ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?

伊島糸雨

ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?


 西武新宿線を降りて改札を出ると、夏の暮れの生ぬるい風が粘度をもって皮膚の上を撫でていった。煌々と照る街頭ビジョンは徐々に早まる夜の気配を容赦なく引き裂き、雑踏を漂う倦怠感へと強かに鞭を打つ。

 人々の騒めきに高架を走る電車の音、オフィス街を照らす光の点に背を向けて、「工事中」や「テナント募集」の文字が目立つ通りに入っていく。かつての喧騒や不健康な華やかさはその面影もなく、再開発中の一帯は閑散として、飲食店や風俗店の亡骸がシャッターの裏に打ち捨てられていた。

 新宿東宝ビルの遺骸と旧シネシティ広場の間を抜け、交番と総合病院を横目に進んでいくと、種々のホテルやマンションに囲まれた公園が見える。イヤホンを外すと、緩やかな弦の音とともに、抑えられた歌声が耳に届いた。

 老若男女が思い思いに身を落ち着ける中、柵を背にして座り込み、ギターを抱えて爪弾く女がいる。彼女は歩み寄る私を認めると、手を止めて小さく手を振った。

「こんばんは」

「……どうも」

 一メートルほど間を空けて隣に立ち、再び耳に栓をして〝今ここ〟から離れていく。治療を待つ多くの病者とともに、私の夜は更けていく。

 日々の中心は、夜にこそある。

 予定の時刻が近づくと、公園にたむろする患者たちは、目と鼻の先にある総合病院の受付へと向かっていく。目的を告げ、診察券と保険証を出し、指示された通りに院内を進む。夜の侘しさを蓄えた階段を上り、廊下を進んでまずは診察室へ。主治医の質問に定型文を返し、いつも通りの説明に相槌をうつ。

 更衣室で服を預けて病衣を纏う。治療室には、紡錘形をした〈ポッド〉が等間隔に幾つも並んでいる。看護師に招かれ、渡された錠剤を飲み下してから、空いた〈繭〉に横になる。パッチをつけ、ヘッドセットを被る直前、看護師が私の顔を覗き込んで、こんなことを言う。

「何か、聞きたい曲はありますか」

 私はいつものように「いえ」と小さく首を振る。「大丈夫です」

 スイッチが押され、繭の蓋が閉じる。おやすみなさい、と微笑む看護師の顔が、落ちる目蓋の隙間からうっすらと見える。



 二十歳の誕生日を迎える二週間ほど前から、発熱と関節の痛みに苛まれるようになった。体温計は三十九度前後を記録し続け、私は大学を休んで布団の中で呻く羽目になった。一人暮らしの弊害から誰に助けを請うこともできず、どうにか一人で病院に向かった。風邪だと言われ、薬をもらって安静にしていると、数日かけて、少し持ち直した。

 よくなると思ったのに、今度は昼間の眠気がひどくなって、夜に眠ることができなくなった。昼夜逆転し、生活は崩れに崩れ、どうすればいいのかわからないまま、記念すべき日の前日を迎えた。

 私は熱を持った吐息を漏らしながら、薄暗い部屋で天井を見つめた。過去に類を見ないひどい誕生日になるぞ、と予感した。それでも、どうにかしてケーキくらいは食べたいな、と期待していた。

 しかし、二十歳の誕生日は訪れず、目を覚ますと二年が経過している。

 知らない天井、知らないベッド。

 私の知らない世界。

 駆けつけた看護師の言葉も、医者の説明も、両親の涙も、すべてが遠く、得体の知れない未来の言語のようだった。自分を取り巻くすべてが、何だか冷たく、よそよそしいものに見えてならなかった。検査、リハビリ、服薬指導、カウンセリング。一切が惚けた私を置き去りにして、未来方向へと進んでいく。

 日本睡眠病。

 人々を長期の眠りに誘った奇病は、そんな風に呼ばれている。

 蚊が媒介する新種の原虫が原因となるそうだ。その小さな虫が脳に到達して悪さをしたことが、二年に渡る昏睡の理由だと主治医は言った。

 日本では主に、歌舞伎町が感染の舞台となった。私のように発見が遅れた初期感染者たちは、長い眠りに誘われ──眠る内に脳は変質し、睡眠に関する諸々の機能はおかしくなってしまった。その結果が、睡眠欲求も不眠による負債も感じられない、異常な睡眠障害だ。

