誘拐監禁殺人鬼

いかずち木の実

誘拐監禁殺人鬼

 私はただ、大学へ急いでいただけなのだ。

 街は連続殺人事件のせいで陰惨な雰囲気に包まれていたけれど、それでも授業がリモートになることもなければ、休講になるわけでもない。

 私は必修ながら危うい単位のために大学を目指し、街を歩いていた。

 ……だというのに、どういうわけか。

 私は一人の少女とすれ違い、単位を捨てていた。

 ガラス細工めいた、それはそれは美しい少女。

 抱きしめたら折れてしまいそうな四肢、頼りげのない肩、たおやかな腰、すべてが華奢で儚く、その手の好事家を満足させるためだけに作られた芸術品めいていた。

 ガラス細工めいた彼女は、きっと叩き割れば光の乱反射でより美しくなる。

 私は、彼女の魅力を引き出さなくてはならない。

そんな強烈な使命感が、私を動かしていた。

 華奢な体は容易く組み伏せることが出来たし、その白くて柔らかい肌は、まるで吸い込むように冷たい刃を受け入れる。胸骨やアバラの隙間を滑らすように差し込まれるそれは、いいお肉が噛まないで食べられるように、ほとんど力を必要としない。

 そうして彼女の整った、しかし幼い顔が苦悶に歪み、見開かれたルビーめいた真っ赤な瞳が私の姿を映す。

 欲情に染まりきった、見るに耐えない顔。

 私は真っ赤に染まった私を見つめながら、少女の体を包む青いドレスを、腰まで伸ばしたサラサラふわふわの銀髪を、真っ赤に染めていく。何度も、何度も、愛用の“偶然持っていた”ナイフを薄い胴に突き刺す。

 ……いや、本当に偶然なのだ。

 今の私は殺人鬼ではなく大学生で、当然殺人の下準備だって何もしていなかったし、格好だって雨合羽じゃなくて真っ白なチュニックブラウスだった。

 ナイフはただのお守りで、これを持ってないと落ち着かないだけ。

 なのにどうしてだろうか、私は午前十時、路地裏の突き当りで少女を刺殺している。

 お気に入りのチュニックブラウスが、真っ赤に染まっていく。必修科目の単位が、落ちていく。

(……でも、しょうがないか)

 授業は来年再履すればいいし、チュニックブラウスは新しく買えばいい。しかし、この子を殺すタイミングは今しかない。この時を逃せば、二度と彼女に出会えないかも知れない。今しかできないことをやるべきだ。

 そんな一期一会が、私のうちに久しぶりの興奮を蘇らせる。下着が、血液とは別の液体でべちょべちょになる。性欲と支配欲と背徳と他にも色々――社会的な要因と身体的な要因がごちゃまぜになって快楽を運ぶ。

 あのときと同じだ。

 一人目のときも、突発的な犯行だったから。だからとても楽しかった。サプライズだけが、人生を豊かにしてくれる。予定調和はつまらない。

 計画的なものとはまた別ベクトル、これはきっと宝くじが当たった興奮で、こないだのあの子は日々の努力が結果に現れたテストのようなものだ。

 幸運を貪るように、とっくの昔に冷たくなり、動かなくなった少女の体をなぶり続ける。ルビーの瞳は、淀んでもなお、美しい。

 ――こんなことを続けていたら、いつかきっと捕まるぞ。

 そんな私の脳裏に、冷静な声が響いた。

 いいや、今すぐでもおかしくないね。まだ午前中、いくら人気がない場所だって言ってもアーケード街の外れだ。誰も来ないなんてどうして断言できる? この場をこのまま去ったとしても、そんな血まみれの服で誰にも見咎められずに帰宅できるはずがない。もう詰んでるんだよ、私は――

「――うるさい、うるさい、うるさいっ!」

 私は捕まらない。

 今までだってそうだったのだ、きっとこれからも捕まらない。

 突き刺す、突き刺す、突き刺す。もう血なんてろくに出ないけれど、縋るように。

 元の色が赤だったと誰もが思うように、上半身を晒し、脱いだチュニックブラウスに血液をまぶしていく。

「……流石にそれじゃあ、バレるんじゃないかな」

「黙れっ!」

「肌にも血が付いてるし、何より匂いがキツすぎる。……それに、そんなに喚いていると、人が来ちゃうよ」

「うるさい、黙――」

 私はそこで、ようやく気づいた。

 ……少女が、死体が、喋っていることに。

「にしても、おっぱいでっかいね、お姉ちゃん」

 真っ赤な血の池に、白百合のごとき微笑が咲く。

 次の瞬間、後頭部に灼けるような痛みが走り、私の意識は断絶した。


「……はじめまして、堂本冬羽(ふゆは)、です」

 義理の妹は、義理の母の背中に隠れて、恥ずかしそうに名乗った。

「渦原(うずはら)、でしょ。ちゃんと挨拶しなさい」

 父の再婚相手――義母にたしなめられ、義妹は改めて私の前にやってくる。

「……渦原、冬羽、です。……小学五年生、です」

 そこでやっと、私は彼女の――冬羽の顔を、ちゃんと見た。

 思わず息を呑むような、とても可愛らしい女の子だった。

 色素が薄いふわふわのボブヘアに、緊張に紅く染まった柔らかそうなほっぺた、口端から覗く幼い八重歯――そして、ぱっちりと利発そうな、全てを見通すような鳶色の瞳。

 きっと将来は、絶対に美人になる。そんなふうに断言できてしまう彼女。

(……こんなかわいい義妹ができるなんて、聞いてないよ)

「――四季、ちゃん?」

「は、はいっ」

 知らぬ間に、見とれていたようだ。

 私は屈んで視線を合わせると、新しい妹に名乗った。

「――はじめまして、私は四季。渦原四季、高校二年生だよ。これからよろしくね、冬羽ちゃん」


「……ここは」

 一番最初に視界に入ってきたのは、コンクリートの灰色だった。

 ついで、背中に硬くて冷たい感触を覚える。

 驚きとともに身を起こし、順繰りに部屋に目をやると、打ちっぱなしの床に、申し訳程度の仕切りがある洋式トイレ、簡易ベッド、洗面所、吊るされた白熱電球が四畳ほどのスペースに見えた。

 ひどくみすぼらしい空間。……けれどもそんなものは、私の目の前に広がるそれの前では、あまりにインパクトが薄かった。

「……牢屋?」

 それは、鉄格子だった。

 私は、鉄格子で区切られた。窓もない小部屋に押し込まれていた。鉄格子の向こうは、白熱電球の照らすより先は暗くて確かめることは出来ない。

 ……ついに逮捕されたのかと思うが、記憶は曖昧で、少なくとも警察に捕まった覚えはなかった。

 一応お約束といったふうにガシガシと動かしてみるが、びくともしない。ただ冷たい感触が帰ってくるだけだ。

 そして今更に、私は真っ赤なチュニックブラウスを着ていることに気づく。……ひどく血なまぐさい、間違いなくあのときのブラウス。

(……待て、あのときって)

 記憶を探る。

……私は確か大学に向かっていて、途中で青いドレスの女の子を殺して――

『にしても、おっぱいでっかいね、お姉ちゃん』

 いや、おかしい。

 確実に殺していたはずだ。あれだけ刺して、生きているはずがない。仮に生きていても、肺腑を何度も突き刺しているんだ、明瞭にしゃべることなんて出来るはずがないし、笑顔を浮かべるなんて以ての外だ。

 だからあれは単なる悪夢だったはず――はずなのに、手元の血染めのブラウスがそれを否定する。

 そんな私の思考を、足音が遮る。コツコツと、階段を下る音が響き渡る。

 そしてそれは、牢屋の前に現れた。

 ガラス細工めいて、ひどく繊細な体躯。絹のような、色素の薄い金髪。そして、私を呑み込むような、紅い紅い瞳。

 それは、傷ひとつない美しい体に、やはり傷ひとつない青いドレスをまとい、こともなげに言った。

「あ、起きてたんだ、お姉ちゃん」

 可愛らしい声音が、牢屋に響く。

 私は、声が出ない。

「いやあ、びっくりしたよ。白昼堂々襲いかかってくるんだもん。いくら巷を騒がす殺人鬼だからって、ちょっと大胆すぎない? ねえ、渦原四季お姉ちゃん?」

「……ッ」

 名前を呼ばれて、肩が跳ねる。

「お財布に学生証が入ってたよ? もし現場に落としてたら確実に捕まるじゃん。ここに運ぶときも大変だったし、もしかして馬鹿なの?」

「……黙りなさい、化け物」

 私はやっと声を振り絞って、少女を睨めつけた。

「化け物じゃないよ。わたしの名前は烏丸(からすま)ユウ。ちょっと殺しても殺せないだけの、ごく普通の女の子だよ」

 にしても――烏丸ユウと名乗った化け物は続ける。

「わたしが不死の化け物だっていうのはすぐ受け入れるんだ」

「だって絶対殺してたもの。……それで生きてるなら、化け物しかありえない」

 ましてや、別人であるはずがない。

 こんな、ゾッとするほど美しい少女が、ふたりもいてたまるか。

「殺人鬼のほうがよっぽど化け物だよ。もう四人も殺してるんでしょ、わたしくらいのちっちゃい女の子」

「……それで、私みたいな殺人鬼を捕まえて、それでどうしたいのかしら」

 私は手慰みにポケットを漁るけれど、ナイフは見当たらなかった。

 格子越しに少女を突き刺すことも、叶わない。

 ……いいや、それでも手を引っ張って鉄格子で頭を割るくらいなら?

