歌を歌を歌うとき

増田朋美

歌を歌を歌うとき

久は、やっと、自分も気が楽になったと感じていた。妻れい子が、どれだけの悪事をして、自分を困らせてきたのか、考えるのも数えるのもやめてしまって何年になるだろうか。れい子は朝から悪人たちから攻撃されているとか、そういうことを口走って、会社に行く前の久を困らせることから初めて、窓の外に白いスカーフを巻いた女がいて、久がその女性と関係を持っているのではないかと何回も聞いてきたり、ちょっとつかれれば大声を出して暴れ、時には窓ガラスを叩き割ったこともある。医者は、彼女を統合失調症と診断した。入院させてくれと頼んだこともあるが、れい子にその意志が無いということで、断られてしまった。とにかく、自分が見ている世界と、れい子が見ている世界は、全然違うのだろう。テレビの映像も、れい子にとっては、実際にあるものと考えてしまうらしい。他県で起こった大地震でも、れい子にとっては、身近なところで起きていると思ってしまうらしい。テレビを見たら、怖い怖いと言って泣き叫び、久がテレビを処分して、インターネットだけで情報を入手する様になっても、ごめんねということはないし、これだけ悪事をしてきて、れい子は一言も謝罪しないのである。近所の人たちは、そんな自分たち夫婦を気遣うようなことはなく、さっさとこのマンションから出ていけという態度を貫いている。だけど、久には行く場所もなかった。買い物をすれば、多くの食品を大量に買い込んでしまう。理由を聞けば、鬱になって辛いので、買い物でしかそれを和らげる手段がないという。れい子が、辛くて仕方ない、なんとかしてくれと、久に一生懸命訴えても、久自身は、れい子がそうなってしまう理由がわからないので、どうしようもなかったのだった。できることは薬を与えることであったが、薬を飲むと、食欲が大幅にましてしまい、冷蔵庫にあるものを全部食べてしまって、れい子は相撲取りのような体格になってしまった。結婚したときの、美しい顔なんて、どこかに行ってしまったれい子を見て、久はこんな生活、一体いつまで続くのであろうかと、途方にくれてしまったことが何回もある。

だから、今回れい子が、逝ってくれて良かったと思うのだった。しかも自分が手をかけたわけでもなく、彼女は自ら逝ってくれたのだ。遺書はなかったが、警察も、れい子は自殺と判断してくれた。だから良かったのだ。れい子の両親は、もうなくなってしまっていたし、久は、どうせ親戚を集めても、彼女を褒めるような人物はいないと思ったので、れい子の遺体は、葬儀は行わない直葬という形で処分することにした。もうあんな気持ち悪い顔を遺影にして残したくもなかったし、戒名も何もいらないだろうと思って、仏壇も作らず、遺灰は、大川の土手にばらまいてしまった。これが、迷惑ばかりかけてきた、彼女への復讐だと久は思った。

れい子がいなくなって、何日か経ったけど、寂しいとも何も思わなかった。むしろ、きが楽になった。それは、確かなものだ。さあこれからは、自分のできなかったことを思いっきりやろう、と久は、思った。

その日、久が、会社から帰って、コンビニ弁当を食べていると、インターフォンがなった。誰だろうと思って、玄関先に行くと、二人の男性が立っていた。一人は車椅子に乗って、麻の葉柄の黒大島の着物を着ている。もうひとりは、黒の紋付羽織袴を身に着けて、なんだかとても財力や地位のある人のようだった。

「あの、池田さんのご主人で間違いありませんね。池田れい子さんの。私、彼女が生前働いていてくれた、援助施設の理事長をやっております、曾我正輝と申します。」

と、紋付袴の人が言った。

「そして僕は、影山杉三で、職業は和裁屋。杉ちゃんって呼んでね。」

車椅子の人が、そういったので、久はびっくりしてしまう。

「今日こちらに参りましたのは、池田れい子さんが亡くなられたと近所の方に聞きましたので、お邪魔でなければお線香を差し上げたいと杉ちゃん、ああ、こちらの影山さんが言うものですから。お線香、あげさせてください。」

