明るい表通りで
切野糸
明るい表通りで
線路沿いの小道を進み、喧噪を離れた坂を登ると、静かな住宅街の中で、ビストロが一軒、丁字路の隅に浮かび上がる。
主婦や会社員たちが次々と店から出てくる。昼休みが終わる頃だが、日差しが衰える様子がなかった。兼田巌吾は胸ポケットから刺繍のハンカチを取り出し、額の汗を拭きなから同行者を励ます。
「あそこだ、あとちょっと」
銀色に近い白髪が端整に切り揃え、金青のスーツを纏う男は兼田と同様、還暦を目前にしている。重い足を上げつつも、彼はあからさまに不満の様子だった。
「こんな若者向けのおしゃれ喫茶店にすんなや」
「いやいや、バルっていうらしいよ、バル」ハンカチで頬に伝う汗を吸い取り、兼田は続けた。「前はこの裏で張り込みしてたから、すっかりここのメシの虜になってさあ、鹿肉の燻製も絶品でさ」
空気が乾燥していて、気持ちのいい秋である。細長い雲は太陽を隠れきれず、兼田の饒舌さもあいまって、男は降参したように左手を上げる。
「もう、喋らなくていい、登ろう」
小指のない左手を落とし、兼田は口を閉ざした。
かれこれ半世紀弱の付き合いになった悪友、当波 修は、筋ものである。
ドアベルを鳴らし、二人はスーツ姿のサラリーマン達とすれ違って入店した。狭い店内にテーブルがなく、カウンター沿いに席を並ぶスタイルになっている。
細長い空間の中、二名のスタッフだけで切り盛りしていて、手前の流し台で若い店員が熱心にサラダを盛り付けている。
カウンター前のハイチェアに座り、木の板に貼られたメニューを取って、当波は唸りながら小さすぎる横文字を眺めた。
「とりあえず、ビール」
「そうでなくちゃ。それとつまむものを。燻製の盛り合わせにしょうか。すみません」
兼田は手を上げると、店員が両手の雫をエプロンで拭き、満面の笑みで向かってきた。
「はい、ただいま」
当波はメニューのアルコール欄を指差した。残りはすべて兼田が決め、注文は効率よく完了した。
兼田は少し皺ついたダークグリーンのジャケットを抜いて、深く被った釣り人帽子を取った。店の雰囲気と釣り合わないにもほどがある。そんな旧友に、当波が参ったかのように苦笑いをした。
「こなれしてんなお前。店員とも顔見知りになったんじゃねーの」
「まあそんなとこ」
背もたれが低いチェアに体を沈め、兼田は鼻で笑った。久しぶりに会った当波は、頬が少し瘦せこけているが、年が重ねてもシュッとして、すらっと長い手足と精悍なシルエットは相も変わらず、沈黙の間に凛然としている悪友は、やはり絵になる。
程なくして冷たいビールと小皿料理が届いた。二人はグラスを受け取り、そのまま互いのグラスを当てる。
「ひとまず、退職おめでとう」
「どうも。定年にしては気が早いが、希望退職に一口乗らせてもらったよ」
「羨ましいぞ」
「そういやお前とこはどうだ? 繁盛してる?」
冷たい液体を一気に喉に流し込み、兼田は無難の話題を振ると、当波はその単語を繰り返す。
「繁盛?」
語弊のある言い方だ。極道が繁盛したら世も終わりだ。当波はビールをチビチビと飲みながら答えた。
「まあまあってとこか。おかげで目障りなヤツらもだいぶ消えたな」
その話は公衆の場では、些かタブーだった。
週刊記者の兼田が在籍していた〝新視点〟は、社会の恥部を余すことなく暴露することで有名なスクープ誌である。