「お姉ちゃん、すっごい目で見てる」

 ぬっと、少女の顔が私に近づいた。

 赤い瞳に間近で見上げられて、息を呑む。……幼さの中の妖艶さが、背筋に冷たいものを走らせる。

「今も考えてるんでしょ? わたしのこと、どうやったら殺せるか。……わたしも探してたんだよ、わたしを殺せる、顔が好みな人」

 少女が、烏丸ユウが、私のナイフを差し出す。

 鞘を持って、持ち手が格子越しに差し出される。

 だから私は、それを掴み、鞘を滑らせ、刃を彼女の首筋に突き刺した。

 頸動脈を切ったようで、冗談みたいな量の血が飛び散る。

 そのまま、烏丸ユウは力なく倒れ伏したけれども、

「……あは、やっぱりだ」

 しかし逆再生めいて、すぐさまに立ち上がった。

「でも、鍵を開けるくらい待ってないかな。がっつきすぎだよ」

 苦笑を浮かべながらも、その瞳は爛々と輝くのを隠せていない。

 逸る気持ちが、鍵を取り出すのを邪魔して、ようやっと取り出したそれを差し込むのにも難儀する有様だ。

 ようやく鍵が開くと、私は少女を押し倒して、あのときと同じように、滅多刺しにした。

 いくら殺しても死なない、メチャクチャに好みの少女。

 それが私に、殺してくれと懇願している。

 天使が舞い降りたと、本気で思った。

 私は天使の眼球を噛み砕きながら、切り取った乳首をしゃぶりながら、小さな舌を噛みちぎりながら、幾度も絶頂した。


 天使が舞い降りたと、本気で思った。

 新しく出来た義理の妹――冬羽は、それくらいに可愛かった。

 いいや、最初に見たときから可愛いとは思っていたのだ。……だけど、いくらなんでもこれは、破壊力が高すぎる。

「……お姉、ちゃん」

 恥ずかしそうに目を伏せて、蚊の鳴くような声で、しかし冬羽は、確かにそう言った。

 ほかならぬ私を、渦原四季を、お姉ちゃんと、呼んでくれたのだ。

 思わず抱きしめそうになるのを、必死で抑える。

『ねえねえ、一緒にゲームしようよ』

『あ、私もこのマンガ好きなんだー』

『冬羽ちゃん、なにか苦手な食べ物ってある?』

『わ、その服すっごく可愛いね』

『これお姉ちゃんのお古なんだけど、ちょっと着てみない? 絶対似合うと思うから』

 彼女がこの家に来てから一ヶ月、隙あらば話しかけ、煙たがられながらも、ついに手に入れた快挙。それを台無しにしたくない。

「……えっと、今、なんて言った?」

 だけど、これくらい訊くのは大丈夫だろう。

「なんでもない、です。……四季さん」

 だめだ、自分を抑えきれない。

「お姉ちゃんって呼んでよ、もっかい!」

 気がつけば私は、叫んでいた。

 こんなと露骨なワガママ、いつぶりだろうか。

 母が亡くなって以来、いい子で居続けようとしたはずなのに、どうしてか年下の女の子に駄々をこねている。

「だって私、お姉ちゃんだよね、冬羽ちゃん! 姉妹だよね、私たち!」

 血が繋がってなかろうと、姉妹は姉妹のはず。

 私のワガママに、冬羽は、少しムッとした顔で言った。

「……じゃあ、冬羽って呼んでください」

「え、でも、それは……」

 それはちょっと馴れ馴れしいというか、冬羽も嫌がるだろうなと言うか、こっちも照れくさいと言うか――

「呼んでくれないなら、私も呼びません」

 拗ねたような彼女の横顔に、私はようやく気づいた。

(……そっか、この子も、照れくさかっただけなんだ)

 そりゃそうだ。高校生の私だってそうなのだから、人見知りする彼女が『お姉ちゃん』なんて呼べるはずがない。……きっと、先程もとても緊張していたはずだ。

 ならば姉は姉らしく、手本を見せねばならない。

 恥ずかしいのを我慢して、妹のために頑張らねばならない。

 私は一度深呼吸して、冬羽を見つめ、こう言った。

「……冬羽」

 今すぐにでも“ちゃん”と付けたいが、しかし、我慢して。

「……うわ」

 冬羽の顔が、真っ赤だった。それを隠すように、顔に手を当てている。

「これ、恥ずかしい」

「じゃあ、やめとく?」

「……ううん、大丈夫だよ、……ええっと、その、あの」

「うん?」

 これみよがしに耳を澄ます。

「……お姉、ちゃん」

「冬羽ぁああっ!」

 あまりの可愛さに、私はたまらず冬羽を抱きしめた。


 引きちぎった小さな舌を、嚥下する。

 少女の舌が、私の体の糧になっていく。

 人間の肉など美味しいはずがないのに、それはひどく甘美な味わいだった。

 きっと私は、血に酔っている。

 見下ろすとそこには、全身に数え切れぬほどの刺し傷を持ち、舌を千切られたことで口から泡混じりの赤を漏らしている、隻眼の少女がいた。

 未だ健在の右目は、以前と変わらぬあの目で私を見上げていて。

「これでも死なないんだ」

 返答代わりに、口からごぼごぼという音がする。

 しょうがないので、左目があった眼窩に刃を突き立てた。

 そのまま、蟹味噌でもほじくるように刃を動かし、脳をシェイクする。

 守るものの無い脳は豆腐のようで、たまに頭蓋に当たる感触がある程度で、他に分かりやすい手応えはなかった。それでも、生命を冒涜しているという事実が、私の手を早める。

(……ああ、ちん○んがあったらここに突っ込んでるんだけどなあ)

 とは言え、流石にこれで終わりだろう。

 私はしばし別れを惜しむように脳をほじくったあとに、脳漿と血液のグラデーションで彩られたナイフを抜く。

 ぺろりと舐めると、血の味がほとんどで、脳漿の味はわからなかった。

「……もうちょっと楽しめばよかった」

 きっと、こんなに集中して人殺しが出来るなんて、もう二度とないのだろう。今までは常に何かに追い立てられていて、殺しの楽しみを十全に味わってなかった気がする。

「――あは、まだ終わってないよ」

 ひどく明瞭な発音が――左脳は言語を司るらしい――、舌を千切ったはずの口から漏れ出た。どころか、まるで逆再生しているかのように左目も回復していく。……おそらく他の傷も同様だろう。

「……嘘、でしょ」

「傷の治りをある程度コントロール出来るんだけどさ、脳味噌がやられたら思考ができなくなって回復が一気に進んじゃうんだよね。不死者は伊達じゃないってこと」

「ゾンビは頭やられたら死ぬのに」

「ゾンビなんて現実にいないよ、お姉ちゃん」

「不死者も殺人鬼もいるのに……」

「だいたいさ、そんな簡単に死ねるなら、今頃ちゃんと死んでるよ。だからお姉ちゃんが必要なんだ」

 そう言って、少女は私の手を掴む。小さくて柔らかな手。きっと簡単に指だって折れてしまうのだろうけれど、きっと無意味だ。

「……わたしには夢があったの。お姉ちゃんみたいな、美人のお姉さんに殺されるっていう夢が」

 少女は、キラキラした目で狂ったことを語り続ける。

「だから自殺だって我慢してきたんだよ? 今の社会なら、電車が、高層ビルが、わたしを殺してくれるかも知れない。……そう思いながらも、我慢してきたんだ。全ては、お姉ちゃんみたいな狂った人に出会うために!」

「……狂ってるのはどっちよ」

「そんなこと言いながらも、期待してるくせに」

 ああ、期待している。

 今まで社会に嵌められていたタガを外して、誰の目も届かないこの場所で、少女に陵辱の限りを尽くすことを。

 きっとそれは、たまらなく楽しい。今までの殺人が霞むような刺激が、私を待っている。

「ねえ、お姉ちゃん、わたしはこんなんだけど、ちゃんと殺してくれる?」

「ええ、必ず殺してあげるわ」

 そうして、第二ラウンドが始まった。

 思いつく限りの悪虐。今までやりたくても出来なかったこと。いつもならなけなしの良心が躊躇わせるようなこと。

 しかしそれでも、少女は死なない。烏丸ユウは殺せない。

 私は臓物と血の池に倒れ伏して、横目にそれを見つめる。今にも傷が治癒していく少女を、とても殺せそうにない少女を、異形の化け物を。……そして急に、冷静になった。

「そういえば、今何時かしら?」

 殺人鬼にも日常があって、落としてはいけない単位だったり、維持しなければならない人間関係があって。当然殺しだけをしてるわけには行かなくて。

「いい加減、そろそろ帰らないと――」

「何言ってるの?」

 気がつけば少女は、私に覆いかぶさっていた。

 つい先程まで殺されていたとは思えない、俊敏な動作。

 その手には、黒光りするスタンガンが握られていて。

 私はそこで、今更に思い出した。

「――お姉ちゃんはわたしを殺せるまで、ここにいるんだよ?」

 そうだ、この子は目的のためならば、誘拐や監禁なんて手段を平気で取るんだった。

 次の瞬間、あの鋭く灼ける痛みが、私の意識を奪い去った。


 冬羽が初めて私を『お姉ちゃん』と呼んでから、私があの子を『冬羽』と呼ぶようになってから、姉妹の仲はあっという間に進んだ。

 そして、冬羽が小学六年生になったばかりの春。

「――お姉ちゃん!」

 学校を終えて校門に出ると、冬羽が私に抱きついてきた。

「冬羽」

 小さな少し骨ばった体を受け止めると、もはや嗅ぎなれた、汗とシャンプーの混じった甘やかな匂いが鼻腔を刺激する。

 そのまま、彼女の頭を撫でる。……とても柔らかな、いつまでも撫でていられる毛質。

「相変わらず仲いいねえ、おふたりさん」

 私たちを冷やかす声。見やれば友人たちが微笑ましそうな目でこちらを見ていた。それだけじゃなくて、周りの生徒達もやたらほのぼのとした視線をこちらに注いでいる。

「……ッ」

 顔を真赤にした冬羽が誤魔化すように離れた。途端に手持ち無沙汰だ。

「い、いいから行こう、お姉ちゃんっ!」

 空いた手のひらを、再び冬羽が掴む。

「うんうん、行こう」

 私は友人に手を振って、冬羽に先導されるまま街を歩き出した。

 流石に毎日こうしているわけではない。

 ただ、今日は特別だった。

 父と義母がふたりきりで旅行に行ってしまったので、私たち二人きりなのだ。

 だから二人で、好きなものを食べて、好きなように過ごす。

 そのための下準備として、私たちは買い物へ出かけた。

「お姉ちゃん、これ買ってもいい?」

「うんうん、いいよ。なんでもリクエストしてね。なんでも作っちゃうから」

 ひまわりが咲くような、まばゆいばかりの横顔。

 この笑顔を見るために私は生まれてきた――そう言っても過言ではない。

 我ながら重いかもしれないけれど、それくらいに年の離れた妹は可愛くて。

「あれ? 冬羽ちゃん?」

 そんな私たちに、声がかかる。

 見やればそこには、ランドセルを背負った女の子が一人。少し大人っぽい雰囲気だ。

「あ、かなみちゃん」

「友達?」

 冬羽はうなずくと、私を彼女に紹介した。

「私のお姉ちゃんです」

 なんだか妙に誇らしげだった。

「へえ。いいなあ、すっごい美人だし。大人の女の人って感じ」

「そ、そう?」

 だからなんで冬羽が嬉しそうなんだろうか。

「今日は家に私とお姉ちゃんだけなんだ」

 何にせよ、冬羽にもちゃんと友達がいるようで――

「でも、あんまり似てないね」

 かなみちゃんの一言で、冬羽の表情が一瞬で曇った。

「……」

 家への帰り道。長い影と、小さな影が並んで歩いている。

 冬羽はすっかり俯いてしまって、先程から話しかけても上の空だった。

 ……私はどうすればいいのだろうか。

 正直なところ、私は別に冬羽と似ていなくてもちっとも困らない。血が繋がってないんだからそんなの当たり前だ。だけど、冬羽にとってはきっとそうじゃない。

 ……だからこそ、私には掛ける言葉が見つからなくて。

 そうしてついに、自宅にまでたどり着いてしまった。

 玄関前で、冬羽が呟いた。

「……お姉ちゃんはいいよね」

「はい?」

 それは半ば独り言めいていたが、次の言葉は明確に私に向けられていた。

「お姉ちゃんは髪もさらさらだし、歯並び良いし、背も高いし、美人だし」

「いや、別にそんなこと」

「私はクラスでも一番小さいし、髪だってくせっ毛でさ、歯並びも悪いし、鼻も低い」

「いやえっと、あの」

「……かなみちゃんだけじゃないよ。きっとお姉ちゃんの学校の人もみんな思ってたもん。似てないなあって。お姉ちゃんは美人なのになあって」

 思春期、というやつなのだろうか。全く私には共感できない悩みで。

「そんなこと、ないよ」

 こんなこと言っても無意味なのかも知れないけれど、反射的にそう返していた。

 だって、本当にそう思うから。

「冬羽は可愛いよ。それに、大きくなったら美人になる。絶対にね」

「……」

「お世辞じゃないよ。そうやって膨れてる冬羽も可愛い」

 私はそう言って、彼女を抱きしめていた。

「ちっちゃくて可愛いし、髪はふわふわで可愛いし、目も大きくて可愛い。八重歯なんてもう最高。こんなにお人形さんみたいな可愛い子が妹になるんだって、すごく嬉しかった。……可愛いは私がどう頑張っても手に入らないし、羨ましいよ。いつか美人にもなるんだから、ズルい」