 この深刻な後遺症は、当事者の間で〈無眠症むみんしょう〉と呼ばれ、私たちは脳と身体を最低限でも休めるために、夜の病院で擬似睡眠ポッドに入ることを余儀なくされている。擬似睡眠ポッド──通称〈繭〉は、本来は睡眠障害の治療で概日リズムを調整するために使用されるものだ。薬剤と催眠によって、睡眠時に近い状態を作り出す。

 元々、歌舞伎町に来ていたのは、アルバイトのためだった。

 映画館で働いていた。大学に通いながら、週三日くらい。実家を離れて一人暮らしだったので、自分の小遣いと生活費の一部を稼ぐためだった。どうってことなく、それなりに充実した毎日だった。無難に平凡な大学生活、そのフラットさを、私はそこそこ愛していたのだ。

 耳を塞ぐイヤホンは、十九歳の私が好きだった曲をループして、このイカれた頭を過去に釘付けにする。今の音が聞こえないように。少しでも、この現実から遠ざかっていられるように。

 当面の目標は、通信での大学卒業だ。

 両親には止められたが、私はまた一人暮らしを始めた。親の気持ちはよくわかっていた。痛みに耐えられないのは私の弱さに他ならない。社会との隔たりがこんなにも痛むだなんて、私は知らなかったのだ。

 私が失くしたもの、時間と、眠り──そして、夢。

 それらの不在とどう向き合うか、私はまだ見出せていない。



 目覚めてからずっと、夜の時間は一人で過ごすのが当たり前だった。他者と連帯するのは元からそれほど得意でないし、物事と向き合わずに漫然と時を待つのは気が楽だった。だから、その中で発生した深潜みくぐりアユとの接触は、私のたいして長くもない人生の中で最も奇妙な印象を与えるものとなった。

 たんに近くにいたという意味で言えば、私と彼女はそれなりの時間を共にしてきたことになる。というのも、いつも隣にいた弾き語りの女こそが、深潜アユその人だからだ。当初から挨拶程度は交わしていたが、近頃では彼女の気まぐれ──「何かリクエストある?」なんて言葉に始まり、来るたびに幾らかは会話をするようになった。生産性とは無縁の、他愛ないやりとりばかりだが。

「まぁ、本名じゃないんだけどね」

 名を名乗った時、彼女は悪びれもせずにそう言った。歌手でも目指しているのかと思っていたら「あなたは?」と水を向けられて、私はしばし迷ってから、「東未雪あずまみゆき」と呟いた。偽名はすぐには思いつかなかった。

「綺麗な名前だね。ミユキって呼んでもいい?」

 いきなり呼び捨てはどうなんだと思いもしたが、わざわざ修正を求める気にもなれなかった。

「代わりに〝アユ〟って呼び捨てるけど」

「どうぞどうぞ」

 お互い齢はそう離れていない気がしたが、彼女の音楽の趣味は年齢の正確な特定を困難にした。例えば、彼女はとりわけジョン・レノンの曲を好んでいて、ことあるごとに私に聞かせてみせた。イマジン、インスタント・カーマ、マザー、ジェラス・ガイ……イマジンやスタンド・バイ・ミーはかろうじて聞き覚えがあったが、どちらにせよ、世代としては親がギリギリひっかかるかどうかというところだった。

「ジェネレーションギャップだなあ」

「世代は一緒でしょ……流石に」

 表面をなぞるばかりのささやかなやりとりはひと月近く続いた。そんなある日、アユはふと思い出したように「あ、そう言えばさ」と声をあげた。どうしたのかと顔を見ると、なんだか妙に嬉しそうだった。

「ミユキたちにぴったりの曲があるんだよ」

「へぇ、何て曲?」

 私が問うと、彼女は悪戯っぽく口角を上げて、

「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」

 邪気のない様子で、朗らかに言った。

 とんでもない皮肉だった。反射的に笑ったが、少しひきつっていたかもしれない。

 今更問われるまでもない。眠りたいとは思えなかった。頭はずっと覚醒したままで、自分が疲れているのかそうでないのかもわからなくなる。ただ、眠らなければ、という思いだけが、静かに重く降り積もっていく。

 自分が社会から逸脱していることを実感させられる。それが一番辛くて耐え難いから、私は素直に〈繭〉へと向かう。そうしていれば、多少なりとも人間をやれていると錯覚できる。嘘でも眠り、希望が持てずとも勉強し、やりたいことなどなくとも外出し、よく知りもしない女と話していれば。