と、ジョチさんに言われて久はなんでこんな立派な着物を着た人が、うちに来るんだろうと思ってしまった。

「お邪魔だったかな?」

杉ちゃんに言われて、久は二人を外へ追い出すわけには行かないと思い、

「いえ、どうぞ。」

と、中に招き入れた。

「あらあ、この家、仏壇も無いのかよ。遺影も位牌もないの?それじゃあ、れい子さんも浮かばれないよ。簡単でいいからさ、なにか、仏壇立ててやるべきじゃないの?」

家の中をぐるりと見渡した杉ちゃんが、そういうことを言うほど、確かに仏壇も位牌も無いのであった。

「お線香差し上げようと思ったのに、対象物がないとは、れい子さんが可哀想だ。なにかしてやってくれないかな?」

「可哀想?」

久は、思わず言った。

「可哀想なのはどっちですかね。僕はできる限り彼女に尽くしましたが、彼女から礼を言われたことは一度もありません。それに、ひどい幻聴幻覚の症状で、毎日毎日大声で騒ぎ立てる彼女の代わりに近所に謝りに行ったのはどこの誰なんですか?」

「まあ、そうだけどさ。でも、一人の人間でもあるんだぜ。」

杉ちゃんにそう言われて、久は頭にきた。

「みんなそういいますが、僕が一生懸命働いて、お金を稼いで、食べ物を作って、彼女の衣食住すべて面倒を見てきたんです。それなのに、僕には何も称賛はない。なんで、悪人にするんでしょう?」

「まあ落ち着いてください。確かにご家族の目からすれば、れい子さんは、問題があったかもしれません。しかし、僕達の施設に来てくれてからは、きちんとやるべきことをやってくださり、一生懸命やってくださいました。僕達は、彼女に感謝しなければなりません。それをするための媒体は用意したほうがいいのではないでしょうか?」

逆上する久に、ジョチさんは言った。

「一体あなた達は、どこでれい子と知り合ったんですか?れい子は、どうせ、働いていても、幻聴がするとかそういうことを言って、迷惑を掛けるしかしなかったのではありませんか?」

久が怒りを込めてそう言うと、

「二年前だよ。僕のところに、着物の袖丈を短くしてくれと言って、れい子さんが来訪してきたのが始まりです。僕が和裁屋をやっているのを、カールおじさんの呉服屋で聞いたんだって。」

と、杉ちゃんが言った。

「着物?確かにれい子は、着物が好きで、よく古着屋で買い物していましたが、それがなにか?」

「だからそれで、僕達のところに来てくれて、世間話をしている間に、どこかで働きたいって言うから、じゃあ、水穂さんの世話をしてくれと頼んだら来てくれたんだ。まあ、よく働いてくれたよな。水穂さんにご飯くれたり、憚りの世話をしたり、着物を脱ぎ着を手伝ったり。実によくやってくれたよ。それに、体が大きいせいか、歌まで歌って。ほら。歌を歌を歌うとき、私は、体を脱ぎますって歌。それを、洗濯物干しながら歌ってくれたものだ。」

杉ちゃんは、誰のことを言っているのだかわからない話を始めた。

「かいつまんで言うとこういうことです。僕が管理している福祉施設を利用者の一人である、磯野水穂さんという寝たきりの男性の世話をしてくれていたんですよ。杉ちゃんの言うとおり、何も怠けずやってくれました。おかげで、水穂さんも、快適に過ごせたようです。それをしてくれた、彼女が自殺したというのですから、お線香でもあげさせていただこうと言うことで、ここにこさせて頂いたというわけです。」

「はあ、、、そうですか。」

久は、まだジョチさんの話が信じられなかった。

「まあ、ご家族の方には、まだ信じられないかもしれませんが、彼女は、水穂さんにとっても重大な人材だったことは間違いありません。本当は、できることなら、自殺なんてしないでもらいたかったんですが、、、。仕方ありませんね。」

「そうですか。今日は帰ってください。まだ、れい子の遺影をどうのとか、位牌がどうのとか、そういう余裕はありません。僕は、れい子に毎日毎日怒鳴られて、言ってみれば被害者なんですよ。」

「なるほど。そう思ってれば、理解できないわな。まあいいや。れい子さんが、少しでも、いい天に行けるように、庵主様にでも相談してあげようぜ。」

杉ちゃんが納得してくれたようで、久は良かったと思った。

「被害者だなんて、随分心の狭い方なんだね。まあ、彼女は一生懸命水穂さんの世話をしてくれたぜ。何回も家政婦さんを頼んでいるけどさ。水穂さんが、抱えている歴史的な事情のせいで、みんな、音を上げてやめちまうのによ。そんな難しいやつを、れい子さんは、一生懸命引き受けてくれたのにな。」