「……本当に?」

「うん。冬羽は私なんか目じゃない美人になるよ」

「……鼻が低いのは?」

「ええっと、それは。あれよ、完璧すぎると近寄りがたいから、それくらいむしろ美点っていうか」

「苦しいよ、それ」

 冬羽が、くすりと懐で笑った。

 見やれば、さっきまでのふくれっ面はどこへやら。冬羽は少し涙目だったけれど、確かに笑っていた。

「……良かった。冬羽は怒ってるところも可愛いけど、笑ってるのが一番」

 私たちは笑いあって、私たちの家へ入っていく。

 そして、ポケットのスマホが着信を知らせる。

「……はい?」

 父からの電話。私はそこで、あまりに唐突な事実を知った。

『――母さんが、亡くなった』

 どうやら冬羽のお母さんが、死んだらしい。

 

 ……窓も時計もない、おそらくは地下の独房に監禁されている。

 少女を――烏丸ユウを殺さないと、私はここから逃れられないようだ。

 彼女は毎日ある時間になるとここにやってきて、大量のタオルと着替えを鉄格子に押し込んでから部屋の鍵を開けて、私に殺されようとする。

 私は何度も彼女を刺し殺すが、殺せない。

 今日も今日とて、彼女は私に殺されるために降りてきた。

 ……いい加減、殺さないと駄目だろう。

 お風呂には入れないし、娯楽と言ったら殺人とその記憶を反芻することくらいしかない。

 最初は役得だと思っていたけれども、それもいい加減飽きてきた。

 殺人そのものではなくて、この子を殺すことに。

 それに、いくら一人暮らしだからって、これ以上家に帰らないのはまずい。下手をすれば行方不明者届が出て、非常に面倒なことになる。

「じゃ、やろうか、お姉ちゃん」

 少女を殺すにはどうすれば良いのか、ずっと考えてた。

 首を切り落とす?

 最初に考えたのはそれだったけれど、首とは硬いもので時間がかかる。そうしてようやっと延髄が傷ついた途端、体が本人のコントロールを離れ、あっという間に傷が修復されていった。ナイフが首の中に取り込まれて本当に大変だった。

 だったら一瞬で、ギロチンみたいに刎ねればいい――そう思ったが、手元の装備でそれを行うのは難しい。

『首を真っ二つにしたいならチェーンソーでも買ってこようか?』

 少女の提案は(自分を殺すためという前提を除けば)間違いなく正論だったのだけど。

『ううん、いいよ、私はこれ一本で行くから』

 私は妙なこだわりを見せて、手元のナイフを見つめた。初めて人を殺したときから、私はずっとこれ一本だ。

「いいこと思いついたから、ちょっとやってみていいかしら」

 そうしてやっと、私はナイフ一本で首を刎ねる方策を考えついたのである。

「うん、いいよ――」

 返事なんて聞かずに私はその頭を掴んで、勢いよくコンクリートの床に叩きつけた。とっくの昔に赤茶けたコンクリートに、新しい赤が流れる。

 そのまま何度か殴りつけて、頭を掴んだまま廊下を進んでいく。

 そうして階段前でその体を引き倒すと、首元に向かって勢いよくナイフを突き立てた。

 当然、こんな事をしたところで、首は切断できない。

 私は死体を階段の真下に放置して、勢いよく階段を登っていく。そして頂点――鉄製のドアの前で、踵を返した。そのまま、階段を何段も抜かして降りていく。落下エネルギーを蓄えて、ずっこけた日には大怪我しそうな勢いで。

 そしてついに、私はナイフの柄に向かって、派手にドロップキックを放った。

 ごきりと、骨を砕く音が響く。

 喉を、刃が貫く。

 そのまま屈んで着地して、首を両手でもぎ取る。

 かくして、断頭は成功した。

「さて、こんなものかな」

 殺人とはまた別種。まるでジグソーパズルでも組み上げたような達成感。

 探偵小説に出てくる殺人犯も、きっとこんな爽快な気持ちだったのだろう。

「これでやっと帰れる」

 虚ろな目でこちらを見つめ続ける頭部を投げ捨ててナイフを拾いあげると、先程の階段を再び登っていく。

(……ていうか、さっきあのまま逃げればよかったじゃん)

 意外と律儀な自分に驚きながら、鉄製のドアに手をかけた瞬間――

「――あは、これでも駄目だったね」

 私の背中に、聞き慣れた声がかかった。

 振り返ると階下には、自らの首を片手に立ち上がる彼女がいて。

 ドアの鍵は、やはり閉まっていた。


 私は冬羽のお母さん――渦原御幸さんをよく知らない。

 家にはいたけれど、私は冬羽にかかりっきりで込み入った話をする間もなく、彼女は亡くなってしまった。

 なんでも橋の一部が崩落して、御幸さんだけ落ちたという。単なる不幸な事故だ。

 だけどそれは、私が単なる他人だから割り切れることで。

「……お母さん」

 当然、実の娘である冬羽にとってはそれはひどく重たい事実だった。それも、御幸さんは冬羽を生まれたときから今に至るまで女手一つで育てていたのだから。

 あの日以来、あの子は笑っていない。冬羽の笑顔は、あの玄関でのひと時を最後に止まっていた。

 そして今、御幸さんの葬式でも、やはり冬羽は大きく俯いていて。

 父もまた、最愛の人を亡くしたゆえに、ひどく気落ちしていた。

 ……私だけだ。

 私だけが、御幸さんの死に深く感じるものがない。

 だからこそ、私だけが冬羽や父さんを元気づけることが出来るのかもしれない。けれどもそれは、きっとひどく空虚なものになる。

 私には、その痛みがわからないのだから。

 人の痛みがわからないという疎外感。……思い出すのは、母が亡くなったときのこと。私はあのときも、父があそこまで落ち込んでいるのが分からなかった。

 もしかしたら私は、何かが欠けているのかもしれない。

 そんな、漠然とした恐怖。

 いくら込み入った話をしていないとは言えども、半年以上ともに同じ家で過ごしていた相手が死んで、ここまで無感動なのはおかしいのではないか。……私は何か、人として間違っているのではないか。

 御幸さんは私に積極的に話しかけてくれたし、家族になろうと努力していたと思う。

 だから少しはショックを受けるべきなのだろうけれど、本当に何の気持ちも湧かない。

 私が冬羽に構ったのは、この子が可愛かったからで。

 そうではない御幸さんは、どうでも良かった。

(……完全に、ヤバい奴じゃん)

 火葬場にて、御幸さんが骨だけになっていく。

私は自らの異常性を取り繕うように、周りがするように俯く。

 きっとこの内面を知ったら、冬羽は私を嫌いになる――そんな危機感から。

 ぎゅっと、冬羽が私の手を強く握った。

 一人ではないという安心感と、騙してるような罪悪感が胸によぎる。

 私は罪悪感を押し殺して、その手を握り返す。

 そうすると、冬羽はぽろりと、涙を流した。

 そこでやっと、私は気づく。

(……そういえば、冬羽が泣いてるところ、見たことなかった)

 ずっと、我慢していたのだろう。

 私は今更に、己の不明を恥じた。

 私が悲しいとか悲しくないとか、そんなことはどうでもよくて。

「……ごめんね、冬羽」

 私は何も言わずに、ただ、この子を抱きしめるべきだったのだ。

 今更だと言われるかもしれないけれど、私は冬羽を抱きしめていた。

 久しぶりの抱擁。

 冬羽の体が熱くなっていく。今まで堰き止められた涙が、滝のように溢れ落ちる。

 私は、御幸さんが死んだことは悲しくないけれど。

 それでも、冬羽がこうやって悲しんでいるのは、悲しかった。

「お姉ちゃあああぁああああん!」

 私はただ、彼女の悲しみを受け止めるだけで良かった。

 それこそが、私の役目だったのだろう。

「……私が、代わりになるから」

 だけど私は、ただ黙っていることが出来なくて。

「私が、御幸さんの代わりに、なるから」

「……?」

 涙が引いていくのも気づかずに、私は続ける。

「……私が、冬羽のお母さんになるから」

 冬羽が、私の懐から離れていく。

 見上げるその目から涙は一切引いていて、はたと自分の無神経さに気づく。

 そうだ、姉だなんだと舞い上がっていても、しょせん私は半年前に出会った赤の他人で――

「……お姉ちゃんはお姉ちゃんで、お母さんにはなれないよ」

 冬羽は私を静かに突き放した。


 殺人とはきっと、究極の支配行為だ。

 尊厳を奪い、いちばん大切なものを奪い、未来を奪い、可能性を奪う。

 私がこの街で殺した最初の女の子――鹿目唯愛ちゃんの未来は、可能性に満ちていた。

 近隣でも有名なお嬢様学校に通っていて、可愛い制服を着ていた、八重歯がチャームポイントだったあの子。

 両親は相当お金持ちらしく、犯人の有力な情報を提供したら一千万なんて、そんなことさえ顔を出して行っていた。……私が自首をしたらくれるのだろうか。

 そんな唯愛ちゃんはピアノが得意で、県大会でも有数の成績をあげていたらしい――そういった報道がなされるたびに、私の背筋にはゾクゾクと快感が走った。

 もう一度言おう。

 殺人とはきっと、究極の支配行為だ。

 私は唯愛ちゃんの輝かしい未来を奪い、支配した。

 お金持ちの家に生まれ、親に愛され、ピアノの才能もあり、何より可愛い。

 その未来はきっと薔薇色だっただろうけれど、私がすべての可能性を奪った。

 柔らかい体に刃を突き刺すのも、そのきれいな顔が苦悶に歪むのもいいが、何より最大の魅力はそこにあったのだろう ――私はようやく、その事に気づいた。

 殺人のゴールは、殺人だ。

 殺せない相手をいくら嬲ったところで、そんなものは少々激しいSMプレイでしかない。合意の上ならば、なおさらである。……それはもう、支配ですらない。

 むしろ支配されているのは私だ。殺せるまで逃げられない。殺せない相手にそう宣言されるのは、単なる支配宣言に過ぎないだろう。

「……ありがとう、これなら何とかなるよ」

 私がレバーを引っ張ると、それは手元で金切り声を上げて回転する。

 彼女に用意してもらった、木材解体用の携行機械。すなわち、チェーンソー。

 私が殺人を行う際に、まず使うはずがないもの。

「でも、こだわりがあったんじゃないの?」

「ううん、いいんだよ」

 だってこれからやるのは、単なる屠殺なんだから。

 豚や牛を殺すときに、支配しただの興奮するなど思う人はいない。私がこれからやろうとしているのは、それと同じだ。

「ずいぶん今回は気合が入ってるね」

 烏丸ユウは私を見上げて、感心したようにつぶやく。その裸体は、手枷足枷首枷によって床に縛り付けられていた。服は近くに折り畳まれて置いてある。

「まあね。今回はちゃんと殺すから」

 今までの私は、あくまで楽しもうとしていた。だからこの間だって、床に頭を叩きつけてから首の切断に及んだのだ。

「――大丈夫、すぐ終わらせるから」

 私の言葉をエンジンがかき消して、私はまず手足を切断していった。

 手慣らし。手首足首から徐々に上へ、ついには根本まで。凄まじい返り血が私を汚すけれど、ちっとも心は踊らない。

 そうして達磨になった彼女を見ても、まるで感慨はなくて。

(……まあ、どうせ死なないしな、これくらいじゃ)