 眠れるかいハウ・ドゥ・ユー・スリープ?、とアユが問いかける。

 私は答えることができずに、口を噤んで彼女を見る。

「今度私がカバーしたやつあげるよ。きっと気にいる」

 歌い終えた彼女が、励ますように微笑みを向ける。私はため息を吐いて、「どうだかね」と苦笑する。



 近場にコーヒーが美味しい喫茶店があるというので、アユに連れて行ってもらったことがある。〈繭〉に入るまでの時間を埋めるにはちょうどよく、以降頻繁に訪れるようになった。歌舞伎町に残った数少ない個人経営店の一つで、仄暗い暖色の灯りが滲む店内には、柔らかな静けさが漂っていた。

 窓際の席を取り、何を頼もうか悩んでいると、彼女はメニューを見もせずに「ウインナーコーヒー一つ」と注文を済ませ、「ミユキは?」と聞いてきた。そんなに早く決められるかと思いつつも、仕方なく「コーヒー一つで」と言った。

 夜の街は静かなものだった。青白い光が点々と灯り、閑散とした通りを照らしている。影は色濃く、やはりここは私の知る場所ではないのだと思わされる。

「前はさ、お姉ちゃんと一緒によく来てたんだ」

 昔を懐かしむようにアユは言った。視線の先は遠く、車窓に映る私の眼差しとよく似ていると思う。

「眠り姫になっちゃってね。もう二年も話せてない」

 しばしの沈黙を挟む内に、「お待たせしました」と食器の擦れる音とともに横合いから手が伸びてきた。置かれたコーヒーを覗き込むと、黒々とした表面に自分の顔が映る。暖かく香ばしい匂い。鼻先を湿らせつつ息を吹きかける。アユはこんもりと乗ったクリームをスプーンで突き崩している。「お姉ちゃんが眠ってから」

「私も、なんだかおかしくなっちゃってさ。昼と夜がひっくり返っちゃった」

「じゃあ、ここには治療に?」

「半分はね」

「もう半分は?」

「歌を歌いに」

 ココアに浸したクリームを口に運び、表情を綻ばせる。

「他にできる気がしないんだ。音楽をやっている間は、なんというか──まだ人間をやっていられる気がする。誰かと繋がっている実感が持てる……表面的なものでしか、ないかもだけど」

「それで、安心できる?」

 アユは頷いた。

「周りと同じにいられない爪弾き者の私でも、役に立てるかもしれないと思う。お姉ちゃんのことも、自分のことも、これから先への漠然とした不安も、ほんの少しだけ、忘れていられる気がする」

 カップの縁をなぞり憂いを浮かべるその顔は、いつにも増して大人びて見える。

 私は何か言おうと口を開いたが、うまく声にならなかった。

「……後ろ向きに前進してるよ」

 結局、私の口から出たのは、毒にも薬にもならないような、陳腐な台詞だった。

 もとより賢いとは思っていないが、なんだかバカになった気分になる。

「ほんとにね」

 その取り繕った笑みから目をそらすように、私はカップを傾ける。

 芳しく豊かな香りの奥底で、黒い苦味が舌先を撫でていった。



 毎日病院で目を覚まし、早朝の電車で帰宅する。シートに横になり、四肢を投げ出して眠る人を横目に、まだ動き出す前の街並みを見る。歌舞伎町を「眠らない街」から転じて「眠れない街・・・・・」と称するのは、言い得て妙だと思う。あの場所と〈無眠症〉患者は一心同体で、私たちがいる限り、街にも休息は訪れない。

 一人きりのワンルームで、授業動画を見て課題をこなす。一息つき、ふとSNSのニュースに目をやると、好きだった歌手の急死が報じられていて、私はベッドにスマホを放り投げる。そのまま身も投げて、枕に顔を埋める。

 失っていくばかりだと思う。少なくとも今の私にとって、消えていったものの比重はあまりにも大きかった。いつかは時が解決してくれるのかもしれない。けれど、その未来というのは、一体どれほど今の私を救ってくれるというのだろう。

 公園や喫茶店で彼女と向き合う度に、私は思い知らされる。アユには期待すべき日常があるのだと。私たちの関係は毎夜蛹になる前の余暇限定で、いつか蝶になる夢を共有するだけのものでしかない。友人と呼ぶべきかもわからない、夜毎に見る幻のようなものでしかないのだと。

 心に湧き上がるのは、羨望と呼ばれるものによく似ている。私たち〈無眠症〉患者は夢を見ない。けれども、少なくともアユには、真昼の微睡みに見る夢があるのだろうと思った。朧げでも言葉になりうる、確かな夢が。

