない。

 

「柾さんの誕生日祝いはうちの店でやろう。ちゃんと客として予約入れとくね」

「……、まあ城之崎には借りも多いしな、そういう返し方でも悪くはないか」


 祝われるのは得意ではなかったが、話す悠太の楽し気な表情を前に水を差す気にはなれず、柾はふたつ返事に了承する。ちょうど良いからその機会に城之崎の手前でいちゃつくのもありだろう、等と考えた。その様子は彼を伝って、蓮の元にも届くだろうか。

 

(因果、……か)


 卵が先か、鶏が先かを問うように、イツキに出逢ったからこその悠太との出逢いなのか、悠太に出逢うためのイツキとの出逢いなのかは分からない。

 この先もそれに答えを出せる日は来ないだろう、と柾は考える。ただひとつだけ言えることは、同じことを繰り返さないために過去から逃げることを止めなければいけないということだった。

 決して大きくはないはずのこの背中は、思うより広く、包容力がある。だからこそ、すべてを預けるような真似はしたくないと柾は思った。

 

(今度は間違えないよ、イツキ、……蓮)


 久方振りに、部屋を片付けようと思い立った。あからさまにがらんどうになった書棚や、タンス、埃を被ったベランダに置いたままのかつての愛機も磨こう。

 はじまりは、いつもここから。

 甘すぎる珈琲に目を細めながら、柾の胸は静かに、穏やかながら決意に満ちていた。

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あの背中に恋をした 紺野しぐれ @pipopapo

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