 そのまま機械的に、断片たちを念入りにミンチにしていく。赤と白のグラデーションの肉塊が生まれていく。

 そうしてハンバーグに使えそうになったら、私は本題である首を両断した。

 この間は息を切らせてやったというのに、一瞬だ。多分私は、こういう簡便さを厭っていたのだと思う。殺人は苦労してやるべきだと、そう考えていたのだろう。そしてそのまま、床に転がる綺麗な顔をズタズタにしていく。

 こうやって顔に直接傷を負わせるのは、初めてだった。

 だって今までは、あくまで美少女を殺すという快感に酔っていたから。

 でもこれは屠殺だから、快感はいらない。

(これ、最悪留年もあり得るわよね)

 私は単位のことを考えながら、その頭部を両断した。

 ……こんなに情緒のない殺人、初めてだった。

 後は地上に上がってシャワーでも浴びて、適当に服を拝借して、終わりだ。

「もう殺人は懲り懲りだわ」

 少なくとも、しばらくは御免被りたい。

 私はチェーンソーを無造作に放り投げると、部屋からナイフを回収する。そして真っ赤に染まったドレスから鍵を取り出して、階段を上がり、ドアを開いた。

 六畳一間の洋室。

 窓から差し込む、まばゆいほどの陽光に思わず目を瞑る。……テーブルの上に起動したまま放置されているノートパソコンのカレンダーを見遣ると、監禁されてから二週間が経過しているのが分かった。

「……そっか、そんなにここにいたんだ」

 思い出といえば、ひたすらに少女を殺したことだけ。それでも今思えばそう悪くなかった気がしてくるのが不思議だ。  少なくとも、これだけ自由に人体(?)の破壊が出来る機会は、もう二度とないだろう。……さっきまで懲り懲りとか言ってたくせに、ずいぶんと都合が良いものだと我ながら思う。

「不死の女の子じゃなくてちゃんと死ぬ女の子が無限湧きするとかなら良かったんだけど」

 私は無造作に置かれた自分のバックを漁る。他に机上には中型テレビが有るだけで、特に目ぼしいものは見当たらなかった。

 バックの中には財布やスマホ、小物入れや教科書が一通り入っていて、ぱっと見ただけでは何か欠けてるものは無かった。一応財布の中を見てみるが、特別抜き取られた様子もなく――

「あれ?」

 お金やキャッシュカードは確かにあったが、ひとつだけ欠けているものがある。

(……家に忘れたのか?)

「――学生証が見つからないの?」

 嫌になるほど聞いた、あの声。

 背中越しに耳朶を打つ、忌々しい声。

 油を差していないブリキめいて、ひどく緩慢な動作で振り返る。

「……なんであなたが、ここにいるのよ」

 どうしてあれだけやって、死なないのか。

 頭部と手足をミンチにして、どうして無傷で立っていられる?

 ……そこまでの不死性を持ちながら、どうして“殺してくれ”なんていう厚顔無恥な願いを他人に頼める?

「なんでって、死なないからだよ。……わたしは、烏丸ユウは死なないんだ。

 昔魔女狩りがあってさ、そのときも燃やされたんだけど、生きてた。太平洋戦争のときだって、大空襲に突撃していったのに死ねなかった。他にも津波に巻き込まれて、一ヶ月近く海で溺れ続けたり。致死率八割の伝染病に冒されたり。それでも死ななかった。すごいよね、わたし」

「……じゃあ、なんで殺してなんて、言ったのよ?」

「ああ、それはお姉ちゃんを引き止めるための口実だよ。だって本当の本当に死ねないって分かったら、興味無くすでしょ? 今みたいにさ。馬鹿正直に話したら全然相手してくれないんだもん、殺人鬼って。最悪だよね」

 何が楽しいのか、まるで好きな映画を語るかのように烏丸ユウは言う。

「……そうよ、最悪よ、殺人鬼は」

 あれだけやっても死なない可能性は読めていた。

 だから万一のために執拗に死体を損壊して、治癒までの時間を稼いだ――そのつもりだったのに。

「私はもう帰るわ。あなたも分かってると思うけれど、私はもうあなたに興味がない。死なない人間なんて殺しても全然楽しくない。そんなに死体を壊すのが好きなら免許とって動物のハントでもやってるわよ」

 だけど、そうじゃない。

 私はただ、尊厳のある人間を殺したいだけだ。

 そもそも動物を殺すなんて、可哀想じゃないか。

「ま、だろうね。でも、お姉ちゃんは逃げられないよ」

 烏丸ユウはおもむろにテーブルのリモコンを取ると、テレビを付けた。

 するとそこには、いつもズレた犯人像を提示した挙げ句、死者の尊厳をグチャグチャにしているワイドショーが映っていて。

「……は?」

 そこには、私の写真が大映しにされていた。

「血まみれの現場に残されていたのは、市内の大学に通う大学二年生、渦原四季さんの学生証だった。……世間はまだ事件に巻き込まれたと思ってるみたいだけど、このまま元の世界に戻ったら、どうなるかな?」

 訳知り顔のコメンテーターの言葉はノイズとなって意味さえ掴めないのに、その中で烏丸ユウの声だけがやけに鮮明に聞こえる。

「きっと取り調べを受けるだろうね。あなたが捕まらなかったのは、あくまで捜査線上に浮かび上がっていなかったから。だから、一度突かれたらボロが山ほど出て、終わり」

「……あんたが、やったの」

 自分の喉から出たのが信じられないほどに、底冷えする低い声。それとはひどく対称的に、烏丸ユウは茶化すように返した。

「当たり前じゃん。殺されるんだから物理的な手段だけで監禁するのは難しいもん。……そんなに怖い顔されても、自業自得だよ殺人鬼」

「……殺してやる」

「やってみなよ、出来ないだろうけど。出来ても意味がないだろうけど」

 ああ、どのみち私は詰んでいる。

 この女に出会って、誘惑に負けてしまってから。……あるいは、最初に殺人に手を染めたときから。

「むしろ感謝してほしいな。お姉ちゃんはここにいる限り、捕まりやしないんだから」

 そういって、彼女は私の顔を不躾けに掴む。

 その真っ赤な瞳が、憐れむように私を見つめる。

 ……本当に、殺してやりたかった。

 だけど、殺せない。殺そうとしたら、それこそ相手の思う壺だ。

 私はただ、ぎりりと奥歯を噛みしめることしか出来なくて。

『――ただいま、速報が入りました』

 そんな私の耳は、雑音だったはずのワイドショーを捉えて。

『S市内で、新たに女子児童の遺体が発見されました。……これで、六人目となります』

「……は?」

 私が殺したのは、四人だったはずだ。

 それなのにどうして、二人も多く殺されている?

「模倣犯ってやつだね。一週間前には五人目が殺されてた。犯行はお姉ちゃんそっくりで、当然連続殺人の一部だと思われてる。それがどういうことだか、分かるよね?」

「……」私は答えられない。

「もしこのまま出ていったら、最悪殺していない二人のぶんの罪も被るかもしれないんだよ? ……あなたが牢屋に押し込まれたり殺されたりしてる中、そいつはのうのうと生きてるんだ。でも逆は成立しないんだよ。だって模倣犯は、四人分のアリバイを証明できるんだもの」

「……」体が震えて、声が出ない。赤い瞳に映る私の顔は、蒼白だった。

「ねえ、今どんな気持ち? 殺しが大好きなくせに殺せない女に監禁されて、挙げ句他人の罪まで被されそうになってる。ちょっと前までは、巷を騒がすクールな連続殺人鬼だったのに。ねえ、しょうもないプライドが傷ついた? 殺人鬼としてのプライドなんて言う、ちっぽけで情けない――」

 けれども青い顔は、あっと言う間に真っ赤に染まって。

 今まで止められた動作が、一気に溢れ出して。

「――黙れっ! 黙れ、黙れっ! 殺す、殺す、殺してやるっ! お前だけは、絶対に!」

 気がつけば私は、烏丸ユウを押し倒していた。

 そのまま、懐のナイフで彼女を滅多刺しにする。

 血溜まりの中、彼女は初めて出会ったあの日と同じ笑顔で。

 ただ私の表情だけが、憤怒に染まっていて。

 ……憎悪による殺人は、これで二人目だった。


『……お姉ちゃんはお姉ちゃんで、お母さんにはなれないよ』

 あの日以来、私と冬羽の間には、見えない壁のようなものが出来ていた。

 実の母親を失った痛みさえ感じられなかった私には、彼女の痛みは全くわからなくて。……だからこそ逆説的にわかってしまった。

 それほどに柔らかくて繊細な部分に、私が無神経にも触れてしまったことを。

 私にそれを取り払うことは出来なくて、何を言っても幼い彼女の傷をさらに広げる未来しか見えなくて。渦原家には父のぎこちない取り繕った笑顔と、うつむきがちな冬羽と、空っぽな私がいるだけだった。