新人時代の兼田は当波から裏社会の情報を仕入れ、それを次々と記事にしていく。このやり方が当たって、兼田は波に乗った。反社会的組織に身を寄せる当波もまた、組が仇にしている団体のネタを兼田に横流し、脚色された刺激的なスキャンダル記事を利用して、都合の悪い存在とライバル達を潰してきた。
社会を揺るがすあの事件が発覚されるまでは、順風満帆だった。
「マンドリーの件は本当に……なんてお詫びすればいいか。そっちと繋がってるとも知らず、うちの新人達が踏ん張って取った特ネタと思って記事化にしただけさ」
「はあ、辛気臭いな、もう何年も前の話かよ、七年? 八年?」皺が刻まれた喉を鳴らし、当波は存在しない小指でテーブルを叩く。「しかしあれは一本やられたな」
あまりに痛々しい断面に、兼田は黙り込んだ。汚らわしい商売を暴いた代償は、何も知らない当波の指詰めだった。
株式会社マンドリー、日本有数のイベント企画会社で、お堅い授賞式からセレブパーティーまで、場所、企画、スタッフの派遣まで一任できるという手軽さが人気を呼び、実際兼田の〝新視点〟もかつて年末の打ち上げ大会で世話になった。
ことの始めは高層マンションの女性飛び降り自殺事件だった。死亡した女性はマンドリー社長の妻であることを判明された。死者の遺留物から、マンドリー社が「不当接待派遣」を従業員たちに強要する事実が発覚し、〝新視点〟はそのスクープを取り上げた記事を一番とりで刊行した。
当波が所属の暴力団がマンドリーから資金援助を受けていることで少なからずも揺るがせ、それから暫くの間、当波の消息が絶った。
ビールの泡が少しずつしぼんでいき、兼田の脈拍が乱れ始めた。ポケットにある常備薬を指先で確認してから、彼は訊ねた。
「憎むか、俺のこと」
「破門は逃れたし、憎いと思うか……?」当波は旧友の顎に残された傷跡を注視する。「人生はどこで間違うって、本当に分からないもんだな。逆にお前、俺のこと憎いと思う?」
想定外の質問に、兼田は硬直した。すると当波は指でちょん、無言にその古傷を指す。
「ああ、中学時のあれか」兼田は懐かしそうに顎を撫でる。「これはむしろお前に感謝すべきじゃないか?」
「皆の前でボコボコにされたぞ、何が感謝だ」
兼田と当波は同じ中学の出身で、地元に有名な古武術道場がある。武術を学ぶ場のはずが、いつの間に不良のたまり場になっていた。三年生のワルたちは隙があれば、放課後の校舎裏で後輩を勧誘し、道場に連行する噂も広まった。
「お前のことは一度も恨んだことがない、本当だ」
先輩たちに連れ去られそうな時に、横に通りかかった当波はちょっかいを出した。相手の人数が多い。だから助けるではなく、当波は彼らの前で思い切り同級生の兼田を殴った。
鼻と口に血の匂いがして、全身に焼け焦げたような痛みがした。少年兼田は頭がガンガンして、意識朦朧とした時に聞こえた声は、時折脳裏にこだまする。
ほら、あいつマジ弱っちから、俺を連れていけよ、な。と当波は明るい調子で言って、中三生達と兼田の視界から消えた。
道場の名は十英会。あの筋の者が若衆をスカウトするために作った仮初の稽古場であることを、兼田は数年後に知った。
「やっぱ変わってんなお前」
当波は痺れた足をチェアの上で折り曲げては降ろしながら言った。
「走れないっけ?」
入会直後、当波はいつかの乱闘に巻き込まれ、半月板が砕かれ、今でも事あるごとに傷が疼くという話を昔聞いたと、兼田が思い出した。
「ああ、そもそも走る機会もなかろう、子供の運動会なんてもんも一生ないし」
