Episode18:1/365
四月二十日。昨年のその日は大学仲間と飲み明かし、深夜に酔ったまま彼女の眠る寝台に潜り込んだのを柾は覚えていた。ささやかに恋人と祝うような誕生日など、あっただろうか。何気ない会話の中で誕生日の話題が出た時、ようやくそんなことを考えた。
「おれとちょうど一か月違いだ、おれは三月二十日」
「おい、来週じゃないか。……欲しいものあるか?」
気の利いたセリフも言えない自分に、柾はひやりと背中が冷えたのが分かった。訊ねられた時点で予想していてもおかしくない会話だった。人を変え何度となく無粋さを指摘されてきたにも関わらず、柾は祝い事に無関心なままでいた。
悠太はいつものようにはにかんで首を横に振ったものの、少しだけ思案して口を開いた。
「一緒に居たい、かも」
「水曜だろ、俺も有休取ってどこか出掛けるか」
「……家でいいよ、お金も使わないし」
「これからいくらでもできるだろ、そんなの」
炊飯器のアラームが会話を割く。柾が持ち込んだものだ。蓮が気を利かせたか置いて行ったものだがひとりではやはり使うこともなく寝かせていたものが、ここへきて役に立っていた。
柾は立ち上がり、炊飯器からご飯と一緒に蒸していた鶏むね肉をまな板へ移して包丁を入れる。悠太のためにと料理をするようになってから、なりを潜めていた性分の凝り性が顔を出していた。
「いい匂い。芳野さんて恋人にメシ作る系男子だったんだ」
「悠太が作ると酒のアテにばかりになるからな、ちゃんと調べて来てるんだよ」
「あ、いや……えっと」
ふと肩越し振り返るそこには取り乱して顔を俯ける悠太がいる。
(……いい誤算だな)
悠太が蓮のことを指して話しているのは分かっていた。その上で、元カノの話をするのが無粋だと思った柾はそこに敢えて答えなかっただけである。
同じ言葉でもニュアンスは百八十度変わる。柾自身はなにも取り違えたつもりはなかったが、悠太にとっては動揺するだけの意味合いに変わっていた。
「ほら、いいから手伝ってくれ。飯混ぜてよそって」
「おれのこと言ったんじゃない、からな」
「自分で言って自分で照れるやつがあるか」
「……なんか、むかつく」
文句を言いつつ、悠太が隣に並ぶ。皿を片手にしゃもじを握るその耳朶へ軽く唇を寄せると、漫画のように皿を落とし掛けてまた悠太に叱られた。そんな様子が可愛くもあるが、どこか手放しには喜べない。
相変わらずの距離間に、柾は内心やきもきする。
夕飯の際のひと缶だけ、を約束に酒を開けてふたりは食事をする。先に調べた動画を見様見真似に作った海南鳥飯は、悠太に受けたようだった。
「……それで、今度はいつ抱かせてくれるんだ?」
食器を片す悠太の背後に立った柾は意を決して直球を投げた。
するりと交わされるのを許すまいと、後ろから抱きすくめる。身じろぎをしないのか、できないのか。悠太は水を切った手にタオルを握り締めたまま黙った。
「あんなに威勢よく俺を組み敷いたこともあったのに、なんだってそうなる。他に男が出来たのかとか勘繰りそうになるだろ。……俺だって人並みに妬くぜ?」
(ああそうか。初めからこうすればよかったんだな)
気持ちを吐露しながら、柾はようやく城之崎の言っていた会話を握ることの意味を理解した。単純な話だった。感じていることをただ言葉にするだけでよかったのだ。
そのまま動かないままかと思えたが、悠太はもそもそと腕の中で動いて柾の胸に顔を埋める。
「ヤじゃないの、ああいうの」
「嫌じゃないからいつできるって聞いてるの」
「……」
「あの店じゃなきゃ、ああいう場所の男相手じゃなきゃ積極的になれないってか?」
柾の言葉にハッとして悠太が顔を上げる。驚いたように目を瞬かせてから、ゆるゆると首を振った。
「ち、がう。おれがあの店に行ったのは……」
「俺だけど俺じゃない相手だろ。こうやって、伊達メガネ掛けて、……そんなにソイツが好きか」
自分自身に妬くなんて馬鹿馬鹿しいと思わずため息が出る。柾は片手に後ろへ流した前髪をくしゃりと崩して見せた。生憎眼鏡は変装用に用意したもので手元にはなかったが、悠太には充分だった。みるみると顔が紅潮して行く。
「いじわる言うから色々思い出しちゃった、じゃん」
「いじわるなもんか。俺に遠慮すんのやめろって言ってるの、俺もやめるから」
「遠慮、してたんだ?」
「してた。……それじゃラチが明かないから、もうしない」
柾はニィ、と笑って悠太の頤を捉え、唇を重ねた。悠太のリアクションを待たないそれに反応が遅れて、悠太は柾のシャツをきゅっと握る。いつものように触れるだけでは済まさず、じっくりと深めて歯列をなぞってから唇を離す。
茹で上がったような悠太の表情をちらりとだけ一瞥して、満足した柾はソファに移ってテレビを点けた。背後では呆然としたような空気がしばらくあったが、ややもして悠太も隣へ並んだ。
「城之崎がまかない作ってくれてるんだって?」
「前からしてたけど、おれに食わせるようになってから更に凝ってる気ィする。……なんで」
「俺が写真寄越せって言ってるからかもな。毎晩あの飯食えてるなら俺も安心だよ」
「さっきそういえば芳野さんも、写真撮ってたもんな、張り合ってンだ?」
「……意識してたわけじゃないけど、確かに負けたくない気持ちはあるよ。向こうはプロだけど」