 まるで、出会ったときに戻ったよう。いいや、それよりもひどいか。

 大学受験も重なって、私たちの会話は絶望的に減っていく。思えば、最後に冬羽とちゃんと顔を合わせたのは、いつだろうか。

 ……今、私には二つの志望大学がある。

 ひとつは、この家からでも通える範囲にある大学。そしてもう一つは、下宿しないと通えない範囲にある大学。私の中で比重が大きいのは、後者。

 そうだ。私は今、逃げようとしているのだ。

 あわよくば、冬羽から、この家から逃げ出そうとしている。

 母を失い、ぎこちない距離感しか無い義理の父親と二人きりにされる――きっと冬羽は、今度の今度こそ私に完全に失望するだろう。……いいや、もう遅いかもしれないが。

 それでも私は、冬羽のために何かがしたくて、でも何も思いつかなくて。

 あるいは、私がいなくなることが私に出来る数少ないことなのではないか――そんなふうに自分を納得させようとしている。

 最低だと思う。最悪だと思う。母親代わりはおろか、姉すらも出来ていない。

 挙げ句、そんな自分を喝破しきれずに、父親に相談しようとしている。

 第三者に、判断を任せようとしている。

 父が言ったからそうすると、そんなふうに逃げようとしているのだ。

 ……私は父の部屋の前で、一度深呼吸する。

 そして、なにか湿ったような音を聞いた。

 それだけじゃない、ベットが軋むような音が耳朶をわずかに刺激する。

「……?」

 今の時間、私は本来ならば二階の自室で勉強している。……じゃあ、冬羽はどうしている? 私は、知らない。知るはずがない。

 猛烈に、嫌な予感がする。

 待て、どうして嫌な予感がするんだ。何も決まっていないぞ。

 だけども予感はさらに加速していって。

 ……押し殺すような冬羽の声が、予感を確信にまで押し上げた。

 そこで私はやっと気づく。

 どうして冬羽がずっと俯いていたのか。

 取り繕った父の笑顔が脳裏をよぎり、嘔吐感が襲いかかってくる。

 ……いいや、まだ決まったわけじゃない。

 私はそっと、父の部屋のドアを開けて、

「――ッ」

 そして猛烈に、後悔した。

 ありとあらゆる後悔が、私の中に渦巻いていく。

『……私が、冬羽のお母さんになるから』

 どうしてこんな余計なことを言ってしまったんだろう。

 私がしっかりしていたら、こんなことになる前に相談してくれたかもしれないのに。

 どうして自分が嫌われているなんて思考停止して、冬羽から意識を遠ざけたのだろう。

 私がしっかりあの子を見ていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。

 ……どうしてあんな男の子供に、生まれてしまったんだろう。

 私が、いいや、あの男がこの世に存在しなければ、冬羽はこんなに傷つくことなんて無かったのに。

 ……いいや、今からでも遅くない。

 冬羽のために、御幸さんのために、私のために。

 私は、この男を消さなければならない。


 私が初めて人を殺したのは、憎悪がゆえだった。

 まず、心臓に一突き。それから滅多刺しにして、遺体は重しをつけて海に捨てた。

 釈明なんて何一つ聞かずに、ただ殺した。……今のところ、誰にもバレていないはずだ。警察にも、冬羽にも。

 おそらく、これは最適解ではなかったのだろう。

 本当は児童相談所なり警察に訴えるべきだったのだが、私は殺人というおおよそ最悪の選択肢をとってしまった。

 当時の私の頭にはそれ以外の選択肢はなくて、そこに至ってしまった理由は、姉妹愛なんて言う高尚なものではなかった。

 私はただ、父が妬ましかったのだ。冬羽を組み敷いて、無様に腰を振るあの男が。

 どうしてそこにいるのは自分ではないのか――当時の私は、きっと無意識にそう考えていたに違いない。そしてそんな自分の醜さに気づかないまま、父を殺した。

 当時を振り返った私がそう言えるのは、父を殺してからしばらくの間、とある悪夢に悩まされたからだ。

 それは、冬羽を滅多刺しにする夢。

 泣いて嫌がる妹を、その綺麗な顔を苦痛に歪める妹を、私は毎晩殺していた。

 顔を殴り、八重歯を抜いて、それを口内で転がす――この街で最初にやった殺人でも同じことをした――。きれいな鳶色の瞳をくり抜いて、噛み砕く。父親によって汚された秘部に、何度もナイフを突き立てて浄化した。

 ……そんな夢を見て、朝起きたら下着が濡れているのだ。

 父親を殺したことよりも何よりも、私はそんな夢を見続ける罪悪感であの子と目を合わせることが出来なくなった。

 私たちは父の両親の家に引き取られたけれど、それからすぐ、私は今の大学に通うためにこの街に下宿した。

 血の繋がらない祖父母の家に、それも自分にあんな事をした男の両親の家に、ひとりで置いてかれる。……きっとそれは、とてつもなく不安なことだろう。

 だけど、それでも。

 私は冬羽を殺したくなかったから、自分の欲望に抗えなくなるのが怖かったから、あの子を置いて逃げ出したのだ。

 父を殺したことで内なる異形に目覚め、挙句の果てに遠く離れたこの地で無関係の少女を殺して回る、最低最悪の殺人鬼。……それが私だった。

「……ああ、くそ」

 最悪な夢を見た。

 父親を殺した時の夢。怒りと憎しみに身を任せ、ひたすらに滅多刺しにする夢。

 だけども気がつけば死体は父から冬羽に入れ替わっていて、それでも私は刃を止めることが出来なくて。……むしろその勢いは激しくなるばかりで。

 それでも私が刃を止めたのは、手元の死体が烏丸ユウに入れ替わったからだった。

 そこで、目が覚めたのである。

 全身が、汗と涙とそれ以外の液体でぐちょぐちょだった。

 夢の中とはいえ妹を殺した罪悪感が、今まで殺した四人の重さを無理矢理に背負わせてくる。

 私を正気にさせようとしてくる。

 もし自分の行いが冬羽にバレたら――今まで考えないようにしてきた思考が脳裏によぎって、体がガタガタと震える。

「……バカね、後悔するくらいなら、最初からやらなきゃいいじゃない」

 親指の爪を噛むと、今まで殺してきた人たちの血の味がして、心が安らいでいく。

 その大半が烏丸ユウであるのを無視してでも、それに集中しないと気が狂いそうだった。

「――ひっ」

 唐突に響く、階段を下す音。肩が跳ね上がる。

「げーんき?」

 そしてあの女は、私の前に再び現れた。

 格子越しの烏丸ユウは、ジメジメとした地下とは正反対の笑顔で私を見下ろす。

「ま、元気なわけ無いか。もう一週間も食べてないもんね」

 そうか、もう一週間も絶食させられているのか。

「水は飲んでるだろうけど、流石に辛いでしょ? いい加減さ、わたしのことを殺してよ」

「……絶対、嫌」

「えー、あのときはあんなに情熱的にしてくれたのに」

 そうだ、たしかにあの日、烏丸ユウを屠殺した日、私は今までにないほどに情熱的に彼女を殺した。……だけど当然、この女が死ぬはずもなく、相手の思う壺でしかなかった。

「もう私は、あんたを殺さない」

「なんでさ。このままじゃ飢え死にしちゃうよ?」

「……たかが一週間で、死ぬもんですか」

「でも、これがあと何日何週間も続いたら? そうやって指をおしゃぶりし続けてるのも、栄養を取りたい気持ちの現われなんじゃないかな? もう頭も朦朧としてるんじゃない?」

「……うるさい」

「あっそ」

 そう言って、彼女は私の目の前でコンビニのおにぎりの包装を解いていく。

 ……思わず、喉が鳴った。

 そんな私を意地の悪い笑みで一瞥して、おにぎりをおもむろに頬張る。

「ああおいちおいち。わたしは死なないから食べなくても大丈夫だけど、でも食事のない人生なんてつまんないよね」

 必死で目を背けるが、ボロボロと食べかすが目の前に落ちていく。

「そうだ、いいこと思いついた」

 それに目を奪われている私の上から、その声は降ってきて。

 同時に、血しぶきが食べかすを覆った。

「……は?」

 見上げれば、烏丸ユウはナイフを片手に手首から大量の血を流していて。

「鉄分補給だよ。ほら、美味しいよ?」

 血溜まりはとぷとぷとその領土を広げていき、ついには鉄格子を越えて独房の床にまで姿を現した。先程より大きな音で、喉が鳴る。私はそれを誤魔化すように喉を押さえて、烏丸ユウを睨みつけた。

「お姉ちゃんは変態だから、きっとこっちのほうが嬉しいと思ってさ。這いつくばって舐めるところを見せてくれたら、ご飯もあげるよ?」

「……絶対に、嫌」

「さっきからそればっかりじゃん。あんなに美味しそうに飲んでたくせにぃ」

 ああ、さっきから唾液が止まらない。

 この匂いを嗅いでいるだけで、あの甘美な味わいが口の中に蘇る。

 だけど、絶対に駄目だ。

「……私はもう、あんたの言うとおりにだけは絶対しない」

「それで餓死するわけ? もしわたしがいなかったら、お姉ちゃんはいつか絶対に捕まっていたし、当然死刑になってたのに? いい加減、くだらない意地を張るのはやめて素直になろう?」

「……私は、誰よりも素直よ。私は殺したい相手しか殺さないし、殺せない相手を殺しても何にも楽しくない」

「ふーん、そうなんだ。ま、せいぜい頑張るといいよ」

 烏丸ユウはそう言って、私の前から去っていった。……血溜まりを放置すると、一瞬意地の悪い目でこちらを一瞥して。

「……」

 耳を澄ます。そうして烏丸ユウが完全にいなくなったのを確かめると、私は鉄格子の外に手を伸ばした。

 私はこの女の血に興味があるのではなく、食べかすに興味があるだけだ――そう自分に言い聞かせて、私は血まみれのおにぎりの残骸を食らった。

 ……血とホコリと涙の味しか、しなかった。


「……うん、帰らないよ、今回も。ごめん、うん、ちょっとこっちが忙しくて」

 私は父の母――祖母からの連絡を半ば乱暴に振り切って、そのまま電話を切った。

 この街に下宿してから、私は一度も冬羽のもとへ帰っていない。

 それは今年のゴールデンウィークも同じで、これからもずっとそのつもりだった。

 私は冬羽に近づいていい人間ではないし、そうでなくとも冬羽は私に失望し切っているに違いなくて、もう二度と顔も見たくないと思っているだろうから。

「あ」

 電話を切った私が最初に視界に認めたのは、可愛らしい少女だった。

 近隣で有名なお嬢様学校の制服に身を包んだ、どことなく冬羽に似た雰囲気の少女。

 少女はどこか挙動不審げにきょろきょろと周りを見渡してから、道を歩いていく。

 ……気がつけば私は、そんな彼女の後ろを付けていた。

(こんなことして、通報されたらどうするのよ)

 嘘だ。私みたいな若くて美人な女は、まず不審がられることはない。……むしろ問題は通報されないことにある。

 誰も私を止めてくれないし、私を律することが出来るのは私しかいない。

 けれども私はひどく頼りなくて、その足は止まらなくて。

(……パンツ見えそう)

 近くの公園で逆上がりの練習をする彼女の下着を見ないようにする程度の理性しか存在しなかった。

(にしたって、危ないなあ、ここ)

 近くにもっと遊具があって人気のある公園があるため、ここはひどく閑散としている。今だって、私のこの子だけだ。さらに言えば、あちこちに植込みがあって死角になる場所が非常に多い。もし私が犯罪者だったら――なんてふうに、ついつい考えてしまうロケーションだ。

(しないけど、そんなこと)

 そんな事を考えながらも、私はバッグの奥底に眠るナイフを――父を殺したナイフを握る。……何もしない。ただ、自分を戒めるために触っているだけだ。それだけであのときの緊張や後悔が蘇ってきて、二度とするまいと思える。そんな気がした。

「唯愛ちゃーん、唯愛ちゃーん!」

 そんな私の意識を、女性の声が現実に引き戻す。

 その声で、逆上がりをしていた女の子の顔が蒼くなる。そのまま傍らのランドセルを拾うと、辺りをきょろきょろと見回してから、私が座るベンチの真後ろにある植込みに小さな体を隠した。