「家庭はいいもんだよ、修」
「独身のお前はなーにパパ気取ってんだ」当波は左手の親指と人差し指で輪にして見せる。「そういや今日退職だろう? たんまりもらってか?」
「退職金? あ、まあ、それなりにな」
「何に使うんだい。所帯もいないから、銀座でパッと使ちゃうんか」
もうそんな時代でもないし、体力もない。と兼田は答えようとしたが、藁のような前髪を掻き上げて苦笑いした。
「銀座か……」
「暗い顔してんな」
空いたグラスをカウンターに置き、当波は人差し指を立って見せた。
「はい、すぐお持ちします」
長髪をポニーテールに纏め、無精髭を生やした男性店員が答えた。顎に一本の白さも見つからない彼に、兼田はふっとうらやましく思った。
「そうじゃないんだ」
兼田は隣の椅子に置いたビジネスバッグを開け、薄汚いクリアファイルを取り出す。
「記者は今日でやめるじゃないのか」
当波が片眉を上げ、クリアファイルを受け取った。中に一枚の古い記事が保存されている。ゴシップ誌から乱暴にちぎったようで、紙の端が少し破れている。
「やめた、だからだ」
銀座ホステス殺人事件。黒の太字表題と十英会が持つビルの写真がモノクロに印刷されている。日付は不思議にも、八年前の今日だった。気味悪さで当波は即座に返した。
「俺に見せてどうする」
「お前んとこのシマだ。今やもうこの事件を追う者はいないが、腑に落ちないんだ。何でもいい、何がささやかなことでもいいから――」
「なんてことを頼むんだい、お前さんよ……」
「手かかりは全て尽くしたから、悔しいんだ。記者人生も今日で最後。死者に囚われず、夜はぐっすり眠りたいんだ。頼む」
ここはおしゃれなバルじゃなければ、きっと兼田はもう土下座して額を床にぶつけ、血が出るまで頭を下げるだろうと、当波はその光景を想像した。
おかわりのビールが来たが、二人とも手を付ける気分にならなかった。
西日が差し込んで、当波の額に不快な熱がこもっている。長髪の店員に目を配ると、相手はすぐ足を動かせ、正面ガラス窓のサンシェイドを下した。
すみません、眩しいですよねと会釈して、店員は軽快な足取りで二階のテーブル席に向かった。
二人以外、一階の店内は誰もいなくなった。兼田は乾いた上唇をなめて、話を始める。
「事件の被害者は銀座のクラブに勤めるホステス。源氏名はみうで、本名は桧山雨(あめ)だ」
「お前がどうしてそのホステスのことをここまで肩を入れるんだ」
「当時は大臣秘書の献金事件で、よく銀座に足を運んだんだ。情報面で色々と助けてもらって、恩がある」
「ふん、それだけじゃないだろう。いい年のおっさんが惚れ込んでんな」
当波の冷やかしに、兼田は否定もせず続けた。
「しかしまさかあんなことになっては……しかも白昼堂々、目撃者なしの銃殺。ここは日本だ、何もかもおかしいぞ」
「舎弟達から聞いたのは、痴情のもつれって話だ」
グラスの雫がテーブルに落ちて、当波は指先でその水をふき取る。
「……あの二つの水死体のことか」
「サツの中でも、容疑者候補のトップ2に入ってる。お前も記者なら、多少その辺の情報は、掴んでんだろう?」
「さあ……確かどっちも被害者と親しい男性で……」
「一人は桧山雨の弟、陸だ」当波は首を伸ばし、バルの台所に誰もいないと確認してから話した。「会長が愛人の間でもうけた子で、親父さんとそっくりの男前、うちの若、だった」
「そうなのか……!?」