 歌っていたいということ。目覚めた姉に寄り添って、日々を送りたいということ。そのどちらも、今の私にはないものだった。希望というもの、これから先の幸福。眠りを奪われたまま、それらを掴み取れるのかどうか、今の私には想像もつかない。

 アユと私の行き先は違う。車窓から見えるのは、すれ違う彼女の後ろ姿だ。私は目蓋を失くした街へと向かい、彼女はそこから離れていく。そんなイメージを、繰り返し思い描いていた。

 だから、アユが私の前から姿を消したときも、さして驚きはしなかった。

 アユが来なくなった日、喫茶店に向かうと一枚のメモ書きを渡された。『お姉ちゃんが目覚めた』それだけが乱雑な字で記されていた。話を聞くと、私が来る少し前に、慌てて店を出て行ったという。連絡先は、交換していなかった。

 どれだけ待っても、アユは戻らなかった。私は彼女と出会う以前のように、イヤホンで耳に蓋をして、同じ曲を繰り返す日々に戻っていった。

 もうあの歌声は聞こえない。耳に届くのは、擦り切れた過去の残滓だけ。

 夏は終わりへと近づき、それでもまだ気温は高く、外に出れば汗が滲んだ。寂しくはなかった。ただ、一人きりの夜はこんなにも虚しかっただろうかと、寒くもないのに少し震えた。



 あれからまた一月が経った。徐々に近く秋の気配は夏の残滓を攫って軽やかに匂い立ち、身体は自然と温かなものを欲した。久しぶりにコーヒーが飲みたくなって喫茶店に足を運ぶと、店主からカップと共に剥き出しのカセットテープを渡された。今時こんなものを使うマニアに心当たりはなかった。「頼まれたんでね」とだけ店主は言った。

 表面には「How Do You Sleep?」と記されて、それがいつかに約束した歌だと私は気づく。そして何気なく裏返した先、貼られたシールには、丁寧な筆跡でこう書かれていた。


 またいつか、眠りを取り戻した日に。


 名前はなかったが、差出人は明白だった。呆れるほどのキザな台詞に、私は思わず声を出して笑った。さすがは歌手志望だ。客の訝しむ視線も気にはならなかった。

 ひとしきり笑って顔を伏せると、コーヒーの暗い水鏡に、歪んだ顔が映った。馬鹿げたことだと思った。叶わぬ願いだと腹が立って仕方がなかった。しかしそれが、一つの切実な希望だということも、私は充分に理解していた。私だけじゃない。彼女自身とその姉、そして不在の未来に向けた、ささやかな希望の言葉だった。

 私はカセットを胸に抱くと、嗚咽を噛み殺しながら、しばらく泣いた。この街は、相変わらず冷たくよそよそしい。けれど今の私には、それがこれ以上なく心地よかった。



 日々の中心は、夜にこそある。

「何か、聞きたい曲はありますか」

 〈繭〉に横たわる私の顔を、看護師が覗き込む。カセットテープを差し出すと、看護師は微笑んで、それを受け取った。

「おやすみなさい」

 繭の蓋が閉じていく。おやすみなさい、と私は呟く。

 閉ざされた空間に、くぐもった声が静かに響く。〈繭〉が駆動するかすかな震動が、横たえた身体を伝っていく。薬剤が肉と心を弛緩させ、ヘッドセット内部で、誘眠性映像が瞬いて、たわむ。

 目蓋が重くなる。歌声は拡散し、夢と現の波間に揉まれてゆらゆら揺れる。

 眠れるかいハウ・ドゥ・ユー・スリープ?、と彼女が歌う。

 夜はどうやって眠るのHow do you sleep at night、と彼女が問いかける。


 ねぇ、アユ。

 もしかしたら、私たちはいつまでも眠れないままかもしれない。まともでありたいとどれほど願っても、この脳みそがそれを許さないかもしれない。これから先どうなるかなんて、私にはわからずじまいかもしれない。

 一夜毎に蛹になって、朝日と共に繭を出る。あるいは、たくさんの不安に苛まれて、ベッドの上を緩慢に這う。そのどちらであったとしても、本当の眠りは、きっとまだまだ遠いのだと思う。

 けれどね、アユ。私はここで夢を見るよ。

 どこかで、あなたの歌を耳にする日を。

 いつか、眠りを取り戻す日を。

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ハウ・ドゥ・ユー・スリープ? 伊島糸雨 @shiu_itoh

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