毎晩、城之崎の手製のまかないの写真が送られてくるようになったのはささやかながら日々の楽しみのひとつになっていた。面倒見のいい相手が側にいることには感謝しかないが、自分だって負けず劣らず、寄り添って悠太を大事にしているのだと張り合いたい気持ちは根底にあったに違いない。
柾が通い詰めるようになって半年、夕飯を共にする日が増えて三月、春風の季節を迎え悠太の健康は徐々によくなって来ているように思えた。焦る気持ちがないと言えば噓だったが、柾の心中はずっと落ち着いていた。
春分の日、有給休暇を申請した柾は悠太の帰宅を待って部屋に転がり込んだ。頭の中では一週間練りに練った計画がある。柾にとっては忘れかけていた、久方振りの高揚だった。
仕事上がりの悠太に酒の代わりの軽食を出した後は昼過ぎまで一緒に惰眠を貪る。起き抜けに一緒にシャワーを浴びて悠太に出掛けようと持ち掛け、隣県まで電車に揺られた。
柾は悠太のためにいつもは後ろへ撫でつける髪を下ろし、念を入れてあの日使った以来の縁眼鏡を着けた。そのどちらも自分なのだと悠太に認識させたかった。
隣を歩くのを躊躇うその手を、柾が時々引いて並ばせる。
「本当に気にしないんだな」
「遠慮しないって言っただろ。ずっと繋がれたくなかったら大人しく並べよ。……じきに着く」
祝日のせいもあって人はそこそこに多いのを気揉みしているのがやや気に食わなかった。人の目が気にならないかと言われれば、人並みに柾も気にはする。それでも、すれ違う他人の目を気にすることが癪だと開き直っていたかった。
最寄り駅に降りたところで、悠太もその目的地に気付く。
「おれ、水族館って初めてだ」
「たまにはデートらしいデートしてもいいだろ」
「……そうだね」
青色暗色の空間でなら、展示物に人の目は向く。厚い水槽の向こうを眺める悠太の横顔を好きなだけ眺めてもいられる。人混みに紛れて手指を絡めて、反応を楽しみながら柾は気付かない振りをした。初めは身を硬くしていた悠太も、館内を進むに従って繋いだ手指の力が解れ、指先はほんのりと温かくなる。
海を臨むカフェに席に着いた時、ふと悠太が息を吐いた。綺麗に晴れて青の美しい海へ視線を投げるその表情は切なげに見えた。
「どうした」
「……思い出した。おれ去年の夏、この近くの臨海公園に来てた。あの時はこんな風に芳野さんと一緒に居られるなんて思ってもなかった。あの店で芳野さんと会った後だよ、全部清算しようって決めて人に会ったんだ」
「後悔してるのか」
「しないよ、する訳ない。こないだ、冗談でも他に男が出来たのかなんて言うからちゃんと言いたくて」
周囲に気を遣いながら小声に零して、悠太は微笑った。
「好きでもないヤツとなんてもう無理だよ。あの時はずっと遊ばれてるんじゃないかって少しでも思ってたけど、今日よく分かった。……ありがと、芳野さん」
言い終わると、悠太はカメの形のメロンパンを青いドリンクと写真に収めて満足そうに柾に見せた。ちゃっかり指のピースを入れたそれをSNSに上げていた。
柾は内心ほっと胸を撫で下ろす。どれだけ時間を共にしても安心できるほどの保証がないままのこの関係に、ようやく悠太の姿勢を見ることができた瞬間だった。
(もうやめようと言われてもおかしくはなかった。俺のしてきたことに意味はちゃんとあったんだな)
日の傾きが見え、水族館を後にする頃には太陽が海に滲む様子がこれまでの道程をより一層感慨深くさせた。
並べる肩と、それとなく触れ合った手の甲。
(……祝われてるのは俺の方だな)
帰りの車内でそんなことを思う。どうか同じようにあってくれと柾は祈る他ない。
乗り継ぎ駅へ付いた途端悠太がふと足を留め、柾の腕を引いた。その足は駅中に構えた靴の修繕と鍵屋へまっすぐに向かう。
「合い鍵ひとつ、作ってください」
先程買ったメンダコのキーリングから家の鍵を外す悠太には迷いがない。
「俺の誕生日じゃないんだぞ」
「いいの、来月も今日も変わんない。夜遅いのに時間潰して待ってンの、寒かったでしょ。……これはおれが貰うプレゼントだよ、おれがそうして欲しいから」
十分と待たずに出来上がったばかりのそれを、はい、と手渡される。手の平で握り締めた。決して軽いものではない。
満足そうな悠太の笑顔に、柾はその場で抱き締めたい衝動を殺すのがやっとだった。
「よし、俺のおごりだ、飲みに行こう」
「飲んでいいの」
「俺が潰させるかよ。……シラフじゃできないことさせたいしな」
「うわ、魂胆が見えた。けどいいもん、おれだって今日ぐらいそんなのわかってたしっ」
「それじゃあ、遠慮は要らないな。行こう」
予約した時間までの余裕はある。誰かのために店を予約するなんて気を利かせることは、仕事を除けば記憶に遠い。そんな自分の変わりようが、自分でもおかしくて柾は相好を崩した。
いつもよりは多く、足に響かないほどには程度を見てふたり酒を飲んで、まだ風の冷たい夜の街を歩いてホテル街へとなだれ込んだ。
その日の肌の感触も、体温も、まるごと深く刻み込みたいと柾は願った。永遠があると言うなら、この瞬間を切り取ってしまいたい。酒のせいだけでない解けた表情も、抱き締め返すその腕の力も、すべてが特別な夜だった。
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