「……すいません、このへんで神沢小学校の制服の女の子、見ませんでした?」

 女の子と少し似ている上品な雰囲気の女性が、息を整えつつ私に問いかける。

 ……後ろからの視線がすごい。私は涼しい顔で答えた。

「いいえ、見ていませんよ」

 私がそう言うと、後ろからほっと息をつく声が聞こえて、女性は頭を下げて公園から足早に去っていった。

「……ありがとう、お姉ちゃん」

 植込みから女の子が現れて、頭を下げる。紺色のブレザーが草だらけだった。

「……お姉ちゃん、か」

「?」

「ううん、なんでも無いよ。でも、なんで逃げてたの?」

近くで見た女の子は、やっぱり冬羽に似ていて、特別口端から覗く八重歯はそっくりだった。だからといって、何の関係もないのだが。

「……ピアノのお稽古が嫌で」

 女の子は目をそらして、気まずそうに言った。

「なるほど」

「なんでお姉ちゃんは私のことママに言わなかったの?」

「なんでだろ、わかんないや。でも、唯愛ちゃん困ってたから」

「なんで名前知ってるの?」

「さっき呼んでたじゃん。可愛い名前だね」

「そう?」

 少し得意げに、唯愛ちゃんがこちらを見る。

「うん、でも唯愛ちゃん本人はもっと可愛いから」

「そう?」

 満面の笑みだった。

「うんうん。私も唯愛ちゃんが可愛かったから助けちゃった」

「お姉ちゃん、見る目があるね!」

 そういう唯愛ちゃんは見る目がない。

 それから彼女はどんどん饒舌になっていって、いかに両親が理不尽で、ピアノの先生と反りが合わず、クラスで逆上がりが出来ないのは自分だけなのかを熱く語った。

「お姉ちゃんはいいよね、逆上がりもクラスで一番早く出来てそう」

「なんで?」

「カッコいいから。きっと子供の頃も完璧だった」

「なわけないじゃん。体育はずっと苦手だし、ピアノどころか音楽もアレだよ」

「え~」

「だから私はピアノがちょっと出来るだけでもカッコいいと思うな」

「そ、そう?」

「うん。私は逆上がりも怪しいし、ピアノだって弾けないから。だから唯愛ちゃんはすごいと思うな」

 私がそう言うと、唯愛ちゃんはそれはうれしそうにはにかんだ。ちらりと見えた八重歯が、とても可愛らしかった。

「……そ、そうかなぁ~」

「うんうん、すごいよ」

「じゃ、じゃあね、今度弾いてるとこ見せてあげる!」

「うんうん、聴きたいな。唯愛ちゃんがピアノ弾いてるとこ、すごくカッコいいだろうな」

「じゃあね、いつにしよっか、お姉ちゃんが聴きたいなら私はいつでも――」

 ……どうしよう、困ったことになった。

 目を輝かせて語る唯愛ちゃんを尻目に、私は考える。

 このまま唯愛ちゃんと仲良くなっても、絶対にろくなことにならないだろう。私は、小さな女の子と関わってはいけない人間だ。

「と、ところで唯愛ちゃん、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな? もう夕方だし」

 私がそうやって水を差すと、露骨に唯愛ちゃんの表情が曇った。

「……えー、でも」

「大丈夫だよ、怒られないよ。さっきはあんなこと言ったけどさ、唯愛ちゃんが本当にピアノやりたくないなら、素直にそう伝えればいい」

「でも、すぐ投げ出すのはよくないってママが」

「そもそもさ、唯愛ちゃんはピアノが嫌いなわけじゃないでしょ? さっきだって私に聴かせてくれるって言ってくれたし」

「う、うん」

「投げ出さないために、ピアノを続けるために、今の教室が嫌だって、そう言ってみればいいよ。好きなことが誰かのせいで嫌いになっちゃうのは悲しいから」

「う、うん!」

 唯愛ちゃんは再び目を輝かせて、強くうなずく。

「もし本当にやめたくなったら、やめちゃえばいいんだよ。大人になった時、何かひとつでも夢中になれるものが残っていたらそれで十分だから」

 そんな私の言葉はもう聞こえていないようで、唯愛ちゃんはすでに心を決めた様子だった。

「私、ママに言ってみるね! そうだよね、ピアノはあそこじゃなくても習えるもんね!」

 ……良かった、解決したようだ。

 私は胸をなでおろす。

 このままこの公園で愚痴を聞くような役回りになったら、それこそ終わりだった。

「ありがとう、お姉ちゃん!」

 すっかり明るい表情になった唯愛ちゃん。そのまま手を振って小さな背が遠ざかっていく。私はそれに手を振り返して、彼女を見送る。その時だった。

「……?」

 ポケットでスマホが着信を知らせて、私はそのメッセージを見た。

『これ、入学式のときの』

『私、お姉ちゃんのこと待ってるから』

 テキストとともに添付されていたその画像は、おそらく冬羽が中学に入学したときのもので。

 一瞬で網膜に焼き付いた。可愛らしい紺色のブレザーに、ロングスカートの制服。袖が余るほどにブカブカなそれに着られている冬羽。

 その制服は、ついさっき唯愛ちゃんが着ていたものによく似ていて。

 私の元を去っていく唯愛ちゃんの後ろ姿は、冬羽そっくりで。

「――待って、唯愛ちゃん!」

 ……ああ、お母さんに見られてるから、どこか他の場所でやらないとな。


 いくら水を飲んでも、腹の足しにならない。

 常に痛みと飢えを訴えている胃は、すでに水で騙すことは出来そうにない。

『鉄分補給だよ。ほら、美味しいよ?』

 最後に烏丸ユウが現れてからどれだけ経ったのか――滅茶苦茶になった体内時計は正確な時間を刻んでなどいないだろうが、それでも長い長い時間が経ったことだけは分かる。

 今の私に出来ることと言えば、なるべく体力を消費しないように動かずにいて、定期的に水分を摂取することしかなかった。……いいや、動きたくても動けないが正しいか。

 意識は混濁して、実のところ水を飲むことさえ億劫だった。

 あるいは、烏丸ユウがこの場に食事を持って現れてもすぐに反応できないのではないか――そう思えるくらいに。

「……ッ!」

 だけども私は、その匂いを鼻腔に捉えると同時、跳び上がっていた。

 肉が焦げる、香ばしい匂い。

 幻覚ならぬ幻嗅でも嗅いだのか――しかしそれは、こちらに下ってくる足音とともに解像度を増していって。

「やあやあ、久しぶり。生きてる~?」

 私の視線は、烏丸ユウではなく、その手に乗ったハンバーグに注がれていた。

 とろみのあるデミグラスソースに包まれた、少し不器用な形の俵型。

「ごめんね、料理ってしたことなくてさ。一週間もかかっちゃった。……ま、水を使ってるのは上のポンプから分かってたんだけどね」

 それはつまり、水だっていつでも止められるということだったが。

 今の私にはそんなことはどうでも良く、

「……食べたい?」

 その視線は、ただただ、ハンバーグに注がれていた。

「でもなあ、どうしよっかなあ~」

 そうだ、この女を殺さないと、このハンバーグを食べられないのだ。

 そこでやっと、私はハンバーグから目を逸らした。

 ……逸したところで、香ばしい匂いが私を追い立てるのだが。

「いや、でもしょうがないか」

 小さな呟きに、ピクリと肩がはねた。

 微かな期待に、せわしなく胸が高鳴っていく。

「……このままじゃ、お姉ちゃん餓死しちゃうもんね」

 幻聴?

 あまりに都合のいい言葉とともに、烏丸ユウは鉄格子の扉を開いた。

 そのまま床にハンバーグと食器類を乗せたトレイが置かれる。私はノータイムでそれにかぶりつこうとするが――

「――あ、それわたしの肉だからね」

 その言葉に、硬直した。

「ももとふくらはぎを丁寧に下処理してミンチにしたんだよ。チェーンソーで足を切って、血抜きをして、皮を剥いで、脂肪を取って、すごく大変だった。初めてだから美味しく作れたか分からないけど、お姉ちゃんを想って頑張ったんだ。きっと美味しいと思う。……あれ? どしたの?」

 硬直したままの私を、烏丸ユウは意地の悪い目で見下ろしていた。

「わたしの目ン玉とか舌とか食べてたじゃん。今更菜食主義者にでも鞍替えしたの?」

 口端を歪めて、烏丸ユウが問う。わかりきった答えを。

 だけど私は、何も答えることが出来なくて。

「嫌ならわたしが食べちゃうよ?」

 そう言って烏丸ユウは自家製のハンバーグにフォークを突き刺す。じゅわりと肉汁が溢れ出て、私は思わず喉を鳴らした。……傍目には、牛や豚の肉と変わらない。

「ああ、もったいないなあ。せっかく頑張って作ったのに」

 目の前に突き出される、デミグラスソースと油でコーティングされた肉片。

 だけどもそれは、無情にも烏丸ユウの小さな口に収められる。

「初めてにしては上出来だね。コンビニに売ってるレトルトのほうが美味しいけど」

 笑顔で頬張り、自らの肉をコンビニ以下と称するその姿は、とても人肉を食らってるようには見えなかった。

「硬いのは素材が悪いのか調理の仕方が悪いのか分かんないけど。そうだ、お姉ちゃん、今度教えてよ。一人暮らしなんでしょ? これくらい出来るよね?」

 私は、答えられない。

 私の視線は、ソースについた彼女の口端に釘付けになっている。

「……ねえ、無視しないでよ」

 そう言って彼女は、ハンバーグを再び口に運ぶと、

「――ッ」

 私にキスをした。

 口移し。小さな舌が、肉片を私の口に押し込んでくる。

 ゴムみたいに固くて生焼けで塩辛い烏丸ユウの肉が、私の口の中に無理やり入ってくる。

 それでも肉は肉で。

 私は欲望の赴くままに、それを嚥下していた。

 それは、今まで食べてきたどんなものよりも美味で。

 全身の細胞が歓喜し、滂沱の涙がとめどなくあふれる。

「ね、どうだった?」

 私と烏丸ユウの間に、唾液の橋が生まれる。

「――最高、だった」

 私の、渦原四季の魂は、容易く屈服した。


 ――どうしてあんな、ひどいことをしてしまったんだろう。

「唯愛ちゃん、私の家にピアノがあるんだ。妹が弾いてたんだけど、今は使ってなくてね」

「え、でも、もう夕方だし――」

「――大丈夫だよ、一曲だけだから」

 少し面食らった様子の唯愛ちゃんの手を引いていく。

「私、唯愛ちゃんのピアノが今すぐ聴きたいなあ」

 唯愛ちゃんの表情が、わかりやすく恐怖に歪んでいく。

 だけど私は、有無を言わせずになるべく人通りの少ない道々を歩いていく。

 大学があろうとこの街は地方都市に過ぎず、少し歩けば田畑と山ばかりの無人地帯がやってくる。

「あの、お姉ちゃん、どこまで行くの?」

 振り返ると、顔面を蒼白にして、今にも泣き出しそうな唯愛ちゃんがいて。

 ああ、そろそろだな、と思った。

「この先にあるんだよ、私の家」

 私は大嘘をつきながら、粗大ゴミがいくつも不法投棄された雑木林へ入っていく。

「――や!」

 流石にこれには抵抗して、唯愛ちゃんが手を振りほどこうとする。

「――うるせえよ」

 だから私は、唯愛ちゃんを殴った。

 そのまま胸ぐらを掴み、小さな顔を睨みつける。

「いいから来いよ、ね?」

 私はそのまま少女を引きずって、適当な場所に押し倒した。

「なんで、なんで、お姉ちゃん――」

「――そんなふうに呼ぶからだよ」

 私はおもむろにナイフを取り出して、

「声を出したら殺す」

 今にも泣き出しそうな少女の頬に突きつけた。

 静かにしてても殺すけど。

「――ひっ」

 少女の顔が、絶望に染まる。小さな女の子が、涙と鼻水で顔をグチャグチャにしている。冬羽によく似た子が、恐怖におののいている。じょろじょろと、耳触りの良いせせらぎが聞こえる。……私が見たかった光景が、ここにある。