杉ちゃんは負け惜しみを忘れなかった。

「もう、れい子のことは、口に出さないでください。れい子は、昔の言葉で言えば疫病神のようなものだったんです!」

「わかりました。」

久がそう言うと、ジョチさんは、納得したように言った。

「これをお収めください。れい子さんは、自分は精神障害があるので、お給料はいただきませんといいましたが、僕達は、感謝しているんです。」

そう言ってジョチさんは、分厚い茶封筒を渡した。久は、こんなお金をもらうよりも、捨ててしまいたいという気持ちになってしまったのであるが、とりあえず受け取った。

「まあひとまず帰るが、れい子さんは、少なくとも地球のゴミではなかったということは、忘れないでもらいたいな。」

「そうですね。今日の事は、水穂さんには話さないで置きましょう。」

杉ちゃんとジョチさんはそう言い合って、久の部屋を出ていった。一体何だあの二人という顔をして、久は二人を見る。この現代社会に、着物を日常着として着る人なんてそうはいない。偉い時代遅れのような気がしてしまった。もしかしたら、異世界から来たのかと思って頭を叩いてみたら、いたかった。

ふと、茶封筒を見ると、大変きれいな字で、手紙が入っている。久は破って捨てようかと思ったが、きれいな字だったので思わず読んでみた。差出人は、磯野水穂と書いてある。何故か知らないけど、万年筆ではなくて、鉛筆で書いてあるのが気になった。なぜ、手紙を書くのに、鉛筆なのだろう?

「池田れい子さま。この度は、手伝ってくださいましてありがとうございました。本当は、生前のれい子さんにお渡ししたかったのですが、それができなかったのが残念でなりません。どうぞ安らかにお眠りください。ありがとうございました。」

間違いなく男性の筆跡であるが、とてもきれいな字だった。なぜ、一銭も富を生み出さずに、人に迷惑ばかりかけていた彼女が、こんな人物からお礼をされるのだろうか。自分なんて、上司に頭下げてばかりなのに。封筒には、静岡県富士市大渕と所番地が書いてある。一体れい子はどうやって、こんな遠くにある施設に通っていたのだろうか?それに、こんなきれいな文字を書く人物から、お礼をもらうことができたのか。もしかしたら、自分は騙されているのかもしれないと思った。

明日は、土曜か。久はカレンダーを眺めて思った。土曜だから仕事もない。なので、この住所のある場所へ行ってみることにする。れい子が、どうして、この施設から感謝されたのか。そこを掴みたいと思うのだった。

翌日。久は車を走らせて、その施設へ言ってみた。なんだか、支援施設というより、和風の日本旅館のような感じの建物であった。もしかしたら、江戸時代とか、そういうところにタイムスリップしてしまったのではないかと思われるほど、日常的な施設からかけ離れていた。しかも、玄関扉にインターフォンがなかった。久が、玄関の引き戸を叩いてみると、

「ああ、好きなように入ってきてくれ。」

と、でかい声が聞こえたので、とりあえず建物の中に入ってみた。建物は、和風の作りになっているはずなのに、何も段差が無いのが印象的であった。段差のない土間で靴を脱ぎ、お邪魔しますと言って中に入ってみると、着物姿のジョチさんが出てきて、

「どうしたんですか?なんのようですか?」

と、久に聞いた。

「いえ、れい子が本当にこちらでお世話になっていたのだろうか、確かめに来ました。」

久は正直に答えてしまう。

「そうですか、まあお入りください。水穂さん、あまり良くないですけど、お相手できると思います。」

とジョチさんは、久を、製鉄所の中に招き入れた。二人は長いろうかを歩いて、四畳半に行った。廊下は鶯張りになっていて、歩くときゅきゅとなるようになっている。それもまた、なんだか気持ち悪いことでもあった。

「水穂さん、池田れい子さんのご主人が見えました。なんでも、世話をしてくれたのを確かめに来たそうです。」

ジョチさんがふすまを開けると、なんとも言えない美しい男性が、布団の上に座っていた。この人が、磯野水穂さんなのかと知った久は、なんだか、自分がれい子に一本取られたというか、追いつかないところに行ってしまったという気がした。同時に、れい子が自分に感謝しないで、この人と、逢引していたのではないかという疑惑も湧いた。多分、ここまできれいな人であれば、女を自分のものにしてしまうことくらい、簡単にできてしまうはずである。きっとれい子をたぶらかして、自分の世話をさせて、れい子を支配したのではないか、と、久は、思ってしまうのであった。そして、あれだけ嫌な存在と思っていたれい子を盗られてしまった悔しさも生じた。