あまりの動揺ぶりに、兼田の椅子が僅かに揺れた。
「姐さんは三度も流産して、気に入らなくても、会長の後継ぎはもう愛人に託すしかなかった。中の一人、レイコって女は陸を生んでから誰にも知らせず、ひっそり実家の長岡に帰ったが、地元の噂が広まって、最終的に会長の耳にも入った」
「ほんで息子をさらった、と」
「ああ」
携帯灰皿を取り出し、当波はタバコに火を付けた。
「ここ禁煙」
「客もいないだろ今」紫の煙を吐き出し、当波は兼田の指摘を無視した。「一服しないと喋ってらんねーよ」
「そうかい」
「とにかく、不本意で東京に連行されたから、若は随分と会長に反発的な態度を取っていた。反抗期は終わる日がないくらいだ。気持ちは分からなくはないさ、継ぐ気はないのに、いきなり帝王学ってもんを無理矢理詰め込まれたらそりゃあ……」
「とは言え、彼は姉の桧山雨を殺す動機はないだろう」
「ある、大いにあるさ」
タバコの灰を携帯灰皿に落とし、当波は声量を抑えた。
「何年か経って、姉の雨は十英会に出向かい、自分を引き換えに、弟の陸を返して欲しいと直談判にやってきた。骨のある女だが、会長は二人を帰すつもりはさらさらなかった。そんで雨は、姐さんのクラブで働かされることに」
「腐っても会長の娘じゃないか、なぜ水商売を――」
「姐さんの機嫌取りだよ……宝石や花束のように、人間も、ただのプレゼントだ」
「そこは弟の陸とどういう関係が――」
「やばいやつだ、若。異常に姉を依存してると聞いた。姉弟なのに、雨を恋人のような――」
「お前はその目で見たのか」
「実際、雨に手を出した客を全員一人残さず叩き潰した。嫁ぐ先の男たちも。いよいよ会長にも愛想尽かされて、勘当されてから、行方不明になった」
「ちょっとまで、嫁ぐ?」
「っと、忘れろ。そういう噂があるだけで、事実は知らん」
「もう一人は? 確かその交際相手だろうな、有海大成っていう男。通信会社で勤める普通の会社員だったな」
「雨の高校時代の同級生で、社会人になって再会して、しばらく同棲してたらしい。雨がクラブに働かされてから、そいつが店の前で泣き叫んで警察沙汰になったってよ」
当波の話に不信感が強まったが、兼田は次の質問をぶつけた。
「こんなことで容疑者リストに載るのか」
「雨は自分がクラブで働いてることを、誰にも言ってないって。尾行か個人情報の抜き取りをしたかも、あの有海が。どっちにしろ、最終的に嫉妬心による犯行だろう」
あれこれ問い詰められているうち、当波は苛立ち、革靴のつま先で床を蹴り始めた。
「……そして桧山陸と有海、この二人は水死体で発見されたのは、お前んとこの仕業?」
「まさか」生唾を飲み込んで、当波は続けた。「あの二人は、互いのことを桧山雨殺しの犯人だと認定し、長い間睨み合ってんだろうな。相討ちとなってもおかしくない」
「そうかい? 俺は聞いたのはそうじゃないな」長髪の店員が二階から降りて来ず、兼田は振り向いて確認してから、当波を真似してタバコを一本咥え、火をつけた。「あの二人は一緒に行動してる目撃情報はあった」
「若とあの会社員が共犯?あはは、ねーよ」
「嘘、下手になったな、修。」兼田が神妙な面持ちで促す。「一面にも載った、十英会を揺るがす大事件を忘れたか」
当波は観念した。