「私はね、ピアノなんか興味なくてさ、ただ、唯愛ちゃんの悲鳴が聴きたかったんだ」

 少し力を加えるだけで、刃は頬を伝う血で紅く染まっていく。

 そこに映った私の顔は、三日月めいて口端が上がり、醜く歪んでいた。

 きっとこれが、私の本性。

「でもそれじゃ人が来ちゃうからね。その顔が見れただけで、十分かな」

 ――どうしてあんな、ひどいことをしてしまったんだろう。

 私は唯愛ちゃんの心臓に、刃を突き刺した。


 私は殺す。

 これが報いであるかのように、烏丸ユウを殺す。殺し続ける。

 刺殺する。撲殺する。縊殺する。斬殺する。射殺する。焼殺する。毒殺する。圧殺する。抉殺する。溺殺する。轢殺する。自殺させる。全てにおいて屠殺し続ける。

 それはまったく無意味な行為。

 穴を掘ってすぐに埋めるのを続けるような、賽の河原で石を積み続けるような。

 だからこそ、それは報いになりうる。

 他人を支配する手段であるはずの殺人が、他人に支配される手段に貶められる。

 鹿目唯愛を、霧島ななみを、徳実ひかりを、田波カナを殺した罪が、暴力的なまでの無為によって贖われる。

 もし私が司法の手で裁かれても、決してこんな心境にたどり着くことはなかっただろう。不死者である烏丸ユウだけが、私に本当の裁きを与えられる。

 殺人などもう二度としたくない――そう思わせることが出来るのは唯一人、烏丸ユウしか存在し得なかった。

 しかし、私がいかにそう考えようとも、烏丸ユウは私を逃さない。

 肉を裂く感触が、首を絞める感触が、顔を殴る感触が、舌をちぎる感触が、目を抉り取る感触が、あらゆる暴力が、新たに不愉快な記憶に結びつき、意味合いを変えていく。

 しかし、私がいかにそう感じようとも、烏丸ユウは私を逃さない。

 だから私は、殺す。

 鹿目唯愛を、霧島ななみを、徳実ひかりを、田波カナを殺した事実に向き合いながら、烏丸ユウを殺す。

 刺殺する。撲殺する。縊殺する。斬殺する。射殺する。焼殺する。毒殺する。圧殺する。抉殺する。溺殺する。轢殺する。自殺させる。全てにおいて屠殺し続ける。

 去勢された私は、ひたすらに烏丸ユウを犯す。

「今日は、これくらいにしようか」

 烏丸ユウの微笑みとともに、私は力なく膝をついた。

 これ以上殺さないでいい――その事実に、涙さえ流しそうになる。

 だが、私の罪はそう簡単に贖えるものではなく。

「――お姉ちゃん頑張ったし、今夜はごちそうだね?」

 新たなる罰が、私に下された。


「はい、あーん」

 烏丸ユウはそれをスプーンで掬い、私の口に運んでいく。

 何も特別なものではない。人が勝手に特別視しているだけの、柔らかなピンク色。

 私はそれを必死に嚥下していく。

 今にも吐き出しそうなのを必死に堪えて、ひたすらに。

 柔らかい感触を歯に舌に触れさせないように、ただ飲み込もうとする。

 だけどそれすら、烏丸ユウは許さなくて。

「ちゃんと噛んでしっかり味わってね? せっかくふたりで頑張って作ったんだから」

 私の顎を、無理矢理に掴んだ。

 歯が、舌が、鼻腔が、それの存在を感じ取る。

 鼻をつく生臭さ。かにゅかにゅと柔らかい感触がプチプチと砕けていく。蛆虫を生きたまま食べてるみたいだ。舌が犯される。体が拒否するのを無理やり嚥下する。

 それは知性の象徴。ここに来るまでの私が、一番神聖視していたもの。

「――美味しい? わたしの脳みそ」

 すなわちそれは、烏丸ユウの脳みそだった。

 皿の上にあるのは、烏丸ユウの生首だった。頭蓋に当たる部分が切開されていて、脳が露出しているだけ――そんな、料理とも言えない代物。

 私は何も言わずに、ただ烏丸ユウの脳を嚥下していく。

 烏丸ユウの、不死者の脳を。

 脳裏に、首を刎ねられ胴体から頭が生えてくる烏丸ユウの姿がよぎる。

 骨が、肉が、歯が、眼球が、舌が、皮膚が、順繰りに再生していく姿。

 私は、そんな化け物の脳を、食べているのだ。

「キレイに食べ終わったね、偉い偉い」

 烏丸ユウは私の頭をひとしきり撫でると、「明日は残りの部分を食べようねえ」と言って空っぽの脳みそを回収して去っていった。

「――げえええええええっ」

 私はその足音が聞こえなくなるのと同時に、便器に胃の中のものを吐き出した。

 ピンク色のそれが胃液を纏って滝のような勢いで流れていく。

 そのまま、吐くものが無くなっても、胃液を吐き出し続ける。

 何より恐れるのは、烏丸ユウのような不死者になれ果てること。

 死ぬことも出来ない化け物になって、永遠に烏丸ユウを殺し続けること。

 何よりおぞましいのは、烏丸ユウの同類になれ果てること。

 それだけは、絶対に嫌だった。

 私はほうほうの体で便器から顔を離して、そのまま手首をナイフで切った。

 赤い血がこぼれ、そのまま傷は治らない。

 ……ああ、良かった。本当に良かった。

 私に手首にはいくつものリストカットの跡が出来ていて、それは幸いなことに傷跡を未だに残している。

 私は、烏丸ユウにはならない。私は、朽ちていける。ちゃんと死ねる。

 ――一体どこで?

 死ぬまでここで、烏丸ユウを殺し続けるのか?

 あるいは、烏丸ユウが飽きたら?

 明日にでも烏丸ユウが態度を変えて放り出されたら、私はどうなる?

 ……私は自身の明日さえも、決めることが出来ない。

 全てを、烏丸ユウに支配されている。

 これも罰なのだろうか。

 鹿目唯愛を、霧島ななみを、徳実ひかりを、田波カナを殺したことへの。

 あるいは、冬羽を捨てて逃げたことへの?

 私は自らの罪を噛み締め、見えない明日に怯えながら、浅い眠りを繰り返す。

 そしてまた、烏丸ユウはやってくる。

 私はまた、烏丸ユウを殺し続ける。

 鹿目唯愛を、霧島ななみを、徳実ひかりを、田波カナを殺したことを心底後悔しながら、烏丸ユウを殺し続ける。

 これが、私の罰だった。


 ……いい加減、飽きたな。

 毎日毎日、お姉ちゃんに殺されて、お姉ちゃんにゲテモノ料理を食べさせて、最初の頃は楽しかったけれど、どんどん反応が陳腐になってる気がする。

 最初は活きが良かったのに、この子もまた近いうちに壊れてしまうんだろうか。

 この街で連続殺人事件が起きたとき、運がいいと思った。

 実際に出会った殺人鬼の顔を見た瞬間、運命だと思った。

 純粋に、顔が好みだったのだ。

 殺人鬼すらそうそういないのに、それがさっきすれ違ったバチクソ好みの顔のお姉さんだったら舞い上がってしまうのも仕方がないだろう。

 こんな美人が殺人鬼なんてアリかよ、しかもこんなに情熱的にわたしを求めてくれるなんて――そんな思いで、わたしは何十年ぶりの絶頂に達した。

 しばらくはそれで良かったけれど、行為は徐々に義務的になっていって、だからちょっとばかし虐めてみたわけで。

 そのときも最初はすごかったけど、また殺してくれなくなるし。

 ……ああ、人間というのは本当に面倒くさい。

 今ではわたし料理を食べさせるのが文字通りのメインディッシュになっているけれども、それだってお姉ちゃんが慣れちゃったら無意味だ。

 にしたって嫌がるよねえ。昔はお金持ちの家に監禁されて八百比丘尼だの何だのと言って不老不死のための霊薬扱いされてたのに。……まあ、それで不老不死になるわけないんだけど。

『――現在、八名の犠牲者を出しているS市連続児童殺傷事件は、未だ解決の糸口が見えてなく――』

 あら、また一人増えている。

 いっそのこと、こっちの模倣犯を拉致って来ようか。

……いいや、手間かけてやっと捕らえて、一般に想像される不細工なシリアルキラーが出てきたら泣いてしまいそうだ。 少なくとも、お姉ちゃんほどの美人が出てくる可能性は低いだろう。というか、ほぼゼロ。

 それに、うちには多頭飼いするほどの余裕はない。だからといってお姉ちゃんを捨てられるほどの思い切りもないし。

 ……なんて、思ったよりまともな自分の思考回路に笑ってしまう。

(なんだかんだで、わたしお姉ちゃんが好きなんだなあ)

 じゃあ、どうすればマンネリが解消できるのか。

 何ともなしに部屋に視線を這わせると、偶然それが目に入った。

「そうだ、こんなときは個人情報だ」

 目に入ったのは、お姉ちゃんのスマートフォンだった。

 誘拐した日にSIMカードを叩き割ったため、もうキャリア通話は出来ないスマホ。

 片割れを失ってからずっと電源を切っていたそれを起動させる。

「……って、パスワードも指紋認証も無いの」

 ずいぶんとまあセキュリティ意識が薄いものだ。あったらあったで指を借りたり、無理やり聞き出すつもりだったけども。

(それくらい他人に興味がなかったのかなあ)

 肝心のスマホの中身は、実に無味乾燥で、少ない連絡先と事務的な連絡が並んでいるだけで、特別アプリがインストールされてるわけでもなく、ツイートもブラウザの履歴も当たり障りのないものばかりだった。

 なるほど、これならパスワードもいらないだろう。

 きっとえげつない画像やら何やらは家のパソコンの中にあったりするに違いない。

「あれ」

 そんな中、唯一特異なモノをわたしは見つけた。

「……へえ、そっか、そうなんだ」

 わたしも他の子もみんな、この子の代わりだったんだ。

 スマホをワイファイにつなぐ。

 この子からの通知が山のようにやってくる。

「……愛されてんじゃん、超ウケる」

 液晶に映ったわたしの顔はひきつっていたけれど、それでも笑顔だった。

「――もしもし、妹ちゃん?」

 ああ、キャリアと契約しなくても電話が出来るなんて、便利な世の中になったなあ。


 ――いっそのこと、冬羽を殺して警察に出頭すれば、それで全てが丸く収まったんじゃないだろうか。

 私は自らの両腕、手首から肩にまで上った切り傷を見つめながら、そんな事を考えていた。食事を吐き出し続けているせいで栄養失調になった、ぼんやりとした脳みそで。

(そうすれば、唯愛ちゃんたちは死なずに済んだし、私はこんな目に合わなかったのに)

 唯愛ちゃんを殺したとき、どうして私は満足できなかったのか。

 それは結局のところ、唯愛ちゃんが冬羽の代用品でしか無かったからだ。

 他の三人を殺したところで、問題は何も解決しない。

 私が殺したいのは、冬羽であって、その代用品ではなかったのだから。

(……だけど、そんなことできない)