「れい子さんのご主人でいらっしゃいますか?」

と、水穂さんは言った。

「驚きました。れい子さんは、ご主人がいたということは、今まで一度も喋ったことがありませんでした。れい子さんはご家族と暮らしていると聞いたので、親御さんかだれかと暮らしているのかなと。」

「聞いていなかったんですか?」

久は、水穂さんに言った。

「ということは、余計に、れい子をあなたがたぶらかして、怠けたいばかりに、れい子に世話をさせていたのでは?」

久がそう言うと、水穂さんは、

「そうですね。そう見えられても仕方ないかもしれませんね。でも、銘仙の着物を着ている男に、彼女をたぶらかすようなことはできませんよ。」

と、細い声で言った。

「銘仙の着物ですか。それは、どういうものですかな?」

久は水穂さんの着物を見つめた。大きな葵の葉を入れた、紺色の銘仙の着物を着ている。久は、銘仙の着物を着ているということがどういうことを著しているか、よくわからなかった。ただ、着物がものすごく古いということは感じ取れた。そういえば、れい子も着物が好きだったから、よく着物を着ていた。でも、このような派手な柄の着物を着ているような真似は見せなかった。

「こういう着物ですと、特定の身分しか、着ることは無いんです。それは、仕方ありません。」

水穂さんに言われても、久はピンとこなかった。

「もうさあ、もったいぶらなくていいんじゃない?そうじゃなくて、同和問題のことをもっとちゃんと話してやりなよ。」

車椅子用のトレーに、カレーライスを乗せた杉ちゃんが、水穂さんにいった。そのカレーは、使ったルウがちょっと強烈だったのか、独特の匂いがした。

「今日はタイ風カレーなの。パクチーの匂いがいい匂い。」

といってサイドテーブルに杉ちゃんがカレーを乗せると、水穂さんは、少し咳き込んでしまった。それと同時に内容物が噴出した。杉ちゃんがああバカバカ!と言いながら、水穂さんの口元を吹いてやると、内容物は、朱色に近い真っ赤な液体であった。久は、余計に、自分は江戸時代か明治時代にタイムスリップしたのかと思ったが、水穂さんは、すみませんといった。

「まあ、勘弁してくれよ。こういう風になっちまうほど、貧しいやつが、日本にもいるってことなんだ。それは、仕方ないことじゃないか。日本の歴史的な事情でさ、一般の平民よりも、低い身分とされたやつがいたんだよな。」

ということは、れい子が世話をしていたのは、そういう身分の人間であったということになる。久は、思わずれい子にはふさわしいのではないかと思ってしまって、笑いたくなってしまったが、水穂さんの後ろにそびえ立っている、グロトリアンと書かれたピアノと、本箱に大量に入っている楽譜のタイトルをみて、それはやめようと思った。ゴドフスキーといえば、世界一難しい曲を書いたと言われる作曲家だ。このゴドフスキーの楽譜が大量にあるということは、決して頭が悪い人ではないはずである。水穂さんも、誠実に生きてきた人に間違いなかった。

「わかりました。あなたのことは、誰にもいいません。それよりも、早くお体を治して、皆さんに、音楽を届けてあげてください。」

久は、それだけ言った。

「ありがとうございます。」

水穂さんは、力なく言った。少なくとも、この口調では、れい子を自分からとってしまったということは無いのではないかと思われた。こんな弱った男に、他人の妻をとってしまうということは、できやしなかった。

「それから、ほんのお礼ですが、れい子のことを見てくださって、ありがとうございました。」

水穂さんは、いえ、そんな事、と言っているが、久は、心から、感謝したいと思った。水穂さんのような人でなければ、れい子に居場所を与えてくれることもできないはずだ。普通の人であれば、れい子をかえって仕事のじゃまになるとかいって、遠ざけてしまうだろうから。そうしないでくれたことだけでも、感謝しなければ。久はそう思った。

「いえ、そのようなことは何も。」

という水穂さんは、また咳き込み始めてしまうのであった。杉ちゃんが、サイドテーブルにあった薬の入ってる水のみに手をのばすと、久がそれを取り、水穂さんに渡した。水穂さんは、ありがとうございますと咳き込みながら言って、それを受け取った。


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歌を歌を歌うとき 増田朋美 @masubuchi4996

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