「……そうだよ、姐さんが失踪した翌朝、誘拐犯がボイスチェンジャーを使って電話してきた。真犯人を差し出せ、そうすると姐さんを返すってな。もちろん犯人は誰か誰も分かんないって。しかし俺らが取引きの長磯海岸についたら、その近くで赤いバンを見つけ、後ろのトランクに姐さんが――」
「死体で?」
「ピンピンに生きてんだよ。それから何日か経って、近くの崖で男二人の遺体が発見ってニュースが流れた。魚に食われて惨めな……」
「あの二人、何故暴力団会長の妻を攫うんだ」二口吸って、兼田は当波の携帯灰皿にタバコを突っ込んだ。「心当たりあんのか」
「言うと思うか?」
「これで分かったよ。やっぱりあのマンドリーって会社と関係あるな」
「……お前さんは今日、冴えてんな」
勘は鈍っていない。何がある。当波は奥のキッチンで皿洗いをする若者を睨んだ。淡々として仕事をこなしているふりだが、自分達の会話に耳を立てているに違いない。
「こればかりは、当たりたくなかった」兼田も同じことを気づいたようで、一目で奥を見て、また当波を手招きして近寄らせた。「答え合わせだ」
「マンドリーの社長は業界一のフィクサーで、とんでもない狂人だ。営業を強要された嫁が飛び降り自殺した直後だぞ。うちに電話してさ――いい相手を紹介してくれと。姐さんは組のために、仕方なく斡旋を引き受けた」
「……よりによって」
「子宝に恵まれない姐さんは、元々桧山雨のこと毛嫌いしてんだ。この件は都合がいいって」
「ホステスみうの嫁ぐ先、マンドリーなのか」
「だがその直前、そっちの『新視点』が特ネタを出しただろう。それでマンドリーに捜査が入ってうちは巻き込まれ……あんな怒り狂った姐さん、初めて見たよ」
「その後、桧山雨は銀座で銃殺されたと」
足音が聞こえ、当波は冷静に携帯灰皿を閉まって、ジャケットに匂いを振り払おうとした。
「もう話は終わり。知っていいことじゃねーぞ」
「ふっ、結局何も分かんなかった」
長髪の店員は両手に空き皿を持ってカウンターの裏に入る。兼田は手元でライターをひっくり返して遊び、落ち着きがない。
「お前は幸せもんだよ。手を汚さずにこの年までくってきたんから、ありがたく思え」
「そうか。毎日毒沼に浸かってる気分だけどな」
若い店員がレジ前で昼の売り上げをまとめ始めた。これはそろそろお会計してくれ、という嫌味に見える。当波は青年の腕を一目見て、ふっと背筋に悪寒がした。
「巌よ……やっぱとこじゃれた店は落ち着かないや、ランチ時間が終わったしよ、ぎとぎとで煙が染みる路地裏の小料理屋さんが俺らに似合うな。別のとこで飲みなおそう」
当波はチェアから上体を起こして、立てようとした。
「だな。とりあえず、今日は奢るよ、修」
兼田が革財布を取り出し、波打つ万円札を伝票の板に挟む。当波は止めるふりをして、ヘラヘラ笑っていたら、財布の裏側にある透明ポケットに視線を落とした。
透明ポケットの中に入ったのは切り取られた写真だ。古風の髪型にノースリーブの女性が、小さな女の子を抱えている親子が写っている。
「巌、お前に妹いったけ?」
財布を取り上げ、当波はなめるように写真を観察した。まだ幼い少女の顔に既視感があるが、その答えを口にしてはいけない気がした。
「その子は雨。桧山 雨。俺の娘だ」
グラスに残されたビールを飲み干し、兼田は空っぽな声で答えた。
「なっ、ばかな。お前さん酔ってんのか、あの子は会長の娘――」
「陸はそうだが、雨の父は俺だ。DNA鑑定書もある、間違いない」兼田は俯いたまま、人差し指でカウンターを叩く。まるでカウントダウンのように、テンポよく、均一と。