 冬羽は妹だから。

 妹じゃなければ、平気で殺せたんだと思う。

 だけど妹じゃなかったら、こんなにも殺したくならなかったと思う。

 妹を殺すことは出来ない。

 妹だから殺したい。

 だから私は、鹿目唯愛を、霧島ななみを、徳実ひかりを、田波カナを――そして、烏丸ユウを殺した。

 もう誰も殺したくないけれども、それでも唯一殺したい人間がいるとしたら。

 それはやっぱり渦原冬羽しかいなくて。

(……ああ、やっぱり私はここにいるべき人間だ)

 私は初めて、烏丸ユウに感謝したくなった。

 烏丸ユウが私をここに捕らえている限り、私は冬羽を殺さずに済むのだから。

「……?」

 そんなぼんやりとした思索を、足音が遮った。

 地下に響く足音。

 何やらそれは、いつもと違う気がして。

 だけど栄養失調の脳は、その答えにたどり着かなくて。

「やあやあ、お姉ちゃん」

 相変わらずムカつく顔だ。全てを見透かすルビーめいた双眸は、きっと私がいつも食事を吐いてリストカットをしていることを見抜いているに違いない。

「……何よ」

 そんな双眸が、いつも以上の意地の悪さで私を見ている。

 猛烈に、嫌な予感がする。

 きっと私は、今からとてもひどい目に合う。

「何って、ずっとひとりじゃ寂しいだろうと思ってさ」

「……あんたがいるでしょ」

「はは、うれしいことを言ってくれるなあ。でも、わたしばっかり殺すのも飽きたでしょ?」

 そう言って、烏丸ユウは手招きをして。

「はい、スペシャルゲスト」

 私はやっと、足音がいつもの倍になっていたことに気づいた。

「四季お姉ちゃんのホンモノの妹――渦原冬羽ちゃんでした~」


「……嘘、でしょ」

 それは間違いなく、渦原冬羽だった。

 いくら成長したとしても、その鳶色の瞳は、柔らかな顔の輪郭は、渦原冬羽のもので。

「嘘じゃないよぉ、すごく心配そうにしてたから呼んできてあげたんだ」

 だけど私には、彼女の表情が、分からなかった。

 まるで現実から逃れるように、冬羽がどんな顔をしているのか、分からない。

「おっと、自己紹介がまだだったね。わたしは烏丸ユウ。そしてこの子は――」

 烏丸ユウは私を指差して、続けた。

「この街を騒がす連続殺人犯の、渦原四季ちゃん。わたしのお姉ちゃんです」

「――」冬羽が何かを言っているが、私には分からなくて。

「うんうん、証拠だよね、証拠。あるよ、ここに。まず最初に、わたしは死ななくてね」

 躊躇いなく、喉を突き刺す。

 それと同時に、いつの間に撮影したのか、私が烏丸ユウを組み敷いてナイフで滅多刺しにする動画をスマホで見せる。……地下室から出てすぐの部屋。ちょうど、私の殺意がピークに達したあの日の映像だ。

「わたしはね、この最低最悪の殺人鬼を監禁して殺され続けることで、無辜の命を守っているんだよ。分かるかな?」

「――」いくら耳を澄ましても、その声はノイズにしか聞こえない。

「知らないよ、そんなの。模倣犯がいるだけじゃないの。でもその模倣犯が現れたのだって、きっとお姉ちゃんの責任だよね。お姉ちゃんが殺さなければ、誰も死ぬことはなかったんだ。ま、問題はそんなことじゃなくてさ」

 烏丸ユウはスマホの画面を切り替えて、それを冬羽に見せた。

「――殺された女の子、わたしも含めて、みんな冬羽ちゃんの小さい頃にそっくりだよね」

 それは、いつぞや冬羽が送ってきた、私が唯愛ちゃんを殺すきっかけになった写真――冬羽の中学の入学式の写真で。

「どう思う? 冬羽ちゃん」

 烏丸ユウは冬羽を見上げて、今にも舌なめずりしそうな笑みで問うた。

「――勿体ないことしたなって、そう思うな」

 そこでやっと、私は冬羽の声を聞いて。

 だけどそれは、ひどく幻聴じみていて。

 ああ、きっとこれは夢なんだ――私がいくら頬をつねっても、現実は進んでいく。

「髪も縮毛矯正して黒く染めて、ついでに伸ばしてさ。八重歯だって矯正しちゃった。そうすれば少しはお姉ちゃんに近づけるかなって、そう思ったから」

 そうだ、久しぶりに出会った冬羽は、背が伸びていて、体つきも女性らしくなっていて、そして何より、私に近づいていた。

「お父さんの次に殺されておけば、きっとそれが一番だったのかな、なんて」

「……何、言ってんの?」

 私の思いを代弁するように、烏丸ユウが漏らす。

「知ってたんだ、全部。お姉ちゃんがお父さんを殺したことも、この街で小さな女の子を四人殺したことも、全部」

 ようやく、私は冬羽の表情が分かるようになる。

 そこに浮かべられたのは、少しはにかむような笑顔。

 いくら変わってしまっても、その笑顔はあの頃と同じで。

 だけどその表情は、あまりに状況に不釣り合いなもので。

「でもいきなり行方不明になるから、本当に心配したんだよ? おかげで私、模倣犯にならなきゃいけなくなったし」

「……は?」

 当たり前のように、冬羽はそう言った。

 私の忘れたお弁当を届けに行くことになってしまった、そのくらいのトーンで。

「だって、お姉ちゃんがいなくなって殺人が止まったら、お姉ちゃん疑われちゃうじゃん。大変だったんだよ、お姉ちゃんが好きそうな子を探して殺すの。……もう四人も殺ったのに、何が楽しいのか、全然分からなかった」

 最後の一言とともに、冬羽は深くため息をつく。

「――私は、お姉ちゃんと本物の姉妹になれない」

 その声音には、深い絶望が宿っていて。

「お姉ちゃんは、人を殺すのが楽しくて楽しくて仕方がなかったんだよね? 私は、全然楽しくなかった。これだけ見た目を似せても、行動を似せても、私はお姉ちゃんの妹にはなれないんだ」

『……お姉ちゃんはお姉ちゃんで、お母さんにはなれないよ』

 ああ、そうか。

 そういうことだったのか。

「ねえ、お姉ちゃん、私はどうしたら良いのかな? 私はどうしたら、お姉ちゃんと本当の姉妹になれるのかな? 私、ずっと昔からお姉ちゃんが欲しくて、だけどお姉ちゃんと私は全然似てなくて、本物の姉妹とは程遠くてさ」

 ……この子はただ、私と本物の姉妹になりたかっただけなのか。

 理解は出来たが――共感は出来ない。

 そんなことのために殺人を犯す妹のことが、分からない。

 だけど、それでも。

 格子を掴み、今にも泣き出しそうな目でこちらを見つめる冬羽。

 そんな彼女を見ていたら、私に選択肢はひとつしかなくて。

「……冬羽は、私の妹だよ」

 私は、格子越しに冬羽の頭を撫でた。

 あの頃と比べてしまうと、柔らかさが足りない。艶が足りない。ミルクめいた甘やかな匂いが足りない。……それでも、妹の頭だ。

「私は、お姉ちゃんの妹?」

「……うん。冬羽は、正真正銘、私の妹だよ」

 嘘だ。

 だけど、本当だ。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 冬羽は、静かに涙を流す。

そしておもむろに、懐から取り出したナイフで烏丸ユウを刺し殺した。流れるように懐を漁り、独房の鍵を取り出す。

「ねえ、お姉ちゃん」

 鍵を開けると、冬羽は至って真剣な目で私を見つめた。

 その面差しは、やはりかつての冬羽とは別人で。

「……私を殺してよ」

 そのまま、静かに告げた。

「ずっと、殺したかったんでしょ? 私、お姉ちゃんが望むなら、殺されたっていいよ」

「――殺さないよ」

 縋り付くような彼女に、私は断言する。

 すっかり成長してしまった、中学二年生の妹に。

 背は私より少し小さいくらいに伸びて、顔立ちも体つきも大人びてしまった妹に。

 それこそ、高校生くらいにも見える、成長期を迎えてしまった妹に。

 小さな女の子にしか興味のない私が、断言する。

「だって、冬羽は妹だもの」

(だって、今のあなたは好みじゃないもの)

 ……そうして私たちは、本当の意味で姉妹になった。

 渦原冬羽――理想の少女――は私の中で死に絶え、ただ本物の妹が残った。

 私は正しく、去勢された。

 もう二度と、誰も殺さないだろう。


 妹のアイディアは、革新的だった。

 不死の化け物に勝つための方法、私がこの牢獄生活でいかに頭を捻っても思いつかなかったそれ。

「手伝ってくれてありがとうね、お姉ちゃん。私一人じゃ、多分ここまで手際よく出来たかったから」

「……ううん、私じゃ思いつきもしなかったよ。……それに、手付きだって四人殺しただけとは思えないくらい上手だったし」

「えへへ、そうかな」

 妹がはにかむ。私によく似た妹が。

 私もそれに対して、精一杯の作り笑顔を返した。

「後は、これを埋めて最後だね、お姉ちゃん」

 私たちの目の前には、ポリタンクがひとつ。

 烏丸ユウの家は大きな屋敷で、私たちはその裏庭でひたすらにポリタンクを埋めていた。

 そしてこれが、五つのポリタンクの最後のひとつ。

 私はその蓋を開けて、中身を確かめる。

 ……何の感慨もわかないが、それでも、まるで感動しているかのように見せるため。

 それは、細切れを通り越して液体状になった肉片と骨片で満たされていた。

 烏丸ユウである。

 “だった”などとは言わない。これもまた、紛れもない烏丸ユウだろうから。

 私たちは夜を徹して、烏丸ユウを粉々にした。

 チェーンソーを駆使して、その不死の身体を砕いていった。

 そしてそのまま、ポリタンクに詰めて、バラバラの場所に埋めていく。

 こうすれば、いくら再生したところで、どうにもならない――すべて妹のアイディアだった。

 どうしてこんな残虐なことを思いつくのか、今の私には理解できない。

 だけど、それでも。

 私は、お姉ちゃんだから。

「やっと、終わったね」

「……うん、やっと、終わった」

 そうして烏丸ユウは埋葬された。

 私にとっての殺人は、支配行為だった。

 とすれば、これによって殺人の名誉は回復したはずだ。なのに、どうしてだろう。

(……全然、楽しくなかった)

 きっとそれは、もう二度と本当の目標には届かないから。

 渦原冬羽は死んでしまったから。

 今、目の前にいるのは、ただの妹だから。

 だから今の私にとって、殺人には何の価値もなかった。

「……ねえ、お姉ちゃん」

 だというのに、妹は目を輝かせて、続ける。

「私、すごく楽しかった。お姉ちゃんと一緒だったからかな? 一人のときは、あんなにつまらなかったのに」

「……そっか」

 ならば、しょうがない。

 私はお姉ちゃんだから。

 妹の、お姉ちゃんだから。

「……私も、楽しかった」

 妹が望むなら、理想の姉になってやろう。

「行こう、冬羽」

 だから私は、妹の手を引いて、歩き出す。

 妹が望むであろうそれを行うために。

 もう私にとっては何ら価値のないそれを行うために。

「――うん、お姉ちゃん!」


 そうして私たちは、街へ繰り出した。

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誘拐監禁殺人鬼 いかずち木の実 @223ikazuchikonomi

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