第44話 これから

「歯磨きはちゃんと持ったか」

「持った」

「歯磨き粉は」

「それも持った」

「着替えはちゃんとあるか?」

「それも大丈夫」


 8月初旬の朝。

 身支度を整えた慎吾に、父が色々と確認してくる。

 いい加減少し鬱陶しくなってきた慎吾は、父をあしらった。

 

「ていうか、父さんもういいから。心配してくれるのはありがたいけど」

「む……そうか。すまない」


 しゅんとする父を見て、今度は申し訳ないという感情が湧いた。

 慎吾は努めて笑顔を作る。


「応援、これるんだろ?」

「……今月は時間があるから、見に行ってもいいとは思っている」


 この素直じゃない言い回しは相変わらずだな、と慎吾は笑みを苦笑に変えた。


「はいはい、まあ好きにしてよ。……じゃあ、行ってきます」

「ああ……楽しめよ、甲子園」

「もちろん」


 慎吾は玄関を出ると、朝日の眩しい外に出た。


 しばらく歩くと、いつも芽衣と会う交差点に着く。

 予想通りそこには芽衣がいて、慎吾に向かって手を振っていた。


「おはよっ、村雨。大丈夫、忘れ物とかない?」

「それ聞かれるの、今日だけでもう2度目だから」

「あ、そう。それは失礼しました」


 芽衣が照れ臭そうに頭をかく。

 二人は並んで、駅に向かって歩き出した。


 しばらく無言で歩く。しかし、居心地は悪くない。

 今なら、ずっと聞きたくて聞けなかったことを、口に出せる。

 意を決して、芽衣は口を開いた。


「あのさ、村雨。ちょっと聞きたいことあるんだけど」

「……何?」


 来たか、と慎吾は思った。

 当然、決勝戦の前日に交わした約束は覚えている。

 しかし、決勝を終えてから、慎吾は取材やら何やらで何かと忙しかった。

 言うタイミングを逃している間に、とうとう今日まで来てしまったのだ。


「決勝戦の前に、試合に勝ったら言いたいことがあるって言ってたよね。あれ、何だったのかなー、と思って」

「……ああ、やっぱりそのことか」

「やっぱり?」


 芽衣が笑顔で慎吾を見た。目が笑っていない。


「分かった。言うよ、言います。雪白のことが、その……」


 芽衣にびびっていざ言おうとして、慎吾は初めてためらった。

 ちょうどその時、住宅街を抜け、いつもの土手に差し掛かった。

 川面が朝日を反射して、キラキラと輝いている。

 それを目にした途端、慎吾は何となく言える気がした。

 自分の素直な気持ちを。


「好きです」

 

 はっきりそう言うと、芽衣が立ち止まった。

 慎吾が芽衣の顔を窺うと、芽衣は電池切れしたロボットのように、ぼけっと正面を見つめている。

 

「あの、できれば返事を頂けると——」

「嬉しい」

「え?」

「思ったよりずっと嬉しくて、今ちょっと震えてる」

「だ、大丈夫?」


(これはOKってことで良いのか?)

 

 慎吾がちょっと不安になりつつ尋ねると、芽衣が手を見せてきた。


「ほら、見てよ。私の手、ちょっと震えてる」

「あ、うん、そうかもね。……あの」

「ん?」

「その、雪白が良ければ、だけど……手、握ってもいい?」

「…………良い、よ?」

「……なんか今、凄い間があったけど。もしかして、嫌だった?」

「違う違う違う! 嫌とかじゃなくて、今のはその、びっくりして……」


 芽衣は慌てて取り繕うように言った。

 出した手をそのまま「ん」と慎吾に差し出す。

 慎吾はその手に、恐る恐る左手で触れた。


「ふふっ。村雨の手、あったかいね」

「雪白の手は、冷たいな」

「……行こうか」

「うん」


 二人はちょっと微笑みあってから、再び歩き出した。


「あの、一応確認だけど、OKってことで良いんだよね?」

「……OKじゃないのに、手を繋いでたら頭おかしいと思わない?」

「うっ、まあ、そう言われるとそうなんだけど……」


 ばつが悪そうに、慎吾が頭をかいた。

 もちろん、手を繋いでいない方の手で。


 芽衣が明るい声で、冗談っぽく言う。


「でも、デートはしばらくお預けかー。今から甲子園だもんね」

「逆に甲子園が、最初のデートの行き先ってのはどう?」

「デートは二人でするものでしょ。部活動をデートとは言わないよ、普通」

「いや、それは僕も分かってるんだけど……ちょっと言ってみただけ。何となくかっこいい気がして」

「ふふっ。村雨でも、かっこつけようとか思うんだね」

「……雪白は僕を、なんだと思ってるんだよ」


 そう言うと、芽衣が慎吾の方を改めて見てきた。


「……何」

「……何でもない」

「そう言われると、逆に気になるな。絶対、なんでもなくないでしょ」

「何でもないってば!」


 芽衣は慎吾から自分の顔が見えないように、川の方を向いた。

 今の自分は、絶対顔が赤くなってる。だって——。


(かっこつけなくてもかっこいい、なんて……言えないよ!)


 芽衣がそっぽを向いたのを見て、慎吾は不安になった。


「ごめん、なんか僕怒らせた?」

「……大丈夫、怒ってないから」

「でも、さっきからずっと川見てるし。前向いて歩かないと、危ないと思うけど」

「……その時は、村雨が手を引いてくれるでしょ?」

「それは……そうだけど」


 根負けした慎吾は、仕方なく前を向いた。

 しばらくして気持ちを落ち着けると、芽衣も前を向く。

 こっそり慎吾の顔を窺った。

 慎吾の顔は、高校で初めて再会した頃に比べて凛々しく見える。


 二人の行き先は甲子園。

 まだまだ、旅路は続いている。

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野球部でいじめられ、彼女に振られと散々な僕が転校したら〜転校先の隣の席の美少女はなぜか僕のファンでした〜 佐藤湊 @Kabutomusi

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