「いや――だって――」
「レイコはお前らに何度も電話をして、手紙も送った。雨は違う。あの子を返せって。しかし返してもらえないようだ。それで俺に相談した。俺はあのクラブに通うのは、娘に会うためだ」
――そんな、そんなそんなそんな、まさか……
当波が全身の血が抜かれたように、手足が冷たくなった。汗が止まらず、筋肉が萎んで、体中が金縛りのように身動きできなかった。
「飲み物に何を入れ――」
「お前の親分が欲しいは子供じゃなくて駒だろう?」兼田は諦観漂う表情で続けた。「俺の娘を家畜のように扱った。皮を剥がして骨をしゃぶり、肉を食っては血を啜って、そしてお前は傍観した」
「違う!」
「すみません、ラストオーダーの時間です!他にご注文は?」
張り詰めた空気の中、店員の青年はカウンター越しに声をかけてきた。当波は彼を睨み、また何かを疑っているように目を細めた。
「大丈夫だ」
兼田は平穏な声調で答える。
ふっと何を見落とした気がして、当波は振り返ると、店員が既にカウンターを出て、入口にかけた【営業中】のプレートをひっくり返して、【準備中】をおもでにした。
「……どこかで見たような顔」
「話を逸らすな」
「いや、あいつ――」当波は自信なさげに続ける。「ここ寿司屋じゃないぞ、なんて手に切り傷があんなに……」
「教えろ、修。誰がやったんだ」
兼田は拳でテーブルを叩く。その音に店員達が驚いた顔で振り向いた。
「知らねえって何回言えば」
「お前は知らないはずがない」
「十英会は彼女を殺す理由なんざないんだよ、ただそれだけだ! まだ何を追及しようと」
「じゃあ殺人教唆か。首謀者が誰だ」
「知らねぇーっつてんだ!」
当波は声を荒らげ、震えた両手でスーツのジャケットを脱いだ。どこかに武器を忍ばせているのか。兼田は目を伏せて呟く。
「お前だろう……修。なぜ、殺した」
「……!?」
「教えてくれ、誰にも言わない、警察にも通報しない、約束だ。俺は約束を破るような人間じゃない、お前が一番よく知ってんだろう?」
当波は顔を上げ、目の前にある兼田の顎は、蛇のようなあの古傷が蠢いている。自分が刻んで、兼田を苦しませ、そして二人を人生の分岐点に立たせた烙印が、今この瞬間も当波を呪い続けている。
「姐、姐さんが……」
秘密を暴くと決めた途端、当波の瞳にただ涙が溢れてきて、止まらなくなった。
「会長の妻が犯人か?」
「違うんだ、そうじゃねーんだ、選べって言われたんだよ!」
まるで子供のような口調で喋る当波は、鼻水を垂らしながら号泣しだした。
「選べって……?」
「組の仇だって、あの記者か、小娘か、自分で選べって、どっちを殺めるを決め、ケジメを落としてこいってんだ!!」
「……俺にすれば、良かったのに」
兼田の目に生気が失った。当波は怖いもの見たさで仰ぐと、その口が何をブツブツと唸っているように見えた。
「イワっ……?」
「やれ」
兼田の言葉とほぼ同時に、カウンターの向こうに金属が落としたような音がした。僅か零点コンマ秒の体感だ、当波は反応する前に、轟音と鮮烈な痛みに伴い、生ぬるい液体が容赦なく顔に飛び散った。
「あっ、あぁ、ああああああああああ」
包丁が当波の手の甲を貫通し、机を深く差し込んでいた。凄まじい耳鳴りが起こし、肉と骨の間に金属に捌かれている感触に吐く気がして、俎板の鯉になった彼は震えながら横に向き、加害者の顔を見つめた。
――若……?
死ね!包丁を刺した青年が吼え、カウンター裏から長い刃物を取り出した。途端に長髪の男が合間を詰め、その凶器を奪い、当波の喉に狙いを定める――
「殺すな、大成」
「巌さん――!」
血がとめどなく流れ続ける。激痛の中にこめかみに当ててきたのは、冷たい銃口の感触だ。
セーフティを解除して、兼田は淡々と告げる。
「俺がやる」
言葉とほぼ同時に、引き金が引かれた。
「っ!!!」
当波がか細い悲鳴を上げ、両ひざを地について痙攣し、やがて両目を見開いたまま息が絶えた。
映画のような派手さがなく、当波の硬直した屍はまるで許しを乞おうようで、怯むように見えた。
八年間。兼田が毎晩毎晩想像していた結末だ。ただ相手は当波とは、考えたことはなかった。
彼を殺すことに、自分もまた業を重ねた。復讐を終える解放感が、ついてこない。
兼田はやっとカウンターに振り向く余裕ができた。包丁で当波を足止めした桧山陸は力が抜け、床に座り込んでいたせいで、顔がよく見えない。
桧山陸は当波と面識があった。計画のために整形までして、声質の変え方も学んだ。自分のせいで失敗したくないと、ストイックな青年だ。
まだ立っていられる有海大成もまた、手が震えていた。三人の中で、一番犯人への憎しみが強いかもしれないと、兼田は時折思った。自分の手で当波を殺めない悔しさもあるだろうか、鮮烈な復讐に目を離さずに見届ける、根性のある男だ。
手を下ろして、兼田は凶器から伝わる重みに、かつてないほどの疲労感に包まれた。
あれはいつのことか、今となっては覚えていない。目を閉じて、兼田は今日と同じよう、晴れ渡るあの日の光景を頭の中に浮かばせてみる。
『あじさいはね、家族団らん、という花言葉もあるそうです』
初めて銀座のクラブで雨に会った時、彼女はもう知っていたようだ。自分はヤクザではなく、みっともない記者の娘だと。
六月になったらあじさいの花束を持って会いに行こう。レイコと雨と三人で、家族らしく、食事でも。
しかしそんなささやかな希望は叶わずに消えた。その日はあまりに悲しいのに、空は晴れやかで雲は一つもない。霊園に向かう坂の中腹の花屋に、色とりどりの植物が鮮やかに咲き乱れた。そこで買ったあじさいの花束もまた皮肉なことに、娘が好きな紫に深々と染まっている。
お客様はもう三人目ですよ。不思議ですね。
花屋の老婦人がそう言うと、何が不思議かと尋ねた。この日に供えの花をあじさいにする客で三人目だと、妙な答えを返した。
長い坂を上り、娘の墓に着いた。そこには、既にあじさいの花束が二つ、供えられていた。
ジャックナイフのような鋭い目つきをしながらも、どこかに雨に似ている青年と、憔悴しきって、髪が雑乱に伸ばしたノッポの男が無言に佇んでいる。
三人とも、同じデザインのハンカチを取り出した。右下に自分の名前のイニーシャルと、雨粒の刺繍が施されたハンカチを。
兼田はここでT.Aと、R.Hという二人の男と、手を組むことを決心した。
再び瞼を開けると、最初に目にしたのは、血しぶきに無残に染められた、白ペンキの壁だ。ここをリペイントしたのに、小僧達と何時間もかかって、腰を痛めて大変だったと、兼田は無性に寂しくなった。
呼吸をしてみると、生臭いにおいがする。室内に流れているジャズのBGMが明るいが、悲しい結末をありありと予感させる。芸術も音楽にも興味がない当波は、稀に口ずさむルイ・アームストロングのメロディーを、少しだけ思い出した。
死をもって償ってほしいと望んだ犯人が、生き続けて欲しいと望んだ唯一無二の親友だった。死よりも重い罰は、音もなくのしかかってくる。
「大成、陸」兼田はゆっくりと口を開く。「俺はなんとかするから、もういきな」
「巌さん……それはないだろう」
有海は嫌悪そうな表情で答えると、カウンターの裏に座り込んだ桧山も呼吸を整え、会話に加わった。
「僕も残すよ」
「お前らな……」
「ディナーの仕込みがあるから」
桧山の答えは、二人の男の笑いを誘った。入口のガラスドアにかけた【準備中】のプレートは、夕暮れの涼風に吹かれ、カラン、カランと、軽い音を鳴らす。
明るい表通りで 切野糸 @kirinoito
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